父の15年戦争(17)8月15日の特攻
この記事は2008年8月2日JANJANに掲載されたのを一部訂正、加筆、写真の入れ替えなどしております。
ソ連参戦時の父の部隊の詳細な行動などを知りたかったが、地元の図書館でたまたま父と同じ時期に入隊した元隊員の手記が載った本を2冊みつけた。この本で、父の部隊がソ連戦車軍団と対戦した日が昭和20年8月15日だと分かった。
鏡泊湖 南湖 頭沼岸(昭和8年6月25日新知社発行満州産業体系1より)
「父の15年戦争(1)関東軍の特攻」は、父の証言だけを元に書いたので、ソ連参戦時の部隊の詳細な行動や日時をほとんど記述出来なかった。私自身、日ソ戦の知識や旧満州の地誌など全く知らなかったので、あらためて資料を収集し勉強を始めたのだが、地元の図書館で、たまたま父と同じ時期に入隊した元隊員の手記が載った本を2冊みつけることができた。それによると父の部隊がソ連戦車軍団と対戦した日が昭和20年8月15日だと判明した。
回避された特攻
機動第1連隊の編成地公主嶺
神奈川県出身の吉山和孝氏は昭和20年5月、国立大学ハルピン学院2年生のとき徴兵され、父と同じ公主嶺の機動第1連隊に入ったが、そのときの思い出が、平成11年3月30日、平和祈念事業特別基金が発行した、平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦LX に掲載された「わが青春の思い出」である。一部引用する。
地図左下の公主嶺(こうしゅれい)駅から敦化(とんか)駅まで列車で移動、敦化から鏡泊湖まで徒歩で三日三晩歩きづめだったという
満州東北部より侵入したソ連軍に対しては、牡丹江を中心とする第5軍の主力2万5000人の将兵が死力を尽くして戦ったが、敵の航空機、戦車、大砲に対し、我が軍には極めて少数の大砲のほかは軽機、小銃などの軽火器しかなく、1日半の戦闘で敗れた。この敵の部隊が鏡泊湖を通り南下を企てている模様であるため、機動1連隊はこの湖畔で迎撃すべく、200kmの道を雨中、夜を日に継ぐ強行軍を敢行、3日後湖畔に到着した。3日間ほとんど眠らず、食事は乾パンを歩きながらかじり、水はそのあたりを流れる溝から汲んで消毒液を入れて飲んだ。
敵との遭遇は8月15日と予想されたが、敵はおそらく大型戦車を前面に立てて攻めてくるのに対し、我が軍には最大の兵器でも数門の歩兵砲があるだけであった。8月14日連隊全員が集められ、連隊長の訓示があった。内容は戦況の説明に併せて、特攻隊の編成についてであった。身命を故国の栄光に捧げて悔なき者、悠久の大儀に生きることを可とする者は、連隊長と共に死んでほしい、連隊長は諸君の先頭に立って突撃するという意味のものであった。当時の緊迫した情勢の下では、特攻隊に入っても入らなくても、生き残る可能性はまったく考えられなかった。
「特攻隊志願者、一歩前へ」の号令に、私は一歩を踏み出した。見ると隊員全員が一歩前に出ていた。夜になると菊の紋章のついた恩賜の煙草と日本酒が支給された。生まれて初めて口にする煙草は枯れ草の香りに似ていた。兵隊は戦場では分隊の単位で行動するものである。我々は分隊長を囲んで、飯盒の蓋で冷酒を回し飲んだ。これが今生の別れの杯であることは、誰でも分かっていた。しかし、だれも何も言わなかった。空には星一つ見えない、闇夜であった。
