◉2022年のサマソニ
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2022年のサマソニについて。コロナ禍で、実に3年ぶりの開催だった。
出演者の男女比が半々でないフェスには出ない、と明言したThe 1975がヘッドライナーとして世界初公開の新曲を披露した。リナ・サワヤマがLGBTQの権利に言及し、素晴らしいパフォーマンスを見せた。個人的にはSt. Vincentで泣いた。
一方で、一部の日本人アーティストによる差別的な発言が話題となった。
King Gnuのステージでは、Måneskinのベーシスト、ヴィクトリアのニップレス姿をイジった。マキシマム・ザ・ホルモンのステージでは、リンダリンダズのカタコトの日本語MCの真似をした。いやはや……。こういうことがあるとほんとうに暗澹たる気持ちになる。
King Gnu、マキシマムザホルモンという両バンドは、世代も音楽的な参照点もまったく異なるが、いわゆる「邦ロック」の売れっ子として活動してきたバンドである。同じフェスで別々にこのような言動が露見したのは、ただの偶然ではないし、シーンのあり方とは無縁の個人の問題でもないだろう。海外から招集されたアーティストの対比からも明らかなように、シーンとしての問題が存在している。
ロックフェスを銘打ってアーティストを集めるときに、海外から呼ばれる人々と、邦ロックの枠で国内から呼ばれる人々は全然違う姿勢で音楽をやっているのではないか?傍目には同じステージに立っているが、性質がまったく異なるのではないか?というのがこの記事の出発点にある。
そもそも音楽を聴くことの意義を考えてみたい。
ポップ音楽を聴くということは、価値観の転倒が起きたり、身近な誰か・見知らぬ誰かに想像力が届くようになったり、アイデンティティの形成を助けたり(あるいは迷子にさせたり)、社会に対する見方を変えることであるはずだ。
つまり、ポップ音楽聴いた結果できあがるのは、差別や表現や人間関係、社会について考えを巡らせた人物なのだ。逆にいえば、ポップ音楽を聴いた結果、社会への無関心や差別を表明する人がいるのだとすれば、その人は音楽を聴いていない、大事な何かを聴き逃している、ということになる。
ポップ音楽を聴いた結果、日本へのリスペクトを持ったアーティストの日本語を茶化したり、弱者による社会的なステートメントを嗤ったりなんてことは、“ありえない”のである。
◉日本語のMCを茶化した件
だいたい、リンダリンダズって、ブルーハーツの“リンダリンダ”が好きで、それをバンド名にしているアメリカ人のバンドですよ。自分たちが受けたアジア系差別を曲にして戦っているティーンエイジャーたちのバンドで、最年長が17歳。その子たちのカタコトのMCを真似するってどういうこと?逆にどういう神経ならできるの?
リンダリンダズの音楽への敬意、慣れない日本語MCへの敬意よりも、
「よーしステージでちょっと笑いとったろ、こんなことしてる自分ってオモロイやろ?」
みたいな態度が前に出てるわけでしょう。あとで「親しみを込めたつもりだった」とか釈明すんの?そういうのってポップ音楽じゃなくて昭和の会社の宴会芸みたいな態度じゃないの?
まあ、少なくともそんな態度で作られている音楽は、サマソニに呼ばれた他の大半のアーティストとは(それこそリンダリンダズやリナサワヤマがやってる音楽とは)ぜんぜん別物なので、一緒の顔してやらないでほしい。
ポップ音楽によって受け継がれてきた社会的相続を素通りしてることを自覚してほしい。
馬の耳に念仏みたいな感じで、これまで重要なエッセンスを聞き逃してたんだなということに気づいてほしい。
でもまあリンダリンダズもマキシマムザホルモンもKing Gnuも、レコ屋やサブスクに並んで同じ「音楽」ということになっちゃうんすよね、残念すね、という感じ。
◉ニップレスについてもう少し説明
ヴィクトリアのニップレスの着用について、もっとわかりやすく説明してみよう。彼女が仮想敵にしているのは、たとえば「女子のポニーテールは男子の欲情を招くので禁止」みたいな日本のイカれた校則であったり、ヌーディストビーチや混浴に「女の裸が見放題らしいぞww」みたいな態度で臨む輩のことだ(ようするにKing Gnuのドラマー勢喜遊氏みたいな人のこと)。
そういうのがあまりに馬鹿馬鹿しいので、バンド全体でグラムロック風のアンドロジナスな装いをし、肌の露出をショウアップした上で、仕方なくニップレスをしている。そういう社会的なステートメントを持ったバンドである。本人たちによる語りを知りたい人はこちら*4。
◉ポップ音楽を聴くことには、音を聴く以上の意味がある。たとえば……
最初の話に戻り、繰り返すが、差別的なMCをした彼らは、ふつうポップ音楽の聴取によって学んだり、考えたりしていくはずのあらゆるエッセンスを素通りしているのである。差別について、異文化について表現が重ねられてきた歴史を無視している。
ポップ音楽を聴くことには、単に音を聴く以上の意味があるのに。たとえば……
- クィア(特にゲイ)のアーティストを数多く知ることで、クィアな存在に関する認知・理解が深まる。
- Arcade FireやWilcoが歌うアメリカの政治の混迷から、アーティストが政治に言及する姿勢を知る。
- 黒人音楽がどん欲に白人の市場を取り込むさまから、セルアウトの概念を理解する、黒人社会を動かす原動力と葛藤に想像力を巡らせる。
- 他人種のカルチャーに傾倒する黄色人種として、アイデンティを見つめ直す。
- 60年代のサイケ・ポップや一時期のマイルスから、人智を超えたものへのアクセスに挑戦する姿勢を知る、あるいはドラッグ・カルチャーについて知る。
