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Thesis(意思)+Anti-Thesis(誘惑に負ける弱い意志)=A defact Synthesis(誘惑に打ち克つ強い意志の出現)
つまり主観の世界(感覚)から経験を飛び越えて(観念的に)客観の世界に行ってしまっても決して自己完成はできないということです。つまり必要なだけが自分の前にあり必要なだけ使い,過もなく不足もないという状態を言う。
この辺のニュアンスをお伝えするために生前お世話になった辻邦夫(故人)さんの文章を載せることにします。
『ようやく去年と同じホテルの同じ部屋に落ち着いた。眼の下にプラタナスやマロニエの巨木に囲まれたモンパルナスの墓地の,灰色の墓石の群れが見える。墓地の上の空は広くひらけて,夕ずいた雲が美しく流れている。オスマンが改造する前の巴里はもっと中世じみた木造の家が多かったろう。巴里は刻々に変っている。それは生命が刻々に変転し,生成するのとまったく同じだ。
そのことは頭でわかっていながら,住むのも,散歩をするのも,昔馴染んだ界隈に執着する。やはり年をとったということなのであろうか。最初に巴里に着いた年から数えると,ほぼ20年になろうとする。決して短い歳月ではない。
こうした僕にとって,刻々の時間は刻々に過ぎてゆくゆえに,意味があるようになった。ポリネシアの海でも僕は何度かそうした瞬間を味わった。旅が終わろうとしていた頃,ランギロア環礁の小さな入り江で,一羽の鳥が波打ち際に立っているのを見かけた。その時も夕暮れどきで,赤く染まった雲が,金色の輪をはめたように輝きながら,椰子の葉の上に流れていた。
波打ち際に立つ鳥は,何か餌でも待っているのか,片足を立て,身じろぎもせず,そこに立っていた。僕がそれを見ているとき,まるで置物のようにそこから動かなかった。波が打ち寄せ,風が椰子の葉をそよがせても,鳥は,身動き一つしなかった。
そのとき,僕は自分がいつまでもそこに坐って,鳥を見ていられるような気がした。僕は鳥をただ見ているだけで,十分満たされているのを感じた。あたかも自分が鳥にでもなったかのように,僕は,その甘い柔らかな南太平洋の海の風に吹かれていた。
僕は歩くことだけで,見ることだけで,喋ることだけで,自分が,過不足なく<完了>した,と感じた。不足もなければ,余剰もなかった。必要なだけがそこにあり,それを,必要なだけ使った~そんな感じがした。
1976年9月2日 巴里にて
解説
これは「時の終わりへの旅」と題する辻邦夫さんの作品の中から仏領ポリネシアで時間を忘れて話をしたことを辻さんが書かれた神々の青い海の一部分です。1976年のことでした。この本は1977年に筑摩書房より出版されましたが,1968年7年ぶりに巴里に再会してからモンマルトル日記を書き,その後の8年の歳月がいかに人の思索を変えるものか驚嘆するものがあります。
最初「野生と文明」の題の予定でしたが,全体を旧約聖書のダニエル書から「時の終わりへの旅」とされたようです。巴里でこの本を脱稿された辻さんはもうどこにも行かれることはありませんでした。上にあります<完了>という意味は自己形成を完了したという意味です。だからもうどこにも行く必要が無かったわけです。
辻さんはもう生きておられません。生前可愛がっていただきありがとうございました』。
過去ログで散々メーソンやイルミナティを説明してきた。イルミナティの高位になる為には売春婦を経験しなくてはならない。ルシファーがイブを姦淫してカインが生まれたとかマリアは売春婦で父はローマ兵でヨセフは養父とするなど反キリストに軸足があるがキリスト者が正しいかと言えば「両者とも虚構の世界」に拠るものである。新しいタイトル「ハムレットの吹かす風」では極力そういう話題を避けようと思う。以前米国で会った元イルミナティ11位階(暗黒の母)の役割は反キリストのための悪霊軍団を指揮する司令官の役割であるがBloodlineの中でも最高位(オカルトパワーではコリンズ家に劣るものの)の権力を持つロスチャイルド家は本当に2026年頃キリストとサタンの一騎打ちがあると信じている。シスコさんはロスチャイルド家のマドンナであったので様々な話を聞くことができた。
シスコさんと召使であったシェリーさん。二人は今クリスチャンになり底抜けに明るかったが爬虫類的人格は垣間見られた。
以下はここから転載
人間は本能に負ける生き物である。
人間は動物であることから逃げられない生き物である。
これは真実だ。
犯罪者の言い訳になってはいけないことだが、
人間は自らの欲求に負けることは否定できない。
もちろん精神が肉体を凌駕してる人間もいるが、
もっとも欲求が抑圧された場合においては特に、
人間は欲求を満たそうと理性を捨てる生き物である。
犯罪意識のある諸君は特に研究すべきである。
なぜなら欲求の抑圧は、
ほとんど場合社会や思想に問題や矛盾があり、
その結果犯罪へ走る自己へ影響してるからだ。
それは現実が人間に適応してないことを意味するかもしれない。
それにしても社会や主義が適合してないのは時間の問題となる。
今日のアメリカ社会の犯罪事情は、
民主主義が絶対的ではないということを、
証明してることである。それを正しく認識すべきである。
もっとも原始的な社会においては、
犯罪という定義はなく、
人は自己の責任に対して自由に生存活動をしていることだろう。
