■東武鉄道日光軌道線■

1.沿革

(1)歴史
月日 出来事
1890(M23) 8・1 日本鉄道 宇都宮-日光間全通
古河市兵衛 足尾(神子内)-日光(細尾)に索道を敷設
1893(M26) 古河 細尾-日光駅間に牛車軌道を敷設
1906(M39) 古河 別倉・細尾発電所、清滝に日光電気精錬所を設置
1908(M41) 9・18 日光町・古河の出資により日光電気軌道株式会社創設
1910(M43) 8・10 日光電気軌道 日光-岩ノ鼻間8.0kmで営業開始
1913(T2) 10・15 日光電気軌道 岩ノ鼻-馬返間2.2kmを延伸開業
12・31 足尾線 足尾まで開通(以後足尾銅山の物流の主力となる)
1928(S3) 日光電気軌道 東武鉄道の系列下に入る
1929(S4) 東武日光線 東武日光まで開通
1932(S7) 日光登山鉄道(鋼索鉄道:ケーブルカー)開業
(S45・3廃止)
※このとき馬返駅を移転整備しキロ程が延伸したものと思われる
11 日光自動車電気株式会社と改称
1933(S8) 11・3 日光登山鉄道(架空索道:ロープウエイ)開業
(S18・9休止 S25・10復活)
1944(S19) 日光軌道株式会社と改称
日光駅から国鉄貨車の直通を開始、神橋付近路線変更
1945(S20) 2・28 日光登山鉄道を併合
1947(S22) 6・1 東武鉄道と合併 東武鉄道日光軌道線となる
1954(S29) 新型電車(100型200型)の投入
1960(S35) 11・17 多数の駅・停留所で改名を実施
1968(S43) 2.24 全線廃止(10.6km)
古河: ~M44 個人経営 M44古河合名会社へ、T7古河鉱業(株)設立
    T9~日光精銅所は古河電気工業(株) 
    S16 古河合名会社と古河鉱業(株)が合併し 古河鉱業(株)
    現在 古河機械金属(株)
(2)路線
 
1067mm単線、直流600V電化。路線は、神橋付近、下河原-公会堂前付近、清滝付近、馬返付近で幾度か変遷があったようだが、詳細は未調査である。廃止時のキロ程は10.6kmであった。以下は、S32年の地図を元に作成したもので、赤線が日光軌道である。各サイトの現役写真から気付いた事として、
■保安にはスタフ方式が用いられていたようだが全区間か否かは不明。
■併用・専用区間は地図と実態で差異があると思われる箇所もあるが、
  下図は地図を基にした。
その1
その2
その3
その4
その5
(3)駅・停留所
 東武鉄道百年史に基づき作成したが、日光電気軌道路線案内(昭和初期?)とは若干の差異があることをお断りしておく。
開業時 改称/廃止 路線廃止時 備考
停車場前 1960.11.17 国鉄駅前
松原町 1960.11.17 東武駅前
石屋町 - 石屋町
御幸町 一時廃止後再開 御幸町 ごこうまち
警察前 不詳 警察署前
下鉢石 廃止時期不詳 しもはついし
中鉢石 1960.11.17 市役所前
上鉢石 1960.11.17 神橋 路線変更あり
下河原 T15ごろ新設 下河原
安川町(時期不詳) 新設/廃止時期不詳 路線変更あり
公会堂前 S29.9.28新設 公会堂前
日光ホテル前 不詳 西参道
四軒町 新設/廃止時期不詳
田母沢 田母沢
蓮華石 S23・4ごろ新設 蓮華石
花石町 花石町
裏見 1960.11.17 安良沢 途中「荒沢」と呼称
地蔵下 1960.11.17 電車庫前
割山 新設/廃止時期不詳
白崖下 1960.11.17 古河アルミ前
丹勢下 S29.9.28新設 丹勢下
明神下 新設/廃止時期不詳 途中路線変更で移設
青銅所前 S4 清滝 路線変更あり
岩ノ鼻 廃止時期不詳 最初の終点
別倉 新設/廃止時期不詳
横手 横手
坂下 新設/廃止時期不詳
馬返 S3頃 馬返 途中「中善寺口」と呼称
(4)車輌
 体系的な資料が手元になかったため、写真資料などによる。
200型は他社へ継承されなかったため、実働わずか14年であった。100型が岡山電気軌道に継承され50年間現役である事と比べて、いかにも短命である。
幸い203号が、東武博物館に美しい姿で保存されており、特異な連接構造を今でも見ることができる。109号とED611の現状についてはとちレビの別記事をご参照願いたい。
形式 登場時期 概要 備考
テ1~ 開業時 木造オープンテッキ2軸単車 同系のボギー付随車有
テ1?~ 昭和初期(4年?) 鋼製2軸単車 同系の付随車あり
100型 S29 鋼製ボギー単車
200型 S29 鋼製2車体3台車連接車
ED600 S19(T8~製造)
アプト式ED40
鉄道省からを借用、東武合併後譲受しED4001・2となる ED610導入時改称
ED601・2
ED610 S30 新製35t機 1両ED611
貨車・事業車 不明
(5)廃止に至る経緯
 長年、日光地区の観光と市民生活ならびに古河関連の貨物輸送の主役を演じてきた日光軌道線であるが、旅客人員はS29年度の約550万人を、貨物トン数はS31年度の約11万トンをピークに減少をはじめ、S42年度はS37年度に比べても旅客貨物とも約30%減の約350万人、4.8万トンにまで落ち込んだ。すなわち、S30年代後半の自動車への輸送シフトがその命脈を絶ったものと考えられる。特に、S40年10月の第二いろは坂開通のインパクトが大きかったことは想像に難くない。
S43.2.23・4両日さよなら運転が実施されその歴史を閉じた。
なお、複数の資料・サイトにて廃止日を2.25としているものが見られるがその根拠は不明である。(本ページでは、東武鉄道の各公式資料を基に2.24とした。)

