『日韓併合の真実』 175ページから190ページより

志願兵制度導入前から朝鮮人の志願が殺到
 『朝鮮人に対する徴兵制について、戦後の朝日新聞は、嫌がる朝鮮人を無理やり徴兵したように報じている。だが、当時の「朝日新聞・朝鮮版」を読み込むと、その実態はかなり異なる。徴兵制導入以前から多数の朝鮮人が兵士に志願するという下地があり、日本人と同様の「愛国心」が発露していた様子が窺える。』
朝鮮半島で「志願兵制度」が導入されたのは1938年のことで(写真①②)、「徴兵制」が実施されたのは1944年からです。 志願兵制度が導入されるまで、朝鮮人が旧日本軍に入隊する術は、陸軍幼年学校か陸軍士官学校に進むしかなかった。1937年に日支事変(日中戦争)が勃発した。山西省の戦いで一個大隊(約1000人)の指揮を執って中国軍をせん滅した大殊勲により、朝鮮半島出身軍人で初めて金鵄勲章(きんしくんしょう)功三級を授けられた金錫源大隊長(少佐)は、1915年に陸軍士官学校(27期)を卒業している。
 日支事変の遠因となった、1937年7月29日の「通州事件」(北京近くの通州で日本人・朝鮮人居留民二百数十名が中国兵に惨殺された)により、朝鮮人の中国への怒りが頂点に達していたこともあり、朝鮮半島では志願兵がまだなかったにもかかわらず、志願が殺到していた。
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『志願兵申出で百五名に達す 沸る半島同胞の熱血』
「暴戻支那を討つべしと朝鮮同胞の義憤の血はいやが上にも沸ぎり、朝鮮憲兵司令部の調査によれば七日現在志願兵を申出たものの数は京畿道の二十五名を筆頭に全鮮で百五名に達している」(『大阪朝日・南鮮版』1937年9月8日付。写真③)
 このような世情を反映して、1937年に東京府4区選出の朴春琴衆議院議員は、「朝鮮人志願兵制度」を請願した。
 実際に志願兵制度が公布されたのは、1938年1月23日だったが、それを如何に朝鮮人が待ち焦がれていたかが報じられている。
『反響呼ぶ志願兵制度 忽ち志願者殺到 応接に転手古舞いの憲兵さん 微笑ましい朗景展開』
「朝鮮人志願兵制度実施が発表されるや半島同胞の間に一大センセイションを巻き起こし、十六日夜から十七日にかけて熱誠溢れる志願者がどつと繰出し京城憲兵隊、京城憲兵分隊、龍山憲兵分隊の受付は問合せの電話や志願者との応対でほかの仕事は全然手がつけられぬ有様だ(略)」(『大阪朝日・南鮮版』1938年1月18日付。写真④)
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『志願兵制度に感謝の電報 欣喜雀躍の在満同胞』(1938年1月22日付。写真⑤)

朝鮮人志願兵制度は、日本在住の朝鮮人の間でも大きな反響があったようだ。
『志願兵制度に内地在住同胞も大感激 各地で我先にと志願』
「(略)内地在住朝鮮人間にも至るところ歓喜の渦を巻き起し現在憲兵隊に出願したものは関西だけでも大阪六名、京都五名、神戸、名古屋にも数名あり、京都では十七日夜半島人青年会員五十名が祝賀提灯行列を行った(略)」(『大阪朝日・南鮮版』1938年1月23日付。写真⑥)

これらの熱気は、男性陣だけのものではなかった。
『聴け! この愛国の純情 私たちも男ならば率先軍人を志願 乙女の胸に映った志願兵制度 』
「(略)一方半島女性もこれに関し新たなる抱負を強く刻み込んでいる、(略)感想文中二、三を拾って見ると左のとほりである
一、本当にこれで半島人も国家の義務をもつ一人前になったのです
一、私も男ならば志願兵になるのにと思いました」(大阪朝日・朝鮮西北版1938年1月27日付。写真⑦)
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当初7倍だった倍率は、5年後には50倍になった
朝鮮人志願兵制度をまちわびる熱気に押されるように、1938年2月23日、志願兵令が正式に公布された。
『待望の志願兵令公布さる』
「(略)半島二千三百万大衆の待望久しき陸軍特別志願兵令は二十三日公布され、ここに朝鮮統治二十八年はつひにこの輝かしき結実として燦然たる一大金字塔はうち樹てられた」(『大阪朝日・南鮮版』1938年2月24日付 写真⑧)

志願兵募集初年度となった1938年度は、志願者2946名中、406名が合格した。以後も志願者数は右肩上がりで増え続けた。
1938年度  志願者     2946名    406名合格
1939年度  志願者  1万2348名    613名合格
1940年度  志願者  8万4443名   3060名合格
1941年度  志願者 14万4743名   3208名合格
1942年度  志願者 25万4273名   4077名合格
1943年度  志願者 30万3394名   6300名合格 

もちろん、当時の報道には戦意発揚の意図はあっただろう。また、職を求めた朝鮮人たちが軍に志願した面も考えられる。しかし、この志願兵急増の背景には彼らなりの「愛国心」があったことを窺わせる記事がある。戦中の日本在住の朝鮮人についての記事だ。

