その時歴史は動いた 「朝鮮通信使殺害事件」
朝鮮通信使殺害事件について書きます。
その前に、「朝鮮通信使と鶏」について、もう少し書き足しておこうと思います。
実は、この鶏強奪事件と殺害事件とは関連があるからです。
私が先週の週末に書いたスレッドに、韓国人のcsk3451さんが良いレスをつけてくれました。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=72306&st=writer_id&sw=ushirock
csk3451 10-30 02:30----日本幕府の手厚い待遇を受けた朝鮮通信使何が不足で泥棒行為をするの? 朝鮮王の国書を伝達する任務を遂行した朝鮮通信使がお金が不足ヘッウルリもなくて? そんな任務を遂行した朝鮮通信使が盗みをヘッダヌンゴン常識的に理解がアンガンダ..
これは重要な指摘です。
csk3451さんのレスのとおり、日本側は朝鮮通信使に莫大な費用を使って手厚い待遇を与えていました。 上級の身分の者には高級料理を出し、下級の身分の者には米、味噌、卵、魚、野菜などを支給しました。それは、充分な量だったと思います。
しかし、肉の供給量は少なかったと思われます。日本人にとって肉食は一般的ではなかったのに加えて、朝鮮通信使の宿舎が寺であることが多かったからです。
朝鮮の寺では肉食するのでしょうか?日本の寺では肉食は禁じられていました。僧侶は、朝鮮通信使が寺で肉食するのを嫌がっていました。当然、肉の供給量は少なかったはずです。朝鮮通信使は肉に飢えていたことでしょう。
それでは、なぜ、朝鮮通信使は金を払わずに、鶏を盗んだのでしょうか。それは、朝鮮では貴族が平民から物を奪うことが一般的だったからです。
韓国の人たちも、両班の横暴については知識があると思います。韓国国内限定で朝鮮のルソーと呼ばれている丁若鏞は、地方官の心得を書いた「牧民心書」の中で「王命を受けて地方官になった以上、人々が夷狄禽獣の域に陥っているのを、座して救おうとしないとすれば、それは自己に与えられた勤めを果たさないことになる」と書きました。
一読すると立派なことを書いているように思えますが、統治すべき人々を夷狄禽獣と書き記しているところに着目すれば、この文は両班が自国の民衆を禽獣視していたことを如実に示しているのです。(『朝鮮からみた華夷思想』 山内弘一 山川出版社)
両班は、朝鮮の民衆を人間とは思っていなかったのです。さらに、両班は、日本人を野蛮人とする小中華思想を持ち、朝鮮でしていたことをそのまま日本でも行ったのです。
そのような生来の習性に加え、csk3451さんが指摘した「幕府の手厚い待遇」が朝鮮通信使を一層、傲慢にし、尊大な態度をとらせる原因になっていました。日本側の外交姿勢にも問題があったのです。
江戸時代、大名たちは、家の格を守るために幕府に忠誠を尽くす必要がありました。戦争があれば武功で忠義を示すことができます。しかし、江戸時代は戦争がない時代です。大名は、幕府に命じられた仕事を熱心にやり遂げることによってしか忠義を示すことができなくなっていました。
幕府は、朝鮮通信使の接待を大名たちに命じました。大名たちは、幕府のために熱心に朝鮮通信使を接待しました。また、大名同士の見栄の張り合いから、幕府の想定を遥かに超えた、過剰な接待をしてしまいました。つまり、朝鮮通信使への「手厚い待遇」は、朝鮮通信使への敬意や大事に思う気持ちからではなく、大名の幕府への忠誠心と大名同士の牽制から行われたのです。
このような大名と幕府の事情は、朝鮮通信使たちは知りません。彼らは、自分たちが偉いから日本人が手厚く接待してくれると誤解したのです。江戸への旅で、過剰な接待を受け続けた朝鮮通信使の一行は、甘やかされた子供のように、しつけをしていない犬のように、どんどん傲慢になり、有頂天になって傍若無人な態度をとるようになっていきました。それは、もはや不良中学生の修学旅行の一行でした。
そんな朝鮮通信使でしたが、「馬鹿と鋏は使いよう」と言うように、利用価値が無いわけではありませんでした。
幕府は、朝鮮通信使を「朝貢使」として、大名や民衆に見せることで、幕府の権威付けに利用したのです。朝鮮との外交の詳細は、幕府と対馬藩の上級職の者しか知りませんでしたから、地方の大名も含めて、日本人のほぼ全員が、朝鮮通信使を朝貢使として認識していました。
リチャード・コックス(Richard Cocks 1623年の閉館まで平戸のイギリス商館長)の日記には、「ある人々(それは庶民であるが)は、彼ら(朝鮮通信使)が来たのは臣従の礼を表し、貢物を献上するためで、もしそうしないと皇帝(将軍)は再び彼らに対して戦争を仕掛けたであろうと噂している」1617年8月31日 とあります。
朝鮮通信使を朝貢使とする見方は、既に1617年の第2次朝鮮通信使の来日頃にはあり、それは、神功皇后の三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵と結びつきながら、一般向けの書物を通して、庶民の間に急速に広まっていったのです。
韓国の歴史学者の中には、「18世紀中葉から国学が発達していき、日本書記的な歴史観が再び頭をもたげながら、通信使を朝貢使節視する傾向が一部において台頭した」などと主張する人がいますが、上記のリチャード・コックス(Richard Cocks)の日記で明らかなように、完全に間違った主張です。17世紀初頭には、既に大多数の日本人は、朝鮮通信使を朝貢使と見なしていたのです。
(日韓歴史共同研究委員会 第2分科(中近世) 第2部 韓国側報告 第1篇 研究史整理論文 『通信使研究の現況と課題』 張舜順 )
朝鮮通信使が金を払わずに鶏を盗んだ事情と、日本人が朝鮮通信使を朝貢使として認識していたことについて書きました。
さて、朝鮮通信使が盗んだのは鶏だけではありません。そして、それが殺害事件の遠因になってしまうのです。
後編へ続く
CM 拝啓 民主党様
