この世界でやるべきこと、特に無いな──と。
学園の廊下を歩きながら、ふと、そんな考えが脳裏に過った。
恐らくは、異世界転移という類の事象だったのだろう。
気がつけば、コスプレ姿の美少女が、ターフを駆け抜ける姿に、一喜一憂する人々で溢れた、おかしな世界に立っていた。
そこに、喜びがなかったと言えば、嘘になる。
こちとら元より、天涯孤独の身。
学生にして、既に両親と帰る家を失っていたわけで、躍起になって元の世界へ帰ろうと努力する理由は、残念ながら持ち合わせてはおらず。
それなりに好きだったメディア作品に、よく似た世界へ神隠しに遭ったとなれば、思考の現実逃避も存外捗るものであった。
しかし、金も身寄りも戸籍もなく、全く味方のいない世界での立ち回り方など、俺には分からなかった。
普段から、異世界に迷い込んだらまずコレ、だとか、想像力豊かな話を楽しそうにしていた、あのクラスメイト達に、助けを求めたい気分だった。
戸籍が無かったら、こうする。
頼れる人がいないのなら、とりあえずこうする──だなんて、全く、てんで何も思いつかず。
警察へ赴き、俺、戸籍が無いんです、などと馬鹿正直に”異世界からの遭難”を告白する勇気も、十数年間普通に学生をしていただけの俺にはなかった。
なので、一旦日銭を稼ぐために、履歴書のいらないバイトを探していたところ、とある治験が目に留まり、興味を惹かれた。
あまりにも割が良すぎるそのバイトへの応募が、人生最大の過ちであることなど、露ほども知らず。
治験なのに履歴書なくて大丈夫なのかよ──なんて呑気に構えていたその日が、俺が普通の人間でいられる、最期の日になるのであった。
気がつくと、ウマ娘になっていた。
いや、娘、というと語弊があるかもしれない。
俺はウマ耳が頭から生えた、奇怪な男に変貌を遂げていたのだ。
バイトとして受けた治験は、どうやらどこぞの怪しい研究機関が、内容を偽って実施したものであったらしい。
ウマ男子になった俺が、施設から逃げ出した数日後、全国のニュース番組では、連行される彼らの映像が映し出されていた。
──と、言うわけで。
上述の経緯の果てに、今現在の俺は、どういった状況に陥っているのか。
一言で表すなら、二度目の学生生活を送っている。
悪魔の実験でウマ男子になり、汗と涙と鼻水をまき散らしながら、街中へ逃げ込んだ俺を保護したのは、どこかで見たことのある、白髪混じりのオレンジ髪の少女であった。
ロリババアかと思いきや、ガチロリだったことで衝撃を呼んだ、学園の理事長こと秋川やよい。
身寄りのないホームレス少年から、再び学生に戻れたのは、彼女の計らいだ。
監視やら保護やら、世間の注目から守るだとかの理由で、俺は中央トレセン学園に
簡単に言えば、女装コスプレである。
俺を守るにはこうするしかないとのことで、更衣室やトイレは、特別に職員用のものを使わせて頂き、なんとかバレないよう工夫しながら、秋川さんとお偉いさんの、この先の俺の処遇が決定するその日まで、俺はトレセン学園に女装して通う変態になったのであった。
……
…………
ヤベー組織による、マジでヤベー改造を施された俺は、通常のウマ娘たちを、遥かに凌駕する身体能力を有している。
例えるなら、一般人から見たウマ娘、と言ったところだろうか。
普通の人間からすればウマ娘は超人だが、俺は彼女たちから見た場合の超人に該当する。
これは自惚れではなく、検査により判明した、覆しようのない厳然たる事実だ。
一般的なウマ娘が、ゴールまでに三十秒かかる距離を、俺は五秒で走り抜けることができてしまう。
まるで、アメリカンコミックのヒーローにでもなったような、とても愉快な気分になった時もありはしたものの、その力を詳らかにすることは、秋川さんによって止められてしまっているのが、現状だ。
言うまでもなく、秋川さんが俺の身の安全を考えて、忠告してくれたことである。
