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一言居士シリーズご案内(2022/3/3更新)
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(2022/8/12)-古代史
十四年(二〇九)
秋七月、浦上の八国が連合して加羅を侵略しようとした。加羅の王子が救援を求めてきたので、王は太子の干老と伊伐湌の利音とに命じ、六部の兵を率いて救援させた。[彼らは] 八国の軍隊を撃破し、その将軍を殺し、六千人を捕虜として連れ帰った。
十七年(二一二)
春三月、加耶は王子を人質として送ってきた。
十九年(二一四)
秋七月、百済が西部の腰車城を攻めて、城主の薛夫を殺した。王は伊伐湌の利音に命じて、精兵六千人ほ率いて、百済を討伐し、沙峴城(慶北聞慶郡籠岩面沙峴里か)をおとしいれた。
二十三年(二一八)
秋七月、武器庫の兵器がひとりでに出てきた。百済軍が侵入し、獐山城(慶北慶山郡)を包囲したので、王が自ら出陣し、百済軍を撃破・逃走させた。
二十七年(二二二)
冬十月、百済軍が牛頭州(江原道春川市)に侵入した。伊伐湌の忠萱が兵を率いて反撃し、熊谷まで攻めたが,賊軍に敗れ、単騎で帰ってきた。そのためしりぞけられて鎮主となった。[これにかわつて] 連珍を伊伐湌として、軍事の統轄をも兼務させた。
二十九年(二二四)
秋七月、伊伐湌の連珍は百済軍と烽山の麓で戦い、これを撃破し、一千余人を殺したり捕えたりした。
この時期はもう北部九州では卑弥呼が共立されているでしょうね。卑弥呼の遣魏使は景初二年(239年)六月の派遣だと魏志倭人条に書かれている。その後、翌正始元年(240年)に印綬され、その四年(243年)に再度遣魏し、六年(245年)には難升米が黄幢をもらう。国内での戦争ですね。八年(247年)に狗奴国と戦争していることを告げると張政が倭国に来てまた黄幢と檄文をもらう。
この辺りが谷川説では国譲りの戦争前の認識なんですね。天照大御神と素戔嗚命との争いで天照大御神が岩戸隠れされる。
魏志倭人条ではこの直後に「卑弥呼以て死す」という記載につながっている。張政はまだ倭国に居る。内部抗争があって後に卑弥呼の宗女である壱与が13歳で擁立される。
谷川説ではこれが邪馬台国後裔勢力ということになるわけです。これが50年後くらいに畿内先住勢力に対して国譲りを迫るという想定ですから、相手は狗奴国だと考えるのが自然ですねよ。ただし、ここは水野裕は狗奴国を熊襲だと考えていて、この熊襲が壱与の勢力を滅ばした後に畿内入りしてくるのだとしています。
張政はこの壱与の擁立を確認して後に、送られて帰国するんですから、247年からそんなに離れていてない年、つまり翌年(248年)位に卑弥呼が亡くなっているのではないかと推定されているわけです。
第十一代 助賁尼師今(在位二三〇-三二七)
三年(二三二)
夏四月、倭人が突然侵入して金城を包囲した。王が自ら城を出て戦ったので、賊軍は潰滅・逃走した。軽装の騎馬隊を派遣して賊軍を追撃し、一千余人を殺し捕えた。国境を犯した。
四年(二三三)
五月、倭軍が東部の国境を犯した。
秋七月、伊湌の于老が倭人と沙道で戦った。風向きをはかって火をつけ、[倭軍の] 舟を焼いた。賊兵は水に溺れてことごとく死んだ。
船に火をつけるのは、火箭と呼ばれる火矢の他に、薪を積んで火を付けた舟を群船に向けて送り込む戦い方が赤壁の戦いで有名です。三国志の知識ですからどうなんでしょうかね。後に書かれた書物なので文飾が入りますからね。
十一年(二四四)
百済が西部の国境地帯に侵入した。
十六年(二四五)
冬十月、高句麗が北部国境を犯したので、于老が軍隊を率いて出撃したが、勝てなかった。[于老は軍隊を] 馬頭柵(京畿道抱川郡抱川面か)まで退却させた。その夜は非常に寒かった。于老は士卒を労わり、自ら柴をたいて温めたので、人々は心から感謝した。
第十二代 沾解尼師今(在位二四七-二六一)
二年(二四八)
二月、高句麗に使者を派遣して講和を結ばせた。
三年(二四九)
夏四月、倭人が舒弗邯の于老を殺した。
九年(二五五)
秋九月、百済が侵入してきた。一伐湌の翊宗がこれを槐谷(忠北槐山郡槐山面)の西で迎えうったが、賊軍のために殺された。
冬十月、百済が烽山城を攻めたが、降伏しなかった。
十五年(二六一)
三月、百済が使者を派遣して講和を申し込んできたが、許さなかった。
この辺りの百済との戦いは「百済本紀」の記載と整合させてあります。この『三国史記』の互いに整合させている記事は金富軾が編纂しているのですから、どこか一国の古記録があれば相手国に同一の記載をするという操作をしている可能性があり、又、白村江の戦いに関して、金富軾は当時の高麗と日本との外交関係を配慮して意図的にその記事を書いていないのですが、それらの推定と記紀の記載から朝鮮側の古記録の元の姿を復元できるかもしれないのですが、今はそれは目的ではありません。
今、「新羅本紀」の検証を行っている目的は、言うまでもなく、仲哀天皇の崩御に関する記紀記載と、特にその古事記崩年干支註から水野裕がその絶対年代を割り出したのですから、ここが362年の事だと分かっていて、神功皇后の新羅征討記事がその直後だという論理から、対応する新羅本紀にその記載がないかと検証している。
まだ362年の近辺には到達していない。因みに古事記崩年干支註は仲哀天皇まで以下の三人の天皇さんにしか書き込まれていない。
崇神天皇 戊寅 318年
成務天皇 乙卯 355年
仲哀天皇 壬戌 362年
谷川は崇神天皇の畿内入りを想定していますから、論理として畿内入りする以前には邪馬台国後裔勢力として北部九州に居るという想定になっています。そして不比等と安万侶の時代の畿内政権を構成している天皇家と諸氏族の当時の先祖伝承記憶の共通した認識に天孫降臨説話が何らかの史実の神話化として共有されているのだということを記紀系譜と新撰姓氏録記載事項との照合から確認していますね。このことから記紀の国譲り神話は先住していた畿内勢力と北部九州からの崇神天皇の東遷勢力との戦いの神話化であると見做し得るわけです。
谷川はこの史実の実年代を呉の滅亡した280年から高句麗が楽浪郡を滅ぼした313年までの間だと見ているわけです。倭の女王の支那側の史書朝貢記録は晋の武帝の泰始二年(266年)が最後で、これはまだ卑弥呼が亡くなった248年前後に13歳であった壱与が31歳の年ですから、恐らくこの時はまだ邪馬台国後裔勢力の女王は壱与だったでしょうね。
天照大御神のモデルは卑弥呼ではなくて、卑弥呼が岩戸隠れした後に現れたこの壱与であろうという推定は以前からあります。無論卑弥呼の時代には横開きの扉のある横穴式石室などはありませんから、記紀の時代に当時の知識をもって潤色されているというのは当然ですね。
谷川が晋の武帝の泰始二年(266年)としている理由は良く分かりません。晋書のこの部分の記載は以下です。
>>
其家舊以男子為主漢末倭人亂功伐不定乃立女子為王名曰卑彌呼宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見其後貢聘不絶及文帝作相又數至泰始初遣使重譯入貢
漢文は切れ目がありませんから意味を取って区切っていく。
>>
其家舊以男子為主、漢末倭人亂功伐不定、乃立女子為王名曰卑彌呼、宣帝之平公孫氏也、其女王遣使、至帯方朝見、其後貢聘不絶、及文帝作相、又數至、泰始初遣使重譯入貢
その家、舊くは男子を以て主と為す。漢末、倭人亂れ、功伐して定らず。乃ち女子を立てて王と為す。名は卑彌呼と曰ふ。宣帝の公孫氏を平らぐや、その女王、遣使し、帯方に至りて朝見す。その後貢聘は絶えず、及ち文帝の相となるや、又數至る。泰始初、遣使し、譯を重ねて入貢す。
とあって二年と書かれているのを知らない。元年なら265年です。泰始年間なら265年から274年の間でその初めのどこかですが、司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて即位して年号を泰始と改めたのは265年の12月ですから、谷川は「泰始初」を翌年の事だと解して二年の266年としたのではないでしょうかね。晋は高祖宣帝(司馬懿)、景帝(司馬師:司馬懿の長男)、太祖文帝(司馬昭:司馬懿の二男)、世祖武帝(司馬炎:司馬昭の長男)の順で、武帝の時に魏を滅ぼしたわけです。
文帝が相国を受けたのは景元4年(263年)の10月です。従って壱与の朝貢は魏志倭人条の最後に張政を送った時の朝貢後、この文帝の時に何度も来たと書かれているわけです。そして最後がこの"泰始の初め"の遣使です。新羅ではこのころ味鄒尼師今(在位二六二-二八四)の時代でした。
第十三代 味鄒尼師今(在位二六二-二八四)
五年(二六六)
秋八月、百済が侵入して烽山城を攻撃したが、城主の直宣が壮士二百人を率いて、城を出て百済軍を襲撃し、これを敗走させた。王がこのことを聞き、[その戦勝を賞して] 直宣を一吉湌とし、[烽山城の士卒たちをも大いに褒賞した。
西晋も戦乱ですから半島も戦乱ですね。女王壱与の使いはこの百済を通って帯方郡に行くんですね。どういう時代かというのは想像力を働かせて置かないといけない。大陸、半島には騎馬の習慣がありますが、倭国にはまだ馬は入っていません。谷川説ではこの壱与の子孫が天孫降臨するわけです。船で乗り付けて上陸して戦う。海兵隊ですね。この降臨神話前後の物語中に馬は登場しませんね。古墳の上に馬の埴輪が置かれる時代ではないということです。
十一年(二七二)
冬十一月、百済が国境を犯した。
十七年(二七八)
冬十月、百済軍が侵入してきて槐谷城を包囲したので、波珍湌の正源に命じて、軍隊を率いてこれを撃退させた。
二十二年(二八三)
秋九月、百済が国境を犯した。
冬十月、百済軍が槐谷城を包囲したので、一吉湌の良質に軍隊を率いて防がせた。
第十四代 儒礼尼師今(在位二八四-二九八)
三年(二八六)
春正月、百済が使者を派遣して講和を求めてきた。
四年(二八七)
夏四月、倭人が一礼部を襲い、村々に火をつけて焼き払い、一千人もの人々を捕えて達去った。
北九州側の倭国が人を1000人も当時の小さい船にわざわざ乗せて連れ去って何に使うのかということも考えにくいことなので、これはやはり半島側に居る倭人で、伽耶諸国王たちとの契約で半島の鉄を掘っている人々ではないかと考えられる。鉱山には労働力が必要で、伽耶諸国も自国で採掘するのはそれだけ人手を割かないといけませんが、労働力は倭国側からも提供されていて、採掘権料として生産物の三割程度を渡していると推定している。これは漢の鉄の専売権が上がりの三割でしたからね。しかし、恐らくそれだけが原因ではなくて、新羅側からもこの地の鉄山を狙っていてしばしば伽耶に侵攻してきているのではないかと推定される。鉄の生産高が増加するにつけて新羅側からの侵攻頻度も高まっていくことになる。それを反撃していると推測される。
ここはまだ馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代です。百済と書かれているのは後の名を過去に及ぼしているだけです。高句麗が313年に楽浪・帯方郡を滅ぼしてから半島は高句麗と三韓から続く新羅・百済という三国時代に入ります。弁韓だけはまだ統一されず伽耶諸国として別に続いている。倭国はそこの王族との提携で鉄を採掘している。当初は僅かで徐々に生産力が上がってくる。倭の五王の時代には既に大量の鉄のインゴットが半島から移入されている。製鉄の燃料に何か革新が推定されるところです。もしかしたら大量の森林財をもつ倭国からの木炭が持ち込まれているかもしれませんね。もう一つの候補としては高句麗附近の石炭です。この辺りは結果から推測するだけで証拠らしきものもありません。
六年(二八九)
夏五月、倭兵が攻め寄せてくるとの情報で、船を修理し、兵器を修繕した。
ここも、弁韓の倭人の鉱山労働者たちが組織されて兵隊になっているのか、対馬の漁民である倭人なのか、列島のどこかの倭人なのかは分かりません。三国史記では倭人、倭兵、倭軍、倭国とかき分けていますが、その書き分け基準は一部を除いて明確ではないですね。
新羅の海岸線を襲う時にはどこの倭人でも船で攻め込んでくる。内陸でも国境線を接していますが、その附近での小競り合いは陸戦ですが、倭人は半島に長く住んでいたとしても基本倭国から派遣された鉱山労働者として働いていて騎馬戦は慣れないでしょうから、歩兵として伽耶の軍隊を援助しているだけではないでしょうか。倭人が本格的に攻め込むときには、どこにいる倭人であったしても、船で上陸してきますね。ですから、弁韓の倭人か、対馬の倭人か、邪馬台国の倭人か、出雲からの倭人かは分かりません。「倭兵が攻め寄せてくるとの情報で、船を修理」するのは倭人の戦いは船を乗り付けて急襲するのだと知られているからですよね。
九年(二九二)
夏六月、倭兵が沙道城を攻め陥そうとした。一吉湌の大谷に命じて、兵を率いて救援させ、この城を確保した。
十一年(二九四)
夏、倭兵が侵入して長峯城を攻めたが、勝てなかった。
十二年(二九五)
春、王は重臣たちに[次のように] いった。
倭人がしばしばわが国の城や村を襲うので、人々は安心して生活することができない。私は百済と共謀して、一時海上にでて、その国を攻撃しようと思うがどうであろうか。
舒弗邯の弘権は[次のように] 答えた。
わが国の人々は水上の戦いには慣れていません。危険を冒して遠征すれば、おそらくは思いがけない危険があるでしょう。まして百済は嘘が多く、その上つねにわが国の侵略を企画しております。おそらく[百済と] 共同で[倭侵略を] 謀議することは困難でしょう。
[これにたいし] 王は「よくわかった」といった。
ここまで「百済本紀」側に伽耶軍もしくは倭人との戦いは一切記載がない。これは南部で伽耶諸国と国境を接しているが、百済側が弁韓地域に侵入しないから反撃もない訳です。魏志倭人条で張政が邪馬台国に到った経路は、「從郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」ですから、「歴韓国」の韓国は馬韓の事で、その西海岸を通って「其北岸狗邪韓國」の金海周辺に来る。そこは倭国の北岸という認識です。
卑弥呼の朝貢遣使も同じルートを逆行するのです。ですから馬韓地域がどれほど昔から倭国と親しい関係であったかということが伺われるわけです。逆に新羅と近かったのは出雲の勢力であり、後にまさに仲哀天皇であり、そして更に後の雄略天皇が対峙した葛城襲津彦であることからして、天智天皇が白村江の戦いに導かれて行くことになる遠因を訪ねると、天皇家自体がまさに卑弥呼以来の天孫降臨勢力だということを暗示しているわけです。邪馬台国の時代からずっと反辰韓、親馬韓だということです。
第十五代 基臨尼師今(在位二九八-三一〇)
三年(三〇〇)
春正月、倭国と国使の交換をした。
三月、牛頭州に行幸し、太白山を遠くから祭った。楽浪・帯方二国が服属してきた。
この倭国は列島内の倭国です。北部九州に存命であれば壱与65歳前後で邪馬台国後裔勢力があり、神話的には出雲地方も含んだ形での畿内には先住勢力があるので、どちらの国かは分かりません。また、谷川説では崇神天皇が東遷して来たことになっていますが、この崇神天皇の崩年は318年で、何時畿内入りされたかは分かりませんので、早ければもう崇神政権であった可能性もある。分かりませんね。谷川は楽浪・帯方二郡の消滅した313年の頃だと見ているのではないでしょうかね。
