https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/461f184dc49a4a1032e276b30ab82d27
By the Brink of OLD NILE。そこへ,ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りてきた。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は,葦の茂みの間に籠を見つけたので,仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおり,しかも男の子で,泣いていた..............。王女は彼をモーセと名付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから」<出エジプト記2:4~10>
キリスト教は,シリア社会に属していた人々を先祖とする民俗からきたものである。シリア世界の一半を形づくっていたイランは,ミトラ教を提供した。イシス崇拝は,エジプト世界の征服された北半分から来たものである。アナトリアの大母神キュペレの崇拝は,多分,当時,宗教を除く他のすべての社会的活動の面において,死滅してからすでに久しい時を経ていた,ヒッタイト(Hittite)社会からもたらされたものとみなされる~~~もっとも,この大母神の究極の起源を探ってゆくと,アナトリアのペシヌス(ガラテア地方の都市)でキュペレとなり,ヒエラポリス(シリアの北部の町)でシリア女神De Dea Syraとなり,あるいはまた,遠く離れた北海やバルト海の聖なる島の森の中で,ゲルマン語を話す人々に崇拝される地母神となる以前に,元来シュメール世界においてイシュタルの名で知られていた女神であることが判明する。(Study of Historyサマヴェル縮小版より)キリスト教の開祖者はヘーゲルの祖ヘラクレイトス(Herakleitos)と断定していいだろう。そうだとすると神の意味は弁証法の複素数を理解しないと無理であろう。
「ギルガメシュ叙事詩」は古代オリエント最大の文学作品である。口承文学であり,古代メソポタミア世界に,これほどのヒューマニズムと芸術的感覚が見られるということは驚きである。この叙事詩は「すべてを見たる人」と呼ばれたが,本来はシュメール人に起源を発することが判明してきている。シュメール人というのは,ティグリス・ユーフラテス両大河の河口あたりに住んでいた古代民族で,多くの遺跡および発掘品によって相当高度な文化をもっていたことが知られているが,その人種的系譜は殆どわかっていないに等しい。ギルガメシュという名そのものが,シュメール語の名であって,その他残された作品にもこの名はしばしば見られる。
そののち,セム族であるアッシリア・バビロニア人が政治的に優位となり,シュメール文化の多くのものを取り入れた。物語全体にわたる主人公がギルガメシュで,ウルクの都城の王である。ギルガメシュは力強き英雄であるとともに暴君として都の住民たちに恐れられていた。ウルクの人々は天なる神々にこのことを訴えた。神々はこれを聞き入れ,大地の女神アルルに何とかせよ命令する。女神は粘土からエンキドウという名の猛者を造り上げ,これを都城から少し離れた野に置いた。
エンキドウは裸で,毛髪に覆われており,野獣のような生活をしていた。そこへギルガメシュからおくられた娼婦がやってきて彼の欲望を満たすとともに人間らしくしてしまう。エンキドウが人間らしい心に目覚めるとともに,仲間だった野獣は去り,エンキドウは娼婦から食事や着衣などの作法を教わる。ギルガメシュとエンキドウの友情は次第に芽生えていく。彼らがウルクに帰り着いてのち,愛と逸楽の女神イシュタルがギルガメシュの英姿に魅せられてしまい,多くの報酬を約束して誘惑しようと試みるが失敗した。激昂したイシュタルは天の神アヌに,天の牛をウルクに送ってギルガメシュとその都城を滅ぼすことを求める。アヌははじめは拒絶したが,イシュタルが冥界から死者を連れ出すとおどかすので,いやいやながら天の牛をウルクに送った。このため,何百という戦士が殺されたが,二人の英雄は力を合わせてこれに打ち勝つことができた。
杉の森の守護神フンババ(フワワ)