翌15日、早朝より空は晴れていた。体当たり用の爆薬の支給を待ちながら、「満18歳の生涯だった。同じ死ぬにしても敵戦車にたどり着き、せめて一矢を報いたい」と思っていたが、連隊本部の様子がなんだか変である。そのうち連隊長から命令が下された。関東軍司令官の命により「我が軍は戦闘を停止する。よってただいまより転進をする」とのことであった。転進とは聞こえが良いが退却である。特攻はしないことになったが、嬉しいとも悲しいともいえない、なんとも複雑な心境であった。そしてふと、死刑囚が刑執行寸前に釈放でなく懲役になったらこんな気持ちかなと思った。しかし、それが数週間後に始まるシベリア奥地での重労働への序奏であることなど思いも及ばなかった。
進んだとき3日かかった道を、1日半で帰った。公主嶺で訓練した長距離行軍が、こんなところで役に立つとは思ってもみないことであった。身につけたほとんどすべての物を捨てた。持っていたのは小銃と少量の弾薬、少量の食料、日用品を入れた雑嚢、飯盒、水筒のみであった。敦化より再び兵団司令部のある吉林にもどり武装解除となった。
食い違う証言
以上が吉山氏の文章からの引用だが、もう1冊「少年たちの満洲」 吉村暁著 平成4年9月20日発行 株式会社自由社 にも大連の旅順高等学校出身 田中邦實氏(東京都日野市)の体験が出てくる。この2人の話をあわせると関東軍機動第1連隊の8月9日のソ連参戦から8月15日の終戦、その後の吉林での武装解除までの行動がおおよそ分かる。同じ連隊にいた2人の証言は大体一致するが父の証言と大きく食い違っている重要な一点がある。田中邦實氏、吉山和孝氏の証言では8月15日の終戦の日、関東軍司令部の命令によりソ連戦車への「特攻」が回避されたという事である。迫撃砲中隊に所属したという田中邦實氏は次のように言っている。
8月15日の昼、終戦の放送を聞いてすぐ退却した。この退却はものすごいスピードで、行きに3日かかった行程を、敦化まで1日で突っ走った。道は舗装した国道もあれば、山道もあった。泥水の溜まっている所も少なくなかった。小休止もへったくれもない。オレは馬の尻尾につかまって歩いたが、息が切れて、よれよれだよ。あまりの強行軍に死んだ人もいた。途中でソ連の戦車に追跡されたが、戦闘を交えず、ふり切って逃げた。やっとの思いで敦化に着いたら、馬は汽車に乗せられないという。初年兵のオレたちは馬になれていなかったから、馬を任すことができないわけだ。そこで、馬を扱えないオレたちは貨車に乗せられ、馬の扱いになれている連中だけで馬の輸送隊を編成した。この連中は曲射砲を馬に積んで、旅団司令部のある吉林を目指した。野を越え山を越えて歩いたわけだが、それっきり消息は絶えた。どこかでソ連軍と交戦して、みんなやられてしまったらしいということだった。同じ中隊なのに、敦化で運命が大きくわかれてしまった―――(吉村暁著「少年たちの満洲」より)
鏡泊湖 南湖
2人の話はどちらもソ連戦車に追いたてられ死に物狂いで逃げる様子がわかる。このとき機関銃中隊にいた父は8月15日昼、天皇の終戦の詔勅が発せられてからもそのまま鏡泊湖湖畔にとどまりソ連戦車軍団と対戦する事になる。父の中隊はなぜ残されて「特攻」を命じられたのだろうか。連隊退却の犠牲となる殿(しんがり)になったのであろうか。
刺突訓練
父は昭和20年の6月か7月頃、公主嶺の機動第1旅団(旅団長木下秀明大佐)第1連隊(連隊長岩本只芳大佐)に入隊した。徴兵検査を受けたのが5月だがその直後に入隊した部隊で抗命罪にとわれ、重営倉に入った。その理由は初年兵の訓練のとき、度胸試しとして杭に縛りつけられた、生身の中国人を刺殺することを命令されたのだが、「無抵抗の人間を……あまりにも酷い」と拒否したためだった。当時の軍隊にあって上官の命令を拒否することは重罪であった。もし戦闘中なら射殺されても文句が言えなかっただろう。
しかし父は悪運には強かった。重営倉に入っている間に部隊は沖縄へ転出したのだった。後に父が聞いた話によると「沖縄に行ったこの部隊は全滅した」という。そんな事情で父は短期間のうち新たに部隊を変わる事になった。
