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【スイスという永世中立覇権国 引き継がれる簿外資金】


こんにちは、今回は過去の記事と重なりますが、読者様のコメントに対する名無し先生からのコメントに、ランゴバルドの事を書け!という合図が在りましたので、スイスという国を中心に簿外資金のルーツについて書きます。

最初にお断りしておきますが、この記事は時代がかなり前後しています。

まとめるつもりがまとまっていないかもしれませんがご了承ください。

さて、スイスには有名なアルプス山脈があります。

イタリア北部の国境地帯を囲うようにスイス、オーストリアに股がっています。

地中海側の商圏と、バルト海側の商圏を分離していたのがこのアルプス山脈です。

一方、その両方を見下ろせる地理的特性を持ち、精密機械産業に適した豊かな淡水を持つ地域。

この頃の武器製造は、動力が水車でした。

水車による動力で、他の地域にはまねの出来ない機械加工が出来たのです。

現在のスイス地域はオーストリアのハプスブルク家をもってしても勝てない軍事力を持っていました。

そして現在でも武装中立国として、高い軍事力を持ち、どこの国もスイスには手を出しません。

そして世界でも有名な時計やレンズ等の精密技術で有名。

また、金融面でもプライベートバンキングで有名。

フィリピンのマルコスも、日本の天皇も、スイスに隠し口座を・・・

さて、スイス+オーストリア(正確には現在のイタリアの一部も入ります)=ロンバルディアだということは以前の記事に書きました。

オーストリアのハプスブルク家の支配下に在った訳です。

ですが、オーストリア側、ハプスブルクの支配に不満を持つ者が出てきます。

記述の通り、水車による原動力で他には無い産業を確立していたスイス。

ハプスブルクに反発する、金を持った者達は、裏で現在のスイスに結集しました。

こうして、スイスに金と武器産業が集まりました。

そうです、スイスとは神聖ローマ帝国に対抗して出来上がった国みたいなもんなんです。

スイスが実質的に中立国というか、独立したのはこの頃です。

これが嫌われていたユダヤ人が中立国であるスイスに集まった理由なのです。

(Wikipediaより)

神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の死後、ハプスブルク家のアルブレヒトの息子フリードリヒ(ドイツ王フリードリヒ3世)がバイエルン公ルートヴィヒ(ドイツ王ルートヴィヒ4世)と帝位をめぐって争ったが、アルブレヒトを敵視していた原初同盟はバイエルン公を支持した。これに怒ったフリードリヒはハプスブルク家の精鋭を揃えてスイス領内に侵攻したが、1315年のモルガルテンの戦い(ドイツ語版、英語版)、1386年のゼンパッハの戦い(英語版)でスイス農民軍に打ち破られた。こうしてスイスからハプスブルク家の影響力が排除された。

(Wikipedia終わり)

スイスがハプスブルクが手を出せない軍事力と財力で事実上、独立しちゃったんです。

ですので、この時期がオーストリアとスイスが分かれた時期です。

ランゴバルド王国がロンバルディアの由来。

王国が存在した2世紀の間、東側をアウストリア公国、西側をネウストリア公国、北部をスポレート公国、南部をベネヴェント公国と呼びました。

フランク王国領になる前から宗教的には、カソリック化が進みました。

しかしイタリア半島南端、サルディーニャ島、シシリー島等は、東ローマ帝国領のまま残ったのです。

この勢力の仕切りで、教皇をコントロールしようと教皇派、皇帝派にわかれて争った時代が欧州で長く続きました。

ヴェルフ、ヘッセンらが画策したと言う事です。

教皇側は免罪符をフッガー家と共謀し発行、大きな収入源となりましたが、民衆を苦しる結果になります。

そこに異議を唱えたルターが出てくる。

時代はかなり前後していますが、 これがプロテスタントになって行く訳です。

ヨーロッパの教皇派と皇帝派。

欧州の天皇=ローマ教皇は、地中海商圏側に居ました。

征夷大将軍=神聖ローマ帝国皇帝を途中から任命するようになります。

神聖ローマ帝国はローマ帝国を引き継いでいるという建前ですから、教皇は邪魔。

ローマ教会にとっては皇帝が邪魔。

教皇派、皇帝派に分かれ争う事になります。

この教皇派、皇帝派の争いはカール大帝と血縁になったヴェルフ家が主導する処が大きかったわけです。

ロンバルディアから出たヴェルフ=エステ家(Haus Welf-Este)、またはヴェルフェン=エステ家(Haus Welfen-Este)。

(Wikipediaより)

ルートヴィヒ1世(ドイツ語:Ludwig I, 778年 - 840年6月20日)は、フランク王国カロリング朝の国王(在位:814年 - 840年)・西ローマ皇帝(在位:814年 - 840年)。カール大帝の第3子で、大帝死後も唯一生存していた男子である。フランス語ではルイ1世(Louis I)。「敬虔王(敬虔帝)」とも呼ばれる。

819年、シャッセンガウ伯ヴェルフ(ヴェルフ家出身)の娘ユーディト(795年 - 843年)と再婚。

教皇派と皇帝派(きょうこうはとこうていは)とは、12世紀から13世紀の主に北イタリアにおいて、対立するローマ教皇と神聖ローマ皇帝をそれぞれを支持した都市、貴族達を指すが、14世紀から15世紀には本来の意味から離れ、対立する都市間の争いや都市内部の派閥抗争における両勢力の便宜的な分類として用いられた。ゲルフとギベリンともいう。

元々は、神聖ローマ帝国の帝位争いにおいてヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと言ったものが、ヴェルフ家が教皇と結んで、帝位についたホーエンシュタウフェン朝と対抗したため、これがイタリアに伝わり教皇派と皇帝派(ゲルフ(グエルフィ、Guelfi)とギベリン(ギベッリーニ、Ghibellini))となった。

11世紀の叙任権闘争において、既に教皇と皇帝の争いは始まっており、皇帝ハインリヒ4世と対立するヴェルフ5世は、教皇派のトスカーナ女伯マティルデと結婚したため、教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれはじめた。

