今回はゲーム依存やネット依存に関する書籍です。
オタクの間ではすっかり存在しないことになりつつあるゲーム依存症ですが、もちろんそんなわけはありません。実際にはそれで苦しんでいる子供もいれば、そういった子供に対応する実務家もいます。
本書はそうした実務家の観点から、まだまだ発展途上の分野において、どのように対応するのが妥当なのか、現時点での分かりやすい指針を示してくれるものです。
とはいえ、このような問題はとうの「オタク」にとっても、決して対岸の火事ではありません。例えばSNSをとっても、Twitter以外のSNSに明るくないオタクは決して珍しくないでしょう。TikTokやインスタグラムに触れたこともないオタクは大勢いるでしょうが、昨今の若者が主に使うSNSはむしろこちらだったりします。
また、ゲームそのものを知っていても、子供が子供同士の関係性においてゲームをどのように用いているか、そもそも子供がゲームとどのように付き合っているかわかっていない大人は大勢います。直に会ってモンハンをやっていたような我々の時代とは違い、いまは子供でもオンラインでパーティを組む時代です。そのとき、どのようなことが問題になるかを適切に把握するのは重要なことです。
大人の子供のゲームに対する立ち位置は根本から異なります。全くゲームを知らない人が勉強する必要があることはもちろんのこと、知っていると思っている人間も、安易に知っていると決めこまず、虚心坦懐に学ぶ必要があるでしょう。
とはいえ、私の考えでは、少なくとも日本の現状を踏まえれば、ゲーム依存症を依存症として扱うことを恐れるべきではないでしょう。
ゲーム依存症を依存症として扱うことを批判する主張の1つは、有病率の低さです。有病率に関する信頼できる研究はまだありませんが、本書ではドイツの研究が紹介され、嗜癖障害と言える使用は調査対象の1%にしか見られないことが指摘されています。
しかし、有病率の低さは、それを病として扱うことを必ずしも否定するものではないでしょう。稀な病気というのはあり得るものですし、数が少なくとも、その病気で困っている人がいるなら治療法の確立は必要です。
何より、昨今の「ゲーム無罪」的な論調を見るに、むしろゲームの長時間利用を懸念する態度はあってしかるべきではないかとも思います。ゲームがもてはやされるのは結構ですが、それによって日常生活や対人関係に支障が出るほどになるのはやはり問題があります。しかし、社会の風潮が「ゲームの問題はあくまで家庭の問題である」とか、「ゲームへの固執は病気ではなく、ゆえに支援は必要ない」ということになれば、実際にゲームで困っている家庭への支援が妨げられます。
現に、山田太郎や赤松健といったオタク親和的な議員は、叩きやすくオタクからの歓心を買いやすいターゲットとして、ゲームの問題を標的としています。ときには文科省の調査にケチをつけ(『文科省はゲームを悪者にしたのか あるいは、文科省がゲームに注目する真意』参照)、ときに医療機関が病気を作り出しているかのような陰謀論を流布するなど(『山田太郎の『表現の自由の闘い方』を読む:第1章から第3章編』参照)、やりたい放題です。
こうした態度に対抗するためにも、研究を発展させ、ゲーム依存症の診断や治療を確立すべきでしょう。
もちろん、依存症の確立は、世間一般の依存症イメージの改善とセットで行われるべきです。依存症であることが安直にスティグマとして扱われないようにするための広報活動は必須です。
依存症が個人や家庭だけの問題ではなく、社会も関係する問題であると正しく理解されれば、依存症に逃げ込まなくてもよくなる社会も作りやすくなるでしょう。実際に、ゲーム依存症は学校や家庭での人間関係の困難からゲームに逃げ込む、ある種の「困難の症状」としての側面も指摘されています。私はそうした症状がさらに関係性を悪化させ、困難を強めるためにさらに逃げ込むという相互作用があると思いますが、そのような相互作用を断ち切るには、社会の側の理解が不可欠です。
ゲーム依存を家庭の問題に押し付けたり、オタクの権力闘争の道具にしないためにも、いまいちど臨床の場面に立ち返った理解が求められるといえましょう。
吉川 徹 (2021). ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち 子どもが社会から孤立しないために 合同出版
オタクの間ではすっかり存在しないことになりつつあるゲーム依存症ですが、もちろんそんなわけはありません。実際にはそれで苦しんでいる子供もいれば、そういった子供に対応する実務家もいます。