フンババ(フワワ)と天の牛を殺したために,エンキドウは神々により,近いうちに死なねばならぬと宣告をうける。12日間の病ののち,悲嘆にくれたギルガメシュに見守られつつ彼は最後の息を引き取った。彼は永遠の生命を求め始めた。これまでただひとり,古都シュルッパクの聖王ウトナピシュティムのみが,不死を得たということをギルガメシュは知っていた。彼はその住まいをたずねて旅にのぼる。ついにたずねあて,永遠の生命の秘密をたずねる。だが,ウトナピシュティムの答えは彼を落胆させるものであった。ここで昔あった大洪水のことが物語られる。エア神の言葉によってウトナピシュティムは四角の船を造り,危険から逃れることが出来た。永遠の生命については,それを送ってくれた神々の決めたことで,彼のあずかり知ることではないというのであった。
しかしながら,大洪水の記述はギリシャ神話に見られるのである。詳しくは,ヘシオドムの神統記をご覧ください。
以上は矢島文夫氏のギルガメシュ叙事詩(絵も)からの一部要約であるが,おやっとされたと思います。すでに長谷川三千子氏の「バベルの謎」で紹介したように,聖書の「ノアの方舟」にでてくる大洪水はまさしくギルガメシュを素材として出来上がったものであることは,疑問の挟みようがない。バベルの塔はジグラットでありこれは記事にした。この叙事詩が記された粘土板の一部,大洪水の物語が刻まれた部分は大英国博物館で見ることが出来る。またすべてを見たる人=エジプトの万物を見通す目に通じるものである。
<また矢島文夫氏によると,イシュタルの冥界下りというアッカド語の文があるが,半分はギルガメシュ叙事詩と重複する。女神イシュタルはシュメールのイナンナの系譜をひき,のちにフェニキアのアスタルテ,それからギリシャのアフロディーテー,ローマのウエヌスになる愛と美の女神であるが,がんらいは豊饒の女神であり,大地母神の血をひくものであった>イシュタル神話と日本神話の関連を考えるとイザナギのミコト神話でもあり,日本人シュメール説が俄然脚光を浴びてくるのである。
ギルガメシュ叙事詩(BC2600年)は19世紀になってアッシリアで発見されたシュメール文字(楔文字)で書かれた粘土版であるが,ノアの方舟のくだりはウトナビシュテムの洪水神話に基づくことはよく知られている。BC700年になってヘシオドスの神統記が現れるがその後のヘラクレイトス(後にプラトン派につながる)は何らかの形で聖書の原型を作ったとしか考えられない因果関係が判明してきた。これは恐ろしいことである。キエルケゴールによるとヘーゲルやヘラクレイトスにとって「アブラハムとは奴隷精神」を代表すると言うがまさにそうである。(しかしキエルケゴールはk・ポパーによると<彼の手回しオルガンで全事象を演奏している>と批判されている)。しかしポパーやレヴィ・ストロースに見られる「対象に対する理解を深めようとするアプローチは構造主義と呼ばれ日本人に欠如しているものである。従ってそういうアプローチなしに人を裁こうとするからおかしくなるのです。
これは私の先生の先生である森有正氏の根本的な考え方をまとめたものですが「主観の世界からいきなり客観の世界に入るのではなくその中間の経験によって生まれた内面のもの,つまり,内面的な矛盾と対峙することによって普遍的なものが生まれる,というパラダイム(座標軸)が非常に大切」であるということです。
啓示は所詮はただ人間を介してのみ彼に到達し、また人間によって解釈されるので、たとえ啓示が神自身から彼に到達するように思われたとしても(汝自身の子を羊の如くに屠れという、アブラハムに発せられた命令のように)、そこになおある誤謬が支配しているかもしれないということは少なくとも可能である。そうだとすれば、彼はきわめて不正であるかもしれない事柄をなす危険をあえて冒すことになるであろうし、その点で彼の行為はまさしく無良心的なのである<カント・純粋理性批判より>
「神の超越性は個人の内面に存在する」というK.Wiseman氏(Alias 小副川幸考氏)の言葉に素直に耳を傾けましょう。(転載許可済み)
キリスト教倫理の形成と超越
原文
ヘレニズム世界で発生したキリスト教の信仰思想は、その影響領域の社会的拡大と共に古代ギリシャの哲学思想との融合を試みた。
管理人注:ヘレニック文明社会が同時代の東方諸文明に対して加えた圧力は,その応答としてキュベレ崇拝,イシス崇拝,ミトラ教,キリスト教,および大乗仏教を出現させた。また,バビロン文明社会に対する軍事的圧力は,ユダヤ教とゾロアスター教を出現させた。イスラム社会は,コーランの原典の中に示されている指示にもとづき,イスラム以外のいくつかの宗教を宗教的真理を部分的に示す真正の啓示として認める態度を継承したが元来ユダヤ教徒とキリスト教徒とに与えられていたこの承認が,のちにゾロアスター教徒とヒンズー教徒にも拡張されるようになった。