因みに谷川も水野と同様に、狗奴国は熊襲・隼人の地域とみていますが、谷川は狗奴国が呉と提携していて、晋が呉を滅ぼした280年以降に力を失って邪馬台国後裔勢力と和睦したと推定している。対して、水野は北部九州で邪馬台国を倒した熊襲・隼人の勢力が東遷してきたのが仁徳天皇の勢力だと見做しているんですね。しかし、まだまだそんな事柄を論じられる場所には来ていません。
「楽浪・帯方二国の服属」と書いているのは晋が八王の乱で混乱しているので一部が百済側に助けを求めて帰属するんでしょうかね。正式には313年の高句麗の侵攻によって楽浪郡は消滅したという認識です。もっとも、高句麗本紀にはどう書かれているかというと、「冬十月、王は楽浪郡に侵入し、男女二千余人を捕虜とした。」とのみ書かれている。因みに高句麗好太王碑に書かれている404年の倭軍の侵攻も一切触れられていません。金富軾は碑文は読んでいます。とても政治外交的な配慮のある書物なんですね。半島と列島では地政学的な条件が違う。海に守られた列島では比較的客観的になんでも書いて置けますが、半島はどこから侵攻されるか分かりませんから、現在の政治状況も配慮せずに他国との過去の歴史を正直に書いていると侵攻の口実を与えることになって危ないんですね。比較的安全とは言え、日本書記にもある程度の配慮はあるんですね。これから追々そういうことにも触れて行くことになります。
十年(三〇七)
国号を新羅にもどした。
ここは新羅本紀の503年に正式に新羅という国名を定めたと書かれていて、その時の経緯として以前から自国の事を斯羅<シラ>、斯盧<シロ>と称していたと書かれているので、辰韓と呼ばれているのは支那側からの呼称ですから、時代の推移で支那の束縛から離れられるという意識が芽生えているのかもしれませんね。因みに楽浪・帯方郡というのは漢の時代から支那の政治支配を受けていますが、居住民の大半はもともとから半島に住んでいる人々です。支那人との混血は進んでいるでしょうけどね。こういうのは何人種とも言えないんですよね。いろんな人種が混じっている地域です。無論人種的には黄色人種で旧モンゴロイドと新モンゴロイドしかありませんけどね。これはこれからの時代はDNA解析が進んでくると徐々に判明してくるんでしょうね。文化の方はそれぞれ細かく分かれていて興亡がありますね。日本の半島文化は百済の影響が最も強くて、次が新羅の文化ですね。
高句麗からの渡来人は奈良時代に大磯に入植した高麗王若光の流れが東国の騎馬軍団を形成する馬の知識をもたらしているようですね。これが鎌倉武士団が元寇を押し戻した時の力になる。元寇の軍勢にはモンゴルに支配されて駆り出された高麗人もいましたから皮肉な結果ではありますね。彼らは馬は運んだが博多上陸では使えなかったようです。
第十六代 訖解尼師今(在位三一〇-三五六)
三年(三一二)
春三月、倭国王が使者を派遣して、王子の花嫁を求めてきたので、阿湌の急利の娘を[王子の花嫁として] 倭国に送った。
312年は崇神天皇の治世です。東遷の前後は分かりませんが、ここで書かれている倭国王が崇神天皇なら王子は以下の6人が古事記系譜に書き残されている。
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豊木入日子命***上毛野、下毛野君等之祖也
大入杵命***能登臣之祖也
八坂之入日子命
伊玖米入日子伊沙知命
伊邪能真若命
倭日子命***此王之時始而於陵立人垣
この中で伊玖米入日子伊沙知命は垂仁天皇ですから皇統譜が繋がっていてお后は以下の6人で韓姫ではありません。
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丹波比古多多須美知宇斯王女氷羽州比賣命
氷羽州比賣命弟沼羽田之入毘賣命
氷羽州比賣命弟阿邪美野伊理毘賣命
大筒木垂根王女迦具夜比賣命
山代大国之淵女刈羽田刀弁
刈羽田刀弁弟刈羽田刀弁
二十八年(三三七)
春二月、使者を派遣して百済を訪問させた。
三十五年(三四四)
春二月、倭国が使者を派遣して、花嫁を求めてきたが、娘はすでに嫁にいったとして辞退した。
三十六年(三四五)
二月、倭王が国書を送ってきて、国交を断絶した。
再度の花嫁要請の344年は恐らく垂仁天皇の時代に対応しているんでしょうね。ただ、水野裕は垂仁天皇は崇神天皇の分身だと書いている。これは仁徳天皇の難波入り新王朝樹立という想定をしているので、その推測の前提では崇神・垂仁の間はただ、イリヒコ・イリヒメ時代として一体化してとらえているんですね。ここは古事記系譜をあまり慎重には解析出来てないんですね。井上光貞は崇神318年崩御の水野説は採用していませんが、歴代天皇さんの和風諡号の解析は水野説に立っていて、景行・仲哀は存在しないとしているんですね。二代変だと感じている。ここは私は並列系譜が縦に繋がれているのだと推測したところですが、世代数にずれがある指摘は同じ感覚があるんですね。再掲しておきましょう。
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01世代 アマテラス
02世代 オシホミミ
03世代 ニニギ
04世代 山幸彦
05世代 フキアヘズ 大物主神、娶陶津耳命之女活玉依毘賣
06世代 神武 懿徳 孝霊 櫛御方命
アマテラス 07世代 綏靖 孝昭 孝元 飯肩巣見命
オシホミミ 08世代 安寧 孝安 開化 建甕槌命 意富比垝(オホヒコ)
ニニギ 15世代 祟神318 景行 意富多多泥古 多加利足尼(タカリノスクネ)
山幸彦 18世代 成務355 日本武尊 吾田片隅命 弖已加利獲居(テヨカリワケ)
フキアヘズ 19世代 仲哀362 大賀茂足尼 多加披次獲居(タカハシワケ)
神武 20世代 応神394 多沙鬼獲居(タサキワケ)
21世代 仁徳427 半弖比(ハテヒ)
22世代 允恭454 加差披余(カサハヤ)
23世代 雄略489 乎獲居臣(ヲワケ)
300年の国使の交換から45年経過して突然断交通知です。垂仁天皇か成務天皇の時代です。半島は三国時代です。新羅国が建国されている。その新羅の国に対して倭国が断交通知を送っているんです。そして翌年に攻め込んだ。
三十七年(三四六)
倭軍が突然風島(不明)を襲い、辺境地帯を掠め犯した。[倭軍は] さらに進んで金城を包囲し、はげしく攻めた。王は城を出て戦おうとしたが、伊伐湌の康世が、
賊軍は遠くからやってきて、そのほこ先はあたるべからざるものがあります。賊軍[の我が軍に対するあたり] をゆるめさせるのがよく、その軍の疲れを待ちたい。
と言った。王はこれをよしとして、門を閉じて兵を出さなかった。賊軍は食糧がなくなり、退却しようとしたので、康世に命じて、精鋭な騎馬隊を率いて追撃し、これを敗走させた。
これが神功皇后の新羅征討の前哨戦ですね。金城というのは今の慶州ですから新羅の首都です。ここを国交断絶通知を送ってから襲っていますから、これは流石に倭国の正規軍ですね。ただし、この倭軍が列島内のどういう勢力かが分かってないんです。恐らくは北部九州の勢力で反新羅勢力であることは間違いありませんが、この勢力が畿内の政権と連動しているのか、或いは又外交方針をめぐる争いで国内が分裂しているのかが分からないわけです。
谷川東遷説のストーリー展開は崇神政権の樹立で終了していて、この後は物部氏の東方四散を追って、奥州阿部氏にまで考察を及ばせていくのですが、肝心の畿内のその後に関して続編が遂に出なかったんですね。
第十七代 奈勿尼師今(在位三五六-四〇二)
九年(三六四)
夏四月。倭兵が大挙して侵入してきた。王はこの報告を聞いて、[倭軍の勢力に] 対抗できないことを考慮して、草人形を数千個作り、それに衣をきせ、兵器をもたせて、吐含山の麓にならべ、勇士一千人を斧峴(未詳。慶州市南東部か)の東の野に伏せておいた。倭軍は数をたのんでまっしぐらに進撃してきたので、伏兵を出動させて倭軍に不意うちをかけた。倭軍が大敗して逃走したので、追撃して倭兵をほとんどすべて殺した。
ようやく到着しました。神功皇后が新羅征討に出陣されたのは水野絶対年代の363年です。
ここからもう一度神功記に戻ります。再掲します。
>>
帶中日子天皇、坐穴門之豐浦宮、及筑紫訶志比宮、治天下也。此天皇、娶大江王之女、大中津比賣命、生御子、香坂王。忍熊王。二柱。又娶息長帶比賣命、是大后。生御子、品夜和氣命。次大鞆和氣命。亦名品陀和氣命。二柱。此太子之御名、所以負大鞆和氣命者、初所生時、如鞆宍生御腕。故、著其御名。是以知坐腹中國也。此之御世、定淡道之屯家也。
其大后息長帶日賣命者、當時歸神。故、天皇坐筑紫之訶志比宮、將擊熊曾國之時、天皇控御琴而、建內宿禰大臣居於沙庭、請神之命。於是大后歸神、言教覺詔者、西方有國。金銀爲本、目之炎耀、種種珍寶、多在其國。吾今歸賜其國。爾天皇答白、登高地見西方者、不見國土、唯有大海。謂爲詐神而、押退御琴不控、默坐。
爾其神大忿詔、凡茲天下者、汝非應知國。汝者向一道。於是建內宿禰大臣白、恐我天皇、猶阿蘇婆勢其大御琴。自阿至勢以音。爾稍取依其御琴而、那摩那摩邇 此五字以音。 控坐。故、未幾久而、不聞御琴之音、卽擧火見者、既崩訖。爾驚懼而、坐殯宮、更取國之大奴佐而、奴佐二字以音。種種求生剥、逆剥、阿離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鷄婚之罪類、爲國之大祓而、亦建內宿禰居於沙庭、請神之命。
於是教覺之狀、具如先日、凡此國者、坐汝命御腹之御子、所知國者也。爾建內宿禰白、恐我大神、坐其神腹之御子、何子歟。答詔男子也。爾具請之、今如此言教之大神者、欲知其御名。卽答詔、是天照大神之御心者。亦底筒男、中筒男、上筒男、三柱大神者也。此時其三柱大神之御名者顯也。今寔思求其國者、於天神地祇、亦山神及河海之諸神、悉奉幣帛、我之御魂、坐于船上而、眞木灰納瓠、亦箸及比羅傳 此三字以音。多作、皆皆散浮大海以可度。
故、備如教覺、整軍雙船、度幸之時、海原之魚、不問大小、悉負御船而渡。爾順風大起、御船從浪。故、其御船之波瀾、押騰新羅之國、既到半國。於是其國王畏惶奏言、自今以後、隨天皇命而、爲御馬甘、毎年雙船、不乾船腹、不乾柂檝、共與天地、無退仕奉。故是以新羅國者、定御馬甘、百濟國者、定渡屯家。爾以其御杖、衝立新羅國主之門、卽以墨江大神之荒御魂、爲國守神而祭鎭、還渡也。
故、其政未竟之間、其懷妊臨產。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也。亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、御食其河邊之時、當四月之上旬。爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、以飯粒爲餌、釣其河之年魚。其河名謂小河、亦其礒名謂勝門比賣也。故、四月上旬之時、女人拔裳糸、以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。
帶中日子天皇、穴門の豐浦宮、及筑紫の訶志比宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、大江王の女、大中津比賣命を娶して、生みませる御子、香坂王。忍熊王。二柱。又息長帶比賣命、是は大后なり。を娶して、生みませる御子、品夜和氣命。次に大鞆和氣命。亦の名は品陀和氣命。二柱。此の太子の御名、大鞆和氣命と負せる所以は、初めて生れましし時、鞆の如は宍、御腕に生りき。故、其の御名に著けき。是を以ちて腹に坐して國に中りたまひしを知りぬ。此の御世に、淡道の屯家を定めたまひき。
其の大后息長帶日賣命は、當時神を歸せまたまひき。故、天皇筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曾國を擊たむとしたまひし時、天皇御琴を控かして、建內宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。是に大后神を歸せたまひて、言教へ覺し詔りたまひしく、「西の方に國有り。金銀を本と爲て、目の炎耀く、種種の珍しき寶、多に其の國に在り。吾今其の國を歸せ賜はむ。」とのりたまひき。爾に天皇答へて白したまひしく、「高き地に登りて西の方を見れば、國土は見えず。唯大海のみ有り。」とのりたまひて、詐を爲す神と謂ひて、御琴を押し退けて控きたまはず、默して坐しき。爾に其の神、大く忿りて詔りたまひしく、「凡そ茲の天の下は、汝の知らすべき國に非ず。汝は一道に向ひたまへ。」とのりたまひき。是に建內宿禰大臣白しけらく、「恐し、我が天皇、猶其の大御琴阿蘇婆勢。阿より勢までは音を以ゐよ。」とまをしき。爾に稍に其の御琴を取り依せて、那摩那摩邇 此の五字は音を以ゐよ。控き坐しき。故、幾久もあらずて、御琴の音聞えざりき。卽ち火を擧げて見れば、既に崩りたまひぬ。爾に驚き懼ぢて、殯宮に坐せて、更に國の大奴佐を取りて、奴佐の二字は音を以ゐよ。生剥、逆剥、阿離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鷄婚の罪の類を種種求ぎて、國の大祓を爲て、亦建內宿禰於沙庭に居て、神の命を請ひき。是に教へ覺したまふ之狀、具さに先の日の如くにして、「凡そ此の國は、汝命の御腹に坐す御子の知らさむ國なり。」とさとしたまひき。爾に建內宿禰、「恐し、我が大神、其の神の腹に坐す御子は、何れの御子ぞや。」と白せば、「男子ぞ」と答へて詔りたまひき。爾に具さに請ひけらく、「今如此言教へたまふ大神は、其の御名を知らまく欲し。」とこへば、卽ち答へて詔りたまひしく、「是は天照大神の御心ぞ。亦底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神ぞ。此の時に其の三柱の大神の御名は顯れき。今寔に其の國を求めむと思ほさば、天神地祇、亦山神及河海の諸の神に、悉に幣帛を奉り、我が御魂を于船の上に坐せて、眞木の灰を瓠に納れ、亦箸及比羅傳 此の三字は音を以ゐよ。を多に作りて、皆皆大海に散らし浮かべて度りますべし。」とのりたまひき。
故、備さに教へ覺したまひしく如くにして、軍を整へ船雙めて度り幸でましし時、海原の魚、大き小さきを問はず、悉に御船を負ひて渡りき。爾に順風大く起りて、御船浪の從にゆきき。故、其の御船の波瀾、新羅の國に押し騰りて、既に國半に到りき。是に其の國王、畏惶みて奏言しけらく、「今より以後は、天皇の命の隨に、御馬甘と爲て、年毎に船雙めて、船腹乾さず、檝不乾さず、天地の共與、退むこと無く仕へ奉らむ。」とまをしき。故是を以ちて新羅國は、御馬甘と定め、百濟國は、渡の屯家と定めたまひき。爾に其の御杖を、新羅の國主の門に衝き立てて、卽ち墨江大神の荒御魂を、國守ります神と爲て祭り鎭めて還り渡りたまひき。
故、其の政未だ竟へざりし間に、其の懷妊みたまふが產れまさむとしき。卽ち御腹を鎭めたまはむと爲て、石を取りて御裳の腰に纒かして、筑紫國に渡りまして、其の御子は阿禮坐しつ。阿禮の二字は音を以ゐよ。故、其の御子の生れましし地を號けて宇美と謂ふ。亦其の御裳に纒きたまひし石は、筑紫國の伊斗村に在り。亦筑紫の末羅縣の玉嶋里に到り坐して、其の河の邊に御食したまひし時、四月の上旬に當りき。爾に其の河中の礒に坐して、御裳の糸を拔き取り、飯粒を餌に爲て、其の河の年魚。其の河の名を小河と謂ふ。亦其の礒の名を勝門比賣と謂ふ。を釣りたまひき。故、四月の上旬の時、女人、裳の糸を拔き、粒を餌に爲て、年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。