- 社会におけるドラッグへの扱いの差を知る。日本における「ドラッグで捕まった人の人生は徹底的に痛めつけて、抑止力として生贄になってねシステム」に疑問を持つ。ひいては“ドロップアウトした人”に対応した社会設計を意識する。
- Hiphopにおけるビーフの応酬を知る。単なる誹謗中傷ではなく、韻を踏み、オーディエンスの前で批判し合う、いわば“批判におけるプロレス的作法”を学ぶ。
- AvalannchesやDJ Shadowのサンプリングから、歴史性がリエディットされる音を聴く。創作と編集の間に明確な差がないことを知る。
- Vampire Weekendが使ったアフリカのビートに「白人による文化搾取だ」という批判が起きる、その応答から文化搾取についての知見を得る。
- ボウイやジョン・レノンが、高等教育と無縁な労働者階級から、ポップ音楽を通じて芸術家となった軌跡を知る。ひいてはポップ音楽が教育プログラムであることを知る。
いくらでもあるが、とりあえずはこんなところ。あえてアーティストの固有名詞を書いたが、名前はいくらでも入れ替え可能だ。だって、私が2008年のVampire Weekendをきっかけに知った文化搾取の問題は、2022年にシティ・ポップのサンプリングから考えることもできるし、1979年のTalking Headsから学ぶこともできるのだから。
海外のアーティストの話が多くなったが、別に日本より海外が優れていると言いたいわけではなく、日本のアーティストにも興味深い表現をしてきた人々がたくさんいる。
リアルタイムのリリースで例を挙げると、電気グルーヴの歌詞におけるアイロニカルな政治性(“ロボット歩きで選挙に出かけたの”)とか、ceroの曲におけるリズム・ダンスへの挑戦(「My Lost City」は3と5拍子しかないのに“ダンスをとめるな”という歌詞がリフレインされる・加えて、黒人音楽のリズムの再解釈にキャリアを通して真摯に取り組んでいる)とか。もちろん日本にも優れた音楽、鋭い思考はある。
ただ、商業的なダメージを気にしてなのか、ボケっとしたノンポリなのかはっきりしないが、日本のロック・ポップスの大半は、社会的なステートメントをほとんど発さずに、身辺雑記的なラブソング(それも比較的ステレオタイプで、語彙も不足しているような)ばかり歌っている。わかりやすい表出として、彼ら/彼女らは選挙の時期になってもなにも言わない。
別に音楽にそんな社会性も批評性を求めてないんですよ、心地よければそれでいいんですという聴き手もいるはずだ。しかし、ほんとうにそうだろうか。
自分が好きで何度も何度も聴くミュージシャンが、息をするように差別に加担しているとしたら?今までどおり楽しく聴けるだろうか?
楽しく聴けない、という気持ちが少しでもあるのなら、聴き手は心の底ではっきりと、音楽に社会性も批評性も求めているのだ。この世のどこかで起きている戦争や差別や貧困や失政と自分はまったく無関係で、別の世界の出来事であるかのようにふるまうことに耐えられないのだ。そういう聴き手に対して道を開くのがポップ音楽のはずである。
◉やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?
まあ、ここらでサマソニの壇上の話に戻りますけれども……。
他人へのリスペクトより先に、俺イケてるっしょ?おもろいっしょ?みたいなのがくるんならほんまに音楽なんかやめればいいのではないか。
日本にも素晴らしい音楽家がいること、社会的な意思表示を発し、新たな文化への架け橋となってきた音楽家がいることは承知している。いわゆる「邦ロック」の文脈においても、たとえばアジカンは矢面に立って政治的な発言もするし、新たな音楽のハブになろうとする姿勢が素晴らしいと思う。
けれどもこういうことがあると、いわゆる「邦ロック」は、これまで世界中の音楽が積み重ねてきた表現や葛藤とはほとんど無関係に成り立っていて、社会性が希薄で、そのくせ人より音楽が好きと自称する人のために生産されている思春期商売の肥大化みたいに思えてしまう。
「悪ノリで息をするように差別するアーティスト」と、「反差別や人権の尊重を前提としたアーティスト」は、まったく異なる態度で音楽に向き合っている。それどころか、片方にとってもう片方が加害者ですらありうるが、フェスという場では並列にアナウンスされてしまう。
片方が反差別や人権の尊重を志して音楽をやっているとしたら、もう片方は何をやっているのか?
音楽をやっている?ほんとうに?
もしこれがカルチャー系のwebメディアに持っていく原稿であれば、タイトルは、
「社会性・政治性の希薄な日本のロック──マイクロアグレッション(意図しない差別)について──」
みたいなものに整えたと思われる。しかし個人のブログなので、昔からの偏見をアジテーションそのままに書いている。
「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?いや、マジでさ……。
補足
*1:引用元→
https://twitter.com/summer_sonic/status/1560973688987852800
*2:引用元→
https://pointed.jp/2021/05/31/the-linda-lindas/
*3:引用元→
https://twitter.com/gallerymaneskin/status/1549071752411729922
*4:ニップレスを着用していたヴィクトリアの姿勢については、この動画で解説されている(5分くらい〜)。