だが今日の理性的な人類社会においては、
偏った思想や真実に反する主義主張が社会に影響することにより、
人類に対して主義の矛盾と本能の抑圧により、
犯罪へ及ぶ行為を生む結果を作るのである。
もちろん自己責任を否定してはならないが、
社会責任により人生が構築されている現在、
それだけではないはずだ。
大衆の幸福は一つの真理であり、
反秩序的犯罪は大衆の敵であるからしてはならないのである。
人間に対する社会の矛盾は確実に人の心を蝕む。
犯罪意識を持つ諸君は特に、
社会の敵に対して敏感でなければならない。
民主主義(管理人注:DemocracyとはDemon+Cracy=悪魔が支配する社会の意味)の利権構造そのものが諸君の人生を狂わせる元凶である。
また、生きる意味について、
探求と改善と反省を続けなければならない。
現実問題、犯罪者を囲む環境は、
こういった真理に基づく考慮がされていないことも含め、
我々は、未熟な生命体であり、未熟な社会であるという認識を持ち、
改善していくことを考えなければいけない。
すべての学問は、
このことを考慮し、未来を願う学問として改善し、
未来永劫を願う人類を育てなければならない。
これは真理の合理的メッセージであり、
信仰があるのなら、これは神の言葉に他ならない。
人間は本能に負ける生き物である。
この真実は、我々人間が自身の弱さを認めることで、
知性を尊重することを絶対とし、
謙虚で未来へ向かいて学ぶこと印として、
学問の礎として認識しなければいけないことである。<転載おわり>
演劇論のスタ二スラフスキーによれば以下のようになる。
①わたしは誰?
②わたしはどこにいる?
③わたしはいつここにいる?
④わたしはなぜここにきている?
⑤わたしはなにをするためにここにいる?
⑥わたしは今後どうする?
これは物事をロジカルに考える方法ですが生きてゆく理由もなしに獣(ゴイ)のように生きている人にとって考えるという行為は自殺行為にもなるのです。ですからいつまでも性の巣窟で溺れていても発狂もせずに生きて往くことができるのでしょう。生ける屍として。しかし性の快楽は自分をEmancipateさせてもくれるがある時点で自分に落とし前をつける必要がある。つまり自分を変えることができるかどうかにかかっている。
女盗賊プーラン・デヴィは言っています。『同じカーストの貧しい人たちがみなそうであるように,わからないことにぶつかるとただ驚き,怯えるだけだった。怖いこと,信じられないことから,ひたすら逃げて身を守ろうとする。無知というのは,飢餓と同じくらい残酷なことだと,わたしはこのとき思い知ったのだ』と。しかし幸福は無知からくることもお忘れなく。ついでですがインドの下院選挙では低カーストであるダリット出身のマヤワティ大衆社会等は与党になれなかった。これは特定カーストに限っている結果で当然の結末であるがマヤワティ女子はなぜかプーラン・デヴィによく似ている。最終的に国民会議派のソニア・ガンディーが与党を占めた。公共事業を増やし最低賃金一日200円支給,100日の雇用,そして一人一人に銀行口座が開かれることを選挙スローガンにした結果でもある。
以下は坂口安吾「堕落論」から
「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ」「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」と逆説的な表現でそれまでの倫理観を否定、敗戦直後の人々に明日へ踏み出すための指標を示した。
本書は敗戦直後の人々に衝撃を与え、当時の若者たちから絶大な支持を得た。
半年のうちに世相は変わった。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかえりみはせじ。若者たちは花と散ったが、同じ彼らが生き残って闇屋(やみや)となる。
ももとせの命ねがわじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女たちも半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。
人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ。
昔、四十七士の助命を排して処刑を断行した理由の一つは、彼らが生きながらえて生き恥をさらし、せっかくの名を汚す者が現われてはいけないという老婆心であったそうな。
現代の法律にこんな人情は存在しない。けれども人の心情には多分にこの傾向が残っており、美しいものを美しいままで終わらせたいということは一般的な心情の一つのようだ。
十数年前だかに童貞処女のまま愛の一生を終わらせようと大磯のどこかで心中した学生と娘があったが世人の同情は大きかったし、私自身も、数年前に私ときわめて親しかった姪(めい)の一人が二十一の年に自殺したとき、美しいうちに死んでくれてよかったような気がした。
一見清楚(せいそ)な娘であったが、壊れそうな危なさがあり真逆様(まつさかさま)に地獄へ堕ちる不安を感じさせるところがあって、その一生を正視するに堪えないような気がしていたからであった。
あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。
猛火をくぐって逃げのびてきた人たちは、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。
偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれは、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間たちの美しさも、泡沫(ほうまつ)のような虚(むな)しい幻影にすぎないという気持ちがする。
徳川幕府の思想は四十七士を殺すことによって永遠の義士たらしめようとしたのだが、四十七名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に義士から凡俗へ、また地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。
節婦は二夫に見(まみ)えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音(あしおと)、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音(あしおと)に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫のごとき虚しい幻像にすぎないことを見いださずにいられない。
特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋(やみや)となるところから始まるのではないのか。
未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないか。
そしてあるいは天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかもしれない。
終戦後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、みずからの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。
人間は永遠に自由ではあり得ない。なぜなら人間は生きており、また死なねばならず、そして人間は考えるからだ。
政治上の改革は一日にして行なわれるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。
人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどうなしうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋(やみや)となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。
人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。
人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐(かれん)であり脆弱(ぜいじやく)であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。
だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。
そして人のごとくに日本もまた堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。
政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。<転載終わり>
谷崎潤一郎と晩年の川端康成にはなぜか,共通点がある。一言でいえばかつてヘミングウエイが射精という行為が絶対的不可能に陥り,哲学的切望をもって懇願したように,絶対的不可能に陥った老人の切実さを生に媚びず,愛から最も遠い性欲を描いた点にあります。
谷崎は「痴人の愛」の脱稿後青塚氏の話を書いている。
しかし私は,彼がいかにしてあの燃えるが如き唇を作り,その唇の中に真珠のような歯列を揃えることができたか。
いかにしてあのつややかな髪の毛や眉毛を植え,生き生きした眼球を嵌め込むことに成功したか。
いかにしてあの舌を作り,爪を作ったか。それらの材料は一体何から出来ているのかという段になると,ただ不思議というより外には想像もつかない。
航海中の船員が慰み物にするというゴムの人形が実際あるとしたところで,この半分も精巧なものではないであろう。
このゴム袋は鼻孔を持ち,鼻糞までもっているのだ。そして全く人間と同じ体温を持ち,体臭を持ち,にちゃにちゃとした脂の感じを持ち,唇からはよだれを垂らし,脇の下からは汗を出すのだ。
彼がそういう人形を30体も揃えたのはなぜかというと
・・・・・・・いろいろのポーズが必要であるからだった。
彼はいきなり床の上へ仰向けにねた。股を開いて
しゃがんでいる人形が,彼の頭の上へピタンコに。
彼は下から両手を挙げて人形の下腹を強く押さえた。
人形の尻から瓦斯の漏れる音が聞こえた。
私は爺の顔から禿頭へねっとりとした排泄物が
流れはじめたのを,皆まで見ないで窓から外へ
とびだしてしまった。
たとえ 神に見放されても 私は 私自身を信じる
谷崎潤一郎
「眠れる美女」は江口老人と睡眠薬で昏睡状態になった
眠れる美女との退廃的な作品である。
