ウクライナに自己同一化した世論
――ロシアはかつて独立を求めたチェチェン共和国に侵攻し、民間人の大量虐殺が発生しました。シリアにも「IS掃討」の名目で介入し反アサド勢力や住民を空爆で多数殺害しています。アメリカも独立国のイラクに一方的な名分で侵攻しました。いずれも許されない国際法違反だと指摘されていますが、それらに比べて今回のウクライナへの「自己同一化」度合いは突出しているように思えます。
そうなんです。今回、多くの日本人は侵略された側に完全に自己同一化しましたが、イラク戦争やアフガニスタン戦争ではむしろ逆で、侵攻する側に自己同一化してしまっていた。だから「やられる側」が見ている景色が全然見えていなかった。今回のウクライナの場合は、そこが反転しているんです。日本だけでなく、欧米、いわゆる旧西側の国民は、ウクライナ国民に自己を投影して「わがこと」のように見て、その結果、非常に感情的になってしまっている。
ロシア軍の空爆を受けたウクライナの首都キーウ(キエフ)にあるショッピングモール=shutterstock.com
――それはひとつには、情報の非対称性が要因ですね。ロシアが国内向けにプロパガンダやフェイクのような報道で世論形成をしている一方で、私たちが接している情報にも、ウクライナや欧米側のプロパガンダが含まれていないとは言い切れない。湾岸戦争やコソボ紛争でも人道上の理由などで武力行使が正当化されましたが、情報操作や世論工作があったことが後に明らかになっています。ロシアの今回の侵攻はいかなる背景があろうとも正当化できないという大前提があるにせよ、世の中の言論や報道がほぼ一色に塗り込められてしまっている問題も大きいのではないでしょうか。
そうだと思います。僕はドキュメンタリー映画を作っていますが、カメラをどこに置くかによって、見える風景、現実はまったく変わってしまいます。で、今回旧西側の住民が接する戦争報道は、ウクライナ側からロシアを見るというカメラ位置のものしかほぼ存在しないと言ってもいい。
飛行機が突入直後、激しく炎が噴き出した世界貿易センタービル=2001年9月11日、ニューヨーク、撮影・廣野三夫さん
アフガニスタン戦争の時もイラク戦争の時も同じでした。「9・11」の時に僕はニューヨークにいましたけど、目の前でワールドトレードセンターが噴煙を上げて崩れる様子、慣れ親しんだ風景が変貌する様子を見て、僕を含めてその街に暮らしている人々は強く痛みを感じた。それ自体は自然なことです。
でも驚いたのは、ビルに飛行機が突っ込む映像が世界中で中継されたとき、遠く離れたカリフォルニア州だかフロリダ州の人たちがそれを見て「自分が攻撃されたように感じた」と涙を流してコメントしていたことです。まったくの他人の体験なのに、あたかも自分が体験したかのように、身体性を伴う疑似体験をしてしまった。それは映像ならではの力です。
同じことがウクライナの戦争でも起きていて、遠い国の話が映像で共有され、体験が心理的に自分たちのものになっている。結果として、自己同一化した側、つまり「味方」と、それに対する「敵」に世界が二分される。そうなると、戦争している両陣営をフラットな視点で見て語っているだけで、もう「敵の肩をもっている、味方ではない」というふうに言われてしまう。
ソーシャルメディアで拡散する一方からの視点
――その映像の力をナチスは戦略的に使ったわけですが、そういう一方的な情報を希釈、相対化するのがソーシャルメディアのはずです。「アラブの春」はソーシャルが大きな役割を果たしたわけですが、今回も、スマートフォンで撮影されたパーソナルな映像が大きく拡散され共有されている。しかし、欧米や日本で流れている様々な報道や情報が相対化されているかというと、そうとも言えないですね。
おそらくソーシャルメディアだけでは疑似体験にならないんでしょうね。ソーシャルメディアの映像を使うマスメディアの力があってはじめて、疑似体験のレベルにまで達するのかもしれません。というのも、シリアへの空爆や攻撃の様子はソーシャルメディアでも飛び交っていたにもかかわらず、日本人の多くはそれほどシリア人に感情移入しませんでした。マスメディアが今回のウクライナのようには、報道していないからだと思います。
ウクライナ戦争ではSNS上で様々な情報が飛び交っている=shutterstock.com
――報道する側にとってそれは戒めですが、一般論として、その「バイアス」は戦時という非日常においてより顕著になり、受け手のメディアリテラシーも鈍磨してしまいがちですね。侵攻直後、ウクライナでは国家が市民に戦闘参加を呼びかけ、希望者に銃を配りました。正規軍なら指揮命令系統もはっきりしていますが、義勇兵のような非正規の戦闘員は、無辜の市民との区別がつけづらい。戦闘員と非戦闘員を明確に分けて扱うことが戦時国際法(国際人道法)の原則のはずですが、ゼレンスキー大統領はそれを自らあいまいにして国民を戦争に動員した面があります。国際法では、侵略した国も侵略された国も紛争当事国となり、交戦法規の遵守が課される。しかし、こういう指摘をするだけで、袋だたきに遭いかねません。
ロシア軍によるウクライナ住民虐殺は絶対に許されない行為ですが、客観的に見て、民間人に銃口を向けるということが起きやすい状況を、ゼレンスキー大統領が作ってしまったとは言えるんじゃないでしょうか。民間人に銃を渡すことで、戦闘員と非戦闘員の見分けがつきにくくなれば、犠牲が広がりかねないうえに、ロシア側が民間人を殺す口実に使われる危険性もあります。
これは、ロシアの行為を正当化するとか、どっちもどっち、ということではない。戦争というのは、こういうことが常に起き得るということです。だからこそ、戦争は絶対に起きてはならないし、暴力の連鎖にならないために、非暴力抵抗という選択肢が必要だと思うんです。