以前『性的搾取とは何で、なぜ二次元の美少女が時に性的搾取となり得るのか』を書いたとき、触れておこうと思った話題です。
 その記事では青識のnoteを取り上げましたが、そのnoteは元々、以下のツイートに対するいちゃもんだったわけです。

 自由戦士は「データ」に固執します。そのことは『VTuberへの抗議は本当に若者にドン引きされているのか』などで触れたように、自前で「データ」を用意してしまう自由戦士が現れ人気を博したことなどが象徴しています。

 しかし、断言しますが、彼らが「データ」に固執するのは、「科学的」な議論をしたいからではありません。「データ」を持ち出せば、自分がその「議論」で勝てると思っているからにすぎません。さっきから「」ばかりですが、これは言葉の本来の意味ではなく、彼らの脳内にある「科学的」な「データ」による「議論」にすぎないという意味です。

 今回は、そうした自由戦士たちのおためごかしを暴きつつ、そもそもあらゆる場面でデータを持ち出す必要がないことも指摘しておきます。

自由戦士がデータに対し行ってきたこと

 表現の自由戦士がデータを蔑ろにし、都合のいい「論破」の材料にしてきたのは自明の事実ですが、ここでいちゃもんをつけられても面倒なので、簡単に立証しておきます。

 自由戦士のデータの扱いは主に以下のようなものでした。

①都合のいい「データ」の妄信
 先ほど『VTuberへの抗議は本当に若者にドン引きされているのか』で自由戦士が調査したと称するデータを取り上げましたが、そもそもこうしたデータが実在する証拠はありません。なにせ、嫌がらせのためになりすましアカウントまで作る集団ですから、データの捏造をしないという証拠はありません。にもかかわらず、当然というべきでしょうが、彼らはどこの馬の骨が取ったかわからない「データ」が存在するかのように妄信します。(『ミソジニストの「データ」を存在するものとして扱うべきではない理由』も参照)

 もう1つの妄信は、主に「メディアが犯罪増加などの悪影響を及ぼさない」と主張する研究に対して行われます。『【メディアの悪影響を巡る冒険】これまでのまとめと目次』でざっと総ざらいしていますが、彼らは自分に都合のいい研究を妄信し、手続きなどに問題があることを顧みません。酷いときには、原文はおろかアブストラクトすら読んでいない有様です。

②都合の悪いデータの否定
 都合のいい「データ」を妄信するということは、もちろん、都合の悪いデータは何としてでも否定しようとします。

 最近目についた最もひどい事例は、やはり『「化学修士」を名乗る人の『表現の影響論』が酷すぎるのでツッコミを入れておく【『フィクションが現実となるとき』批判の総論編】』で紹介したものでしょう。細かい問題(ともいえないもの)をあげつらい、書籍で紹介されている多くのエビデンスを全否定する手腕は見事と言わざるを得ません。

 このような態度は、都合の悪いデータを無視しているというより、都合の悪い論拠を無視しているというべきでしょう。このような態度は、後述する差別的で詭弁的な態度とつながっています。

「データ」は必須ではない

 自由戦士が信奉するのとは異なり、現実は残酷なものです。つまり、実のところ、ある主張をするのに、「データ」は必ずしも必要ではありません。「データ」がないなら全否定できる、というのは彼らのハウスルールにすぎません。

 どういうことでしょうか。これには2つの側面があります。
 1つは、「データ」以外にも自説を証明できる証拠はいくらでもある、ということです。

 これまで、私は「データ」と括弧つきで表現してきました。それは、自由戦士がデータひいては論拠を、数字で表されグラフで表現できる類のものしか認めていないことを反映しています。もちろん、実際のデータは彼らが考える「データ」より幅広いものですが、彼らにはわかりません。

 このような態度は、ひとえに彼らの知的な怠惰さによって導かれるものです。そりゃ、長ったらしい文章を読まずとも、ざっとページをスクロールしてグラフが書いていなければ「データがない!お気持ち!」と否定できるならどれだけ楽でしょうか。

 データ以外で自説を証明する方法として最もポピュラーなのは、やはり論理でしょう。筋が通っていれば正しいというシンプルなものですが、唯一の欠点は、筋が通っているかどうかを理解する脳みそがなけれればいけないということです。(いや、彼らの言うところの「データ」だって本来はそうなのですが)

 論理によって主張が裏付けられている例は、性暴力表現が問題となった際によく見られます。なぜこの表現が問題なのかという主張の多くは、「データ」ではなく論理によって説明されています。例えば、戸定梨香が警察とコラボした動画が問題視されたとき、「性犯罪誘発」の懸念は論理によって説明されましたし、それ自体は特に不当な論理展開ではありませんでした(そもそも性犯罪誘発以前にまずいという話も論理的に説明可能ですが)。もちろんこうした説明にはグラフは登場し得ないので、自由戦士は「お気持ち」だとして全否定しますが。

 こういうことを書くとまた、彼らが「違う!」と突撃してくるでしょうが、その反応こそ私の主張を裏付けています。彼らは論理的説明を理解できないので、その説明の誤りを論理的に批判することができません。そのため、「お気持ちだ!」と言ったコピペフレーズレベルの反応か、中身のない罵倒に終始せざるを得ないのです。有史以来、自由戦士が論理的な批判を実行できた例は存在しません。

