ジョーカーの真摯な絶望
次に2番目に言及度が高いテーマ、[ジェンダー]を見てみよう。このテーマは[格差社会]との関連度が高く、また、憎悪度もかなり高い。
このテーマに関わる語で「女」などの一般的な語に次いで出現度が高いのは、「インセル」(「非モテ」を表す英語圏のスラング)「呉座」「フェミニズム」「フェミニスト」などだ。これらの語を多用しながら彼は、いわゆる弱者男性論を展開し、フェミニズムを強く批判している。
つまりフェミニズムは男性を強者だと決め付け、その加害者性を問題にしているが、しかし男性の中にも弱者はいる。それどころか、誰にも助けてもらえない弱者男性は女性以上に弱者であり、「真の弱者」だ。それなのになぜそうした者まで責められなければならないのか、という考え方だ。
こうした考え方もまた昨今のネット右派に特有のものだが、しかし彼の場合には、やはり統一教会に起因する独特の事情がある。
元来はエリートの家系に生まれ、進学校に通うなど、本来であれば社会的強者に列せられてしかるべきだった彼は、しかし統一教会の差し金で「親に騙され、学歴と全財産を失い、恋人に捨てられ、彷徨い続け幾星霜」の末、今では弱者男性の立場を余儀なくされている。
そうした自らの境遇を踏まえながら、彼は批評家の杉田俊介の議論を引用し、独自の見解を述べている。杉田はそこで弱者男性の立場に寄り添いながら、「誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って」自らの立場を自覚していくことが大切だと説いている。
しかし彼は言う。「だがオレは拒否する」。「誰かを恨むでも攻撃するでもなく」という態度が「正しいのは誰も悪くない場合だ」。「明確な意思(99%悪意と見なしてよい)をもって私を弱者に追いやり、その上前で今もふんぞり返る奴がいる」以上、今の立場をおとなしく受け入れるわけにはいかない。その結果、「そいつを生かしてはおけない」として、恨みや攻撃が是認されることになる。
しかもそうした敵意は、統一教会に向けられるだけではなく、フェミニズムにもぶつけられる。その際に持ち出されるのは、反差別運動を批判する際と同様の論理だ。つまり本来は被害者である自分が、それも統一教会という明確な加害者による被害者である自分が、男性というだけでなぜ加害者扱いされなければならないのか、というものだ。そのため[ジェンダー]への憎悪度は、[差別・ヘイト]と並ぶ水準で高くなっている。
こうしたことから彼は、やはりリベラル派への反発から、ますます「ネトウヨ堕ち」の度を強め、反フェミニズム、そしてミソジニー(女性嫌悪・女性蔑視)へと傾斜していくことになる。
しかもその際、彼は自らのミソジニー、つまり女性への憎悪を社会全体への憎悪へと敷衍していく。そこで両者の間をつなぎ、[ジェンダー]と[格差社会]との媒介項としてしばしば言及されているのが、映画『ジョーカー』の話題だ。インセルであるばかりでなく、あらゆる意味で社会的弱者であるジョーカーにあっては、「憎む対象が女に止まらず社会全て」だという。
「悪の権化としては余りにも、余りにも人間的だ」というジョーカーに自らの立場を重ね合わせるようにして彼は言う。「ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許さない」。