こんな、ウマ娘すら軽く凌駕する最強生物がいるとなれば、世界中の誰に研究材料として狙われるか、分かったものではない。
なので、とても平々凡々なウマ娘として、秘密をひた隠しにしながら──ついでに、四方八方から襲い掛かる、学園の女子たちから香る甘くて芳醇な匂いを、胸いっぱいに吸い込んで幸福を噛みしめている事実も隠しつつ、俺は普通に生活をしていた。
……平凡な生活が、出来すぎている。
いや、ウマ娘の世界に迷い込んで、あまつさえ規格外のチート能力を手に入れたというのに、これほど安定して
そして、でもこの世界でやるべきことなんて特にないよな、と再確認できてしまったのが、放課後の廊下を歩いている、今この瞬間なのである。
秋川さんに保護してもらい、精神的な余裕が生まれ始めた頃、俺は改めて”ウマ娘の世界へやってきた”という事実について深く考えていた。
もしかすると、あの美少女たちと、何らかの形で交流することができるかもしれない。
もっと単純な言い方をすると──ラブコメが可能かもしれない。
そう思ってた時期が、私にもありました。
しかし、現実は理想とは程遠く、ウマ娘たちには、彼女たちをよく見てくれるトレーナーの存在があり、女子高ではあるものの男性は十二分に足りていた。
つまり、俺の出番はなかったのだ。
正体を明かさねばならないほど、特異なイベントも何も起こらず、今もこうして普通に
細かい部分は見ていないが、きっと彼女たちも、元の世界で目にしていたコンテンツ通り、自身の担当やチームのトレーナーと、変わらずギャルゲーをしていることだろう。
本当に、何もない。
マジでめっちゃ暇。
自分の保護者が、一時的に美少女ロリになったこと以外、元いた世界と比べても、特にこれと言って面白いことは何も起きていない。
「……あ゛ー」
フェンスで囲まれた、人気のない校舎の屋上。
放課後は、いつもここで、棒アイス片手にボーっとしている。
ここまで何もないとは思わなかったのだ。
流石に、こんな異世界にきたのだから、少しくらい何かあってもいいだろう。
不幸に次ぐ不幸コンボの果てに、異世界転移からの超人化を経たとあれば、自分は物語の主人公にでもなったのではないかと、錯覚するのも無理はない。
「ラブコメしてんなー……」
眼下の光景を見つめながら、ぼそりと呟く。
凛々しい男性トレーナーと、彼に応えるべく奮闘する美少女。
思い描いていたそこに、俺の姿はない。
出走はせず、仮に走ることになっても力をセーブして、最下位で終わらせているため、ウマ娘としても俺は面白くない人間だ。
こんな、女装して精神をすり減らしながら、コソコソと学園生活を送ることに、果たして意味はあるのだろうか。
「……んっ」
校庭でトレーナーと何やら話し合っていたウマ娘が、屋上から見ている俺に気がついたようだった。
たしか、名前はサクラチヨノオーだったか。
一応クラスでは席が隣で、よく会話はするものの、彼女が仲を深めている他のウマ娘たちに比べれば、別段仲が良いわけでもない相手だと、思われているに違いない。
というか、男であることを隠す都合上、どの生徒たちとも一定以上距離を取って生活しているのだ。
誰かと必要以上に仲が深まることはない。つらい。
無愛想になり過ぎないよう、クラス委員として色々やってはいるが、恐らく焼け石に水だろう。
「おーい」
どういうわけか、手を振ってくれている。
悪い気はしないので、軽く振り返すと、彼女は満面の笑みを浮かべてくれた。
サクラチヨノオーは、とても優しい子だと思う。
屋上から見ていた怪しげなウマ娘に対しても、わざわざ手を振ってまで笑顔で応対してくれるなんて、善性の化身か何かなのだろうか。
「えへへ……あ、あの、すみません、トレーナーさん。今日のところはコレで!」