 「データ」が必要ないもう1つの側面は、そもそも我々は、あらゆる主張を行う際に「(自由戦士的な意味での)データ」を出す必要があるわけではない、ということです。

 少し極端な例を出しましょう。例えば、ある人がTwitterで「最近の若者がお年寄りに電車で席を譲らない」と呟いたとします。これに対し「データは?」とケチをつけるのはあまりにも馬鹿げた行為でしょう。もちろん、それを否定するデータが発掘される可能性はありますし、そのような反論が否定されるわけではありませんが、私人のTwitterでの愚痴じみたツイートにいちいち求められるものでありません。

 一方、データを出せという反論が明らかに妥当な場合もあります。例えば、上記のツイートが与党議員によって発せられ、よしそれを改善する法律を作ろうなどということになったら誰しもが「ちょっと待て、その主張を裏付けるデータはあるのか」という反応になると思います。

 自由戦士的な「データ」は、その多くが統計データ、つまり社会全体の傾向を示すものです。そのようなデータは(適切に用いれば)証拠として強力なものとなります。しかし、我々が発する主張は、常にそのような強力な証拠を必要としているわけではありません。どの程度の証拠が必要かは、発信者の立場や求めるものの強さによって変わってきます。個人が私企業にクレームを入れる程度のことで、最も強度の強い証拠を求められるいわれはありません。逆に、国会議員が社会に影響を及ぼすことをしようとしているときは、それ相応に強力な証拠が必要でしょう。

収集不可能な「データ」を要求する差別性

 少し視点を変えれば、あらゆる場面で強度の高い証拠を要求するのは、相手方に無理な要求を押し付けて応答不能に追い込み、「論破」したかのように振る舞う詭弁の1つでもあります。これは単に、一般市民では統計データを検索するのは難しい、という以上の意味を持っています。

 これは自由戦士とのやり取りに限らないことでしょうが、少なくとも彼らがケチをつけることが多いのは、女性差別やヘイトスピーチなど、マイノリティが社会構造を問題視し批判する場合です。特に、自由戦士は表現を用いて自身の加害欲求を満たすことを根源的な欲望としているため、性暴力表現を公に開陳する行為が否定されることに強く反応し、批判者への嫌がらせに走ります。

 ともあれ、「データ」を要求される立場の多くは、マイノリティの問題を指摘する者であることは事実です。そして、その立場や構造は、自由戦士の望むような統計的データの収集と提示を困難にする構造でもあります。

 なぜなら、大規模な統計データは収集にそれなりの費用がかかり、どの調査にどの費用を割くかの決定権を持つのは多くの場合マジョリティだからです。マジョリティが関心を払わない問題には費用が割かれにくく、またその問題の多くはマイノリティに関係するものです。

 同時に、マイノリティの問題の多くは、統計データの収集という場面にそぐわない微妙さ、曖昧さを持っています。統計的な調査を行うには、一旦はその問題を硬直的に定義する必要がありますが、差別はそうした定義を陰湿に潜り抜けて温存されるものです。例えば、痴漢は主に性的な接触として扱われますが、痴漢被害の中には「手は出さないが密着する」「接触はしないが顔を近づけて匂いをかぐ」といった行為があり、これらを明確に定義して痴漢ではない行為と区別して調査するのは困難です。

 むろん、そうした微妙さを無理やりにでも丸め込んで調査することは可能です。しかし、その無理やりは自由戦士のような差別主義者の格好の攻撃の的となり、データの全否定に繋がってしまいます。

 こうした困難さを伴う問題について、自分が満足できるデータがないならば主張を全否定してもよいという態度は明確に差別的です。マイノリティの困難さに乗じてその問題を全否定するわけですから、差別と言って過言ではないでしょう。

 自由戦士は、こうした構造を分かっていて「データ」に固執しています。「データ」に固執し、「データ」がなければ主張を全否定できるというハウスルールを信奉することで、マジョリティである彼らは無敵になれるのです。

彼らが陥る自縄自縛

 もっとも、彼らの態度を真摯に徹底すれば、彼ら自身が自縄自縛の地獄に陥るはずです。

 なぜなら、「データ」がなければ相手の主張を全否定していい、という主張を裏付ける「データ」は存在しないからです。当たり前です。『「データ」がなければ相手の主張を全否定していい』という主張は議論のルールに属する信念であり、統計的データが扱うものではないからです。

 しかし、その主張の性質のいかんにかかわらず、『「データ」がなければ相手の主張を全否定していい』という主張を押し通してきたのが彼らです。であれば、その主張は彼ら自身にも適用されるべきであるはずです。

 ところが、実際にはそうはなっていません。私は彼らに幾度どなく「データがない」とか「お気持ち」だとか言われてきましたが、「データ」がなければいけないとか、お気持ちではいけないという主張を裏付ける「データ」を提示されたことはありません。これはどうしたことでしょうか。何かを主張するには「データ」が必要だったのではないでしょうか。

 当然、こんな議論は馬鹿げています。自由戦士は単に、自分に都合がいいから「データ」「データ」と鳴いているだけであって、本当は「データ」の有無などどうでもいいのです。彼らが自分の主張に縛られておらず、自分はデータを出さずに好き勝手いろいろなことを言っていることからもそれは明らかです。

 ですから、自由戦士に「データ」を出せと言われても真に受ける必要はありません。それは単に、「私はあなたの主張が気に入らない」という「お気持ち」の言い換えにすぎないのですから。
 出したところで理解する脳もありませんしね。