古事記の中では突然ですが仲哀天皇は、穴門の豐浦宮、筑紫の訶志比宮で「天の下治らしめしき」と書れているので畿内の天皇さんではないのかとも受け止められる。無論日本書紀では畿内から熊襲征伐のために遠征してきているストーリーになっていて、仲哀天皇さんはこの地で神の怒りに触れて亡くなっていますから、水野裕は熊襲に敗れて勝った熊襲の勢力が畿内に攻め上ってきたのが仁徳朝だと主張しているんですね。
(2022/8/13)-学ブログ
学生HN氏がまた書き込んでますね。
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2022/08/13 URL 編集
何の話からの繋がりなのかが追えませんが、例によってなんかまだアップされてない書き込みがあるのかな。それにしても学ブログで今行われている議論は支離滅裂で、昔のバ感想だとかLの話が入り乱れてますね。
学生HN氏の言ってる内容は<海賊版翻訳 BCA論文1>で今書いている途中の話ですね。尤もこれは既に以前<整理 BCA報告書の虚偽>の中で論じてはいますけどね。
ため息ブログには一度消して又アップし直したらしいことが書かれている。学HN=ため息先生のところは盆前だというのに忙しくないのかなあ。
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①「リファレンスゲノム」というのはBCA論文のSUPPLEMENTARY INFORMATION に書かれているGRCm38 (mm10) mouse reference genome のことを言ってるんでしょうね。基準ゲノムが無いとリードをアラインさせることができない。
②「登録SNPsの位置と塩基種」と言ってるのは129とB6の登録SNPsのことですよね。
③「書き手のアカウンタビリティの欠如」というのには、思わず笑ってしまうが、松崎の事を揶揄しているんだね。この論文の文責は松崎だとContributionsに書かれている。嘘ついてるから他者にちゃんと分かるようには説明できないだろうと皮肉ってる訳ですね。
④「登録SNPsの話が登録SNPsを含む全塩基の培養変異による更なるSNVsの話にすり替えられて」いるというところは、最初は岡部マウスにある129の飛び込み痕跡の話だったのに、いつの間にか、その箇所を取り除いた部分の培養変異の話になっていて、それをどうやって調べたのかという具体的説明がまったくないことと、培養皿内の無数の細胞のDNAを一部取り出してそれを全部断片にバラシて増幅した後にアラインしたときにそのSNVsとして認識されたものの意味の定義がどこにも書かれていないことと、その後の継代でどこにどういう蓄積をするのかという経路想定も示されてないこと、そもそもFES1とされて分析されているサンプルの中身がFLSの元細胞でないという証明もないことと合わせて、一体お前らはどういう戯言を吐こうとしているのだと言いたいんでしょうな。がははははは。これ、僕が今から書こうと思っていることじゃないか。
⑤「最後にFES1とFES2との違いの話であるかのように説明される」と書いているところは実際には最初に唐突にそう書き出されるわけですよね。
⑥「虚偽?」という部分は私の<整理 BCA報告書の虚偽>を暗示していないか。
これDORAさんの悪戯でしょう。そのうち又「金髪美女」さんが登場してくるのではないかな。それとも「ワトソン」氏かな。
学HN=ため息先生は多分本当にはこのBCA論文の意味が分かってない臭いですね。どちらも頓珍漢な対話になっていてこの件に関してはため息先生は本来正しいことを言わないといけないんですが、言えてませんね。なぜ言えないかというと、正しいことが書かれてないからですよね。
みんなで書かれていることの実験が何であったかを想定し合って侃々諤々やってる。変だと思わないのかなあ。論文って分かるように書かれているべきものでしょうに。なんで想定しなきゃいけないのだ。書かれてないからだよ。馬鹿な論文です。書かれていれば書かれていることが理解できなければ調べればいい。でも書かれてないでしょ。必要とされるべき論理がないのよ。出鱈目書いてる。
それとマウスのDNAの総塩基対は24、5億レヴェルですよね。学ブログに書かれた3億塩基なんてどこの教科書に書かれているのよ。ため息ブログもひどいですね。
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何回も言っていますが、細胞を増殖させて培養したわけですが、その変化のスピードは培養条件によって異なるから、桂調査委員会でも議論ができない、議論していないのです。
それ以前に増殖した数万個の細胞の一つずつはシャーレの中で仮にあってもそれぞれ別の箇所にSNVが出来るんですよ。PCRに掛ける時その中から何百個分かの細胞を採取してDNAを断片に切断しますが、仮に一個一個の細胞が全部違う箇所にSNVを持っているか、何も持っていないかの状態だとこの検体にはSNVsは無いと判定されるのよ。これは近交系マウスのSNPsと違います。近交系マウスのSNPsは全細胞が持っているからSNPsと判定できるんです。全リードがその場所にアラインされる。数百の中の1個の細胞のSNVはSNV判定されません。少なくとも相当数がその同じSNVを持ってないとSNVと定義されない。ではそんなSNVが増殖中にその細胞だけが増える人為がどういう風に入るかと考えれば継代の時にたまたまそのSNVのある増殖細胞集団部分をシードすることが続いた時です。これは次の継代までにもっと増えていても、逆にその継代時にシードされなかったら消えてしまう。だから培養細胞のSNVs変異はそんなに簡単にはできないのよ。細胞1個のPCRは行われていませんね。
同様に既存登録SNPs上の培養過程におけるSNVもそうでない場所に発生したSNVsと同じ発生条件です。シャーレの中に沢山ないとPCRでSNVsとは判定しない。なぜならサンプル細胞は全体で判断されているからです。サンプルは1個の細胞ではありません。
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しかしながら理解できたのにも関わらず、相変わらず「FES1から、短期間で129/GFP ESになるという話とは結びつきません。」と言っています。この短期間というのは小保方氏が理研に在職した約2年間(Wikipedia 小保方晴子によると2011年4月から2013年2月まで)のことです。
2年間ずっと培養し続けられていた細胞サンプルは一つもない。どのサンプルがどの実験に使われてその間に何回凍解凍を繰り返されたかのそれぞれの記録は一つもない。これで松崎の論理では何を言えると思っているのか。
(2022/8/14)
ES 細胞 FES1 と FES2 でのみ異なる SNPs に関して、両者の遺伝的背景の相違によると 判断された上記第 6、第 11、第 12 染色体の SNPs クラスターを除外し、残った 1,290SNPs を用いて比較を行うと、STAP 幹細胞 FLS3、FI 幹細胞 CTS1、および、ES 細胞 129/GFP ES は同一細胞株といって良い程の高い類似性を示すことが判明した。従って、STAP 幹細胞 FLS3、FI 幹細胞 CTS1、および 129/GFP ES は同一の細胞由来であり、ES 細胞 FES1 と同 一、あるいはそれから派生した株の可能性が高い、と結論づけた。
1290SNPsは近交系マウスの登録SNPsなのか? 単なる培養中のSNVsなのか、定義してから述べろや。SNPsはSNVsの部分集合。登録SNPsはSNPsの部分集合。
SNVs > SNPs > 近交系マウスの登録SNPs
交差によって生じたコンタミ部分を除いたら25億対全体にある近交系マウスの登録SNPsの更なる培養変異を調べることになるが、培養変異は近交系マウスの登録SNPs以外の場所にも発生するるぞ。どうして近交系マウスの登録SNPsだけを調べているのだ。
もし、これらの細胞が論文に示されていた(129 x C57BL/6)F1 から作製された株で あるなら、これら 2 個所の欠失の両方、または片方が市販の 129 系統、C57BL/6 系統の いずれかに存在していなければならず、STAP 研究の行なわれた 2 年強という期間でこれ ら 2 個所の欠失が生ずることは考えにくい。従って、この結果は、これら 4 種類の細胞 が、論文に示されていた(129 x C57BL/6)F1 マウスから直接作製された株ではないこ とを明確に示している。
FESは作られて凍結されるまでに3か月しかない。その後凍結されたままだから、2年では欠失は生じないが2年3か月なら生じると言っていることになる。バカバカしい。
(2022/8/17)
お盆の後片付けで疲れたました。今年は身内に初盆もあって忙しかったですね。片づけながら息抜きに古代史の原稿をちょこちょこ進めていましたが、今、学ブログとため息ブログを覗いていますが、ひどいですね。何を言ってるのかわけがわかりません。エラく昔の話も持ち出したりして、今ごろそんなこと言ってるのという感慨です。ため息先生はボケが入ってきたのかな。それともバカ真似も堂に入ってくるほど自家薬籠中のものになったか。
学生HN氏がえらく長文でコメントしてますね。保存しておきましょう。どこまで保存してたのだったかも思い出せない。
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ため息先生=学HN氏は恐らく本当に分かってないのだと思いますね。
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この1,290SNPsが桂調査委員会のスライドの24,649 sites とどうちがうのでしょ?どっかで議論になったかと思うのですが、誰か教えてください。
これはその昔に私が本気で教えてもらいたくって一研究者ブログに問い合わせていた疑問ですね。懐かしいな。揚げ足取り指摘になりますが、以下は明らかに継代のブロトコルを知らない振りをして書いていますよね。この先生はネット検索なんてお手の物で継代の動画なんて探せばいくらでも出ますよね。とっくの昔に知っているはずです。
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当方は現実の細胞培養をしたことがないのでわかりません。机上の空論かもしれませんが、不均一な少数細胞を培養したら特定の塩基変異を持つ細胞ばかりなることがあるのでは?と言っています。
セミコンフルになったら、細胞数計測して、トリプシン処理し、更に懸濁して、遠心して細胞を集め、新たな培養液で希釈して一定濃度で再度シーディングする。ため息先生のおっしゃるようなシーディングなんてないでしょうに。動画を見たら一目で分かる。
以下なんてひどいですね。桂報告書と同じ嘘です。
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FES1からFLS1ができるまでは丸6年ですから小保方氏滞在中にできた可能性は十分あるでしょ。これが数ヶ月だったら、できないかも、しかし意図したらできるかな、とは思いますよ。
太田さんの細胞は6年間ずっと凍結されていてほとんど変異してない筈です。変異した株は4つとも所謂FLSですよね。これは様々な実験で凍結解凍が繰り返されている。太田さんの送ったFES1の中身は若山さんが、山梨大において、昔理研で最初に作った2011年のF1幹細胞株のソート株に入れ替えてます。
(2022/8/18)
学生HN氏の書き込みを校正していたら間違いに気づいた。40000個の中から5000個取り出すのを1/4と書いているのは1/8ですね。
ため息先生=学HN氏は、いつもは、ため息ブログ側が公式で正しい見解を提示し、小保方擁護を装った学ブログ側の方が支離滅裂な論理展開をして擁護側の非論理を際立たせるというスピン手法でしたが、今回は何故かとんでもなく逆になっています。
その原因は松崎の嘘にあるんですね。若山さんはもともとアクロシン入りのF1で実験を行っていたので、小保方さんに「僕のマウス」なんて渡していません。「僕のマウス」はコントロールESを作った時に初めて使われたF1です。
私はこの嘘がなぜつかれたのかに関してはヴァカンティ氏に対して後にキメラが出来たと言ったことをESコンタミしていたと言い訳できるように小保方さんに伏線情報として刷り込んでおいたのだと考えていました。小保方さんは日々ホテルに戻ると米国のヴァカンティラボにインターネットメールで日報を送信しています。若山さんはその情報がヴァカンティ氏の耳に入ることも知っている。
言うまでもありませんが、これは2012年の春から夏に向かう時期の話ですから、最初のネイチャー論文がリジェクトされた直後の時期です。後のSTAP事件後の話とは全く関係ありません。若山研とヴァカンティ研の間だけの話で、初期に他の人でこれを知っているのは西川さんと相沢さんだけでしたが、恐らく論文提出後でリジェクト前前後の4/24にヴァカンティ氏は米国特許の仮出願をした。このことも若山さんの耳に入っていて、また更に直後の4/27に若山さん本人の血液であるヒトの細胞を使った酸浴実験の事後承認のための倫理委員会の場で竹市さんがこの話を初めて耳にしたとされている。この会議には松崎も出席していたんですね。以下は若山さんの血液です。

FLSの4Nキメラが生まれたのはFLSの樹立確認後の20日後になる。増殖能確認継代を3回程度行うのに10日間として3月の初旬にはキメラは生まれている。この時にはキメラの雌雄はすぐには分かりませんが、適齢期になるまでの50日間には外見でも雌雄判断ができるようになる。この時までにFLSキメラが全部雄だということを若山さんは確認していることになる。
なぜなら、ジャームライントランスミッション実験に生殖能力の確認されている雌をメイティングさせないといけないですね。キメラはFLSの8ラインに対して26匹成育している。それぞれのラインの雄キメラに対して実験すると26匹の雌が必要ですが、ジャームライントランスミッションの有無は1つでもあれば証明終わりですから、どれだけのキメラに対してメイティングが行われたかは不明ですが、ただ8ライン全部にYesと表示されていますから少なくとも1ラインに対して1匹ずつの雌が必要であったことは理の当然です。若山さんはこのメイティングをするときに雌雄混合の酸浴細胞をただ培地誘導しただけでFLSが出来たとしているのですから、ここで変だと思わないとおかしいですよね。自分でわざわざ雌をあてがって交配させているのに全部に雌をあてがっている自分の行為がおかしいということに気づかないなんてことはないですよね。Article Extended Data Figure 8-jです。

