山崎はるか@harusanda·2018年6月25日岡本さんと出逢ったのっていつだろう、と うかつにもメールを見返してしまい、胸が痛くてたまらない。亡くなった人が「はじめまして」とあいさつしてきたときの文面だよ。胸に来ないはずがなかった。考えればわかることだった。1714
山崎はるか@harusanda·2018年6月25日→最初に来たメールは、「ハッカージャパン21」に名称変更した後の2001年8月。打ち上げの場所連絡だ。 この頃のHJは いろいろ景気がよくて、毎号・出すたびにライターを集めて居酒屋で打ち上げをやってたんだよね。116
山崎はるか@harusanda·2018年6月25日→岡本さんが入社されたときは、斉藤編集長・東内さん・女性編集者・そしてアシスタントで岡本さんがいた。主に巻末のハッカジャパンを担当して経験を積まれていた。 そして僕が「橋本和明先生との秋葉原お買い物バトルとかどう?」って提案して、そのとき担当にアサインされたのが岡本さんだった。118
山崎はるか@harusanda→ 2003年あたりで、僕がメンタルダウンしてしまい、それまで多い時で40Pぐらい書いていたのをコラム404を書くかどうかまで縮小してもらうことになる。 再び企画が出せるまで回復したのは2007年あたりからだが、この復帰の際、山崎はるか担当編集者になったのが岡本さんだった。午後1:48 · 2018年6月25日·Twitter Web Client1 件のリツイート6 件のいいね
山崎はるか@harusanda·2018年6月25日返信先: @harusandaさん→ 法務・連載マンガ・コラムの三頭立てを二人三脚でこなしていったが、なかでも「ネットの少年犯罪」という難しいテーマに 二人で懸命に立ち向かっていった。このテーマで出会った少年たちのことは、以後も忘れたことはなく、岡本さんと その是非について何度も語りあった。17
山崎はるか@harusanda·2018年6月25日→ 2010年ごろからは、岡本さんが企画したムックでの執筆に軸足を移した。 ムック主軸になってからは本紙で書くことはめっきり少なくなり、そして2013年のHJ休刊を迎える。 そのときの退職の挨拶のメールを読んでもう泣きそう。眠れなくなるので、今夜はここまでにしよう。15