 

2.廃線跡の現状

 完全な調査ではないが廃止から36年を経た2004年11月の状況を記録した。
<A地点警察署前付近>
国道上に残る架線柱。なぜ、ここだけ残ったのか不思議である。
<A地点警察署前付近>
よく見るとビームには外資や架線を吊り下げたと思われる構造物が残っている。
<神橋付近>
S19年に国鉄貨車を直通する目的で架橋された軌道専用橋の橋台。よく見ると水中には橋脚の痕跡も見られる。
<絵葉書に見る神橋付近>
日光橋を併用していたことが分かる。同時期の絵葉書でほとんどの電車は無蓋車を牽引しておりこの運行形態が定常的であったことを物語る。

絵葉書提供:Nao.S氏
<田母沢橋梁>
単線上路3ヒンジソリッドリブアーチ、24mの径間を持つ田母沢橋梁は、今も国道120号線の車線間に現存している。写真奥が神橋方。右の車線がもともとの国道で、橋梁の前後は併用軌道だったらしい。
<田母沢橋梁>
下から見ると特異な形状がよく分かる。馬返側からの撮影。
<安良沢橋梁>
田母沢と同形式で径間もおなじである。左が馬返側。この橋の付近では、鉄道事故史上にもあまり取り上げられない悲しい事故が多く発生している。事故と関連が深い産子地蔵の祠が馬返側の軌道跡近くに設けられている。
<絵葉書に見る安良沢橋梁>
■橋梁を巡る事故の概要
 (産子地蔵の説明看板を元に・・)
①T8.4.19とS14.10.12
  2回にわたり橋梁前後で脱線転覆
  死者23名 負傷者90余名
②S23.10.24
  子供の遊び中の事故
  (工事用トロッコの暴走?)
  死者2名 負傷者10余名。

絵葉書提供:Nao.S氏
<B地点(電車庫付近)>
電車庫の跡は現在、某団体の豪華な研修施設となっている。内部には、遺構もあるとのことだが確認はしていない。この付近は国道に沿う専用軌道だったと思われ、軌道跡には朽ち果てた枕木の柵(廃止後設置されたもの?)が残っている。
<B地点(電車庫付近)>
電車庫跡地から馬返方面を見る。軌道跡には整然とした植林が行われている。
<C地点(丹勢下付近)>
一旦国道筋から離れ側道(旧道?)を併用軌道で進む。写真の土蔵は当時からあったもの。目の前を通る電車を毎日見つめていたのだろう。1つ日光側の古河アルミ前からは引込み線が分岐していた。
<D地点(清滝付近)>
清滝は古河電工の敷地内に駅があった。現在立ち入りには許可が必要だ。写真はその敷地を出た場所から馬返側を見たところ。
<E地点(岩ノ鼻付近)>
専用軌道区間だったと思われる軌道跡。
奥が、清滝方。この周辺は、軌道跡がはっきり分かる。
<E地点(岩ノ鼻付近)>
犬釘が落ちていた。
<E地点(岩ノ鼻付近)>
成長した樹木に取り込まれた碍子。すでに一体化しており取り外すことはできない。樹木にとりついた軌道の怨念のようだ。
<古絵葉書に見る岩ノ鼻付近>
最初の終点だった岩ノ鼻は、細尾方面にもっとも近い箇所に設けられていたようだ。

絵葉書提供:Nao.S氏
<F地点 馬返付近>
日光登山鉄道との連絡時に延長されたと思われる区間は、軌道跡がかなりはっきり残っている。奥が馬返方。この先に、昭和末期まで、終点馬返の駅舎が廃墟然として残っていた。内部には、当時のままの時刻表などが残されていたが、今は何の痕跡もとどめていない。
昭和末期の馬返駅 (写真提供 HAL.W氏
優雅な上屋根に覆われたホーム跡。
1面2線の配線だったことが分かる。
奥の階段を上ったところが待合室。
発車時刻表も廃止時のまま色あせて残されていた。よく見ると、日中時間帯で毎時3本程度。早朝と、夕方以降は極端に本数が減る。なお、「日光電車」という記載があり、自らこの愛称を使っていたらしい。
草に覆われた駅名板右側に「あけちだいら」左には、「よこて」ではなく「きよたき」らしき文字が見える。
こちらは、ケーブルカー乗り場。各種の看板や左に見える売店跡が時代を感じさせる。


3.あとがき

 社会情勢から路面電車の見直しが叫ばれる昨今、歴史にもしもはありえないが、このインフラがケーブルカーと共に残っていたら・・・。国際観光地日光の面目躍如であったかも知れない。一方40年近くたった今日、当時とあまり変わらない理由で廃止される名鉄600V各線があることも事実である。心にわきあがるのは、ただただ
「もったいないなー。」
という感情である。

廃止直前の貴重な動画記録を収録したビデオが発売されており、当時の姿を偲ぶことができるのは唯一の慰めである。
「おもいでの日光軌道・ケーブルカー」 (東武鉄道販売)

そしてこちらもお別れ・・・・
参考文献: 1,19,22,25,26(一覧表のNoを示す)



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更新    
作成    2005.2.18
写真撮影 2004.11

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