前編では、小中華思想と日本側の過剰な接待により、朝鮮通信使の一行が、甘やかされた子供のように、あるいは、しつけをしていない犬のように、非常に傲慢になり、ついには、日本人から物を盗むことも平気になっていたことを書きました。これは最重要ポイントなので良く覚えておいてください。
『江戸時代を「探検」する』 山本博文 新潮社 には、次の記述があります。
「通信使の随員の中には、そのような扱いに慣れ、段々と尊大な行動をする者も現れた。出船の時に、前夜出された夜具を盗んで船に積み込んだり、食事に難癖をつけて、魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、予定外の行動を希望し、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあったという」
現在、多くの日本人、韓国人は、何人かの朝鮮通信使と日本の儒学者との間に親交があったと思っています。それは、確かに一つの歴史的事実です。しかし、同時に、朝鮮通信使の傲慢で尊大な態度と無礼で無法な行為の数々を苦々しく思い、憤りを感じていた日本人が多かったことも、また歴史的事実なのです。
朝鮮通信使は、まるで頭の悪い不良中学生と同じですから、日本の庶民が、朝鮮通信使は猫が大好物であると、彼らを笑い者にするような噂をしても、当然でしょう。布団のように嵩張るものさえ盗むのですから、持ち運びやすいものなどは、すかさず盗んだことでしょう。まさしく朝鮮通信使は国家使節の皮を被った窃盗団だったのです。
さぁ、みなさん、今日の「その時」がやってまいります。
その時、1764年4月6日。
この日の昼、江戸からの帰途、大阪は長浜の荷揚げ場で、朝鮮の下級官人が鏡を紛失しました。
通信使の都訓導(中級官人)、崔天宗という者が、これを咎め、
「日本人は、盗みの仕方が上手だ」
というような悪口を言いました。
これに対応した鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)という対馬藩の通詞(通訳)は、紛失しただけで何の証拠も無く日本人が盗ったと言われたのは「日本の恥辱」になると感じ、また、日頃から通訳として朝鮮通信使のそばにいて、彼らの姑息な窃盗にうんざりしていたので、
「日本人のことをそのように言うが、韓半島人も、食事の際に出た飾りの品々(食器など)を持って帰っているではないか。これをどう思うのか」
と言い返しました。
そうです。朝鮮通信使は、食器も盗んでいたのです。
当然、接待役の武士は、このような朝鮮通信使の盗癖を知っていたでしょう。武士たちは、国を代表する使節が宴会で出された料理の皿を盗むのを見て、驚き呆れてしまったことでしょう。こんな幼稚な人々に下手に関わるよりも、さっさと他領へ送り出せばそれでよいと考えたとしても無理ありません。あるいは、朝鮮は清の属国であることから、韓半島人を低く見て、可哀想だからと大目に見たのかもしれません。しかし、このような態度は結果として、朝鮮通信使を益々増長させることになったのです。物を盗むことは犯罪であると教えてあげたほうが、朝鮮通信使のためにも良かったと思います。
鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)に痛いところを突かれた崔天宗は、身に覚えがあったからでしょう頭に血が上り、人々が見ている前で、鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)を杖で何度も打ちました。
鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)は、下級の武士とはいえ武士です。このままでは、武士として生きていくことができません。思いつめた鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)は、仕方なく崔を殺すことを決心します。
その夜、鈴木伝蔵(Suzuki Denzou)は、崔天宗の喉を槍で突き刺し殺害しました。
対馬藩にとっては、朝鮮との貿易は大きな利益をもたらしました。
また、日本との貿易で大量の銀を得ていた朝鮮は、日本と貿易をしなければ、清との朝貢や私貿易で使う銀に不足し、ますます貧乏国になっていったでしょう。
一方、対馬藩を考慮外にすれば、日本は、朝鮮と外交関係を持っていることに何の利益もありませんでした。
日本と清とは国交が無くても、貿易関係があり、長崎の唐人屋敷や、その周辺に中国人が滞在していました。黄檗宗の僧侶を始め、絵師、学者などの文化人も来日していました。中国文化は、朝鮮経由でなくても、直接、恒常的に入ってきていたのです。
幕府権力が確立し、朝鮮通信使を朝貢使に仕立てることで対外的な力関係を他の大名に見せつける必要がなくなれば、朝鮮通信使は無価値になりますから、朝鮮との外交を止めても良かったのです。
それは、朝鮮通信使の来歴をみれば分かります。江戸時代265年間に、朝鮮通信使の派遣は12回でした。そのうち半数の6回が1655年までの江戸時代初期の50年間に行われ、最後の1811年は江戸には来ず対馬止まりの来日でした。
1607年、 1617年、 1624年、 1636年、1643年、 1655年、 1682年、 1711年、 1719年、 1748年、 1764年、 1811年
1636年、第4回の朝鮮通信使が来日した頃には幕府権力が安定し、朝貢使の役をさせる朝鮮通信使の価値は低下し始め、先例として惰性で続けられたものの、1764年をもって朝鮮通信使は完全に無価値になり、その使命を終えました。
日本は、貿易によって対馬藩と貧乏な朝鮮を救うために、朝鮮と外交をしていたに過ぎないのです。
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=72539
enjoykorea 伝統文化板の推薦資料より 転載
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