ザーリアー朝が断絶するとヴェルフ家のバイエルン公ハインリヒ10世(尊大公、ヴェルフ5世の甥)は、ホーエンシュタウフェン家のコンラート3世と帝位を争い、1140年のヴァインスベルクの戦い の「掛け声」からヴェルフ派がヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派がウィーベリンと呼ばれるようになった。

ドイツ国内においては、ヴェルフとウィーベリンは文字通り両家を支持する派閥であり、ヴェルフ家のオットー4世が皇帝になった時には、ヴェルフが皇帝派、ウィーベリンが教皇派となっている。

(Wikipedia終わり)

このロンバルディア=スイスのヴェルフ家がその後、ヘッセン家と血縁を結んで行くんです。

共通の敵はハプスブルク家です。

例えば、アーデルハイト(1244–1274) - ヘッセン方伯ハインリヒ1世と結婚

(Wikipediaより)

オットー1世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公)

オットー1世(Otto I, 1204年 - 1252年6月9日)は、神聖ローマ帝国の領邦君主の1人で、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公(在位:1235年 - 1252年)。ヴェルフ家出身で、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の祖。ハインリヒ獅子公の末子のリューネブルク公ヴィルヘルムとデンマーク王ヴァルデマー1世の娘ヘレネの一人息子。伯父の神聖ローマ皇帝オットー4世との区別のため、幼童公(das Kind)とも呼ばれる。

子女

1228年、ブランデンブルク辺境伯アルブレヒト2世の娘マティルダと結婚、10人の子を儲けた。

1. マティルダ(? - 1295年/1296年) - アンハルト=アシャースレーベン侯ハインリヒ2世と結婚
2. ヘレネ(1231年 - 1273年) - テューリンゲン方伯ヘルマン2世と結婚、ザクセン公アルブレヒト1世と再婚。
3. オットー(? - 1247年)
4. エリーザベト(? - 1266年) - ホラント伯、ドイツ対立王ウィレム2世と結婚
5. アルブレヒト1世(1236年 - 1279年) - ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、ヴォルフェンビュッテル侯
6. ヨハン(1242年 - 1277年) - ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、リューネブルク侯
7. オットー(? - 1279年) - ヒルデスハイム司教
8. コンラート(? - 1300年) - フェルデン司教
9. アーデルハイト(? - 1274年) - ヘッセン方伯ハインリヒ1世と結婚
10. アグネス(? - 1302年) - リューゲン侯ヴィツラフ2世と結婚

(Wikipedia終わり)

当時の神聖ローマ帝国は、諸侯の中から代表理事を選んで王様にしていました。

その選挙権を持っていたのが選皇帝です。

その候補者の中で、一番力が無くて、すぐどかせる奴をとりあえず、神聖ローマ帝国の皇帝にしておこうと言う話になり、選ばれたのが、ハプスブルグだったんです。

ところが意外と策士で、他の諸侯同士が領土の取り会いをしてる横で、「お前らは戦争しろ、私は結婚する」と言って、同盟諸侯を増やしたんです。

(Wikipediaより)

「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」

の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていった。

現在も、最後の皇帝カール1世の子孫は婚姻によりスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。

(Wikipedia終わり)

その脇でくやしい思いをしたのが、サヴォイやヘッセンやタクシスだった訳です。

一応位置的にはハプスブルグ皇帝に仕える諸侯ですが、30年戦争を引き起こし裏で借金させ、潰した訳ですね。

そしてスイスは1648年 - ヴェストファーレン条約によって正式に神聖ローマ帝国からの独立を達成。

ここまで読んで、ヴェルフーヘッセンと繋がりは理解出来ると思いますが、下記を追記します。

(Wikipediaより)

オラニエ=ナッサウ家

オットー1世の子孫は14世紀から15世紀にかけて、主に婚姻によってネーデルラントに領地を増やし、ブレダに居城を構えて拠点とした。オットー系ナッサウ家はブルゴーニュ公に仕えて勢力を伸ばし、ネーデルラントで随一と呼ばれる名門となった。16世紀初めにはヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダ (en) がブルゴーニュ公シャルル(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からホラント州、ゼーラント州、ユトレヒト州の総督に任命されている。

ウィレム1世の曾孫でオランダ総督とイングランド王・スコットランド王を兼ねたウィレム3世(ウィリアム3世)が後継者なくして死去すると、ヨハン6世の玄孫でオラニエ=ナッサウ家の血も引くナッサウ=ディーツ家のヨハン・ウィレム・フリーゾがオラニエ公を継承した。以後オラニエ=ナッサウ家は現在までヨハン・ウィレム・フリーゾの子孫によって続いている。

このヨハン・ウィレム・フリーゾが1709年、ヘッセン=カッセル方伯カールの一人娘マリア・ルイーゼと結婚、2人の子を儲けた。

* アマーリア(1710年 - 1777年) - バーデン=ドゥルラハ辺境伯カール3世の次男フリードリヒの妻
* ウィレム4世(1711年 - 1751年) - イギリス王女アンと結婚

(Wikipedia終わり)