関東軍第1機動連隊
関東軍機動第1旅団は昭和16年末に編成された特殊部隊、関東軍機動第2連隊を基に2つの連隊を加えて昭和19年6月吉林に新設された。この部隊は関東軍司令部直轄で敵が進撃した後、背後にもぐり橋梁や道路の破壊、鉄道の寸断など後方を撹乱するゲリラ戦を目的とした。総員は約6000人である。
第1機動連隊は12個中隊で第4中隊が父の所属する重機関銃隊、第8中隊が曲射砲隊(迫撃砲)、第12中隊が通信隊で、あとは歩兵中心の現役兵ばかりの精鋭部隊である。重機関銃と曲射砲は馬に乗せて3人1組で扱った。連隊の総人数は約2000人だが開戦時、第1大隊長水島悟少佐が古年次兵約1000名を指揮し、杜荒子、大北城付近以南に配備していたため、岩本只芳連隊長は残りの約1000名を率いて8月14日ごろ鏡泊湖湖畔に到着した。父の証言によると湖畔に着いてすぐ対戦車用の塹壕を掘ったという。そのあと吉山和孝氏の証言にあるように「連隊長と共に死んでほしい」と全員特攻・玉砕戦術となるのだが、15日に日本が無条件降伏したことが明らかになると、部隊は転進(退却)となった。
残された中隊は殿備え
私がこの時の事を詳しく父に聞いたのは亡くなる半年ほど前だったが、父は自分たちの中隊だけが湖畔にとどまり、他の全部は退却したことを知らなかったか、もしくは全く記憶に残っていないようだった。その理由はおそらく機関銃中隊のみが15日の朝、単独行動をしたことにある。父の話では「機関銃を積んだ馬が邪魔になるので谷までおりていって隠した」と言っていた。吉山・田中両氏の証言ではそういう話は全く出てこない。田中邦實氏は逃げるとき「オレは馬の尻尾につかまって歩いた」と言っているので馬を隠しに行ったのは父の中隊だけだったのは間違いない。山の上の湖から谷まで往復する間、かなりの時間が、かかったのではないだろうか。父たちが帰ってくるとすでに他の中隊は退却していた。すぐ間近にはソ連戦車軍団が迫ってきた―これはあくまで私の想像であるが、事情は指揮官のみぞ知っている。
それにしても前の晩「諸君の先頭に立って突撃する、一緒に死んでくれ」と全員に訓示したばかりの連隊長はどんな気持ちで先頭に立って退却したのだろうか。やはり命が惜しくなったのだろうか。もちろんそんな事は否定するだろう。おそらく「関東軍司令部の命令による」とでも言うのだろうが…結果的にいうと「特攻」は散発的であったが戦車軍団を一時的に止めることができた。おかげで本隊は危機一髪退却できた。父はこのときのソ連軍の猛攻を次のように描写した。「敵は最初の肉薄攻撃のあと、徹底的に耕してきた。一昼夜大地を掘り起こした」大地を根こそぎ掘り起こすくらいのすさまじい砲弾のあらしで現場の父は非常に長い時間に感じられたみたいだが、実際は一昼夜も撃っていたわけではなく1時間くらいだったのではないか。
鏡泊湖 北湖
荒れる父
父によると連隊長とは吉林で捕虜になったとき一緒になったと言っていたので、機関銃中隊がしんがりになったことはこのとき知ったと思う。捕虜収容所では日本軍の組織が残っていたので、連隊長は威張っていた。父は身勝手な連隊長に抗議に行き「おまえらがボンヤリしているから負けたんじゃ!」とののしった。横暴な上官に腹を立てて殴り倒したこともあったと言う。