この表は三誌論文にはありませんよ。なぜならこれは若山さんの幹細胞化の実験で、三誌リジェクトされた後に、ネイチャー誌に、この幹細胞化実験結果とともに二報同時再提出しようと提案されて小保方さんに渡されたデータなのです。小保方さんはこのデータを渡されるまでこの結果は知っていません。
4Nキメラというのは全身がドナー細胞ですから当然生殖細胞もドナーの性のままです。キメラが全部雄だということはFLS1~8までの株のそれぞれの細胞の全てが雄だということです。それぞれ12~46の総計228個の胚盤胞にインジェクトされている。全ラインの全細胞が雄なのです。小保方さんが渡したはずの雌雄混合の酸浴細胞はどこに消えたのでしょうかね。そして小保方さんのいずれかの細胞から作られたのかは判明してないが、2NキメラのGel写真はその細胞がT細胞由来だということを証明している。

このことによって少なくとも小保方酸浴細胞の核は使われているということになるわけです。受精卵ESでこんなものはできません。ESならリンパ球T細胞の核を使ったntESです。
このことは笹井さんも、丹羽さんも気づいていない。本来なら小保方さんも幹細胞化論文の原稿を書いている時に気づかないといけなかったと思いますが、キメラが出来てうれしいばっかりなんですね。当事者には気づきにくいことがあるんでしょうね。私の指摘を知ればあっと気づくはずですが、全員がキメラができていると信じ込んで論文を説得力あるものにしようと努力している心理的方向性がバイアスになっている。
論文発表後にとても早い理解を示したのは岡部さんでしたね。流石に専門家でその理解の早さにはさもあるべきと後々につくづく納得した半面、専門家を称してネット内で騒いでいる有名無名の所謂一般社会で揶揄するところのデベソどもの浅薄さにも呆れ果てましたね。これは質問しても当を得ませんからアッポだと即座に分かる。感想HNだとか香山某だとか、特に在米ポスドクHN糞野郎ですね。テラトーマを体内組織と圧着させたなんて言ってる下種です。
その客観的立場であるはずの岡部氏が気づきませんでしたからね。これは自分がやっている実験でないということが鋭さを失わさせるんですね。査読者程度の批判的目で見ても、雌雄混ぜている酸浴細胞からどうして雄の幹細胞しかできないのだと指摘した査読者はいませんでしたね。私なんか10年かかってやっと気づいた。私は素人ですが、これはおかしいと思ったから執念で追った結果です。でも専門家なら執念を以て追ったら即気づくはずです。誰も執念を以て追ってないのは、業界が若山さんを守ろうという空気に動いたからです。専門家も数いますから気づいている人は結構いると思いますが、声を上げないという空気が支配したということです。
専門家というのはどんな業界でも給料をもらって家族を養ってますから、その業界の指導層に逆らうためには生活の手段からその業界に依存しない方法を考えてからでないと個人的倫理観で逆らうことはできません。これは人類共通で、人間は協働で生きているので、協働のルールに縛られるのは当然なんですね。全体が間違ってるから一千万と言えども我行かんというときにはその組織を離れなければいけませんね。
まあ、そこまでするようなことなの? という判断が先にあるわけですから、この問題の専門家の中ではそういう人は出なかったということです。ただ、気づいてそのことに触れておいても困らないと思いますが、気づいたときにはもう政治決着していたということですよね。つまり気づきにくいことではあるんですね。
私はど素人なので分かるまでに時間がかかりますが、逆にこの業界の世話には一切なっていないので思考がフリーなんですね。やはり調査というのは第三者が行うべきなんですね。でも、第三者とは言えど私みたいなど素人では時間ばかりかかってらちが明かないから専門家を要請するとなると自然分かる人ということになって業界内になってしまうんですね。特に日本社会は空気の支配してしまいやすい、いわゆる易きに付く情弱な社会ですから、国家危機の時によく判断を間違えますよね。それでも今まで何とか滅亡を免れていたのは四方が海に守られているのと、流石に本当の危機が目前に迫ると情弱で無能な人々を押しのけて、まともな人が少しは出るんですね。大概死にそうなところまで追い込まれないとそうならないのがアングロサクソンと違うところですね。彼らは常に先を読んでます。つくづくたくましいわ。
話を戻すと、このことに若山さんが気づいているどころか自分で分かって行っていることなのか、又若山さん自身が本当に気づかないほど無能なのかというのは、彼がメイティング時におかしいと言ったのではなくて、キメラの子にGFPが半分しか来なかったと言ったことを考えてみると分かる。
この4Nキメラの実験は若山さん自身は桂調査に対して「戻し交配した」と言っている。戻し交配というのは一般的には親に掛け戻すことを言うのですが、若山さんはFLS作成時に「僕のマウス」を渡したと言っているのですから、親は129のCAG-GFPホモです。これをキメラとメイティングすると全部にGFPが来ます。メンデルの法則ですから誰でも分かる。ところが若山さんは小保方さんにGFPが半分しか来なかったと言ったのですから、この戻し交配の雌親にはGFPが挿入されていないということです。つまり市販の普通の129です。これでも系統が同じですから戻し交配と言っても矛盾はない。でも実験目的からは、別に「僕のマウス」の母親である129/Sv-CAG-GFP(ホモ)マウスでもよかったんですよね。半分にしか来なかったと言えるためにはGFPのない129マウスだとせざるを得ないということでもあり得ますよね。
そして、その結果として小保方さんにGFPが半分にしかこなかったことを"変"だと言ったのです。裏の意味は全部に来るのが当たり前なんだけどという意味ですから、キメラ側のGFPはホモであるはずなんだと小保方さんに情報提供したことになるんです。つまり「僕のマウス」を渡したはずなんだよという情報です。この情報が小保方さんに知らされた証拠はあります。サンプルのラベルです。
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103番 ES+/- (+/-:FLSがheteroだと判明していたので+/-と書いた可能性あり)
109番 129 GFP+/- 1 (FLSのことだろう(小保方) 自分で作成) <松崎2014/6/9持出後解析>
111番 129 GFP+/- 2 (FLSのことだろう)
114番 129 F1 GFP+/- 2 (FLSから。他人から受け取った記憶は今のところない・・・)
小保方さんの論文は全部ヘテロ認識です。B6側にGFPがあるという認識で書いている。

まして、2011年の最初のF1キメラは桂調査で129/Sv x B6GFPが正しいと証言している。ホモだったはずだという情報はこのジャームライントランスミッション実験結果の出た5月初頭に小保方さんに伝えられたんです。でも実際手記によれば若山さんは自分の交配ミスだったかもしれないと答えていますから、結論としてFLSのGFPはヘテロで正しいわけですから、小保方さんは論文は最後までヘテロなんです。
ではこの若山さんの「僕のマウス」だったはずなんだけどなあという情報は何のために小保方さんに知らせたのかということになる。ここでは事件化後の世間に対しての弁明は必要のない時点です。ですから私は若山さんがヴァカンティ氏が米国特許仮出願しましたので、いずれ1年内に、あれは事実ではないということを知らせないといけなくなるので、そのESコンタミさせてしまったという言い訳のために伏線として小保方さん経由でその可能性をヴァカンティ氏に伝えようとしておいたと読んだわけです。でもそれだけかなあという気もしていて、小保方さんに対してだけはヴァカンティ氏に知られないように真実を伝えたいと思っていろんなヒントを出しているのではないかとも疑うわけですね。
若山さんは桂調査に対して小保方さんはマウスに関しては何も知らないと伝えています。このころ若山さんは既に小保方さんを助手で来ないかと誘っていますから、自分の弟子にしようとしている人が無知のままであっては困るんですよね。何かいろいろと教えようとしていることを感じますね。特に事件化後の記者会見で小保方さんに呼びかけるように、いろんな先生の元で指導者を転々と変えていることに触れて、自分がとことん教えてやりたかったのにという未練が吐露されていると感じたのは私だけでしょうかね。はは。
事実は後の解析でもAcr-CAGのヘテロマウスです。ヘテロで正しい。まして、その後実験はヘテロ認識のまま続けられているんです。この後胎盤の光る話になってくる。この胎盤の光るマウスは切片が残されていて丹羽さんも確認しているのですが、丹羽さんが確認したのはFI-SCの胎盤のグラススライドではないか。これは若山さんから渡されたCTSの2Nキメラ胎盤の切片に小保方さんが理研に採用されて後にFI-SCと笹井さんによって命名された後にラベル記載したものでリストに存在している。

しかし、2012年当時の胎盤が光るとされたのは酸浴細胞キメラで、このACCsキメラの胎盤が光るとされた。その図が、Letter Extended Data Figure 1です。この1-aは小保方さんが胎盤が光ったとされる2012年3月頃の4Nキメラの胎盤蛍光証拠写真として掲載しているものですが、若山さんはこの写真は2011/11/28の4Nキメラの写真だと主張し、桂調査もPCにあるその日付を確認したと書いているものです。
リジェンドにはB6GFP x 129/Svと書かれていて、CAG-GFPだとされていますが、若山さんは129/Sv x B6GFP表記が正しいと証言しているので、なんだ、最初のF1はヘテロだったので「僕のマウス」ではなかったんじゃないかと知られたわけです。これも気づかない人が多かったですね。
しかし、問題は仮にそれが写真の取り違えだったとしても、b,cの切片写真はなんだということになる。

aが2011/11/28なら、胎盤が光ったのは翌年の話なのでb,cとは対応してないのは当然です。桃子本にはこの胎盤蛍光の時期は何時の事だったかは分からないとされていますが、手記にはこの時期が書かれていて、胎盤を渡されて、切片の確認を頼まれた時のすぐ後に若山さんは4月頃にはTS-like細胞への誘導実験を開始していたと書いているので、これが前年の事ではありえないんですね。すると、2012年のF1キメラ実験は129/B6とBDF1で行われていますから、このb,cはどちらかの胎盤切片の免染写真です。このグラススライドがリストには存在していないんですね。
ここが丹羽さんが見たのが本当にSTAPキメラの胎盤だったのかというところが分からないところで、桂会見でも桂がどこにあるのだと記者に問われてもぐもぐと分からない答弁をしていたところです。手記には「4Nキメラと呼ばれるサンプルのホルマリン漬けなどがなくなっていた。これが解析されていれば、STAP細胞としてキメラ実験に用いられていた細胞の由来が明確に分かったはずだった。」とのみ書かれているが、これも胎盤の光っているキメラではあるはずなので、対応する胎盤切片のグラススライドもなくなっていたのではないかとも思われる。小保方さんがこれに気づいたのは2014年の7月時点で、丹羽さんは2013年の1月に小保方さんのメンターになって直ぐに確認したと証言しているので、このときにFI-SCの胎盤を見たのでなかったのなら、STAPキメラ胎盤のスライドはあったはずで、それがb,cであるはずです。小保方さんはこの後3月に若山さんが山梨に移転したときにスライドグラスまで持ち去ったことに気づいていなかったのかもしれない。この辺りははっきりしないんですね。警察を入れないとね。
ともあれ、若山さんはジャームライントランスミッション結果でGFPが半分にしか来なかったんだぜと小保方さんに言う前に、その前のメイティングの時に出来たキメラは全部雄だったんだぜとどうして言わなかったのか。まだ以下の表は渡していませんよね。この表は三誌リジェクトされた後に渡された表です。これだけ見ても小保方さんは雌雄は分かりませんよね。我々は後の桂調査の検査結果でこの8ラインがすべて雄だと知らされ、その結果、この時のメイティングには若山さんは全てにメスをあてがったのだと気づいたわけです。若山さんだけが知り得たのです。桂報告書も気づいていませんよね。愚かにも若山さんと小保方さんに対して、GFPが半分に来なかったことを知ってどうしてこの時にもっと深く追求しなかったのだと二人を責めた。しかし、若山さんだけは雌しかあてがわなかったことによって、すべてのラインが雄だと知っていたということになるのですから、桂調査チームも又アッポだということが分かりますよね。

私も今、自分がアッポだということに気づきましたね。小保方さん、笹井さん、丹羽さん、岡部さん、そして査読者も含めて、少なくとも彼らは論文発表当時このことには気づけないんですね。FLS全株が雄だと判明したのは若山記者会見から桂報告書で確定して以降です。そもそもFLS全株が雄だと知っていたのは若山さんだけです。少なくとも全キメラに雌をメイティングしたときには既に知っていることになる。しかし、そもそも若山さんはFLSの元細胞が雄であることは事前に核型解析して知ってたんですよね。
(2022/8/15)-安倍元首相暗殺事件
一応今のところ捜査中だということですからね。警察トップの筋を通した引責辞任の件とともに、取り敢えず国民は結果発表を待っているということです。狙撃手による犯行の件は衣類の貫通孔の方向の鑑識発表があるまでは国民は解決したとは考えませんから、ただ、捜査の邪魔をしないように待っているだけですね。執刀医は心臓を縫合したと明確に語っていますから、その説明もないままで山上単独犯人説は確定しませんね。無論、山上が弾丸を発射したことは間違いありませんから、殺人、若しくは殺人未遂で死刑なり無期なりは当然ですが、事件としての解決とは関係ありません。もし有耶無耶にしたら国民はとことん警察と政府を追求することになりますね。
大事なことは山上以外に狙撃犯が居たのか居なかったのかということくらいは確定できるはずということです。数年かけても秘密裏に追い回すというなら別ですがね。犯人は既に国外逃亡しているでしょうからね。
(2022/8/17)-安倍元首相暗殺事件
屋上に警備がいたのなら山上の動きはキャッチして地上に連絡しているはずですから、何かの工事業者の可能性もある。業者なら確認できる。また、業者が仕事していたのなら狙撃犯は潜めないのではないか。これも全部確認可能。こういうことがあるから調査中ということなんでしょうね。
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(2022/8/12)-古代史
十四年(二〇九)
秋七月、浦上の八国が連合して加羅を侵略しようとした。加羅の王子が救援を求めてきたので、王は太子の干老と伊伐湌の利音とに命じ、六部の兵を率いて救援させた。[彼らは] 八国の軍隊を撃破し、その将軍を殺し、六千人を捕虜として連れ帰った。
十七年(二一二)
春三月、加耶は王子を人質として送ってきた。
十九年(二一四)
秋七月、百済が西部の腰車城を攻めて、城主の薛夫を殺した。王は伊伐湌の利音に命じて、精兵六千人ほ率いて、百済を討伐し、沙峴城(慶北聞慶郡籠岩面沙峴里か)をおとしいれた。
二十三年(二一八)