ヴェルフ家の時代に、タクシスの欧州単位統合がありましたと過去記事に書きましたが、そのタクシスもヘッセンに買われます。

時代は別として、タクシスと並んで忘れてはいけないのが、共通通貨を発行した血筋。

メディチ家です。

欧州広域で通用する最初の硬貨を作ったのはメディチです。

そのメディチが次の銀貨の中心をプロイセンとブルゴーニュにした訳です。

つまりナッサウの地です。

ナッサウ家はプロイセンとブルゴーニュで勢力を伸ばしました。

ブルゴーニュ公はフランス本家ブルボン家の向こうを張っていたフランスの王。

現在のフランス・ブルゴーニュ地方です。

欧州の行方を決める数々の戦争で、フランスがどこと同盟を組んだか調整していたのが、ナッサウ=ブルゴーニュです。

このヴェルフに資金援助していたのがメディチ。

エステ=ヴェルフ家と合流し、ロンドンのロンバルディア街を作り、ロンドン銀行などを形成していく訳です。

銀本位制を仕切っていた勢力です。

英国だけが金本位制を始めたのをよそに、欧州の実体経済は銀本位制で回っていたのです。

その中心がプロイセンとフランス・ブルゴーニュです。

プロイセンがヴェルフ資金を押さえた事によって、英国を乗っ取れた真の理由です。

ヴェルフ資金はターレル(ターラー)という銀貨です。

これが訛ってダラー=ドルになりました。

ロンバルディアは銀行の起源みたいなもので、デル・バンコが第2回十字軍の時に作らされたものです。

そのデル・バンコに第2回十字軍遠征に際し、ロンバルディアに銀行を作らせたのはサヴォイ。

欧州の経済体制の変遷は、銀本位制が主体で、後の16~17Cに英国が金本位制に移しました。

1694年、イギリス国王オレンジ公ウイリアムは、大規模な常備軍を維持するため、ロンドンの商人達に金の相談をした。商人達は金を貸す際に一つ条件を付けた。それは、その債務相当分の銀行券の発行を許可してもらいたいというものであった。この要望の意味をほとんど理解できずに、ウイリアム王は同意した。 これによって中央銀行(イングランド銀行)が誕生した。

要は、この時点でイギリスは乗っ取られている訳です。

アラゴン王国がスペインになったり、ロンバルディアがスイスとオーストリアに分かれたり、ポルトガルが出来たり、イタリアが出来たり、全部が同時期です。

その裏に神聖ローマ帝国事情や、武器産業(水車動力)、金融などの理由があったのです。

さて、前出の金融マフィアの祖はデル・バンコと言うのは裏にサヴォイがいて、ロンバルディアに銀行を作る命令を出したという話ですが・・・

サヴォイは第二次世界大戦時のイタリア国王で、その前にロスチャイルドの赤シャツ隊をシシリーから追い出してました。

サヴォイは昔からサルディーニャ島の王様です。

バルト海側の古い民族が、地中海側を攻めた時にサルディーニャ島を基地にしていたと、言われています。

エジンバラ公側の勢力の人間は、そう信じていて、サルディーニャが重要拠点となっているんです。

10世紀より前から、サルディーニャはサヴォイの血筋。

サヴォイは、カルタゴ、ヴェネチアに展開する裕福な海洋族の元なので、デル・バンコに命令し銀行を作らせるような高位にいたと言う事です。

今でも、マルタ騎士団とか海洋族由来の騎士団があります。

この海洋族由来の騎士団はサヴォイ傘下ということです。

デル・バンコは移住先するたびに姓を変えました。

シェルバーンら、チャーター銀行に関連する一連の元がデル・バンコと言われています。

彼がロンバルディア出な訳です。

第2回十字軍遠征に祭し、費用を貸し出す為の銀行をロンバルディアに作りました。


話は変わり、スペイン王国が出来あがる時代

スペイン王国とは、1469年、アラゴン王太子フェルナンド(後のフェルナンド2世)が カスティーリャ王女イサベル(後のイサベル1世)と結婚し、 1479年にはアラゴン王国とカスティーリャ王国の同君連合が形成され成立した王国です。 ローマ教皇アレクサンデル6世はこの2人を「カトリック両王」と呼んだ。

この一時代前のアラゴン王家はバルセロナ伯家と通婚を重ね、1137年にアラゴン王ラミロ2世の一人娘 ペトロニーラ女王とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚により、両家の連合が成立した。 2人の間の子アルフォンソ2世以降はバルセロナ家の君主の下に統合された。 こうしてアラゴン連合王国と呼ばれる同君連合が成立した。

スペイン=アラゴン王国に辺境王を派遣してました。

ジェノヴァ、ロンバルディア、ヴェネチアの銀行家が、80年戦争の前から後まで、各国の戦争に裏から投資して国際資金運用をしていたんです。

これらが十字軍遠征と密接に絡みます。

大量の資金を持っていたテンプル騎士団等です。

十字軍が始まったばかりの頃です。

テンプル騎士団→メディチ→ヴェルフ→ナッサウ→オラニエ=ヘッセンと引き継がれているということです。

もっと言ったら、アレクサンダー大王から・・・

テンプル騎士団は構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第一次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛に主要な役割を果たした。特筆すべき点として、騎士団が保有する資産(構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など)の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。

東ローマ帝国、オスマン帝国への覇権移行も、こうした諸事象の相互作用であると言う事なんですね。

この時代から近代に至るまで、戦争の影には銀行家ありと言う事です。

この間の簿外資金の流れを見れば、東ローマ帝国側を通して移動した部分が見えます。

ロマノフ。

古代ローマ帝国の金塊はアレキサンダー大王からの流れを引き継いだ物が、そのまま移行されているのです。

テンプル騎士団側の簿外資金は、解散させられた後はいくつかのグループ、国に分散され、ポルトガルやスコットランドを経てロンバルディアを経由し・・・

ロンドンのザ・シティーに集まった簿外資金。

ギリシアからドイツ騎士団側に奪われた簿外資金。

カスティーリャ、アラゴン側に流れた簿外資金。

メディチを通って、ヴェルフ、ハノーヴァーへと流れドイツ騎士団側に奪われた簿外資金。

様々なルートを辿りました。

こうした中で現在のベルベットファシズムの裏資金として動いているのが、第一次世界大戦後に国際機構側の凍結を免れ彼らに残った簿外資金です。

レ◎◎◎の総領事館に在った金塊は、オランダ、オラニエ=ヘッセンです。

忘れてはならないのがロマノフの簿外資金です。

それでは。
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コメント

No title

第二次世界大戦前後、意味不明な人物が幾人か出現します。
白州次郎、大川周明、米内光政他???
白州次郎は名無し先生に教わり理解できましたが、上記以外で、戦後最大のフィクサーと言われた、安◎正◎がさっぱり?です。
以前聞いた話ですが、ペリシテ人◎小◎がお忍び?で何度か来日した時に、一番多く会っていたのが安◎正◎だったそうです(二人とも故人です)
この安◎正◎の派閥は今現在も隠然たる力をお持ちだそうです。
プログ主様がいつか、安◎正◎について記事にしていただけると幸いです。