本書はそうした実務家の観点から、まだまだ発展途上の分野において、どのように対応するのが妥当なのか、現時点での分かりやすい指針を示してくれるものです。
実は知らないICT
本書は一貫して、まず大人がネットやゲームに関して知るべきだという態度をとっています。そのため、ゲームの種類やSNSの仕組みなど、いわゆる「オタク」からすれば今更なところから丁寧に解説を始めています。とはいえ、このような問題はとうの「オタク」にとっても、決して対岸の火事ではありません。例えばSNSをとっても、Twitter以外のSNSに明るくないオタクは決して珍しくないでしょう。TikTokやインスタグラムに触れたこともないオタクは大勢いるでしょうが、昨今の若者が主に使うSNSはむしろこちらだったりします。
また、ゲームそのものを知っていても、子供が子供同士の関係性においてゲームをどのように用いているか、そもそも子供がゲームとどのように付き合っているかわかっていない大人は大勢います。直に会ってモンハンをやっていたような我々の時代とは違い、いまは子供でもオンラインでパーティを組む時代です。そのとき、どのようなことが問題になるかを適切に把握するのは重要なことです。
大人の子供のゲームに対する立ち位置は根本から異なります。全くゲームを知らない人が勉強する必要があることはもちろんのこと、知っていると思っている人間も、安易に知っていると決めこまず、虚心坦懐に学ぶ必要があるでしょう。
「依存症」の現在地
本書では、DSM-5およびICD-11におけるゲーム依存症の扱いも解説しています。もちろん、こうした診断基準はまだまだ研究段階のものであり、今後更新される可能性は大いにあります。そもそも、研究者の中には、病として扱うことの悪影響を懸念し、ゲーム依存症を病気として扱うことに慎重な立場もあります。とはいえ、私の考えでは、少なくとも日本の現状を踏まえれば、ゲーム依存症を依存症として扱うことを恐れるべきではないでしょう。
ゲーム依存症を依存症として扱うことを批判する主張の1つは、有病率の低さです。有病率に関する信頼できる研究はまだありませんが、本書ではドイツの研究が紹介され、嗜癖障害と言える使用は調査対象の1%にしか見られないことが指摘されています。
しかし、有病率の低さは、それを病として扱うことを必ずしも否定するものではないでしょう。稀な病気というのはあり得るものですし、数が少なくとも、その病気で困っている人がいるなら治療法の確立は必要です。
何より、昨今の「ゲーム無罪」的な論調を見るに、むしろゲームの長時間利用を懸念する態度はあってしかるべきではないかとも思います。ゲームがもてはやされるのは結構ですが、それによって日常生活や対人関係に支障が出るほどになるのはやはり問題があります。しかし、社会の風潮が「ゲームの問題はあくまで家庭の問題である」とか、「ゲームへの固執は病気ではなく、ゆえに支援は必要ない」ということになれば、実際にゲームで困っている家庭への支援が妨げられます。
現に、山田太郎や赤松健といったオタク親和的な議員は、叩きやすくオタクからの歓心を買いやすいターゲットとして、ゲームの問題を標的としています。ときには文科省の調査にケチをつけ(『文科省はゲームを悪者にしたのか あるいは、文科省がゲームに注目する真意』参照)、ときに医療機関が病気を作り出しているかのような陰謀論を流布するなど(『山田太郎の『表現の自由の闘い方』を読む:第1章から第3章編』参照)、やりたい放題です。
こうした態度に対抗するためにも、研究を発展させ、ゲーム依存症の診断や治療を確立すべきでしょう。
もちろん、依存症の確立は、世間一般の依存症イメージの改善とセットで行われるべきです。依存症であることが安直にスティグマとして扱われないようにするための広報活動は必須です。
依存症が個人や家庭だけの問題ではなく、社会も関係する問題であると正しく理解されれば、依存症に逃げ込まなくてもよくなる社会も作りやすくなるでしょう。実際に、ゲーム依存症は学校や家庭での人間関係の困難からゲームに逃げ込む、ある種の「困難の症状」としての側面も指摘されています。私はそうした症状がさらに関係性を悪化させ、困難を強めるためにさらに逃げ込むという相互作用があると思いますが、そのような相互作用を断ち切るには、社会の側の理解が不可欠です。
ゲーム依存を家庭の問題に押し付けたり、オタクの権力闘争の道具にしないためにも、いまいちど臨床の場面に立ち返った理解が求められるといえましょう。
吉川 徹 (2021). ゲーム・ネットの世界から離れられない子どもたち 子どもが社会から孤立しないために 合同出版