秋七月、武器庫の兵器がひとりでに出てきた。百済軍が侵入し、獐山城(慶北慶山郡)を包囲したので、王が自ら出陣し、百済軍を撃破・逃走させた。
二十七年(二二二)
冬十月、百済軍が牛頭州(江原道春川市)に侵入した。伊伐湌の忠萱が兵を率いて反撃し、熊谷まで攻めたが,賊軍に敗れ、単騎で帰ってきた。そのためしりぞけられて鎮主となった。[これにかわつて] 連珍を伊伐湌として、軍事の統轄をも兼務させた。
二十九年(二二四)
秋七月、伊伐湌の連珍は百済軍と烽山の麓で戦い、これを撃破し、一千余人を殺したり捕えたりした。
この時期はもう北部九州では卑弥呼が共立されているでしょうね。卑弥呼の遣魏使は景初二年(239年)六月の派遣だと魏志倭人条に書かれている。その後、翌正始元年(240年)に印綬され、その四年(243年)に再度遣魏し、六年(245年)には難升米が黄幢をもらう。国内での戦争ですね。八年(247年)に狗奴国と戦争していることを告げると張政が倭国に来てまた黄幢と檄文をもらう。
この辺りが谷川説では国譲りの戦争前の認識なんですね。天照大御神と素戔嗚命との争いで天照大御神が岩戸隠れされる。
魏志倭人条ではこの直後に「卑弥呼以て死す」という記載につながっている。張政はまだ倭国に居る。内部抗争があって後に卑弥呼の宗女である壱与が13歳で擁立される。
谷川説ではこれが邪馬台国後裔勢力ということになるわけです。これが50年後くらいに畿内先住勢力に対して国譲りを迫るという想定ですから、相手は狗奴国だと考えるのが自然ですねよ。ただし、ここは水野裕は狗奴国を熊襲だと考えていて、この熊襲が壱与の勢力を滅ばした後に畿内入りしてくるのだとしています。
張政はこの壱与の擁立を確認して後に、送られて帰国するんですから、247年からそんなに離れていてない年、つまり翌年(248年)位に卑弥呼が亡くなっているのではないかと推定されているわけです。
第十一代 助賁尼師今(在位二三〇-三二七)
三年(二三二)
夏四月、倭人が突然侵入して金城を包囲した。王が自ら城を出て戦ったので、賊軍は潰滅・逃走した。軽装の騎馬隊を派遣して賊軍を追撃し、一千余人を殺し捕えた。国境を犯した。
四年(二三三)
五月、倭軍が東部の国境を犯した。
秋七月、伊湌の于老が倭人と沙道で戦った。風向きをはかって火をつけ、[倭軍の] 舟を焼いた。賊兵は水に溺れてことごとく死んだ。
船に火をつけるのは、火箭と呼ばれる火矢の他に、薪を積んで火を付けた舟を群船に向けて送り込む戦い方が赤壁の戦いで有名です。三国志の知識ですからどうなんでしょうかね。後に書かれた書物なので文飾が入りますからね。
十一年(二四四)
百済が西部の国境地帯に侵入した。
十六年(二四五)
冬十月、高句麗が北部国境を犯したので、于老が軍隊を率いて出撃したが、勝てなかった。[于老は軍隊を] 馬頭柵(京畿道抱川郡抱川面か)まで退却させた。その夜は非常に寒かった。于老は士卒を労わり、自ら柴をたいて温めたので、人々は心から感謝した。
第十二代 沾解尼師今(在位二四七-二六一)
二年(二四八)
二月、高句麗に使者を派遣して講和を結ばせた。
三年(二四九)
夏四月、倭人が舒弗邯の于老を殺した。
九年(二五五)
秋九月、百済が侵入してきた。一伐湌の翊宗がこれを槐谷(忠北槐山郡槐山面)の西で迎えうったが、賊軍のために殺された。
冬十月、百済が烽山城を攻めたが、降伏しなかった。
十五年(二六一)
三月、百済が使者を派遣して講和を申し込んできたが、許さなかった。
この辺りの百済との戦いは「百済本紀」の記載と整合させてあります。この『三国史記』の互いに整合させている記事は金富軾が編纂しているのですから、どこか一国の古記録があれば相手国に同一の記載をするという操作をしている可能性があり、又、白村江の戦いに関して、金富軾は当時の高麗と日本との外交関係を配慮して意図的にその記事を書いていないのですが、それらの推定と記紀の記載から朝鮮側の古記録の元の姿を復元できるかもしれないのですが、今はそれは目的ではありません。
今、「新羅本紀」の検証を行っている目的は、言うまでもなく、仲哀天皇の崩御に関する記紀記載と、特にその古事記崩年干支註から水野裕がその絶対年代を割り出したのですから、ここが362年の事だと分かっていて、神功皇后の新羅征討記事がその直後だという論理から、対応する新羅本紀にその記載がないかと検証している。
まだ362年の近辺には到達していない。因みに古事記崩年干支註は仲哀天皇まで以下の三人の天皇さんにしか書き込まれていない。
崇神天皇 戊寅 318年
成務天皇 乙卯 355年
仲哀天皇 壬戌 362年
谷川は崇神天皇の畿内入りを想定していますから、論理として畿内入りする以前には邪馬台国後裔勢力として北部九州に居るという想定になっています。そして不比等と安万侶の時代の畿内政権を構成している天皇家と諸氏族の当時の先祖伝承記憶の共通した認識に天孫降臨説話が何らかの史実の神話化として共有されているのだということを記紀系譜と新撰姓氏録記載事項との照合から確認していますね。このことから記紀の国譲り神話は先住していた畿内勢力と北部九州からの崇神天皇の東遷勢力との戦いの神話化であると見做し得るわけです。
谷川はこの史実の実年代を呉の滅亡した280年から高句麗が楽浪郡を滅ぼした313年までの間だと見ているわけです。倭の女王の支那側の史書朝貢記録は晋の武帝の泰始二年(266年)が最後で、これはまだ卑弥呼が亡くなった248年前後に13歳であった壱与が31歳の年ですから、恐らくこの時はまだ邪馬台国後裔勢力の女王は壱与だったでしょうね。
天照大御神のモデルは卑弥呼ではなくて、卑弥呼が岩戸隠れした後に現れたこの壱与であろうという推定は以前からあります。無論卑弥呼の時代には横開きの扉のある横穴式石室などはありませんから、記紀の時代に当時の知識をもって潤色されているというのは当然ですね。
谷川が晋の武帝の泰始二年(266年)としている理由は良く分かりません。晋書のこの部分の記載は以下です。
>>
其家舊以男子為主漢末倭人亂功伐不定乃立女子為王名曰卑彌呼宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見其後貢聘不絶及文帝作相又數至泰始初遣使重譯入貢
漢文は切れ目がありませんから意味を取って区切っていく。
>>
其家舊以男子為主、漢末倭人亂功伐不定、乃立女子為王名曰卑彌呼、宣帝之平公孫氏也、其女王遣使、至帯方朝見、其後貢聘不絶、及文帝作相、又數至、泰始初遣使重譯入貢
その家、舊くは男子を以て主と為す。漢末、倭人亂れ、功伐して定らず。乃ち女子を立てて王と為す。名は卑彌呼と曰ふ。宣帝の公孫氏を平らぐや、その女王、遣使し、帯方に至りて朝見す。その後貢聘は絶えず、及ち文帝の相となるや、又數至る。泰始初、遣使し、譯を重ねて入貢す。
とあって二年と書かれているのを知らない。元年なら265年です。泰始年間なら265年から274年の間でその初めのどこかですが、司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて即位して年号を泰始と改めたのは265年の12月ですから、谷川は「泰始初」を翌年の事だと解して二年の266年としたのではないでしょうかね。晋は高祖宣帝(司馬懿)、景帝(司馬師:司馬懿の長男)、太祖文帝(司馬昭:司馬懿の二男)、世祖武帝(司馬炎:司馬昭の長男)の順で、武帝の時に魏を滅ぼしたわけです。
文帝が相国を受けたのは景元4年(263年)の10月です。従って壱与の朝貢は魏志倭人条の最後に張政を送った時の朝貢後、この文帝の時に何度も来たと書かれているわけです。そして最後がこの"泰始の初め"の遣使です。新羅ではこのころ味鄒尼師今(在位二六二-二八四)の時代でした。
第十三代 味鄒尼師今(在位二六二-二八四)
五年(二六六)
秋八月、百済が侵入して烽山城を攻撃したが、城主の直宣が壮士二百人を率いて、城を出て百済軍を襲撃し、これを敗走させた。王がこのことを聞き、[その戦勝を賞して] 直宣を一吉湌とし、[烽山城の士卒たちをも大いに褒賞した。
西晋も戦乱ですから半島も戦乱ですね。女王壱与の使いはこの百済を通って帯方郡に行くんですね。どういう時代かというのは想像力を働かせて置かないといけない。大陸、半島には騎馬の習慣がありますが、倭国にはまだ馬は入っていません。谷川説ではこの壱与の子孫が天孫降臨するわけです。船で乗り付けて上陸して戦う。海兵隊ですね。この降臨神話前後の物語中に馬は登場しませんね。古墳の上に馬の埴輪が置かれる時代ではないということです。
十一年(二七二)
冬十一月、百済が国境を犯した。
十七年(二七八)
冬十月、百済軍が侵入してきて槐谷城を包囲したので、波珍湌の正源に命じて、軍隊を率いてこれを撃退させた。
二十二年(二八三)
秋九月、百済が国境を犯した。
冬十月、百済軍が槐谷城を包囲したので、一吉湌の良質に軍隊を率いて防がせた。
第十四代 儒礼尼師今(在位二八四-二九八)
三年(二八六)
春正月、百済が使者を派遣して講和を求めてきた。
四年(二八七)
夏四月、倭人が一礼部を襲い、村々に火をつけて焼き払い、一千人もの人々を捕えて達去った。
北九州側の倭国が人を1000人も当時の小さい船にわざわざ乗せて連れ去って何に使うのかということも考えにくいことなので、これはやはり半島側に居る倭人で、伽耶諸国王たちとの契約で半島の鉄を掘っている人々ではないかと考えられる。鉱山には労働力が必要で、伽耶諸国も自国で採掘するのはそれだけ人手を割かないといけませんが、労働力は倭国側からも提供されていて、採掘権料として生産物の三割程度を渡していると推定している。これは漢の鉄の専売権が上がりの三割でしたからね。しかし、恐らくそれだけが原因ではなくて、新羅側からもこの地の鉄山を狙っていてしばしば伽耶に侵攻してきているのではないかと推定される。鉄の生産高が増加するにつけて新羅側からの侵攻頻度も高まっていくことになる。それを反撃していると推測される。
ここはまだ馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代です。百済と書かれているのは後の名を過去に及ぼしているだけです。高句麗が313年に楽浪・帯方郡を滅ぼしてから半島は高句麗と三韓から続く新羅・百済という三国時代に入ります。弁韓だけはまだ統一されず伽耶諸国として別に続いている。倭国はそこの王族との提携で鉄を採掘している。当初は僅かで徐々に生産力が上がってくる。倭の五王の時代には既に大量の鉄のインゴットが半島から移入されている。製鉄の燃料に何か革新が推定されるところです。もしかしたら大量の森林財をもつ倭国からの木炭が持ち込まれているかもしれませんね。もう一つの候補としては高句麗附近の石炭です。この辺りは結果から推測するだけで証拠らしきものもありません。
六年(二八九)
夏五月、倭兵が攻め寄せてくるとの情報で、船を修理し、兵器を修繕した。
ここも、弁韓の倭人の鉱山労働者たちが組織されて兵隊になっているのか、対馬の漁民である倭人なのか、列島のどこかの倭人なのかは分かりません。三国史記では倭人、倭兵、倭軍、倭国とかき分けていますが、その書き分け基準は一部を除いて明確ではないですね。
新羅の海岸線を襲う時にはどこの倭人でも船で攻め込んでくる。内陸でも国境線を接していますが、その附近での小競り合いは陸戦ですが、倭人は半島に長く住んでいたとしても基本倭国から派遣された鉱山労働者として働いていて騎馬戦は慣れないでしょうから、歩兵として伽耶の軍隊を援助しているだけではないでしょうか。倭人が本格的に攻め込むときには、どこにいる倭人であったしても、船で上陸してきますね。ですから、弁韓の倭人か、対馬の倭人か、邪馬台国の倭人か、出雲からの倭人かは分かりません。「倭兵が攻め寄せてくるとの情報で、船を修理」するのは倭人の戦いは船を乗り付けて急襲するのだと知られているからですよね。
九年(二九二)
夏六月、倭兵が沙道城を攻め陥そうとした。一吉湌の大谷に命じて、兵を率いて救援させ、この城を確保した。
十一年(二九四)
夏、倭兵が侵入して長峯城を攻めたが、勝てなかった。
十二年(二九五)
春、王は重臣たちに[次のように] いった。
倭人がしばしばわが国の城や村を襲うので、人々は安心して生活することができない。私は百済と共謀して、一時海上にでて、その国を攻撃しようと思うがどうであろうか。
舒弗邯の弘権は[次のように] 答えた。
わが国の人々は水上の戦いには慣れていません。危険を冒して遠征すれば、おそらくは思いがけない危険があるでしょう。まして百済は嘘が多く、その上つねにわが国の侵略を企画しております。おそらく[百済と] 共同で[倭侵略を] 謀議することは困難でしょう。
[これにたいし] 王は「よくわかった」といった。
ここまで「百済本紀」側に伽耶軍もしくは倭人との戦いは一切記載がない。これは南部で伽耶諸国と国境を接しているが、百済側が弁韓地域に侵入しないから反撃もない訳です。魏志倭人条で張政が邪馬台国に到った経路は、「從郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」ですから、「歴韓国」の韓国は馬韓の事で、その西海岸を通って「其北岸狗邪韓國」の金海周辺に来る。そこは倭国の北岸という認識です。
卑弥呼の朝貢遣使も同じルートを逆行するのです。ですから馬韓地域がどれほど昔から倭国と親しい関係であったかということが伺われるわけです。逆に新羅と近かったのは出雲の勢力であり、後にまさに仲哀天皇であり、そして更に後の雄略天皇が対峙した葛城襲津彦であることからして、天智天皇が白村江の戦いに導かれて行くことになる遠因を訪ねると、天皇家自体がまさに卑弥呼以来の天孫降臨勢力だということを暗示しているわけです。邪馬台国の時代からずっと反辰韓、親馬韓だということです。
第十五代 基臨尼師今(在位二九八-三一〇)
三年(三〇〇)
春正月、倭国と国使の交換をした。
三月、牛頭州に行幸し、太白山を遠くから祭った。楽浪・帯方二国が服属してきた。
この倭国は列島内の倭国です。北部九州に存命であれば壱与65歳前後で邪馬台国後裔勢力があり、神話的には出雲地方も含んだ形での畿内には先住勢力があるので、どちらの国かは分かりません。また、谷川説では崇神天皇が東遷して来たことになっていますが、この崇神天皇の崩年は318年で、何時畿内入りされたかは分かりませんので、早ければもう崇神政権であった可能性もある。分かりませんね。谷川は楽浪・帯方二郡の消滅した313年の頃だと見ているのではないでしょうかね。
因みに谷川も水野と同様に、狗奴国は熊襲・隼人の地域とみていますが、谷川は狗奴国が呉と提携していて、晋が呉を滅ぼした280年以降に力を失って邪馬台国後裔勢力と和睦したと推定している。対して、水野は北部九州で邪馬台国を倒した熊襲・隼人の勢力が東遷してきたのが仁徳天皇の勢力だと見做しているんですね。しかし、まだまだそんな事柄を論じられる場所には来ていません。