『在阪朝鮮人一丸 暴英膺懲(ぼうえいようちょう)に蹶起(けっき) 十六日大会を開催』
「東亜の敵老獪イギリスを討てと在阪朝鮮人が一丸となって十六日午後七時から大阪天王寺公園運動場で暴英排撃大会を開催することになつた、(略)参加大衆五万余といふ素晴らしい人員である(大阪)」(『大阪朝日・北鮮版』1939年8月16日付 写真⑨)

 志願者が増え続けた結果、当初7倍程度だった倍率は1943年度には約50倍となり、不合格を悲観して自殺するものまで現れた。
純情の愛国青年 志願兵に不合格を悲しみ 失望の余り自決』
「(略)李昌萬君(十八年)は去る六日午後十時ごろ自宅から約十町離れた林野内で死を遂げた、(略)『僕が念願していた志願兵は遂に駄目になつた この苦しみを免れるには死んだほうがましだ』と漏らしていたさうで今日まで宮城遥拝、里洞祠参拝を怠らなかつたといふ」(『大阪朝日・西鮮版』1945年5月22日付 写真⑩)
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『志願兵に不合格を悲観して自殺』(『大阪朝日・南鮮版』1940年7月13日付 写真⑪)

一方で何とか合格しようとして血書を持参する志願者まで現れた。
『鮮血「皇民の誓ひ」 一家を代表して志願』(『大阪朝日・南鮮版』1940年2月9日付 写真⑫)

『また血書の志願 爆発点の慶南志願兵熱』(『大阪朝日・南鮮版』1940年2月8日付 写真⑬)
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徴兵制実施にともない皇居前で万歳奉唱も
このように激増する志願者数と歩調を合わせるように、1942年、「徴兵制」の実施が発表された。
『待望の徴兵制実施 輝く最大の栄誉 半島青年よ今ぞ起て』(『大阪朝日・南鮮版』1942年5月10日付 写真⑭)と題した記事で大々的に報じられている。
この記事の中で朝鮮人の反響も紹介されている。
『責任は重い 旭医専校長 呉競善氏』
「わたくしは早く朝鮮にも徴兵制を施行してくれるやうに総督府にお願ひして来たので、まことに愉快です(略)」
『熱望が実現 朝鮮生保社長 韓相龍氏』
「(略)半島民衆のただ一つの願ひは徴兵制実施の待望でありました、その切なる愛国の希望がここに実現したことは半島民衆の歓喜絶頂に達した観があります」
 この時期には朝鮮人が徴兵制を歓迎する様子を伝える記事が数多く掲載されている。
『徴兵制に感激 軍司令官へ感謝の電報殺到』
「徴兵制施行の感激は朝鮮全土から板垣朝鮮軍司令官への感謝電報が奔流となって集まっているが、十八日迄にその総数は四百五十通を突破し、なほ続々増加の傾向を示している」(『大阪朝日・南鮮版』1942年5月20日付 写真⑮)
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日本でも朝鮮半島出身者が徴兵制施工に対する感謝の集いを行ない、皇居二重橋前で万歳奉唱をしている。
『徴兵制度実施に 感謝の市中行進 歓喜に沸く東京府協和会員』
「(略)在京半島同胞十万の代表者として八百名が明治神宮前に参集 (略)堂々の市中行進に移り、靖国神社では護国の英霊に「私たちの兄弟、友人たちも、これからはどしどしあなた方のお仲間に入れて頂けます」と奉告し、(略)最敬礼、国歌斉唱(略)喜悦遠く郷土にも轟けとばかり万歳を奉唱し、坂下門外の濠端で解散した(東京)」(『大阪朝日・西鮮版』1942年5月23日付。写真⑯)
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実際に朝鮮人に徴兵令が適用されたのは、1944年9月からで、徴兵検査を済ませて訓練所に入所したのは、1945年1月~7月の半年間だった。そして7月から朝鮮半島や日本国内の「防衛部隊」へ配属されたが、徴兵制度で入隊した朝鮮人のほとんどは、実戦経験することなく8月15日の終戦を迎えたのだった
 しかし戦後の朝日新聞の論調によれば、戦地へ送られなかった事実「巧妙な強制連行」ということになる。
『朝鮮人徴兵し、食糧生産 巧妙な強制連行 旧陸軍電報発見』
「【大阪】(略)塚崎さんは『両部隊は本土決戦に備え、兵士の食糧などをまかなうために開墾や耕作をさせた。軍のため労働力を集めた巧妙な強制連行だ』と分析する」(『朝日新聞』夕刊2003年3月15日付)
 戦後の朝日新聞が日本の朝鮮半島を悪魔の所業のように演出しても、当時の朝鮮半島の「空気」「温度」はそれとはまったく異なることを「朝日新聞・朝鮮版」は訴えかけている。
 以上引用終わり

皆さん。どう思いますか?当時の新聞はこのように報道していたのですね。
朝鮮の人たちは喜んで志願し、不合格なら自殺するものまでいたみたいです。
いやーすごいですね。こういう事実は隠されて来ました。韓国人たちが言っていることは明らかに嘘だと思います。
戦後、明らかに捏造されてきたのだと分かります。

長文読んでいただきありがとうございます。

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