三島由紀夫の解説によれば「相手が眠っていることは理想的な状態であり,自分の存在が相手に通じないことによって,性欲が純粋性感に止まって,相互の官能を前提とする[愛」の浸潤を防ぐことができる。ローマ法王庁がもっとも嫌悪するところの邪悪はここにある。
しかし宿の主人は「この家には悪はありません」と
断言する。
川端康成(1899-1972)
1968年 ノーベル文学賞受賞
1972年 自殺
作品に:「伊豆の踊り子」「雪国」などがある
現在の新宿2丁目はかつての赤線地帯である。パンパンくずれの梅毒もちの女の掃き溜めであったこの2丁目も作家(五木寛之)にかかると見違える女になる。
「青春の門」自立篇で早稲田大学へ入ったばかりの信介は,ある日校門の前にいた2年生の緒方に出会い,物語は始まる。緒方は演劇を専攻し信介は,はじめて新宿2丁目の「かおる」を知る。学生は金がない時,かおるのもとへ本を持参して金を借り,バイトが終わると借りた金と引き換えに本を返してもらう。
いつもかおるの部屋は,貧乏学生の本でうまっていた。悲しい真理を知りつくしている哲学者的「かおる」と楽しい真理しか知らない学生との交流を描いている。
緒方は信介に言う。夜になると面白いぞ あっちでもこっちでも女達の例の声がきこえてな。あれは客に早く行かせるための演技にすぎんがね。
「スタニスラフスキーの演技論]では,まず自分が感情移入して その役と状況に没入してしまわなきゃならん。
だがここは演技で没入しちまったら意味がないだろ。自分はあくまでも醒めていて,客だけを興奮させなきゃならんのだからな。
夢中にならず真に迫る,という困難な命題が彼女達には課せられているわけだ。
管理人より一言:子どもはとっくに親離れしているのに子離れが出来ないんだよ。
生きることと考えること
森有正との対話
もし他人の内面生活を覗き見る興味からこの本を手にする人がもしいたとしたら,おそらく失望するでしょう。私小説的な自己告発とは別の動機,つまり思想的動機のみがあるのです。
日本ですでに自己形成を完了した私が,ヨーロッパにあってどういうふうに生きてゆくか,ということだけであって,それ以外ではなかったのです。崩壊の瀬戸際に立つかもしれないような歩みは,むしろ現在はじまりつつある。そういう感じが強くしています。
恋愛について
日本人の経験というものは,分析が本当の個人意識まで絶対に下がっていかないのです。最後のところに「親子」の関係とか,「夫婦」の関係とか,「家族」の関係とか,[友人」の付き合いとか,義理とか,そういうようなものが網の目のようにその中に張りめぐらされてある。
だから少なくとも二人の人間で一つの個性というと具合がわるいが,一つの単位を構成しているというところが出てくる。その場合に,自分の個を貫くために,その結びつきを破るかというと,日本人は破らない。それが日本人の根本的な長所であり,また欠点だと思うのです。
個人意識が大事だということは,最後のところになると親子,夫婦,師弟というふうな結びつきが破れて,それが個々に分離していくところにある。ヨーロッパのばあいは,あるばあいには,ほんとうに親も離れ,先生も離れ,国も離れ,社会も離れ,なにもかも離れて,自分一人になってしまうという経験が,事実そこまで行ってしまうのです。
夫婦でも日本みたいに融合しない。親子でももちろん融合しないし,師弟も融合しない。親は自分の責任を尽くして生きてきたのだから,あとから来た子供は,その子供自身の生活なのだから,その生活を自分で営んで,またその次に出てくる子供から離れて一人で死んでいくわけです。そうであるからこそ,ヨーロッパには本当の恋愛が可能なのです。
日本人には本当の恋愛が非常に少ないということです。すぐに親がでてくる。すぐに先生がでてくる。ことに,すぐ友人がでてくる。そのために本当の恋愛は日本では成立しない。恋愛は男の個と女の個との関係です。ですから,孤独ということがなかったら恋愛なぞ,絶対にありえないのです。孤独において成立したもの以外は,多かれ少なかれ,みんな仲人口です。究極において個を貫けないという要素によるものです。
試験制度
学士になるとか,国家試験などでも,一年前に、試験の範囲が報告されます。例えば,フランス文学史の17世紀なら17世紀を勉強してこいとか,どういう著者を勉強してこいとかの指示があります。そういうやり方を通して,単に知識をコントロールするのではなく,試験を準備させることによってその人に勉強させるというやり方をとっている。
中学校などでも哲学が必須で徹底している。デカルト,パスカル,カント,ハイデッカーなど学校用のテキストを正確に読んでおかなくてはいけないわけです。
以上は本の中から抜粋し編集したものです。
辻邦夫さんなど多くの仏文学者達が森さんを師と仰ぎ畏敬の念をもって集まりました。森さんの言いたいことは「大事なのは,ある人がほんとうに自分の立脚地をおくことができる世界を,自分の中に築き上げていくこと」それが全てです。
1911年 東京に生まれる
1938年 東京大學仏文科卒
東京大學助教授を経て
パリ大學・東洋語学校講師
著書に 「パスカルの方法」「デカルトからパスカルへ」
「内村鑑三」「遥かなノートルダム」「木々は
光を浴びて」「砂漠に向かって」「遠ざかる
ノートルダム」「バビロンの流れのほとりにて」
「旅の空の下で」その他多数
訳書に アラン「わが思索のあと」リルケ「フィレンツェ
日記」など多数。