ここに見られるのは、世代間対立を踏まえた強い不平等感から、「大きな政府」を否定し、より自由主義的な福祉レジームを望ましいものとする考え方だろう。さらに彼は、「新自由主義の権化」などとされる竹中平蔵が主張する「小さな政府」志向のベーシックインカム論を取り上げ、賛意を表明している。
いわゆるロスジェネとして、新自由主義的な政策の煽りを食ってきた世代の一員であり、実際に非正規職を転々としてきた彼のような者であれば、通常はそうした政策を批判し、「大きな政府」を望むのではないかと思われるが、彼はむしろ逆の方向を向いている。
そこに見られるのは、新自由主義的な風潮を批判するどころか、むしろ強く内面化し、自らの生き方そのものにしてしまっているその姿だろう。そこには公的なものへの信頼がまったくなく、そのため「共同体に加入する」ことがバカバカしく思えてしまう。すべてを自分一人で引き受け、自己責任で処理していくことが唯一の規範だと考え、それを自らに課している。
そうした価値観のゆえに、彼は自らの状況を誰かと共有することもなく、あらゆる連帯を拒みながら、自分一人ですべてを引き受けてさまよい続けるなかで、ますます孤立を深めていったのではないだろうか。
彼は自らに言い聞かせるようにして言う。「だから言っただろう、最後はいつも一人だと。頼りになるのは自分しかいないと。プライドしかないのだと。人間など屁の役にも立たんと」。
出口のない政治的世界
このように彼の中には、実にさまざまな政治的傾向が見られる。まずネット右派、そして保守派としての傾向が強く、一方でリベラルな傾向も見られ、さらにリバタリアン的、もしくはネオリベラルな傾向も顕著だ。しかもそれらがときに対立し合いながら、統一教会という存在を介して複雑に結び付いている。
そうして織り成されている迷路の中をさまよいながら、彼は出口を探し続けたのだろうが、しかし見つからなかった。そこから脱出するための唯一の方法は、それを破壊してしまうことだったのだろう。
ここで最後に[安倍]のテーマを見てみよう。まずその憎悪度は高い。しかし特段に高いわけではなく、むしろ政権の成果を積極的に評価する議論もしばしば見られる。
また、どこかの時点から憎悪度が上昇しているわけでもない。統一教会と安倍との結び付きを途中で知ったことから彼が憎悪を募らせていったという説もあるが、しかし彼がこのアカウントを使い始めた翌日の時点で、「安倍政権に朝鮮民族主義の走狗がいる」と書いていることからも窺えるように、彼にとってこの件はすでに周知の事実だった。
こうしたことからすると、彼が安倍に殺意を抱くに至った理由をこのテーマから読み取ることはできない。そればかりかこのテーマは、抑制的に書いているせいかもしれないが、特定の問題意識を受けたものではなく、そのため特段の特徴がないものとなっている。