「楽浪・帯方二国の服属」と書いているのは晋が八王の乱で混乱しているので一部が百済側に助けを求めて帰属するんでしょうかね。正式には313年の高句麗の侵攻によって楽浪郡は消滅したという認識です。もっとも、高句麗本紀にはどう書かれているかというと、「冬十月、王は楽浪郡に侵入し、男女二千余人を捕虜とした。」とのみ書かれている。因みに高句麗好太王碑に書かれている404年の倭軍の侵攻も一切触れられていません。金富軾は碑文は読んでいます。とても政治外交的な配慮のある書物なんですね。半島と列島では地政学的な条件が違う。海に守られた列島では比較的客観的になんでも書いて置けますが、半島はどこから侵攻されるか分かりませんから、現在の政治状況も配慮せずに他国との過去の歴史を正直に書いていると侵攻の口実を与えることになって危ないんですね。比較的安全とは言え、日本書記にもある程度の配慮はあるんですね。これから追々そういうことにも触れて行くことになります。
十年(三〇七)
国号を新羅にもどした。
ここは新羅本紀の503年に正式に新羅という国名を定めたと書かれていて、その時の経緯として以前から自国の事を斯羅<シラ>、斯盧<シロ>と称していたと書かれているので、辰韓と呼ばれているのは支那側からの呼称ですから、時代の推移で支那の束縛から離れられるという意識が芽生えているのかもしれませんね。因みに楽浪・帯方郡というのは漢の時代から支那の政治支配を受けていますが、居住民の大半はもともとから半島に住んでいる人々です。支那人との混血は進んでいるでしょうけどね。こういうのは何人種とも言えないんですよね。いろんな人種が混じっている地域です。無論人種的には黄色人種で旧モンゴロイドと新モンゴロイドしかありませんけどね。これはこれからの時代はDNA解析が進んでくると徐々に判明してくるんでしょうね。文化の方はそれぞれ細かく分かれていて興亡がありますね。日本の半島文化は百済の影響が最も強くて、次が新羅の文化ですね。
高句麗からの渡来人は奈良時代に大磯に入植した高麗王若光の流れが東国の騎馬軍団を形成する馬の知識をもたらしているようですね。これが鎌倉武士団が元寇を押し戻した時の力になる。元寇の軍勢にはモンゴルに支配されて駆り出された高麗人もいましたから皮肉な結果ではありますね。彼らは馬は運んだが博多上陸では使えなかったようです。
第十六代 訖解尼師今(在位三一〇-三五六)
三年(三一二)
春三月、倭国王が使者を派遣して、王子の花嫁を求めてきたので、阿湌の急利の娘を[王子の花嫁として] 倭国に送った。
312年は崇神天皇の治世です。東遷の前後は分かりませんが、ここで書かれている倭国王が崇神天皇なら王子は以下の6人が古事記系譜に書き残されている。
>>
豊木入日子命***上毛野、下毛野君等之祖也
大入杵命***能登臣之祖也
八坂之入日子命
伊玖米入日子伊沙知命
伊邪能真若命
倭日子命***此王之時始而於陵立人垣
この中で伊玖米入日子伊沙知命は垂仁天皇ですから皇統譜が繋がっていてお后は以下の6人で韓姫ではありません。
>>
丹波比古多多須美知宇斯王女氷羽州比賣命
氷羽州比賣命弟沼羽田之入毘賣命
氷羽州比賣命弟阿邪美野伊理毘賣命
大筒木垂根王女迦具夜比賣命
山代大国之淵女刈羽田刀弁
刈羽田刀弁弟刈羽田刀弁
二十八年(三三七)
春二月、使者を派遣して百済を訪問させた。
三十五年(三四四)
春二月、倭国が使者を派遣して、花嫁を求めてきたが、娘はすでに嫁にいったとして辞退した。
三十六年(三四五)
二月、倭王が国書を送ってきて、国交を断絶した。
再度の花嫁要請の344年は恐らく垂仁天皇の時代に対応しているんでしょうね。ただ、水野裕は垂仁天皇は崇神天皇の分身だと書いている。これは仁徳天皇の難波入り新王朝樹立という想定をしているので、その推測の前提では崇神・垂仁の間はただ、イリヒコ・イリヒメ時代として一体化してとらえているんですね。ここは古事記系譜をあまり慎重には解析出来てないんですね。井上光貞は崇神318年崩御の水野説は採用していませんが、歴代天皇さんの和風諡号の解析は水野説に立っていて、景行・仲哀は存在しないとしているんですね。二代変だと感じている。ここは私は並列系譜が縦に繋がれているのだと推測したところですが、世代数にずれがある指摘は同じ感覚があるんですね。再掲しておきましょう。
>>
01世代 アマテラス
02世代 オシホミミ
03世代 ニニギ
04世代 山幸彦
05世代 フキアヘズ 大物主神、娶陶津耳命之女活玉依毘賣
06世代 神武 懿徳 孝霊 櫛御方命
アマテラス 07世代 綏靖 孝昭 孝元 飯肩巣見命
オシホミミ 08世代 安寧 孝安 開化 建甕槌命 意富比垝(オホヒコ)
ニニギ 15世代 祟神318 景行 意富多多泥古 多加利足尼(タカリノスクネ)
山幸彦 18世代 成務355 日本武尊 吾田片隅命 弖已加利獲居(テヨカリワケ)
フキアヘズ 19世代 仲哀362 大賀茂足尼 多加披次獲居(タカハシワケ)
神武 20世代 応神394 多沙鬼獲居(タサキワケ)
21世代 仁徳427 半弖比(ハテヒ)
22世代 允恭454 加差披余(カサハヤ)
23世代 雄略489 乎獲居臣(ヲワケ)
300年の国使の交換から45年経過して突然断交通知です。垂仁天皇か成務天皇の時代です。半島は三国時代です。新羅国が建国されている。その新羅の国に対して倭国が断交通知を送っているんです。そして翌年に攻め込んだ。
三十七年(三四六)
倭軍が突然風島(不明)を襲い、辺境地帯を掠め犯した。[倭軍は] さらに進んで金城を包囲し、はげしく攻めた。王は城を出て戦おうとしたが、伊伐湌の康世が、
賊軍は遠くからやってきて、そのほこ先はあたるべからざるものがあります。賊軍[の我が軍に対するあたり] をゆるめさせるのがよく、その軍の疲れを待ちたい。
と言った。王はこれをよしとして、門を閉じて兵を出さなかった。賊軍は食糧がなくなり、退却しようとしたので、康世に命じて、精鋭な騎馬隊を率いて追撃し、これを敗走させた。
これが神功皇后の新羅征討の前哨戦ですね。金城というのは今の慶州ですから新羅の首都です。ここを国交断絶通知を送ってから襲っていますから、これは流石に倭国の正規軍ですね。ただし、この倭軍が列島内のどういう勢力かが分かってないんです。恐らくは北部九州の勢力で反新羅勢力であることは間違いありませんが、この勢力が畿内の政権と連動しているのか、或いは又外交方針をめぐる争いで国内が分裂しているのかが分からないわけです。
谷川東遷説のストーリー展開は崇神政権の樹立で終了していて、この後は物部氏の東方四散を追って、奥州阿部氏にまで考察を及ばせていくのですが、肝心の畿内のその後に関して続編が遂に出なかったんですね。
第十七代 奈勿尼師今(在位三五六-四〇二)
九年(三六四)
夏四月。倭兵が大挙して侵入してきた。王はこの報告を聞いて、[倭軍の勢力に] 対抗できないことを考慮して、草人形を数千個作り、それに衣をきせ、兵器をもたせて、吐含山の麓にならべ、勇士一千人を斧峴(未詳。慶州市南東部か)の東の野に伏せておいた。倭軍は数をたのんでまっしぐらに進撃してきたので、伏兵を出動させて倭軍に不意うちをかけた。倭軍が大敗して逃走したので、追撃して倭兵をほとんどすべて殺した。
ようやく到着しました。神功皇后が新羅征討に出陣されたのは水野絶対年代の363年です。
ここからもう一度神功記に戻ります。再掲します。
>>
帶中日子天皇、坐穴門之豐浦宮、及筑紫訶志比宮、治天下也。此天皇、娶大江王之女、大中津比賣命、生御子、香坂王。忍熊王。二柱。又娶息長帶比賣命、是大后。生御子、品夜和氣命。次大鞆和氣命。亦名品陀和氣命。二柱。此太子之御名、所以負大鞆和氣命者、初所生時、如鞆宍生御腕。故、著其御名。是以知坐腹中國也。此之御世、定淡道之屯家也。
其大后息長帶日賣命者、當時歸神。故、天皇坐筑紫之訶志比宮、將擊熊曾國之時、天皇控御琴而、建內宿禰大臣居於沙庭、請神之命。於是大后歸神、言教覺詔者、西方有國。金銀爲本、目之炎耀、種種珍寶、多在其國。吾今歸賜其國。爾天皇答白、登高地見西方者、不見國土、唯有大海。謂爲詐神而、押退御琴不控、默坐。
爾其神大忿詔、凡茲天下者、汝非應知國。汝者向一道。於是建內宿禰大臣白、恐我天皇、猶阿蘇婆勢其大御琴。自阿至勢以音。爾稍取依其御琴而、那摩那摩邇 此五字以音。 控坐。故、未幾久而、不聞御琴之音、卽擧火見者、既崩訖。爾驚懼而、坐殯宮、更取國之大奴佐而、奴佐二字以音。種種求生剥、逆剥、阿離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鷄婚之罪類、爲國之大祓而、亦建內宿禰居於沙庭、請神之命。
於是教覺之狀、具如先日、凡此國者、坐汝命御腹之御子、所知國者也。爾建內宿禰白、恐我大神、坐其神腹之御子、何子歟。答詔男子也。爾具請之、今如此言教之大神者、欲知其御名。卽答詔、是天照大神之御心者。亦底筒男、中筒男、上筒男、三柱大神者也。此時其三柱大神之御名者顯也。今寔思求其國者、於天神地祇、亦山神及河海之諸神、悉奉幣帛、我之御魂、坐于船上而、眞木灰納瓠、亦箸及比羅傳 此三字以音。多作、皆皆散浮大海以可度。
故、備如教覺、整軍雙船、度幸之時、海原之魚、不問大小、悉負御船而渡。爾順風大起、御船從浪。故、其御船之波瀾、押騰新羅之國、既到半國。於是其國王畏惶奏言、自今以後、隨天皇命而、爲御馬甘、毎年雙船、不乾船腹、不乾柂檝、共與天地、無退仕奉。故是以新羅國者、定御馬甘、百濟國者、定渡屯家。爾以其御杖、衝立新羅國主之門、卽以墨江大神之荒御魂、爲國守神而祭鎭、還渡也。
故、其政未竟之間、其懷妊臨產。卽爲鎭御腹、取石以纒御裳之腰而、渡筑紫國、其御子者阿禮坐。阿禮二字以音。故、號其御子生地謂宇美也。亦所纒其御裳之石者、在筑紫國之伊斗村也。亦到坐筑紫末羅縣之玉嶋里而、御食其河邊之時、當四月之上旬。爾坐其河中之礒、拔取御裳之糸、以飯粒爲餌、釣其河之年魚。其河名謂小河、亦其礒名謂勝門比賣也。故、四月上旬之時、女人拔裳糸、以粒爲餌、釣年魚、至于今不絶也。
帶中日子天皇、穴門の豐浦宮、及筑紫の訶志比宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、大江王の女、大中津比賣命を娶して、生みませる御子、香坂王。忍熊王。二柱。又息長帶比賣命、是は大后なり。を娶して、生みませる御子、品夜和氣命。次に大鞆和氣命。亦の名は品陀和氣命。二柱。此の太子の御名、大鞆和氣命と負せる所以は、初めて生れましし時、鞆の如は宍、御腕に生りき。故、其の御名に著けき。是を以ちて腹に坐して國に中りたまひしを知りぬ。此の御世に、淡道の屯家を定めたまひき。
其の大后息長帶日賣命は、當時神を歸せまたまひき。故、天皇筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曾國を擊たむとしたまひし時、天皇御琴を控かして、建內宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひき。是に大后神を歸せたまひて、言教へ覺し詔りたまひしく、「西の方に國有り。金銀を本と爲て、目の炎耀く、種種の珍しき寶、多に其の國に在り。吾今其の國を歸せ賜はむ。」とのりたまひき。爾に天皇答へて白したまひしく、「高き地に登りて西の方を見れば、國土は見えず。唯大海のみ有り。」とのりたまひて、詐を爲す神と謂ひて、御琴を押し退けて控きたまはず、默して坐しき。爾に其の神、大く忿りて詔りたまひしく、「凡そ茲の天の下は、汝の知らすべき國に非ず。汝は一道に向ひたまへ。」とのりたまひき。是に建內宿禰大臣白しけらく、「恐し、我が天皇、猶其の大御琴阿蘇婆勢。阿より勢までは音を以ゐよ。」とまをしき。爾に稍に其の御琴を取り依せて、那摩那摩邇 此の五字は音を以ゐよ。控き坐しき。故、幾久もあらずて、御琴の音聞えざりき。卽ち火を擧げて見れば、既に崩りたまひぬ。爾に驚き懼ぢて、殯宮に坐せて、更に國の大奴佐を取りて、奴佐の二字は音を以ゐよ。生剥、逆剥、阿離、溝埋、屎戸、上通下通婚、馬婚、牛婚、鷄婚の罪の類を種種求ぎて、國の大祓を爲て、亦建內宿禰於沙庭に居て、神の命を請ひき。是に教へ覺したまふ之狀、具さに先の日の如くにして、「凡そ此の國は、汝命の御腹に坐す御子の知らさむ國なり。」とさとしたまひき。爾に建內宿禰、「恐し、我が大神、其の神の腹に坐す御子は、何れの御子ぞや。」と白せば、「男子ぞ」と答へて詔りたまひき。爾に具さに請ひけらく、「今如此言教へたまふ大神は、其の御名を知らまく欲し。」とこへば、卽ち答へて詔りたまひしく、「是は天照大神の御心ぞ。亦底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神ぞ。此の時に其の三柱の大神の御名は顯れき。今寔に其の國を求めむと思ほさば、天神地祇、亦山神及河海の諸の神に、悉に幣帛を奉り、我が御魂を于船の上に坐せて、眞木の灰を瓠に納れ、亦箸及比羅傳 此の三字は音を以ゐよ。を多に作りて、皆皆大海に散らし浮かべて度りますべし。」とのりたまひき。
故、備さに教へ覺したまひしく如くにして、軍を整へ船雙めて度り幸でましし時、海原の魚、大き小さきを問はず、悉に御船を負ひて渡りき。爾に順風大く起りて、御船浪の從にゆきき。故、其の御船の波瀾、新羅の國に押し騰りて、既に國半に到りき。是に其の國王、畏惶みて奏言しけらく、「今より以後は、天皇の命の隨に、御馬甘と爲て、年毎に船雙めて、船腹乾さず、檝不乾さず、天地の共與、退むこと無く仕へ奉らむ。」とまをしき。故是を以ちて新羅國は、御馬甘と定め、百濟國は、渡の屯家と定めたまひき。爾に其の御杖を、新羅の國主の門に衝き立てて、卽ち墨江大神の荒御魂を、國守ります神と爲て祭り鎭めて還り渡りたまひき。
故、其の政未だ竟へざりし間に、其の懷妊みたまふが產れまさむとしき。卽ち御腹を鎭めたまはむと爲て、石を取りて御裳の腰に纒かして、筑紫國に渡りまして、其の御子は阿禮坐しつ。阿禮の二字は音を以ゐよ。故、其の御子の生れましし地を號けて宇美と謂ふ。亦其の御裳に纒きたまひし石は、筑紫國の伊斗村に在り。亦筑紫の末羅縣の玉嶋里に到り坐して、其の河の邊に御食したまひし時、四月の上旬に當りき。爾に其の河中の礒に坐して、御裳の糸を拔き取り、飯粒を餌に爲て、其の河の年魚。其の河の名を小河と謂ふ。亦其の礒の名を勝門比賣と謂ふ。を釣りたまひき。故、四月の上旬の時、女人、裳の糸を拔き、粒を餌に爲て、年魚を釣ること、今に至るまで絶えず。
古事記の中では突然ですが仲哀天皇は、穴門の豐浦宮、筑紫の訶志比宮で「天の下治らしめしき」と書れているので畿内の天皇さんではないのかとも受け止められる。無論日本書紀では畿内から熊襲征伐のために遠征してきているストーリーになっていて、仲哀天皇さんはこの地で神の怒りに触れて亡くなっていますから、水野裕は熊襲に敗れて勝った熊襲の勢力が畿内に攻め上ってきたのが仁徳朝だと主張しているんですね。
(2022/8/13)-学ブログ
学生HN氏がまた書き込んでますね。
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学さんへ
まず、リファレンスゲノムはワイルドタイプですよ。そこに登録SNPsの位置と塩基種で比較が行われる。
次にBCAの書き手のアカウンタビリティの欠如があって何が行われたのかの説明がない。
次ぎに、途中から登録SNPsの話が登録SNPsを含む全塩基の培養変異による更なるSNVsの話にすり替えられて、
最後にFES1とFES2との違いの話であるかのように説明される、と言うことです。虚偽?
次にBCAの書き手のアカウンタビリティの欠如があって何が行われたのかの説明がない。
次ぎに、途中から登録SNPsの話が登録SNPsを含む全塩基の培養変異による更なるSNVsの話にすり替えられて、
最後にFES1とFES2との違いの話であるかのように説明される、と言うことです。虚偽?
