第9998話 ワタヌキⅢ(限定公開)

「ねぇ、アっちゃん」


 河原の土手を走りながらジャージ姿のギーが口を開いた。


「なに?」


 僕は息を整えながら問い返す。

 しかし、ペースはもともとひどくゆっくりなので会話も苦になるほどではない。

 

「明日は雨なんだってね」


 彼女が言う通り、夕方の空はどんよりと重たい雲によって埋め尽くされていた。

 空気にも雨の前特有のにおいが漂っている。


「そうだね。結構強く降るかも……」


「そうしたら走るの、どうする?」


 ギーの美しい、切れ長の目が僕を見た。

 額にはわずかに汗ばんでいるが、彼女は呼吸も乱れていない。

 僕たちは延々と続く土手の上を毎日、一時間以上かけてゆっくりと走る。それは学校が終わって、夕方から始まるキックボクシングの練習に向けたウオーミングアップであり、またギーがキックにのめり込むほど減る二人の時間の補填の為でもあった。

 なんせ、ジム内どころか女子キック界でも有望ファイターとして注目されつつあるギーと、いくらやってもさっぱり強くならない僕とでは、練習中同じ空間にいてもほとんど接点がないのだ。

 しかし、走るといっても厳密なものではなくて、例えば途中でギーが望めばカウンターの練習に付き合ったり、通りがかった公園で筋トレをやって見たりもある。

 時には、ジュースを飲んでただ歩くことだってある。

 

「雨なら明日は休みだね」


 二人で決めたルールに則り、僕は断言した。

 雨が降れば走るのどころかキックボクシングの練習ごとお休みにする。

 そうして、その日はなにか違うことをするのだ。

 最近ではジムの人たちもそれを知っているため、雨の日に練習へ出て来なくても連絡が来ることもない。

 

「じゃあ、明日はどうする? 学校も春休みだし、どっか遊びに……」


 嬉しそうに笑うギーの表情に、僕はたまらなくいとおしさを感じた。


「今日、うちに泊まりに来ない?」


 僕は一つの提案をしてみた。

 久しぶりに二人で過ごす休みなのだから、しっかりと計画を練りたい。その為には一晩かけて打合せも必要だろう。

 

「母さんたちも喜ぶしさ」


 ついでに事実を一つ、付け加える。

 どちらかといえば僕がギーの家に遊びに行くことの方が圧倒的に多く、ギーが僕の家に遊びに来ることは少ない。

 それでも、うちの両親は彼女を気に入っており、日頃から連れてこいと催促されていたのだ。

 と、ギーがピタリと足を止めた。

 僕も慌てて足を止める。


「……いいのかなぁ?」


 やや照れた様にギーは尋ねる。

 そういえば、逆は何度かあったけどギーが僕のうちに泊まるのは初めてじゃなかろうか。

 

「んん……」


 顔をやや赤くしたギーの手が、忙しなく自分の顔を撫でた。

 

「え、でもそうすると私の寝る場所って、アっちゃんの部屋だよね」


 僕の家には台所と居間を除くと両親の部屋と僕の部屋しかないので当然、そうなるだろう。まさか居間に布団を敷いて寝て貰うわけにもいくまい。


「あの部屋で……てなると、あの布団で寝るんだよね」


 僕の部屋なんて、机とタンスの他にはベッドが一つ。それだけで一杯のせまい部屋であり、他に布団を敷くスベースなんてどこにもない。

 

「うん、まぁ……」


 確かに安物で小奇麗とは言い難い寝具だけど、なんどかギーも入ったことはあったはず……

 ああ、なぜギーの顔が赤いのかようやくわかった。

 両親がいる時に訪問した彼女はいつだって居間で、両親と食事をしたり雑談に明け暮れていたのだ。

 今晩だって、それはそうなのだろうけれど、夜も深まるとそれぞれは寝室に引っ込むことになり、それは当然に両親に余計なことを邪推させてしまう。

 いや、邪推じゃなくてそれが真実なのだとしても、だからこそ僕も恥ずかしいかもしれない。

 

「じゃあ、やめとく?」


 いつものように僕が彼女の家に遊びに行くのなら、なにも恥ずかしいことなんてないのだ。

 しかし、ギーはふるふると首を振った。


「……行く」


 暑そうに長い黒髪をかき上げる彼女は、耳まで真っ赤に染まっていた。

 なんなら、立ち止まってからの方が汗ばんでいる。

 

「いつかは通る道だ。お義父さんとお義母さんがいいっていうなら、今日行くよ!」


 試合前のような目つきでギーは力強く宣言し、僕の肩を掴んだ。

 正直、そこまで覚悟の要るようなイベントになるとは思わず、気軽に誘ってなんだか悪かったな。

 

「よし、そうと決まれば今日は帰ろう」


 そう言うとギーは踵を返した。

 

「え、でも今から練習……」


「雨が降ってきたし今日は休み。お泊りの準備もあるし、お義母さんの料理とか手伝いたいし」


 雲は黒くやがては降るだろうけど、まだしばらくは降りそうにもない。

 だけど、彼女の心の眼には雨粒が見えるのかもしれない。


「ねえ、アっちゃん行こ!」


 ギーが僕の手を取った瞬間、僕の眼にも降り注ぐ豪雨が見えた。

 こんな雨に降られて風邪をひいてもよくない。

 僕たちはそそくさとジムに戻り、怪訝な目で僕たちを見つめるジム仲間たちに会釈をすると、着替えてそうそうに退散したのだった。


  ※


 その晩は、そりゃ大いに盛り上がった。

 やたらテンションを上げてごちそうを作ってくれた母と、母からの指令を受けクリスマスでも見ないような豪華な、おそらく高価なホールケーキを買って来た父。

 あと、どこから取り出されたものか食卓に飾られた立派な花瓶と、これも父が買ってきた華やかな花。

 両親とギーは、もちろん僕もだけど終始上機嫌で食事を終え、食後のお茶を飲み、さて部屋に戻るかとなったとき、母が僕の裾を引っ張り、父が厳かに口を開いた。

 曰く、よそ様の大切な娘さんをお預かりして間違いがあってはいけないと。

 両親とも僕たちの関係性をそれとなく知っている筈で、僕は言葉を選びつつも必死に抗議したのだけれども家庭内で両親の強権には逆らえず、居間には来客用の布団が敷かれ、まさかの僕がそこに寝ることになるのだった。

 そのやり取りを眺めるギーの表情がたまらなく楽しそうだったことだけは救いだったけど。

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