非暴力抵抗は、犠牲ゼロでは済まない
――シャープは、非暴力抵抗運動に対する抑圧は苛烈なものとなり、人的犠牲は少なからず生じる、と言っています。ある意味で非常に功利主義者的な側面がありますね。そして、軍事作戦のように相手の弱みにつけ込むかたちで抵抗を続けろ、と説く現実主義者でもある。
ええ。だから、そういう意味ではシャープはまったく理想主義者ではないです。アメリカ人らしいというか、非常にプラグマティックな考えをする人です。
ガンジーから大きな影響を受けているので、その根幹には大きな思想性や宗教的な信念とも言えるものがあるはずです。しかしそこにはあえて依拠しないで、非暴力抵抗というものの可能性をあくまで学術的に研究し、理論化し、具体的な戦術として確立し、それを世界中の圧政に苦しむ人々に分かりやすく広めるという、極めて現実的、実践的な方向を選んだ。
非暴力闘争を効果的に行うためには、平時から綿密に計画を立て、コンセンサスを作り上げ、訓練しておくことが必要だとも主張しており、その姿は、冷徹な戦略・戦術家です。
ガンジーの非暴力不服従運動は宗教的なバックボーンなしには成立しえませんが、シャープの方法論であれば、どんな宗教的バックグラウンドの人も、無宗教でも、誰にでも使えます。そこに大きな可能性がある。というか、だからこそ、シャープはこれまで各地の抵抗運動の理論的支柱となり、多くの独裁国家で警戒されてきたわけです。
暴力の連鎖を断ち切らねばならない
――しかし、他国から侵略された際に徹底抗戦するか、占領を受けいれるか、どちらの場合に犠牲が少なくて済むかは、算数のような正解はないのではないでしょうか。ウクライナは国際的な支持や支援を受け得るとしても、チェチェンやシリアの人たちは、無抵抗にもかかわらず一方的に虐殺された事例とも言え、その犠牲者は決して少なくないものだったはずです。
でも、チェチェンもシリアの反アサド勢力も、途中から非暴力ではなくなったでしょう。非暴力抵抗は、成功させるためには、いかに厳しい局面になっても、暴力に切り替えることは慎まなければならない。非暴力にとどまらなければならないんです。暴力を使うことは、権力者と同じ土俵に乗って、自らを不利にする行為だからです。実際、圧倒的な軍事力を持つ相手に対して暴力で立ち向かっても、勝ち目がないですよ。合理的な選択肢とはいえないんです。
それに、僕は人間というものは、非暴力の人間を一方的に殺し続けることは、かなり難しい生き物だと思っています。たとえ政治的に洗脳されたとしても、人間としての善性を完全に捨て去ることができるのか。いくら「殺せ」という残虐な命令を上官から受けても、いずれ耐え切れず離反する者が少なくないんじゃないか。暴力をいっさい使わないという相手には、暴力を使いにくくなる。僕はそう思います。
ところが、相手が同じように武器で応戦してくると、人間はいくらでも残酷になれます。自分が、仲間が殺される、という状況になると、「やらなければやられる」という心理になってしまう。むしろ相手を殺すことは「正しいこと」になります。
こう言うと必ず「お前はブチャでの虐殺を見ても非暴力を薦めるのか」と反論を受けるのですが、ウクライナは、国家としては武力による抵抗を選んでいます。非暴力だから虐殺が起きたわけではなく、武装抵抗の帰結として虐殺事件が起きてしまっているわけです。
もちろん因果関係を証明することはできません。でも少なくとも、「非暴力だったからこそ虐殺が起きた」ということは言えない。だってウクライナは非暴力抵抗の選択をしていないわけですから。
ウクライナ南部ミコライウ州の前線基地を訪問し、軍関係者と握手するゼレンスキー大統領(右)=ウクライナ大統領府のサイトから