No title

アメリカのモンロー主義とは、欧州のある勢力からの孤立主義であって、一般的な世界戦略ではなかったのですね。再確認しました。

アメリカはモンロー主義(対欧州孤立主義)とグローバル主義を行ったり来たりしていることがだいぶ分かってきました。時の政権と議会の意見が一致しないことも多いようです。

ある本を読みましたら、「アメリカは欧州の鏡」とありました。
またある本には、「日本はアメリカの鏡」とありました。
こういうことが如実に分からないといけないのでしょう。
アメリカや欧州の状況について詳しくないと始まらないことですね。

>米国の影響力が強くなり始めた訳です。時代で言うなら明治期終盤、大正、昭和初期からです。公家システムが5摂家体制の次の時代に移ったのも同時期です。

これはほんの少し、想像も含め、分かるような気がします。
アメリカは国内を開拓しきって内戦をし、ハワイ、フィリピンなどを押さえ、次は日本・中国など東アジアを戦略対象にしていました。
また、公家システムが5摂家体制の次の時代に移ったというのは、少々古い盟約に基づくものではないかと思います。かつ、欧州内陰謀勢力と長く付き合って、よく研究し理解しているのは、日本においては公家既得権益勢力だということでしょう。
なかなか庶民には知りえないし、付き合いきれないところがあります。確かに対応が困難なことでしょう。

いろいろと良書(と思われるもの)に絞って、繰り返し読むようにはしているのですが、なかなかおぼつきません。

No title

明治期終盤、大正、昭和初期に起っこた事といえば、石炭から石油へのエネルギーシフトです。コーヒールンバを執拗に取り上げられていたのと、名無し先生のコメントから、ペリシテ人の末裔を称されている方々が、石油利権を握っており、彼らがC派閥を形成していると推察されます。
上記の考えが正しいのであれば、過去記事、過去コメによる、政治、歴史、金融、エネルギーの解説が全て自給自足へと繋がってきます。
コメントにあります基幹産業とは新エネルギー産業のことかと思われますが、最早、対人間ではなく、地球の地殻変動までの、時間との闘いかと思われます。どうか御武運を。

蛇足・・・・白州次郎に関して以前「インドネシアにデ◎◎夫人を送り込んだ仕掛け人は白州次郎だ」と聞いていたので、過去コメにより国際秩序派の働きの一端が、垣間見えたような気がします。








ご解説いただきありがとうございます

名無し先生

詳しいご解説をありがとうございました。
なるほどと思いました。まだ、腑に落ちるほどにはなっていませんが、今後、さらに理解が深まっていくと思います。

>利権の面で彼らと癒着しつつも、免疫の役割を果たしているのが現況公家システム。
>解決策は欧州内陰謀勢力にも公家既得権益勢力にも打ち勝てる善玉菌

企業・産業育成ですね。公家システムのほうはまだ具体的には見えてきていませんが、だんだんと想像できるようになってきました。

O'BRIAN様

少しずつ理解が深まってきました。ありがとうございます。

と様

ということです(笑)

もう、先生以上のコメントが書く事を書く事はできません。

訂正

目が出る―>芽が出る

と様

貴殿の混乱の原因は、以下の3点と推察します。
1.モンロー主義=欧州との決別、ドル国際基軸通貨=欧州を含む世界経済との係わり。となり2事象が矛盾するのではないか?
2.世界の警察官たる超大国アメリカである為には軍事力を維持すべきなのに、何故北大西洋条約機構に於いて米国は引き込まれたという表現になるのか?
3.日本国は米国の属国扱いと言われるのに、何故公家システムはベルベット・ファシズムとの絡みが歴史的に強い証拠が多いのか?

1.モンロー主義を過去の時代において定義すれば『独自の工業発展による欧州勢力との決別』となりますが、ここで言う欧州勢力とは、欧州に於いて革命を企て、その裏側では王家と婚姻し、革命後の実権を握って行った勢力の事です。つまり、欧州経済との決別ではなく、欧州全体に影響力を及ばす様になった陰謀集団との決別を意味しております。従って現代に於いては、各国経済に入り込んだ経済テロ集団の撃退であり、欧州経済と付き合わないと言う意味ではありません。経済テロ集団とは、現況国際秩序であるドル国際通貨基軸に反する動きの事で、この動きに伴う国際間資金移動をマネーロンダリングと定義するのです。

2.英、仏が北大西洋条約機構に米国を巻き込んだのは前述の通りです。つまり東欧における混乱を鎮める為に米国軍事力を利用した訳です。その上でソ連邦を共産主義国としてロシア革命により乗っ取り、米国の対立国に仕立て上げた。この時代が米ソ冷戦時代であり、この演出は1に於いて述べた欧州内陰謀集団によってなされた訳です。現在米軍の影響力が弱まっているかに見えるのは、こうしたマッチポンプに乗せられて、米国民の税金で、米軍を出動させるケースが減ってきていると言う事です。従って一番の痛手は、軍産複合体と言われる、米国内にも大きな影響力を築いてきた欧州内陰謀集団です。

3.日本国が前述陰謀集団と内通してきた時代がWW2の遥か前からです。近代になって初めてそれを改正させられつつあり、米国の影響力が強くなり始めた訳です。時代で言うなら明治期終盤、大正、昭和初期からです。公家システムが5摂家体制の次の時代に移ったのも同時期です。それでも既得権益者の抵抗は続いており、未だ民主化への過渡期に在るのです。しかし一度に日本国の既得権益システムをゼロにすれば、欧州内陰謀勢力にとっておいしい餌になってしまいます。利権の面で彼らと癒着しつつも、免疫の役割を果たしているのが現況公家システムと御理解下さい。解決策は欧州内陰謀勢力にも公家既得権益勢力にも打ち勝てる善玉菌(日本産の機関産業、製造業を主体とした総合企業)を育てる事です。現在その作業の準備段階です。本年度中に、その種を植え目が出る処まで進める予定です。

No title

現国際秩序は、世界の警察官たる超大国アメリカの力(軍事力、強いドル)が前提となっているようです。
この前提がまさに現在において危うくなってきているように思えます。
(この前提はルーズベルトが仕込んでおいたものだとある本には書いてありました。)

