「日本は終身雇用か?」と聞かれたら、いまやかなりの人がそうではないと答えるだろう。
実際、働き始めてから一度でも退職したことのある個人は70%に達している。最も雇用が安定している男性正社員に限っても、55%は退職経験がある(リクルートワークス研究所「全国就業実態パネル調査2017」)。
人材の流動化はとくに若い年代で顕著だ。1989年から2019年にかけて平均勤続年数の変化を確認すると、男女ともに60代は長くなっている一方、30代は短くなっている(厚生労働省「賃金構造基本調査」)。
この背景には、有期雇用で働く人の増加や、個人のキャリア形成に対する意識の変化がある。
30年間、平均賃金も増えていない
雇用の流動化が進んだこの30年、日本では平均賃金も増えていない。図表1はG7諸国の平均賃金の推移をまとめたものである。
ほとんどの国で平均賃金が右肩上がりに上昇しているにもかかわらず、日本の平均賃金は30年近く横ばいのままだ。しかも日本の平均賃金は、1990年初頭はアメリカに次いで2番目の水準だったのに、現在は下から2番目にまで転落している。
日本の平均賃金が増えなかった理由は、企業の人件費の抑制や、賃金水準の低いサービス産業の拡大、いわゆる「非正規化」の進展などである。いずれにせよ、高度経済成長期やバブル景気は過去の話、日本は30年間で賃金の安い国になってしまった。
しかし、人生100年時代、長く幸せに生きるために所得の重要性は増すばかりだ。
図表1 G7諸国の平均賃金(米ドル換算)
出所:OECD“Average annual wages”
転職活動で大事にすべきこととは
平均賃金が伸び悩む要因として、日本では労働組合の組織率の低下が指摘されてきた。
労働組合の組織率は、戦後の56%から、いまや17%まで低下しているからだ(厚生労働省「労働組合基礎調査」)。労働組合と聞いてもピンとこない人も多いだろう。
だが、もうひとつ今日的で重要な変化が存在する。
それは、雇用が流動化すると、企業内組合による労使交渉だけでは賃上げの仕組みとしては不十分ということだ。なぜなら、企業内労働組合が交渉するのは、雇用契約を結んでいる期間のベースアップや昇給額だけだからだ。
新卒で入社する社員と違い、転職者や有期契約社員の場合、入職時にどの等級に入るかによって、その後の処遇に差がつく。入社時期もバラバラなうえ、企業側の評価も個人差が大きい。
新卒入社であれば、全社でほぼ一律に整備された労働条件で働くことになるが、転職者や有期契約社員であれば、賃金だけでなく、仕事内容や労働時間なども個別にすりあわせなければならない。
つまり、雇用が流動化すると、個人単位で労働条件について企業とすりあわせる必要性が高まるのだ。
賃上げを求める個人、日本3割、海外7割
実際、雇用が流動的な海外では、賃金を含め、入社時に労働条件について個人が企業と交渉するのはふつうのことだ。図表2は、日本・アメリカ・フランス・デンマーク・中国で大卒30代、40代を対象に行った調査の結果である。
図表2 リクルートワークス研究所(2020)「5カ国リレーション調査」 ※転職者のみの集計結果
入社時に賃金について要望した個人は、その要望が叶ったかどうかで、赤・オレンジ・青・水色のいずれかに分けてある。一方、会社に提示された額で合意、もしくは、賃金交渉について覚えていない場合は濃淡の灰色となっている。
日本と他の国々で、灰色の大きさが全く違うことに気づくだろう。入社時の賃金交渉に受け身な「会社から提示された額で合意した」「覚えていない・わからない」の割合が、日本は68%もあるが、アメリカは32%、フランス20%、デンマーク28%、中国12%と、日本以外の国では能動的に賃金交渉するほうが普通である。
声をあげれば、希望が叶う確率は高まる
加えて重要なことは、日本を含むすべての国で、賃金について要望した場合、「希望が叶った」割合が「希望が叶わなかった」割合よりも高くなっていることだ。詳細は割愛するが、賃金について要望すると希望が叶う確率が高まることは、統計的にも確認できる。
賃金について要望したからといってすべてが叶うとは限らないが、声をあげれば、希望が考慮される可能性は高まるのである。
これは当たり前の主張のように思われるかもしれないが、決してそうではない。なぜなら、日本では30年間にわたって平均賃金が増えておらず、賃上げが大きな政策課題になっているからだ。しかも、5カ国調査の結果が示すように、日本には個人が労働条件について交渉する風土もほとんど根づいていない。
いつ、どうやって、賃上げを求めるのか?
日本の職場では、個人も、それと相対する企業の管理職や人事も、労働条件の交渉に慣れていない。しかし、雇用の流動化により、賃金交渉は「集団から個人へ」「雇用契約期間中から契約の締結・更新時へ」移りつつある。
今後は、個人にとっても、企業にとっても、入社時や雇用契約の更新時に、仕事内容だけでなく、待遇についてもすりあわせることが重要になっていく。
たとえば採用面接であれば、仕事内容や人柄、社風との相性などの見極めを経て、雇用契約の締結にいたる。その途中で、前職賃金の確認や給与額の提示があるだろう。
最初の面接でいきなり「〇万円でなければ働きません」というと、「何ができるのかもわからないのに、金かよ」と印象が悪くなってしまうので、企業が求める職務要件などを突破したあとに、「A社からは◯万円提示されています」など、希望額を伝えるのだ。
このとき大事なのは、「要望を伝えたからといって、その希望が必ず通る」とは思わないことだ。交渉が決裂すると転職そのものが成立しないし、賃金制度が硬直的で、どれだけ高く評価していても、高い給与を払えない企業もあるからだ。
賃金について要望するときは、言い出すタイミングや自身に対する評価を考慮したほうがよい。
個人単位で、未来志向の条件交渉を
入社時や雇用契約更新時の条件交渉は、これから仕事を頑張りたい個人と、頑張ってほしい企業の、未来志向のすりあわせの場である。解雇をめぐる紛争のような労使対立とは位置づけが違い、協調的な場だ。
さらに今後、ジョブ型雇用が広がると、雇用契約の締結・更新のタイミングだけでなく、来期のジョブの決定のタイミングでも、ジョブと待遇のすりあわせが発生する。
終身雇用の企業では、個人は仕事や賃金の決定に対しては受け身にならざるをえない面がある。しかし、雇用が流動性すると、個人は、仕事の決定だけでなく、賃金の決定にも主体的に関わっていく必要が生まれる。
充実したキャリアをつくるためには、賃金の交渉スキルを高めていくこともまた重要になっていくのだ。
(文・中村天江)
中村天江:リクルートワークス主任研究員。博士(商学)、専門は人的資源管理論。「労働市場の高度化」をテーマに調査・研究・提言を行う。「2025年予測」「Work Model 2030」「マルチリレーション社会」等、未来の働き方を提案するプロジェクトの責任者や、政府の委員を歴任。著書に『採用のストラテジー』(単著)、『30代の働く地図』(共著)などがある。