結構遠いため、会話は聞こえなかったものの、何故かサクラチヨノオーはトレーナーにお辞儀をすると、足早に校庭を去って校舎へと戻っていってしまった。
俺に見られていたのが嫌だったのだろうか。
いや、よく考えれば、ただ席が隣なだけの相手が、遠くからずっと眺めていたら、キモすぎて練習に身が入らないかもしれない。
彼女には悪いことをしてしまった。
明日にでも謝っておこう。
アイスの棒をゴミ箱に投げ入れ、屋上を去った。
そろそろ帰って、秋川さんの夕食を作らねばならない。
トレセン学園は全寮制だが、ワケあって俺は学園付近にある、秋川さんが使っている賃貸に住み込んでいるのだ。
家事は主に俺がやらなければならない。
「あっ。……アルファさん」
靴を履き替えていたところ、下駄箱付近に通りかかったとあるウマ娘に、俺のウマ娘としての名前を呼ばれた。
二ヵ月ほど前から交流のある、アドマイヤベガだ。
必要以上に交流しないという縛りを無視して、彼女に会いたいという、下心全開でプラネタリウムへ向かってみたところ、狙い通り出会うことが叶い、俺という存在を知ってもらうことはできた──のだが、クラスも異なり、同じ寮に住んでるわけでもない俺では、これっぽっちも距離を縮められず、そこまで仲良くないけどたまに会う友人程度にしかなれなかった相手である。悲しい。
「こんにちは、ベガ」
チョーカーに見せかけた変声機で、女子っぽい声音に変えつつ返事を返した。
「……その呼び方をするの、貴方だけよ」
アヤベさんだと、距離感近すぎると思ってこうしているのだが、なかなか難しい。
「アルファさんは……これから何か、用事があるの?」
「寮住みじゃないから、夕飯の買い出し。ベガはこれから練習かい」
「あ──えと、いいえ、今日はトレーニングは休み」
であれば寮へ帰る途中だ。
邪魔して申し訳ない。
「……あの、アルファさん。わたしもついて行って、いいかしら」
「買い物に?」
「ええ、買い物に」
お菓子でも買っていくのだろうか。
こういった誘いは珍しいので、是非とも一緒に行ってもらいたい。
適切な距離を保ちつつ行える、貴重なウマ娘との交流時間だ。
「じゃあ、行こうか」
「ん」
それから、校舎の外へ向かって、二人で歩き出した。
「……アルファさん」
「ん?」
「そ、その……あなたさえ良ければ、今度──」
アドマイヤベガが、何かを言いかけた、その瞬間。
「おーい、アルファちゃーん!」
後ろの方から、またしても声をかけられた。
現れたのは、先ほど屋上から眺めていた、サクラチヨノオーだった。
いつのまにか、練習着から制服に着替えている。
彼女の姿を目にして、アドマイヤベガが少しだけ眉を顰めたが、特別二人の仲が悪いという噂は、聞いたことがない。俺の知らない事情が、何かあるのか──詮索はやめておこう。
「サクラ。さっきは、屋上からずっと見つめてしまって、ごめん」
「えっ! そ、そんなの全然いいよ! 気にしてない、気にしてない……!」
社交辞令も完璧なウマ娘だ。俺はもう少し、彼女を見習った方がいい。
「あっ、えっと……二人はこれから、どこかへ行くの?」
「少し先のスーパーに。ただの買い物だよ」
「そ、そうなんだ。……あの、私もついてっていい、かな」
なんだなんだ。みんなしてスーパーマーケットに用事があんのか。
側から見れば、今時の女子高生三人組なのに、向かう先が欠片も洒落てないスーパーでいいのかよ。主婦か?
「もちろん。……ところで、ベガ。さっきは何を──」
「いえ、別にいいわ。また今度話すから。……ほら、チヨさん、早く行きましょう」
「うぇっ。う、うん……」
あの二人の距離感が、よく分からない。
分からないが、まぁ、見た限り喧嘩をしているわけではなさそうで、安心した。
なんやかんやありつつ、先行するベガとサクラに付いていく形で、俺は学園を後にするのであった。
夕飯、何にしようかな。