それとは別の問題として、日本は独立国として、まだしっかりしていないように思えます。
(マッカーサー憲法では難しいようです。)
国民が政治的に成熟していないからでしょうか。

名無し先生、どう思われますか。

O'BRIAN様、公平、正確な情報を求めています。新しい記事を期待しています。

とさま

コメントありがとうございます。

ポツダム宣言について触れおられましたので、次回の記事として、戦後の日本の位置について書かせていただきます。

日本が役割を果たさないからG20になった記事でも書きましたが、ポツダム宣言の中に非常に重要な項目がありあます。

No title

>ポツダム宣言と時期を前後して、日本同様敗戦国であった西ドイツの再軍備が決定されていたのです。背景には北大西洋条約機構VSワルシャワ条約機構という米ソ冷戦時代の幕開けが在った訳です。西ドイツに続き国際社会への復帰を認められた日本国、しかもドイツの様に東西分断される事がないまま連合国側への編入を認められた転機が、まさにこのポツダム宣言受託だった

ドイツは分割占領、軍政という不利な条件から、一歩一歩ゆっくりと、しかし確実な段階を踏んで、現在の「普通の独立国」としての地位を回復しました。
一方、日本は分割されずに保障占領・間接統治というドイツよりは不利でない条件からではありましたが、「アメリカの保護国」という半端な地位のまま今日に至ります。自主憲法も制定されず、再軍備もされていません。アメリカとの同盟も当然のことながら、対等なものではありません。

このように至った原因と今後のことについて、ときどき考えるのですが、なかなかやっかいなことなので、中途半端な考察に留まってしまっています。今回も少々考えてみましたが、考察がすすみません。

安倍政権がこの問題について言及していますが、ちょうど考えるべき時期になっているのでしょう。
なぜ、国内で大々的なまともな議論がなされないのか、とても疑問です。何らかのタブーが幾重にもあるからでしょうか。情けないことです。
ドイツはどうしてああいう風にしっかりしているのでしょう。

アメリカが「モンロー主義」に回帰するのであれば、どうしても再軍備は避けられないことのように思えます。

(追記)
ただ、中国と戦争にならないように、最大の注意を払う必要があることは、言うまでもありません。難しい時代ですね。

名無し先生

ありがとうございます。

当時、ロシア・日本・アメリカに潜り混んだコミュニスト達と
日朝合同朝廷の末裔の御方が密接に事を成して来た事は理解出来ました。

満州事変〜WW2への裏の動向を考えると、
現在のネオ満州建国への動きは同様に布石であろうことも・・・
プーチン下のロシアではWW2と同じ轍を踏まないまでも
現在のウクライナ暴動の様にコミュニスト達によりプレッシャーを掛けられ
将来的にロシア勢力図にまた変化が起きる事が懸念されます。

名無し先生

冷静なご指摘をありがとうございます。
データが多すぎて、少々混乱しました。

また、李氏の金塊についての、先生ご自身のコメントでしたか。
文脈を正確に把握せずに投稿してしまい、すいませんでした。

今、少々疑問に思っている事柄があります。
1. アメリカはモンロー主義者が少なからず存在して、将来、モンロー主義に回帰する可能性があるか?
2. 大正天皇は押し込めにあった?なぜ誰によって?このことは昭和の戦争に直結したか?
3. 明治維新の結果、藤氏長者の制度が止まったか?その影響は現在にも続いているのか?
などです。

最近、少々歴史観が変わってきたかなと思う、この頃です。
もう少し、精度をあげて、また、落ち着いて、物事を観察したいものです。

興味深い文章を見つけましたので、以下転載します。
===========
(もう一旦はご覧になったと思います。ご参考までに転載しただけですので、削除します。)

と様

御伽話とは『李朝の金塊』の話ですが?

未だ天皇の金塊説?

関係どころか、反米感情を煽る為の事実に反する御伽話。

No title

マックアーサーに連れられ米国に養子に行った方

★2013年6月16日、オバマと韓国大統領電話会談で話されたこととは、2001年9月12日に返すはずだった李朝の金塊は返せないが、経済の方は助けてほしい、ということ。
6月16日、安倍総理がポーランドのワルシャワを訪問し、ポーランド共和国、チェコ共和国、スロバキア共和国、ハンガリー共和国 と話したこととは、日本から東欧へ投資するということ。ロシアのように、ロスチャイルドのようなユダヤ資本を追い出したいから。

http://www.maroon.dti.ne.jp/terii/sakuryaku.html

関係ありますか

toshi様、と様

>財務長官の養子として渡米した御方は今となって考えてみると、2.26事件や昭和末期から平成初期の不穏な動きを担保するものではないかと思えてなりません。

以前記事にもなっていたと思いますが、マックアーサーに連れられ米国に養子に行った方が、3つの世界最高評議会の内の一つに於いて議長となった訳です。当然極東で起きる、戦争や事変の原因となる動きを企画、指示する職務だった訳です。

>第二次世界大戦は、主には、イギリスからアメリカへの覇権移譲と、ソ連というおばけを作り出し冷戦構造をとるためになされたことであって

情報量の多さに振り回されず冷静な判断をしてください。
・イギリスからアメリカへの覇権移譲の為WW2が企画された物であるなら、それ以前に国際通貨基軸がドルに移ってしまっている事と整合性が取れませんね?WW2以前に英国は移譲する様な覇権を失っています。しかし、旧来の植民地を駆使した人海戦術は残っています。この権益は米国に渡していませんね?
・ソ連というおばけを作り出したのは日露戦争、ロシア革命です。ロマノフ家を崩壊させ革命政府たるソビエト連邦が出来上がった訳ですね?WW1の前ですよ。

米国は王制ではなく合議制の国です。従って、米国内に入り込み大きな勢力を持った側の意見も政策には反映されてしまいます。それがレインボー計画や北大西洋条約機構に引き込まれてしまった理由です。私が示唆したポイントは、米国内に入り込み、米軍を誘導した勢力が、『オランダ経由アイルランド&英国』つまりナッサウ&ヘッセンであるという点です。