2022/08/13 URL 編集
何の話からの繋がりなのかが追えませんが、例によってなんかまだアップされてない書き込みがあるのかな。それにしても学ブログで今行われている議論は支離滅裂で、昔のバ感想だとかLの話が入り乱れてますね。
学生HN氏の言ってる内容は<海賊版翻訳 BCA論文1>で今書いている途中の話ですね。尤もこれは既に以前<整理 BCA報告書の虚偽>の中で論じてはいますけどね。
ため息ブログには一度消して又アップし直したらしいことが書かれている。学HN=ため息先生のところは盆前だというのに忙しくないのかなあ。
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①「リファレンスゲノム」というのはBCA論文のSUPPLEMENTARY INFORMATION に書かれているGRCm38 (mm10) mouse reference genome のことを言ってるんでしょうね。基準ゲノムが無いとリードをアラインさせることができない。
②「登録SNPsの位置と塩基種」と言ってるのは129とB6の登録SNPsのことですよね。
③「書き手のアカウンタビリティの欠如」というのには、思わず笑ってしまうが、松崎の事を揶揄しているんだね。この論文の文責は松崎だとContributionsに書かれている。嘘ついてるから他者にちゃんと分かるようには説明できないだろうと皮肉ってる訳ですね。
④「登録SNPsの話が登録SNPsを含む全塩基の培養変異による更なるSNVsの話にすり替えられて」いるというところは、最初は岡部マウスにある129の飛び込み痕跡の話だったのに、いつの間にか、その箇所を取り除いた部分の培養変異の話になっていて、それをどうやって調べたのかという具体的説明がまったくないことと、培養皿内の無数の細胞のDNAを一部取り出してそれを全部断片にバラシて増幅した後にアラインしたときにそのSNVsとして認識されたものの意味の定義がどこにも書かれていないことと、その後の継代でどこにどういう蓄積をするのかという経路想定も示されてないこと、そもそもFES1とされて分析されているサンプルの中身がFLSの元細胞でないという証明もないことと合わせて、一体お前らはどういう戯言を吐こうとしているのだと言いたいんでしょうな。がははははは。これ、僕が今から書こうと思っていることじゃないか。
⑤「最後にFES1とFES2との違いの話であるかのように説明される」と書いているところは実際には最初に唐突にそう書き出されるわけですよね。
⑥「虚偽?」という部分は私の<整理 BCA報告書の虚偽>を暗示していないか。
これDORAさんの悪戯でしょう。そのうち又「金髪美女」さんが登場してくるのではないかな。それとも「ワトソン」氏かな。
学HN=ため息先生は多分本当にはこのBCA論文の意味が分かってない臭いですね。どちらも頓珍漢な対話になっていてこの件に関してはため息先生は本来正しいことを言わないといけないんですが、言えてませんね。なぜ言えないかというと、正しいことが書かれてないからですよね。
みんなで書かれていることの実験が何であったかを想定し合って侃々諤々やってる。変だと思わないのかなあ。論文って分かるように書かれているべきものでしょうに。なんで想定しなきゃいけないのだ。書かれてないからだよ。馬鹿な論文です。書かれていれば書かれていることが理解できなければ調べればいい。でも書かれてないでしょ。必要とされるべき論理がないのよ。出鱈目書いてる。
それとマウスのDNAの総塩基対は24、5億レヴェルですよね。学ブログに書かれた3億塩基なんてどこの教科書に書かれているのよ。ため息ブログもひどいですね。
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何回も言っていますが、細胞を増殖させて培養したわけですが、その変化のスピードは培養条件によって異なるから、桂調査委員会でも議論ができない、議論していないのです。
それ以前に増殖した数万個の細胞の一つずつはシャーレの中で仮にあってもそれぞれ別の箇所にSNVが出来るんですよ。PCRに掛ける時その中から何百個分かの細胞を採取してDNAを断片に切断しますが、仮に一個一個の細胞が全部違う箇所にSNVを持っているか、何も持っていないかの状態だとこの検体にはSNVsは無いと判定されるのよ。これは近交系マウスのSNPsと違います。近交系マウスのSNPsは全細胞が持っているからSNPsと判定できるんです。全リードがその場所にアラインされる。数百の中の1個の細胞のSNVはSNV判定されません。少なくとも相当数がその同じSNVを持ってないとSNVと定義されない。ではそんなSNVが増殖中にその細胞だけが増える人為がどういう風に入るかと考えれば継代の時にたまたまそのSNVのある増殖細胞集団部分をシードすることが続いた時です。これは次の継代までにもっと増えていても、逆にその継代時にシードされなかったら消えてしまう。だから培養細胞のSNVs変異はそんなに簡単にはできないのよ。細胞1個のPCRは行われていませんね。
同様に既存登録SNPs上の培養過程におけるSNVもそうでない場所に発生したSNVsと同じ発生条件です。シャーレの中に沢山ないとPCRでSNVsとは判定しない。なぜならサンプル細胞は全体で判断されているからです。サンプルは1個の細胞ではありません。
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しかしながら理解できたのにも関わらず、相変わらず「FES1から、短期間で129/GFP ESになるという話とは結びつきません。」と言っています。この短期間というのは小保方氏が理研に在職した約2年間(Wikipedia 小保方晴子によると2011年4月から2013年2月まで)のことです。
2年間ずっと培養し続けられていた細胞サンプルは一つもない。どのサンプルがどの実験に使われてその間に何回凍解凍を繰り返されたかのそれぞれの記録は一つもない。これで松崎の論理では何を言えると思っているのか。
(2022/8/14)
ES 細胞 FES1 と FES2 でのみ異なる SNPs に関して、両者の遺伝的背景の相違によると 判断された上記第 6、第 11、第 12 染色体の SNPs クラスターを除外し、残った 1,290SNPs を用いて比較を行うと、STAP 幹細胞 FLS3、FI 幹細胞 CTS1、および、ES 細胞 129/GFP ES は同一細胞株といって良い程の高い類似性を示すことが判明した。従って、STAP 幹細胞 FLS3、FI 幹細胞 CTS1、および 129/GFP ES は同一の細胞由来であり、ES 細胞 FES1 と同 一、あるいはそれから派生した株の可能性が高い、と結論づけた。
1290SNPsは近交系マウスの登録SNPsなのか? 単なる培養中のSNVsなのか、定義してから述べろや。SNPsはSNVsの部分集合。登録SNPsはSNPsの部分集合。
SNVs > SNPs > 近交系マウスの登録SNPs
交差によって生じたコンタミ部分を除いたら25億対全体にある近交系マウスの登録SNPsの更なる培養変異を調べることになるが、培養変異は近交系マウスの登録SNPs以外の場所にも発生するるぞ。どうして近交系マウスの登録SNPsだけを調べているのだ。
もし、これらの細胞が論文に示されていた(129 x C57BL/6)F1 から作製された株で あるなら、これら 2 個所の欠失の両方、または片方が市販の 129 系統、C57BL/6 系統の いずれかに存在していなければならず、STAP 研究の行なわれた 2 年強という期間でこれ ら 2 個所の欠失が生ずることは考えにくい。従って、この結果は、これら 4 種類の細胞 が、論文に示されていた(129 x C57BL/6)F1 マウスから直接作製された株ではないこ とを明確に示している。
FESは作られて凍結されるまでに3か月しかない。その後凍結されたままだから、2年では欠失は生じないが2年3か月なら生じると言っていることになる。バカバカしい。
(2022/8/17)
お盆の後片付けで疲れたました。今年は身内に初盆もあって忙しかったですね。片づけながら息抜きに古代史の原稿をちょこちょこ進めていましたが、今、学ブログとため息ブログを覗いていますが、ひどいですね。何を言ってるのかわけがわかりません。エラく昔の話も持ち出したりして、今ごろそんなこと言ってるのという感慨です。ため息先生はボケが入ってきたのかな。それともバカ真似も堂に入ってくるほど自家薬籠中のものになったか。
学生HN氏がえらく長文でコメントしてますね。保存しておきましょう。どこまで保存してたのだったかも思い出せない。
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学さんへ
ため息さんの1から6に至る図は全くの間違いです。
作製された細胞ストックは多数個の細胞のまま凍結されています。
これを解凍させて細胞を起こしたら、一部を必ずまた凍結保存します。これがオリジナルの株です。長く継代させていると全体の細胞の性質が変化してしまうので、早めにオリジナル株の凍結保存を行います。それ以外のサブストックも幾つか凍結保存しておきます。実験にはこのサブストック株を解凍継代培養しますが、解凍後の実験で長期間培養された細胞は通常、性質変化を調べるための目的がない場合は、実験後廃棄します。別の実験にはまた別のサブストックを使います。
全て終わった時にはオリジナルの凍結サンプルラインが幾つか残されるだけです。
作製された細胞ストックは多数個の細胞のまま凍結されています。
これを解凍させて細胞を起こしたら、一部を必ずまた凍結保存します。これがオリジナルの株です。長く継代させていると全体の細胞の性質が変化してしまうので、早めにオリジナル株の凍結保存を行います。それ以外のサブストックも幾つか凍結保存しておきます。実験にはこのサブストック株を解凍継代培養しますが、解凍後の実験で長期間培養された細胞は通常、性質変化を調べるための目的がない場合は、実験後廃棄します。別の実験にはまた別のサブストックを使います。
全て終わった時にはオリジナルの凍結サンプルラインが幾つか残されるだけです。
学さんへ
3種のSNVを一つづつ持つ3個の細胞を一万から数千個の何もSNVのない正常な細胞の中から3個同時にシードしてくる不可能にため息さんはまだお気づきでないようです。それにそもそも一個づつからの培養などはSTAP実験では行われていないし、そんな必要もないからですね。
キメラが造られた細胞は受精卵ESとntESの両方を含めた定義でES細胞です。小保方さんの作った酸浴細胞は雌雄混合ですが、雌雄混合の4Nキメラも雌雄混合のSTAP幹細胞もないですから、今存在している幹細胞は受精卵ESとntESの両方を含めた定義でのES細胞なのです。
ES細胞株は雄であるか、さもなければ雌です。作製時に雌雄混ざったES細胞株などはありません。勿論雌雄別々の二つのES細胞株を混ぜれば別ですが、そんな事をする意味もありませんし、実際そんな実験は行われてはいません。
キメラが造られた細胞は受精卵ESとntESの両方を含めた定義でES細胞です。小保方さんの作った酸浴細胞は雌雄混合ですが、雌雄混合の4Nキメラも雌雄混合のSTAP幹細胞もないですから、今存在している幹細胞は受精卵ESとntESの両方を含めた定義でのES細胞なのです。
ES細胞株は雄であるか、さもなければ雌です。作製時に雌雄混ざったES細胞株などはありません。勿論雌雄別々の二つのES細胞株を混ぜれば別ですが、そんな事をする意味もありませんし、実際そんな実験は行われてはいません。
学さんへ
ため息さんはまだお分かりにならないようです。
1個の細胞のどの部位にSNVができ得るかの確率は25億分の1です。同じ部位に出来る確率はとても低い。
次ぎに培養皿の中に5000個の細胞があるとする。この中でほぼ24時間の1細胞周期でSNVが発生する確率を0.1%程度とする。細胞数の倍増する時にコピーミスが起きるのですから、24時間後には総数10000個に対して、それぞれ異なる場所にある5種のSNVを持つ5個の細胞ができる。
48時間後には、総数20000個に対して、それぞれ異なる場所にある10種のSNVを持つ10個の新たな細胞ができ、一日目にあった5個の細胞はそれぞれ2個づつになっているので10個ある。
62時間後には、総数40000個に対して、それぞれ異なる場所にある20種のSNVを持つ20個の新たな細胞ができ、一日目にできていた5個の細胞はそれぞれ4個づつになっているので20個あり、二日目にあった10個の細胞はそれぞれ2個づつになっているので20個ある。
この三日目にサブコンフルになるので植え継ぐんです。全体で40000個の中にほぼ35種のサイトにできたSNVを持つ60個の細胞が含まれている。植え継ぎは元の5000個に戻しますから、1/4になる。均等に混濁液を混ぜていれば、5000個の細胞の中にはそれぞれ異なる場所にある12~13種のSNVを持つ15個の細胞が含まれている。
継代されたらその状態から又3回の細胞サイクルを繰り返す。更に2回目の継代も同じです。
しかし、このあたりまでに、まずオリジナル株は凍結されます。凍結されたら更なる変異は発生しません。又この事例で、継代するときに5000個選ばれた培養皿は4つ作成出来る。その内の2つはオリジナルと同様に凍結されます。サブラインです。1つだけが実験に使われる。ここからは実験の種類によってどのサブラインがどれだけ継代されたかは異なるんです。
又この細胞をPCRに掛けて調べる時にも混濁液が均等に混ぜられていたと仮定しても、含まれている細胞に方よりがでます。ですから、BCA報告書の解析と言うのは4つの細胞が一つの細胞からの株分け細胞だと言う以外には何も言えてないのです。
1個の細胞のどの部位にSNVができ得るかの確率は25億分の1です。同じ部位に出来る確率はとても低い。
次ぎに培養皿の中に5000個の細胞があるとする。この中でほぼ24時間の1細胞周期でSNVが発生する確率を0.1%程度とする。細胞数の倍増する時にコピーミスが起きるのですから、24時間後には総数10000個に対して、それぞれ異なる場所にある5種のSNVを持つ5個の細胞ができる。
48時間後には、総数20000個に対して、それぞれ異なる場所にある10種のSNVを持つ10個の新たな細胞ができ、一日目にあった5個の細胞はそれぞれ2個づつになっているので10個ある。
62時間後には、総数40000個に対して、それぞれ異なる場所にある20種のSNVを持つ20個の新たな細胞ができ、一日目にできていた5個の細胞はそれぞれ4個づつになっているので20個あり、二日目にあった10個の細胞はそれぞれ2個づつになっているので20個ある。
この三日目にサブコンフルになるので植え継ぐんです。全体で40000個の中にほぼ35種のサイトにできたSNVを持つ60個の細胞が含まれている。植え継ぎは元の5000個に戻しますから、1/4になる。均等に混濁液を混ぜていれば、5000個の細胞の中にはそれぞれ異なる場所にある12~13種のSNVを持つ15個の細胞が含まれている。
継代されたらその状態から又3回の細胞サイクルを繰り返す。更に2回目の継代も同じです。
しかし、このあたりまでに、まずオリジナル株は凍結されます。凍結されたら更なる変異は発生しません。又この事例で、継代するときに5000個選ばれた培養皿は4つ作成出来る。その内の2つはオリジナルと同様に凍結されます。サブラインです。1つだけが実験に使われる。ここからは実験の種類によってどのサブラインがどれだけ継代されたかは異なるんです。
又この細胞をPCRに掛けて調べる時にも混濁液が均等に混ぜられていたと仮定しても、含まれている細胞に方よりがでます。ですから、BCA報告書の解析と言うのは4つの細胞が一つの細胞からの株分け細胞だと言う以外には何も言えてないのです。
学さんへ
ため息さんには、混濁がいけなかったようです。僕の携帯はけんだくと打つと混濁がでちゃうんだけど、ま、細胞の凍結解凍の経験のある人には分かるだろうと思って。
雌雄の件は、そんなSNVの色分け図解より、小保方さんの雌雄混合酸浴細胞にESを混ぜて培養したらどうなるかを、リンパ球の雄、リンパ球の雌、ESの雌の混合培養を三色の色分けで時系列変化を考えてみればとおもっただけです。小保方細胞は20日くらいは生きているようです。3継代した後に核型解析したらどうなりますかね。NGSに掛けたらどうなりますかね。
雌雄の件は、そんなSNVの色分け図解より、小保方さんの雌雄混合酸浴細胞にESを混ぜて培養したらどうなるかを、リンパ球の雄、リンパ球の雌、ESの雌の混合培養を三色の色分けで時系列変化を考えてみればとおもっただけです。小保方細胞は20日くらいは生きているようです。3継代した後に核型解析したらどうなりますかね。NGSに掛けたらどうなりますかね。
ため息先生=学HN氏は恐らく本当に分かってないのだと思いますね。
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この1,290SNPsが桂調査委員会のスライドの24,649 sites とどうちがうのでしょ?どっかで議論になったかと思うのですが、誰か教えてください。
これはその昔に私が本気で教えてもらいたくって一研究者ブログに問い合わせていた疑問ですね。懐かしいな。揚げ足取り指摘になりますが、以下は明らかに継代のブロトコルを知らない振りをして書いていますよね。この先生はネット検索なんてお手の物で継代の動画なんて探せばいくらでも出ますよね。とっくの昔に知っているはずです。
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当方は現実の細胞培養をしたことがないのでわかりません。机上の空論かもしれませんが、不均一な少数細胞を培養したら特定の塩基変異を持つ細胞ばかりなることがあるのでは?と言っています。
セミコンフルになったら、細胞数計測して、トリプシン処理し、更に懸濁して、遠心して細胞を集め、新たな培養液で希釈して一定濃度で再度シーディングする。ため息先生のおっしゃるようなシーディングなんてないでしょうに。動画を見たら一目で分かる。
以下なんてひどいですね。桂報告書と同じ嘘です。
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FES1からFLS1ができるまでは丸6年ですから小保方氏滞在中にできた可能性は十分あるでしょ。これが数ヶ月だったら、できないかも、しかし意図したらできるかな、とは思いますよ。
太田さんの細胞は6年間ずっと凍結されていてほとんど変異してない筈です。変異した株は4つとも所謂FLSですよね。これは様々な実験で凍結解凍が繰り返されている。太田さんの送ったFES1の中身は若山さんが、山梨大において、昔理研で最初に作った2011年のF1幹細胞株のソート株に入れ替えてます。