父たちはソ連機甲師団に撃破されたあと、山の中に隠れていた。何日かたって停戦命令書をもった使者がやってきた。このとき天皇が降伏した事を聞き絶望して腹を切った(父が介錯した)中隊の青年将校たちの無念を想って抗議したのだろうか。父は晩年、好きだった酒に飲まれる事も多く、酔っ払って何かといえば「ハラを切ってやる」とおだをあげた。いつか親戚の家で飲みグデングデンになって、その時ボケ老人の話題で盛り上がった後、「ワシはボケへんぞ、年とってボケるくらいならその前にハラかき切って死んでやる。ハラぐらいいつでも切れるんじゃ」とわめき、ちょっと間をおいてうつむき小声で「…そやけど痛いやろなあ、痛かったやろなあ」などとつぶやきながらそのままグウグウいびきをかいて寝てしまったことがあった。今にして思えば敗戦の時うけた心の傷がぶり返しうずいていたのかもしれない。
機動旅団の3個連隊のうち第3機動連隊長の若松満則中佐は武装解除後の9月2日拳銃自決を遂げた。第2機動連隊長の須藤勇吉大佐はハバロフスクの捕虜収容所で病死した。「第1機動連隊の連隊長もソ連に連れて行かれたそうだが、その後は知らない」と父はそっけなく言う。父は捕虜になってから足に腫瘍ができ、治療したあと同僚より少し遅れてシベリアに送られるが、悪運強く途中脱走に成功する。しかし「父の15年戦争」の道のりはまだまだ遠い。
注:殿(しんがり)
軍隊が退却する際、最後尾にあって追ってくる敵を防ぐ部隊で犠牲がもっとも多くなる。
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コメント
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第一機動連隊の動きが少し見える資料に当たりました。
図書館でレファレンスしてみました。ご参考まで
『帝国陸軍編制総覧』(芙蓉書房出版 1987年)では、「関東軍(大東亜戦争終戦時)」の項の「機動第一旅団 吉林」に「機動第一聯隊 〔聯隊長〕昭19・8・1岩本只芳(大佐34)」との記載がありました (1210p)。
『関東軍特殊部隊』(鈴木敏夫著 光人社 1997年)には、昭和19年5月16日付で下令された臨時編成の記述があり(150p)、そこには編成定員について「◇機動第一、第二、第三連隊(満州第七五一、五〇二、七五二部隊) 〈各連隊とも〉 佐官一、佐・尉官六十五、准士官・下士官六百二十七、兵一千四百九十二(小計二千百八十五) 技術部准士官・下士官三、経理部将校四、同准士官・下士官六、衛生部将校四、同准士官・下士官十三、同兵三十九、獣医部将校一、同准士官・下士官一(部小計七十一) 合計二千二百五十六、馬百三十六」
と記載されています。
また、昭和20年5月に総司令部から旅団に示された予想戦場における聯隊の配置は、第一連隊本部は春化(東興鎮)から琿春に通じる街道沿いの西側に陣地設定され、直ちに陣地構築となったことが記載されています(178-181p)。
昭和20年8月9日の午前中には春化(東興鎮)に本部を置いていた第一連隊は戦闘状態になったとあります
(208p)、
また、9日、吉林が爆撃を受けた飛行機はソ連機だったことが判明し、旅団長・参謀が不在の為、教育班長鶴田大佐が公主嶺第一、第三連隊の残留部隊に追及を命じ、第二連隊の残留者と共に敦化に進出、急遽引き返してきた旅団長・参謀が残存全部隊を掌握し、牡丹江から撤退してきた第一方面司令部の指揮下に入って延吉方面、鏡白湖方面の対戦車戦闘の配備に就いた、と記しています(209p)。
8月15日、戦争の終結について記載したのち、対戦車戦闘配備についていた機動第一旅団司令部・駐屯地残留員から編成された部隊が、一戦も交えず吉林へ引き上げたこと、停戦の事実を知らなかった機動連隊の第一線の各中隊は任務を完遂しようとしていたと記しています(223p)。
この資料は機動第二連隊の歴史を記したもので、武装解除については第二連隊の記述のみでした。
投稿: 田中邦夫 | 2015年3月11日 (水) 13時53分