名無し先生

いろいろと参考になります。

Bドルは、館山など一部地域でごく短期間、小笠原諸島や沖縄で占領期間中に使われていたようです。

北大西洋条約機構VSワルシャワ条約機構:
第二次世界大戦は、主には、イギリスからアメリカへの覇権移譲と、ソ連というおばけを作り出し冷戦構造をとるためになされたことであって、たぶんインナーサークルでは、戦争前から構想されていたのではないかと想像します。

前回の名無し先生のコメント以降、ポツダム宣言の背景、米国の対日占領政策研究、占領(軍事占領)、占領行政、再軍備のことなどを調べておりました。今回の名無し先生のコメントから、レインボー・プラン、オレンジ・プラン、などもざっくり調べてみました。

米国の対日占領政策研究について、ご参考までに。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi_1.htm

大量の情報などに圧倒されておりますが、実のところ、アメリカの計画好き、研究・勉強好きには、半ばあきれ、また恐ろしさを覚えました。
これに敵う国民や知性の持ち主というのは、どういう人たちなのでしょう。
ヨーロッパなどは戦争が多かったから、半ば慣れているのでしょうか。比べて、日本は明らかにナイーブでしょう。

いろいろな偶然も重なって日本の今があるのですが、対日占領についてはアメリカの計画・研究勝ちというのが、大きいようです。国家ぐるみで長期間にわたり大研究しているのです。また、ルーズベルトが亡くなった後の米国大統領トルーマンは、対ソ強硬路線でした。イギリス(チャーチルなど)からは日本に対し少々の援護があったかもしれないと思いました。

ただし、裏ではどのようになっているのか、よく分かりません。(というのは、みなさんご存知のように、第二次世界大戦前後というのは、どの国にも多重スパイが大量に入りこんでいたため、真相は分かりそうにありませんので・・・。例のヴェノナとかキム・フィルビーとか米国ニューディール派とか、いったい何が何だか、何も信じられない気持ちがします。日本国内においても同様だったのでしょう。)
分かっている人はごく少数なのでしょう。どんな人たちが知っているのでしょう。

北大西洋条約機構VSワルシャワ条約機構

北大西洋条約機構VSワルシャワ条約機構が米ソ冷戦時代の幕開けを産んだ事は前述の通りですが、北大西洋条約機構を発案した主体は米国ではありません。当初はソ連側と東欧利権を争う英国、仏国が中心であり、「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを抑え込む」という初代事務総長ヘイスティングス・イスメイの言葉が象徴するように米国は当に引き込まれたのです。この件と同様に欧州のいざこざには関わらず独自の工業発展を目指そうとしたモンロー主義を曲げ、米国民をWW1に導いたのがレインボー作戦でした。これを主導したのがマックアーサーの父親です。

私が今回「BドルorBエン」の件に触れたのは、ちょうど先週、百●(もも●●)というマックアーサーの側近の様な役割をした方の下で、様々な処理をしていた人間と話をしたからです。彼は「百●(もも●●)が日本をBドルの国にすると言っていたのを、正しい事と受け止め手伝っていましたが、あれこそコミュニスト活動だったのですね・・・。私は一体何をしていたんだろう・・・」と顔を赤らめていました。彼自身百●(もも●●)からボーナスだと言われ大量のBドル札を受け取っていましたが、換金できる事はなかったとの事です。

こうした一般経済活動の中にも、たえずベルベット・ファシズムは顔をのぞかせています。自身では何の気なしにチャンスを掴んだと邁進してしまう方が多い物なのです。

No title

こんにちは。
ダグラス・マッカーサーについて先生からヒントがあったのでちょいとぐぐってみました。祖父の名がこれまた英国を背負って立つ名前です。ブリテン島の英雄アーサー王伝説に因んでいます。Mac-は息子とか子孫の意味で-sonも同じで誰それの息子とか子孫だよと苗字で表明しています。Sir Arthur・MacArthurアーサー王の子孫のアーサー、彼の祖父の名で父親も同名ジュニアでした。祖父はスコットランドハイランド地方の貴族の家系です。次男の家系だった祖父は生後まもなく父親が他界し、再婚した母と共に1815年にマサチューセッツ州Uxbrigeに入植、同年にウックスブリッジ伯爵ことアングルシー侯爵が創設した地です。ウェールズのアングルシー島由来のようです。勇猛果敢なハイランド男児の血筋は、幼少時フランス系の母親に女児の格好で育てられたにもかかわらず、ダグラスは陸軍士官学校ウェストポイントを最優等で卒業するに至っています。父親は当時米植民地だったフィリピン弁務官、総督に匹敵するから軍人としてサラブレッドの家系です。
フランクリン・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル(祖父は第7代マールバラ侯爵)とは遠戚だそうです。
アイルランド、スコットランド出自はケネディ、リーガン、クリントンなど目立った大統領を輩出しているのも特徴です。マッカサーの功績や後年の失脚蟄居は省略します。家系のつながりごく一部でごめんなさい。

ハル・ノート

通貨戦争の情報ありがとうございます。

WW2前後を考える時、コミンテルンのスパイ活動が
顕著であった事が挙げられると思います。
当時の財務副長官がコミンテルンのスパイでハル・ノート作成に
深く関わっていた米公式文書が公開されているのを知った時は衝撃的でした。

財務長官の養子として渡米した御方は今となって考えてみると、
2.26事件や昭和末期から平成初期の不穏な動きを担保するものでは
ないかと思えてなりません。
今上天皇から皇妃を民間から選ぶ様に変化したのも戦後の流れですね。

その様な渦中でも国体を護るべく苦汁を舐めながら施策に苦慮した方々には
最良の敬意を表したいと思います。

反設計主義者様、と様

通信網利権、電力利権、原発利権など様々な利権に関しては、以前より触れている公家システムと大きく絡む問題です。それぞれの利権をどの派閥が取るか、各派閥内での宗教関係派閥との関連などが複雑な相互作用を産んでいます。これらの後ろ側に回り込み海外からのベルベットファシスト勢力が、巧妙な遠隔操作を行っている現状です。到底表から見たら、真の因果関係は見えず、国内の旧来勢力の仲間割れと映る事でしょう。