(2022/8/18)
学生HN氏の書き込みを校正していたら間違いに気づいた。40000個の中から5000個取り出すのを1/4と書いているのは1/8ですね。
ため息先生=学HN氏は、いつもは、ため息ブログ側が公式で正しい見解を提示し、小保方擁護を装った学ブログ側の方が支離滅裂な論理展開をして擁護側の非論理を際立たせるというスピン手法でしたが、今回は何故かとんでもなく逆になっています。
その原因は松崎の嘘にあるんですね。若山さんはもともとアクロシン入りのF1で実験を行っていたので、小保方さんに「僕のマウス」なんて渡していません。「僕のマウス」はコントロールESを作った時に初めて使われたF1です。
私はこの嘘がなぜつかれたのかに関してはヴァカンティ氏に対して後にキメラが出来たと言ったことをESコンタミしていたと言い訳できるように小保方さんに伏線情報として刷り込んでおいたのだと考えていました。小保方さんは日々ホテルに戻ると米国のヴァカンティラボにインターネットメールで日報を送信しています。若山さんはその情報がヴァカンティ氏の耳に入ることも知っている。
言うまでもありませんが、これは2012年の春から夏に向かう時期の話ですから、最初のネイチャー論文がリジェクトされた直後の時期です。後のSTAP事件後の話とは全く関係ありません。若山研とヴァカンティ研の間だけの話で、初期に他の人でこれを知っているのは西川さんと相沢さんだけでしたが、恐らく論文提出後でリジェクト前前後の4/24にヴァカンティ氏は米国特許の仮出願をした。このことも若山さんの耳に入っていて、また更に直後の4/27に若山さん本人の血液であるヒトの細胞を使った酸浴実験の事後承認のための倫理委員会の場で竹市さんがこの話を初めて耳にしたとされている。この会議には松崎も出席していたんですね。以下は若山さんの血液です。
FLSの4Nキメラが生まれたのはFLSの樹立確認後の20日後になる。増殖能確認継代を3回程度行うのに10日間として3月の初旬にはキメラは生まれている。この時にはキメラの雌雄はすぐには分かりませんが、適齢期になるまでの50日間には外見でも雌雄判断ができるようになる。この時までにFLSキメラが全部雄だということを若山さんは確認していることになる。
なぜなら、ジャームライントランスミッション実験に生殖能力の確認されている雌をメイティングさせないといけないですね。キメラはFLSの8ラインに対して26匹成育している。それぞれのラインの雄キメラに対して実験すると26匹の雌が必要ですが、ジャームライントランスミッションの有無は1つでもあれば証明終わりですから、どれだけのキメラに対してメイティングが行われたかは不明ですが、ただ8ライン全部にYesと表示されていますから少なくとも1ラインに対して1匹ずつの雌が必要であったことは理の当然です。若山さんはこのメイティングをするときに雌雄混合の酸浴細胞をただ培地誘導しただけでFLSが出来たとしているのですから、ここで変だと思わないとおかしいですよね。自分でわざわざ雌をあてがって交配させているのに全部に雌をあてがっている自分の行為がおかしいということに気づかないなんてことはないですよね。Article Extended Data Figure 8-jです。
この表は三誌論文にはありませんよ。なぜならこれは若山さんの幹細胞化の実験で、三誌リジェクトされた後に、ネイチャー誌に、この幹細胞化実験結果とともに二報同時再提出しようと提案されて小保方さんに渡されたデータなのです。小保方さんはこのデータを渡されるまでこの結果は知っていません。
4Nキメラというのは全身がドナー細胞ですから当然生殖細胞もドナーの性のままです。キメラが全部雄だということはFLS1~8までの株のそれぞれの細胞の全てが雄だということです。それぞれ12~46の総計228個の胚盤胞にインジェクトされている。全ラインの全細胞が雄なのです。小保方さんが渡したはずの雌雄混合の酸浴細胞はどこに消えたのでしょうかね。そして小保方さんのいずれかの細胞から作られたのかは判明してないが、2NキメラのGel写真はその細胞がT細胞由来だということを証明している。
このことによって少なくとも小保方酸浴細胞の核は使われているということになるわけです。受精卵ESでこんなものはできません。ESならリンパ球T細胞の核を使ったntESです。
このことは笹井さんも、丹羽さんも気づいていない。本来なら小保方さんも幹細胞化論文の原稿を書いている時に気づかないといけなかったと思いますが、キメラが出来てうれしいばっかりなんですね。当事者には気づきにくいことがあるんでしょうね。私の指摘を知ればあっと気づくはずですが、全員がキメラができていると信じ込んで論文を説得力あるものにしようと努力している心理的方向性がバイアスになっている。
論文発表後にとても早い理解を示したのは岡部さんでしたね。流石に専門家でその理解の早さにはさもあるべきと後々につくづく納得した半面、専門家を称してネット内で騒いでいる有名無名の所謂一般社会で揶揄するところのデベソどもの浅薄さにも呆れ果てましたね。これは質問しても当を得ませんからアッポだと即座に分かる。感想HNだとか香山某だとか、特に在米ポスドクHN糞野郎ですね。テラトーマを体内組織と圧着させたなんて言ってる下種です。
その客観的立場であるはずの岡部氏が気づきませんでしたからね。これは自分がやっている実験でないということが鋭さを失わさせるんですね。査読者程度の批判的目で見ても、雌雄混ぜている酸浴細胞からどうして雄の幹細胞しかできないのだと指摘した査読者はいませんでしたね。私なんか10年かかってやっと気づいた。私は素人ですが、これはおかしいと思ったから執念で追った結果です。でも専門家なら執念を以て追ったら即気づくはずです。誰も執念を以て追ってないのは、業界が若山さんを守ろうという空気に動いたからです。専門家も数いますから気づいている人は結構いると思いますが、声を上げないという空気が支配したということです。
専門家というのはどんな業界でも給料をもらって家族を養ってますから、その業界の指導層に逆らうためには生活の手段からその業界に依存しない方法を考えてからでないと個人的倫理観で逆らうことはできません。これは人類共通で、人間は協働で生きているので、協働のルールに縛られるのは当然なんですね。全体が間違ってるから一千万と言えども我行かんというときにはその組織を離れなければいけませんね。
まあ、そこまでするようなことなの? という判断が先にあるわけですから、この問題の専門家の中ではそういう人は出なかったということです。ただ、気づいてそのことに触れておいても困らないと思いますが、気づいたときにはもう政治決着していたということですよね。つまり気づきにくいことではあるんですね。
私はど素人なので分かるまでに時間がかかりますが、逆にこの業界の世話には一切なっていないので思考がフリーなんですね。やはり調査というのは第三者が行うべきなんですね。でも、第三者とは言えど私みたいなど素人では時間ばかりかかってらちが明かないから専門家を要請するとなると自然分かる人ということになって業界内になってしまうんですね。特に日本社会は空気の支配してしまいやすい、いわゆる易きに付く情弱な社会ですから、国家危機の時によく判断を間違えますよね。それでも今まで何とか滅亡を免れていたのは四方が海に守られているのと、流石に本当の危機が目前に迫ると情弱で無能な人々を押しのけて、まともな人が少しは出るんですね。大概死にそうなところまで追い込まれないとそうならないのがアングロサクソンと違うところですね。彼らは常に先を読んでます。つくづくたくましいわ。
話を戻すと、このことに若山さんが気づいているどころか自分で分かって行っていることなのか、又若山さん自身が本当に気づかないほど無能なのかというのは、彼がメイティング時におかしいと言ったのではなくて、キメラの子にGFPが半分しか来なかったと言ったことを考えてみると分かる。
この4Nキメラの実験は若山さん自身は桂調査に対して「戻し交配した」と言っている。戻し交配というのは一般的には親に掛け戻すことを言うのですが、若山さんはFLS作成時に「僕のマウス」を渡したと言っているのですから、親は129のCAG-GFPホモです。これをキメラとメイティングすると全部にGFPが来ます。メンデルの法則ですから誰でも分かる。ところが若山さんは小保方さんにGFPが半分しか来なかったと言ったのですから、この戻し交配の雌親にはGFPが挿入されていないということです。つまり市販の普通の129です。これでも系統が同じですから戻し交配と言っても矛盾はない。でも実験目的からは、別に「僕のマウス」の母親である129/Sv-CAG-GFP(ホモ)マウスでもよかったんですよね。半分にしか来なかったと言えるためにはGFPのない129マウスだとせざるを得ないということでもあり得ますよね。
そして、その結果として小保方さんにGFPが半分にしかこなかったことを"変"だと言ったのです。裏の意味は全部に来るのが当たり前なんだけどという意味ですから、キメラ側のGFPはホモであるはずなんだと小保方さんに情報提供したことになるんです。つまり「僕のマウス」を渡したはずなんだよという情報です。この情報が小保方さんに知らされた証拠はあります。サンプルのラベルです。
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103番 ES+/- (+/-:FLSがheteroだと判明していたので+/-と書いた可能性あり)
109番 129 GFP+/- 1 (FLSのことだろう(小保方) 自分で作成) <松崎2014/6/9持出後解析>
111番 129 GFP+/- 2 (FLSのことだろう)
114番 129 F1 GFP+/- 2 (FLSから。他人から受け取った記憶は今のところない・・・)
小保方さんの論文は全部ヘテロ認識です。B6側にGFPがあるという認識で書いている。
まして、2011年の最初のF1キメラは桂調査で129/Sv x B6GFPが正しいと証言している。ホモだったはずだという情報はこのジャームライントランスミッション実験結果の出た5月初頭に小保方さんに伝えられたんです。でも実際手記によれば若山さんは自分の交配ミスだったかもしれないと答えていますから、結論としてFLSのGFPはヘテロで正しいわけですから、小保方さんは論文は最後までヘテロなんです。
ではこの若山さんの「僕のマウス」だったはずなんだけどなあという情報は何のために小保方さんに知らせたのかということになる。ここでは事件化後の世間に対しての弁明は必要のない時点です。ですから私は若山さんがヴァカンティ氏が米国特許仮出願しましたので、いずれ1年内に、あれは事実ではないということを知らせないといけなくなるので、そのESコンタミさせてしまったという言い訳のために伏線として小保方さん経由でその可能性をヴァカンティ氏に伝えようとしておいたと読んだわけです。でもそれだけかなあという気もしていて、小保方さんに対してだけはヴァカンティ氏に知られないように真実を伝えたいと思っていろんなヒントを出しているのではないかとも疑うわけですね。
若山さんは桂調査に対して小保方さんはマウスに関しては何も知らないと伝えています。このころ若山さんは既に小保方さんを助手で来ないかと誘っていますから、自分の弟子にしようとしている人が無知のままであっては困るんですよね。何かいろいろと教えようとしていることを感じますね。特に事件化後の記者会見で小保方さんに呼びかけるように、いろんな先生の元で指導者を転々と変えていることに触れて、自分がとことん教えてやりたかったのにという未練が吐露されていると感じたのは私だけでしょうかね。はは。
事実は後の解析でもAcr-CAGのヘテロマウスです。ヘテロで正しい。まして、その後実験はヘテロ認識のまま続けられているんです。この後胎盤の光る話になってくる。この胎盤の光るマウスは切片が残されていて丹羽さんも確認しているのですが、丹羽さんが確認したのはFI-SCの胎盤のグラススライドではないか。これは若山さんから渡されたCTSの2Nキメラ胎盤の切片に小保方さんが理研に採用されて後にFI-SCと笹井さんによって命名された後にラベル記載したものでリストに存在している。
しかし、2012年当時の胎盤が光るとされたのは酸浴細胞キメラで、このACCsキメラの胎盤が光るとされた。その図が、Letter Extended Data Figure 1です。この1-aは小保方さんが胎盤が光ったとされる2012年3月頃の4Nキメラの胎盤蛍光証拠写真として掲載しているものですが、若山さんはこの写真は2011/11/28の4Nキメラの写真だと主張し、桂調査もPCにあるその日付を確認したと書いているものです。
リジェンドにはB6GFP x 129/Svと書かれていて、CAG-GFPだとされていますが、若山さんは129/Sv x B6GFP表記が正しいと証言しているので、なんだ、最初のF1はヘテロだったので「僕のマウス」ではなかったんじゃないかと知られたわけです。これも気づかない人が多かったですね。
しかし、問題は仮にそれが写真の取り違えだったとしても、b,cの切片写真はなんだということになる。
aが2011/11/28なら、胎盤が光ったのは翌年の話なのでb,cとは対応してないのは当然です。桃子本にはこの胎盤蛍光の時期は何時の事だったかは分からないとされていますが、手記にはこの時期が書かれていて、胎盤を渡されて、切片の確認を頼まれた時のすぐ後に若山さんは4月頃にはTS-like細胞への誘導実験を開始していたと書いているので、これが前年の事ではありえないんですね。すると、2012年のF1キメラ実験は129/B6とBDF1で行われていますから、このb,cはどちらかの胎盤切片の免染写真です。このグラススライドがリストには存在していないんですね。
ここが丹羽さんが見たのが本当にSTAPキメラの胎盤だったのかというところが分からないところで、桂会見でも桂がどこにあるのだと記者に問われてもぐもぐと分からない答弁をしていたところです。手記には「4Nキメラと呼ばれるサンプルのホルマリン漬けなどがなくなっていた。これが解析されていれば、STAP細胞としてキメラ実験に用いられていた細胞の由来が明確に分かったはずだった。」とのみ書かれているが、これも胎盤の光っているキメラではあるはずなので、対応する胎盤切片のグラススライドもなくなっていたのではないかとも思われる。小保方さんがこれに気づいたのは2014年の7月時点で、丹羽さんは2013年の1月に小保方さんのメンターになって直ぐに確認したと証言しているので、このときにFI-SCの胎盤を見たのでなかったのなら、STAPキメラ胎盤のスライドはあったはずで、それがb,cであるはずです。小保方さんはこの後3月に若山さんが山梨に移転したときにスライドグラスまで持ち去ったことに気づいていなかったのかもしれない。この辺りははっきりしないんですね。警察を入れないとね。
ともあれ、若山さんはジャームライントランスミッション結果でGFPが半分にしか来なかったんだぜと小保方さんに言う前に、その前のメイティングの時に出来たキメラは全部雄だったんだぜとどうして言わなかったのか。まだ以下の表は渡していませんよね。この表は三誌リジェクトされた後に渡された表です。これだけ見ても小保方さんは雌雄は分かりませんよね。我々は後の桂調査の検査結果でこの8ラインがすべて雄だと知らされ、その結果、この時のメイティングには若山さんは全てにメスをあてがったのだと気づいたわけです。若山さんだけが知り得たのです。桂報告書も気づいていませんよね。愚かにも若山さんと小保方さんに対して、GFPが半分に来なかったことを知ってどうしてこの時にもっと深く追求しなかったのだと二人を責めた。しかし、若山さんだけは雌しかあてがわなかったことによって、すべてのラインが雄だと知っていたということになるのですから、桂調査チームも又アッポだということが分かりますよね。
私も今、自分がアッポだということに気づきましたね。小保方さん、笹井さん、丹羽さん、岡部さん、そして査読者も含めて、少なくとも彼らは論文発表当時このことには気づけないんですね。FLS全株が雄だと判明したのは若山記者会見から桂報告書で確定して以降です。そもそもFLS全株が雄だと知っていたのは若山さんだけです。少なくとも全キメラに雌をメイティングしたときには既に知っていることになる。しかし、そもそも若山さんはFLSの元細胞が雄であることは事前に核型解析して知ってたんですよね。
(2022/8/15)-安倍元首相暗殺事件
一応今のところ捜査中だということですからね。警察トップの筋を通した引責辞任の件とともに、取り敢えず国民は結果発表を待っているということです。狙撃手による犯行の件は衣類の貫通孔の方向の鑑識発表があるまでは国民は解決したとは考えませんから、ただ、捜査の邪魔をしないように待っているだけですね。執刀医は心臓を縫合したと明確に語っていますから、その説明もないままで山上単独犯人説は確定しませんね。無論、山上が弾丸を発射したことは間違いありませんから、殺人、若しくは殺人未遂で死刑なり無期なりは当然ですが、事件としての解決とは関係ありません。もし有耶無耶にしたら国民はとことん警察と政府を追求することになりますね。
大事なことは山上以外に狙撃犯が居たのか居なかったのかということくらいは確定できるはずということです。数年かけても秘密裏に追い回すというなら別ですがね。犯人は既に国外逃亡しているでしょうからね。
(2022/8/17)-安倍元首相暗殺事件
屋上に警備がいたのなら山上の動きはキャッチして地上に連絡しているはずですから、何かの工事業者の可能性もある。業者なら確認できる。また、業者が仕事していたのなら狙撃犯は潜めないのではないか。これも全部確認可能。こういうことがあるから調査中ということなんでしょうね。
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あらま、2022年8月13日(土)午前11時43分現在、学とみ子のこんがらがった話を、整理するためには、独学しかありません。は消去されました。体内時計さんが本日(13日)朝、学とみ子は違うコメントを転載していると指摘したら、出先で訂正できないとの返事でした。ですからご帰宅されたようです。
ですから「当ブログ内容が、不正確とか、簡略化してある時は、他の仕事をしていたり、時間がない時です。」という言い訳は消えてしまいましたね。
ですから

という学生さんからのコメントも消失してしまいました。
学とみ子のこんがらがった話を、整理するためには、独学しかありません。が不復活したようです。体内時計さんの示さなかった感想さんのコメントの転載を取り除いたようです。
しかし、1707. 感想 2017年02月10日 09:48 のコメントは残っているので、これは読んだんでしょうね。ではその読んだ結果はどうなったんでしょね?