第9999話 お盆《限定公開》

 日が傾き掛けた夕方五時。

 不意に足を止めたギーは波返しの壁に手を突いてその向こうを指さした。


「ほら、アッちゃん。波が全然ないよ」


 彼女が言うとおり、海は静まりかえって穏やかだ。

 だけど僕はまだ暑い夏の地面と空気に蒸されてすっかり参っていた。

 ギーの横で波返しを触ると、これもじんわりと熱い。

 

「波っていうか、風がないね」


 ランニング中で全身を汗で濡らした僕は、無風の大気状態にただ居心地悪さを感じるばかりだけど、ギーはそれよりも穏やかな海が嬉しいらしい。

 呼吸を整えるために鼻から吸い込む空気だって熱い。

 しかし、真夏というのはこういうものか。

 

「泳げたらいいのにね」


「ここ漁港だから難しいんじゃない?」


 近くには海水浴場もないと聞く。

 ただ『湾内スロー』と書き殴った大きなペンキの文字の他は、漁船が出払って閑散とした岸壁が目に付く。

 波返しの外側も消波ブロックが乱積みしてあり、とても遊泳に耐える雰囲気ではない。

 

「八キロくらい向こうに行けば海水浴場もあるんだよ」


 雲のほとんどない青空の下で、遠くを見つめるギーはシンプルに美しかった。


 夏期合同練習というキックボクシングジムの強化合宿にギーが参加するのは昨年に続き二度目だった。

 昨年、僕には声もかからず土産話を聞くだけだったものが今年は参加している。

 といっても、別に選手として有望株に成長したワケじゃない。

 ギーも含めた他の参加選手とも親しいため、マネージャーとでもいうか雑用番としての参加である。

 だから、いくつかのジムが合同で参加している練習でも僕の試合は組まれないし、昼間は主に洗濯とドリンクの準備に明け暮れているのだ。

 それで合宿参加費は免除の上にいくらかのバイト代も出るのだから、特に文句はない。

 

「ほら、とりあえずこれ」


 僕は背負っていたランニングリュックからペットボトルを取り出すと汗を滴らせているギーに渡した。

 そもそも、ギーのランニングに帯同しているのもドリンク持ちとしてなのだ。


「ありがとう、アッちゃん」


 ギーは蓋を開けるとスポーツドリンクを喉を鳴らして飲んだ。

 僕も自分の分を取り出して口を付ける。ぬるくて強烈な甘みが流れ込み、やたら旨く感じられた。

 ギーは波返しに背を預け、しばらく空の青さと磯の匂いをかいでいたがやがて飽きたのかイタズラっぽく笑い出した。

 

「アッちゃん、あそこに行こうよ」


 ギーの目線の先には灯台がある。いや、灯台といえば大げさだけど、とにかく大きめの電柱と街灯の様なものがあった。

 それは防波堤で陸から繋がっており、海に向けて100メートルほど延びた先に立っていた。

 確かに行けないことはないだろう。


「でも遠いよ」


「すぐそこじゃん。去年も行きたかったんだよね」


 キャーキャーと笑い、ギーは先に立って歩き出す。

 確かに、防波堤の付け根は僕たちの現在地から三〇〇メートルも離れてはいない。

 だけど、そのわずかな距離の間には海が横たわっているのだ。


「結構あるよ。たぶん、四キロくらい」


 ついて歩きながら、一応の抵抗をしてみる。

 おそらく湾の上流側二キロにある橋を渡って、防波堤まで戻って来るのだ。

 そうして帰りも同じルートなら往復で八キロの距離になる。

 練習終わりに軽く一時間くらい走ってくると告げて出てきたのだけど、既に四十分が過ぎていた。

 

「練習だと思えば遠いけど、デートだと思えばたぶんすぐだよ」


 それは……確かにすぐかもしれない。

 ギーといる時間はいつだってあっという間に流れていくのだ。

 そうしてこれが重要なのだけど、こういうことを言い始めたギーに僕は大層弱かった。いつだって彼女の期待に応えたくなってしまう。

 その思いは、後で大人に怒られる可能性を脳内から軽く蹴り出してしまった。

 ふと見ればギーが無言で手を差し出していて、僕もそれを当たり前に掴む。

 まだ暑い真夏の海っぺりを、僕たちはゆっくりと歩いていく。


「なんか、二人で旅行に来たみたいだね」


 ギーが楽しそうに口を開いた。

 その顔を見ているだけで僕も楽しくなってくる。


「観光地でもなんでもない漁村だし、お互い汗だくだけどね」


 僕もギーも、シャツを絞ればザアザアと汗が流れるだろう。

 

「大人になったらさ、また二人でここへ来ようよ」


「いいね。交通の便が悪いから車の免許とか取らなきゃだけど、僕が取るよ」


 未来を疑いもしない僕たちはザクザクと足を進め、橋を渡った。

 そろそろ夕飯の時間だ。

 漁村に夕飯の匂いが漂い始める。

 隣にギーがいて一緒に時間を刻める。それに比べればトレーナーに怒られるなんてなんでもなかった。

 途中、自動販売機で飲み物を補充した僕たちはついに防波堤の付け根に到着し、左右から波の音が聞こえる不思議な空間を手を繋いだまま歩いた。

 既に六時を過ぎ、太陽は海に沈んでいる。

 だけど、遮るもののない海辺は真昼とも違う不思議な明るさに包まれていた。

 でも、たとえ真っ暗でもギーと手を繋いでいれば怖くない。

 防波堤の先端でギーは腰を下ろした。

 僕もその隣に座り、そのまま寝転がる。

 先ほどまで止んでいた風が、いつの間にか陸側から海に向かって吹き始めていた。

 ギーがペットボトルのお茶を飲み、僕の頬に付けた。

 驚くほど冷たくて、僕は思わず笑ってしまう。

 暖かい風に、濡れた服も乾きつつあった。

 やがて船が帰ってきたり、出て行ったりして、頭の上の電灯も光り始める。

 海の中だから蚊も寄ってこないし、蓄熱のため防波堤も気持ちがいい。

 

「じゃあ、そろそろ帰ろうか」


 星を眺め飽きたのか、ギーが立ち上がって言った。

 僕もちょうどお腹が空いてきた頃だ。

 携帯電話に、まだ確認の連絡は来ていないもののあまり遅くなって関係者を心配させてもいけない。

 怒られる覚悟を決めて、僕も立ち上がった。

 勢いでギーと近づき、そのままキスをした。

 こんなロマンチックなキスもあるまい。

 直後に近くから咳払いが聞こえなければ。

 驚いて目を凝らすと、明かりが照らす範囲の外に釣り人がいるではないか。

 なるほど、灯台元暗しとはうまいことを言ったものだ。

 さらに見れば防波堤の上には点々と人がいて竿を傾けている。

 明かりに包まれた僕たちが、彼らからはさぞよく見えたことだろう。

 ギーといれば怖いものはないとはいえ、恥ずかしいことはある。

 ギーもちょっと赤くなりながら二人とも無言で陸地に戻り、合宿所に戻ったのだった。

 もちろん、僕のごく無責任な行いにギーを無理矢理付き合わせたことで合宿所の大人たちから想像の三倍怒られたことも一応、付け加えておく。

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迷宮クソたわけ イワトオ @doboku

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