「ポツダム宣言に反する」という主張は単純な様で実に深い意味を持っております。このポツダム宣言と時期を前後して、日本同様敗戦国であった西ドイツの再軍備が決定されていたのです。背景には北大西洋条約機構VSワルシャワ条約機構という米ソ冷戦時代の幕開けが在った訳です。西ドイツに続き国際社会への復帰を認められた日本国、しかもドイツの様に東西分断される事がないまま連合国側への編入を認められた転機が、まさにこのポツダム宣言受託だった訳です。ドイツ同様にソ連と国境を接する日本国が、何故東日本と西日本に分断される事無く自由経済社会に再編入が出来たのかを、日本国民は今一度見つめ直す必要があります。これは決して民意が為し得た結果ではありません。

Bドル軍票を含む三布告白紙撤回など

Bドルという軍票の話(三布告)については、少しは聞いていました。つまり、岡崎勝男、重光葵が、「ポツダム宣言に反する」と言って撤回させたという表面的なことを知っていました。もっと、実質的な理由があったのですね。
たいへん興味深いです。

「三布告」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B8%83%E5%91%8A#cite_note-m303-1
このウィキの記事に、「占領統治計画そのものは、真珠湾攻撃より前から存在していた」とか、「マッカーサー自身は長期的には直接統治、一時的には間接統治が有効とみており、GHQの中枢を占めた要人は, 直接統治を念頭に人選が行われたものであった」などとあります。
この問題は結構深い背景があることなのでしょう。

マッカーサーという人は、対連合国、対アメリカ本国、対日本などいろんな方面と交渉・折衝をしていたのですが、なかなか正確に知ることは難しいです。コロコロと状況・政策が変わるのです。また、GHQ自体が一枚岩でなかったらしいです。アイルランド系のルーツ来る影響については考えたことがありませんでした。勉強になります。

白洲次郎については、ウォーバーグとの関係、東北電力そのほかとの関連から、一時期ほどは礼賛されていないようです。原発などにも関係が深かったことでしょう。その延長上にまさに現在の日本があるように思えます。

「通貨」の問題も大きいですが、日本の福島原発事故や中国の地下水汚染、PM2.5などの「環境破壊」の問題も今日においては大きな問題だと思います。
政治や意思決定過程の機能不全というのが著しいのです。恐ろしい世の中だと思います。「苛政は虎よりも猛し」という論語の言葉を思い出します。まるで戦火なき戦時下であるかのようです。

もっと詳しく、政治や経済に関わる諸団体や諸家系における動向・性向について知りえればよいのでしょうが、現状それほど詳細に知りえません。残念です。

通信網利権

こんにちは。
白州次郎先生といえばソフトバンクCMを思い出しました。

【ソフトバンクCM】
犬=白戸次郎
妻=白戸マサコ
【白洲家】
夫=白洲次郎
妻=白洲正子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%88%B8%E5%AE%B6
白州次郎先生は犬扱いで、絶対に偶然ではないですね。孫正義は米携帯電話第3位のスプリントと同4位のTモバイルUSを合併買収しょうとしてます。米国の通信行政トップであるウィーラー氏は難色を示しているようですが、気になります。

孫正義は311後、脱原発「アジアスーパーグリッド構想」も訴え、経済戦争を仕掛けてきてると見ていいんでしょうか?古賀英明氏も怪しいですね。

軍事戦争と経済戦争

WW1及びWW2に代表される、近代の大きな軍事戦争は主に領土戦争でした。これらと関連は持ちますが,別の基準で展開されるのが経済戦争であり、言い方を変えれば通貨基軸戦争といっても過言ではないのです。

ポンド基軸の金本位制から、ドル基軸の金本位制へと移行し、変動相場制に移行したのが1973年。この間の時期にWW2が、あった訳です。WW2後の日本国における通貨戦争の一局面を御紹介します。

戦後の日本を統治していたGHQの総司令官であったマックアーサーの日本国通貨に関する政策は、Bドルと言われる米国軍票を日本全国で普及させる事でした。つまり彼の通貨政策が進んでいたなら、今頃日本国の円通貨は無くなっていたのです。そして、このBドルという軍票は、ドルの様でありながら、ドルでない、その後他の通貨に変更し得る約束手形の様なものであった訳です。可能性としては中国の元通貨や当時で言えばポンド通貨やマルク通貨、今で言えばユーロ通貨にも変更し得る物であった訳です。マックアーサーが、こうした施策を展開しようとしたした背景は、彼の一族の出身地であるアイルランドに深く由来しております。リーガン大統領も、同じアイルランド出身の一族です。ご興味のある方は、アイルランドと英国本島であるイングランドの長きに渡る確執、オランダ王室オラニエ(オレンジ)公とアイルランドの関係、特にオレンジ革命との絡みをお調べ下さい。

こうした、円通貨が無くなり、通貨の独立性、しいては経済の独立性を損なう危機をWW2以前から察知し行動していた勢力が日本国内にも存在しました。この勢力に関しては過去コメントで何度か触れてきましたので、今回は割愛します。マックアーサーが日本国でBドル政策を進めるのと連動し、米国内で敗戦国日本に対する政策を推し進めていた高官たちも居りました。以前御紹介した日韓合同朝廷の長男が養子に行った先も、この派閥で当時の米国財務長官を務めておりました。彼を養子縁組の為米国に連れて行ったのが、マックアーサー当人ですから当然の事です。こうした局面において米国の国際秩序維持派閥と連動し、日本国内Bドル通貨政策に待ったをかけたのは、表面的には吉田茂ですが、彼の優柔不断な態度に後ろから叱咤激励をした白州次郎先生でした。当然白洲先生も、オランダ国を表面に立てた勢力の、アジア支配、ロシア乗っ取りを見抜き対処した特殊部隊の方々との連携が在ったからこそ取り得た行動です。

