世界的デザイナーの三宅一生さんが8月5日、肝細胞がんのため亡くなりました。訃報に接して真っ先に思い出したのは、2015年12月1日に実現したインタビューでした。三宅さんは広島出身で、小学校1年生のときに被爆しています。それまでメディアに話すことはなかった被爆の体験を、私たちに語ったのです。爆心地に向かって母を捜しに行ったこと、被爆の影響で病に苦しんだことなど、時に声を詰まらせ、目を潤ませながら。戦後70年の節目の年でした。
原爆を言い訳にしたくない
「原爆の話はしないと決めていました。『ピカドンデザイナー』なんて絶対に呼ばれたくなかった」。あの日、小学校1年生だった三宅さんは一人、乾パンを持って疎開先の府中町から広島駅の方へと母を捜しに歩いて行きました。そして、捜し当てた母は原爆で半身を負傷していました。「あの状況は、話すことができないですよね。自分の関係する人たちが折り重なって焼かれている姿や臭い。(皮膚が)ぶくぶくになった人が水を求めて小川に集まっている。語れない話ですよね。母やおじさんが傷ついて、その後もケロイドになったりして……。自分の力に変えるとかじゃなくて、言い訳にしたくないというのがありました」
4年生のときに骨膜炎を発症。看病した母親は、三宅さんの病状が良くなってまもなく亡くなりました。友人や先輩が白血病で亡くなったりあごの骨がとけてなくなったりするのをみて、自分もそう長くは生きられないと思った三宅さんは、「30歳か40歳くらいまで生きられれば。その間にできることをやろう」と決意します。
デザインを学び、ファッションの仕事を始めてニューヨークに渡ってから、病が再発します。40度の熱にうなされながら帰国して、入院しました。「手術台の上で、天井の鏡に映る切開された腰骨を見ながら、痛みに耐えました」
インタビュー記事は、2015年12月6日の朝刊に掲載しました。
なぜ、三宅さんは封印を解いたのでしょうか。「僕みたいな被爆の症状もある人が話したら、少しは世の中が違ってくるのかもしれない」。2009年に米・オバマ大統領に広島訪問を呼びかける手紙を書いたのも、「やむにやまれぬ気持ち」からでした。そして、こうも言いました。「広島だけでなく、福島では原発事故で悲惨な思いをした人がいるのに、ころっと忘れている。何とかしないとね」
戦争を語り継ぐということ
三宅さんは、幼少期の写真などたくさんの資料を準備して取材に臨んでいました。「インタビューをあんまりやったことがないのと、過去のことはそんなに思い出せないから、勉強会してみたんです。コピーとか写真があった方がいいと思いましてね」。ふふっと笑いながら、写真の説明もしてくれました。インタビューは3時間にわたり、終了時に立ち上がるとふらつくほど、力を込めて対応してくださいました。
取材から一夜明け、朝食を作っているとインタビューのことが頭に浮かび涙が止まりませんでした。「大変な体験を聞いてしまった。70年も心の奥にしまってあったものをこじ開けてしまった。ちゃんと伝えなくては」。聞いたことの責任の重さに、今更ながら気づいたのです。
戦後77年。日本は平和な時代が続いていますが、世界を見れば今も、ロシアによるウクライナ侵略で多くの命が失われています。日本の平和も、いつ何かのきっかけで失われるとも限らないのです。私たち一人一人ができることは何か。それは、戦争を語り継ぐということでしょうか。けれど戦争を知る世代は減り、しかもその体験は簡単に口にできるものではありません。
私にとって忘れられない戦争体験は、もうひとつあります。中学生のとき、夏休みの宿題で家族に戦争の体験を聞くというのがありました。満州(現中国東北部)で働いていた私の祖父は戦後、シベリアに抑留されていました。零下40度での強制労働と飢えに苦しんだことや、祖母が3人の子をつれて釜山経由で日本を目指したことが作文に書いてあります。取材が甘く、文章もつたないのが残念でなりませんが、祖父から戦争の話を聞いたのは、その一度きりだったと思います。宿題が出ていなかったら、果たして聞いていたかわかりません。
三宅さんは8月5日に亡くなり、私たちがそれを知ったのは9日でした。6日は広島に、9日は長崎に原爆が投下された日です。偶然とは言え、何かを伝えたかったのではないかと思わずにいられません。きょうは終戦の日です。戦争の体験を記録し、後世に伝えるという「聞いた者の責任」を改めてかみしめています。そして、心よりご冥福をお祈り申し上げます。