こうした経済戦争、通貨戦争は現在でも続いており、現況国際秩序を崩す策謀が頻発しております。日本国民の賢明な判断を期待致します。

美保子様

コメントありがとうございます。

すばらしいの一言ですね。本当に感心します。

たったいま、ビザンツも含めた記事を書き終え、名無し先生に送付したところです。

今後ともよろしくお願いいたします。

ドージェ、10人、40人、~300人委員会

こんにちは。
補足して頂きありがとうございます。全体的な流れは推測できていると思っています。先生ご指摘されるように、何でもかんでもユダヤが~カラスが~ではないですね。
6世紀にはビザンツ帝国の総督(ドージェ)を選出して共和国となっています。最盛期には1日1隻造船できる生産工程と職人、錬鉄冶金術から武器製造や貨幣鋳造など熟練した海軍にもなる住民を擁していたヴェネチア人は商人でもあり金融人でもあり武装人でもあった。評議会を開催する大会議室、その上階には牢獄まで併設していたようです。武装商人ですね。傭兵も雇ったのでしょう。
元老院に対して青年が10人委員会を結成し、もめ事の迅速な処理を行うための情報収集や諜報活動をしていたようです。ユダヤ人はまだ大きな勢力ではなかったようです。ジュデカ島に限定して住み、後に市の一部にゲットーがつくられていった。スペインのレコンキスタで追放されたユダヤ人の一部がギリシャのサロニカやアドリア海沿岸のフェニキア人が拠点にしていたヴェネチアなどに移住して増えたようです。貴族は陸地側に邸宅を構えていったようです。
英国貴族が広壮なカントリーハウスと便利なロンドンのタウンハウスを使い分けたように、どちらもやがてスイスに向かった。

美保子様

今回記事は貴女の『カルタゴ』に関する過去コメントに対し、ヴェネチアへの流れを書いて頂こうと示唆いたしましたが、中心はスイスとスペインになったようです。ロンゴバルド=ロンバルディア=『スイス(ネウストリア)とオーストリア(アウストリア)+イタリア南部のベネヴェント・スポレート』とヴェネチアには深い因縁が在ります。またヴェネチアで確立された~人委員会体制は、その後の各秘密結社の基礎となる物も多く存在します。

カナーン

レ◎◎◎という国はカナーンの紛争地しか思い浮かばないです。スンダ列島のある島の豊かな国に設けられた総領事館に秘匿されていた・・・。
暗黙知ということで詮索はこの辺にしておきます。

大使に任命されると天皇の直筆署名と国璽印が押された文書が渡されるのですね。ちょっとおもしろいサイトがあり、終戦の詔書にも裕仁の署名と国璽、内閣総理大臣男爵鈴木貫太郎、海軍大臣、司法大臣、陸軍大臣、厚生大臣(この順番が序列かな?)・・・・とあります。このサイトで初見でした。フリージャーナリスト藤原肇氏と元外務官僚天木直人氏の対談を引用されたものです。

一円融合、心田開発
http://ichienyuugou.blog.fc2.com/blog-entry-1038.html

感謝します

こんにちは。
わかりやすくまとめて下さってありがとうございます。
4度目のコメントトライです。よっぽど嫌われているのかコメントを書きかけて途中で消えてしまいます。あきらめるのを待ってるのでしょうかね。
手短にします。
この投稿記事の最後の2行が重要ですね。世界一の富裕国はロシア帝国とロシア帝室でした。簿外資金の隠されたベルファシ側も。

スイスと医薬品産業

TPPでアメリカが高い医薬品を売りつけるみたいな話がネットで騒がれていましたが、調べるとアメリカは医薬品も年間200億ドル以上no貿易赤字のようですね。日本も100億ドル以上の赤字です。

医薬品産業といえばスイスで、なんと300億ドル以上黒字です。スイスでの税率は14%程度と低く、グローバル企業が特許を持ってる会社をスイスに置くことで租税回避しているようです。

ノバルティスやロッシュとベルファシ側メディチ家の関係も気になりますね。

最近、ノバルティスが日本での臨床研究のデータ改ざん、不正を暴かれ、ノバルティス社日本法人を刑事告発する事態に至っています。

これも国際秩序派の動きの一環かなと考えております。

読み応えありました。

良く纏まっていて流れが分かり易く改めて再認識できました。
ありがとうございます。

補足ですが

・ウンベルト1世ビアンカマーノ(サヴォイア家始祖)
ウンベルト1世はサヴォイア地方モーリエンヌ(ハンニバルが山越えに用いたとされる)の貴族として生まれた。

・サン=ジャン=ド=モーリエンヌ
フランス、ローヌ=アルプ地域圏、サヴォワ(サヴォイア)県のコミューン。
6世紀以降モーリエンヌ谷の中心地であった。
聖テクルがアレクサンドリアから、洗礼者ヨハネのものとされる
聖遺物(3本の指)をもたらした(現在、コミューンの紋章にも描かれている)
同様に、刃物メーカーオピネル社のロゴも、この3本の指を表している。
町はクロヴィス1世の息子グントラムによって、司教座の町の列に加えられた。
753年、カール・マルテル(カロリング家)の子グリフォンが、
異母兄ピピン3世最大の敵であるロンゴバルド族の王アイストルフと
合流するためイタリアを訪れようとしたが、
ピピンの手の者によってサン=ジャン=ド=モーリエンヌで殺害された。

エステ家はロンゴバルド族の貴族でしたね。
ロンゴバルド族はスカンジナビア起源らしいのですが、
北欧神話オーディンの逸話ではウィンニリ族が「髭の長い者」として
ロンゴバルドの語源になったとあります。

名前が無記名でした。

名前が無記名でした。失礼しました。

ブログ主様

私が初めて、こちらのブログにお邪魔した頃とは雲泥の差の、ずば抜けたフレームワーク力で欧州事情を分析されており感心致しました。少しだけ付け足すなら、後にスペイン王国となるアラゴン王国+カスティーリャ王国。この2国はイエズス会のNo.1&No.3であるロヨラ、ザビエルと非常に縁が深い国である事。この地域ではテンプル騎士団に対する制裁は行われなかった事です。フリーメーソン側に関しては言うに及ばずですね。

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世界の情報を交えながら、自己組織集団(自給自足集合体)の時代について考えてゆきます。

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