拙稿:アウグスティヌスの復活論 その1参照
『ヘレニズム文化爛熟期の地中海世界に進出したキリスト教が、当時の宗教思想と対決しなければならなかった最も根本的な問題は、先に見たように復活の問題でした。霊魂の不滅と輪廻転生の宗教的雰囲気にいた人々にとって、キリストの福音が告知したキリストの復活と、信じる者が終わりの日の復活にあずかるとの希望は、新鮮で衝撃的な救済の告知でした。それだけに、キリスト教に対する批判も復活の信仰に集中したわけです。ローマ帝国の度重なる過酷な迫害に信徒たちが勇敢に耐えることができたのも、復活にあずかる希望があったからでした。キリスト教はこの復活の信仰によって他の諸々の宗教とローマ帝国に勝利した、と言っても言い過ぎではないと思います。
(上のキリスト教はこの復活の信仰によって他の諸々の宗教とローマ帝国に勝利した,に関して管理人注:『不可知論者に神を冒涜する機会が与えられた。勝利者となる宗教は通常,競争相手の主要な特徴のうちのあるものを引き継ぐことによって勝利を獲得するからである。勝利を得たキリスト教のパンテオンにおいて,マリアの,神の偉大なる母への変貌という形で,キュベレやイシス(ISIS)の姿が再現しているし,また戦うキリストのうちにミトラなどの面影が認められる..............なぜキリスト教は,ユダヤ教の,神は愛であるという洞察を承認し,宣言した後に,それと相容れない,ユダヤ教のねたむ神の概念(注:ユダヤ教のねたむ神の概念は『あなたはわたしのほかに,なにものをも神としてはならない』(出エジプト記第20章3節)にも見られる)をふたたび取り入れるようになったのか。それ以来絶えずキリスト教に大きな精神的損害を与えてきたこの逆行は,キリスト教がカイサル崇拝との生死にかかわる争いにおいて勝利を得るために支払った代価であった。教会の勝利によって平和が回復されたのちも,互いに相容れないヤーウエとキリストとの結びつきは解消するどころか,かえって一層強化された。勝利の瞬間に,キリスト教殉教者の非妥協的態度が,異教や異端を迫害するキリスト教会の不寛容に移行したのである。(注:特に13世紀のスペインで顕著であった)』....ですから木村氏の言うようにローマ帝国に勝利したのではないのです。)
その原理的な姿は、すでに新約文書のパウロ書簡にちりばめられている「倫理的勧告」や『使徒言行録』の著者によって記述された「アレオパゴスの説教」(『使徒言行録』17章16-34節)などに見られるが、最も顕著で積極的な姿は初期キリスト教弁証家たちの神学思想に現れている。
彼らは、聖書の神がギリシャ哲学の説く神とは別の神ではなく、むしろそれに優る最高の神であることを主張することをもってキリスト教の弁証を開始したのである。
アテナゴラスやテオフィロスやユスティノスは、当時のストア哲学やプラトン哲学、特にネオプラトニズムが「デミウルゴ(Demiurgo)」という概念で説いた形而上学的超越概念をもって聖書の神概念を説明したし、アレキサンドリア学派の教父たちは、プラトン的な神概念をキリスト教信仰内容の概念的形成の尺度として採用している。(8)
拙稿:聖書ものがたり・使徒言行録参照
そして、この流れが西洋キリスト教神学の全体の方向を決定したアウグスティヌスを経て中世に至るのである。
聖書の神がプラトン的な形而上学的超越概念と同定されることによって、倫理的な事柄は、その神理解から自動的に導き出される理性の実践的な行為となり、道徳的なことはその超越によって基礎づけられた自然の道徳法則の概念から必然的に出てくる要求や理想として理解され、倫理学に対する原理的な注意は、せいぜい、教会内における建徳的な魂の訓練か教会共同体の秩序の維持以外には、ほとんど払われなかったのである。
しかし、この初代キリスト教神学が倫理学的原理に対して熟慮しなかったことは、直ちに、それが倫理的な事柄に対する無関心を意味しない。
むしろ、本質的に道徳的エートスを持つキリスト教信仰思想から、彼らは積極的にこの世界における人間の理想的な姿を問い、個々の場合についても、例えば国家や兵役、奴隷制、教育、家庭、富の問題などに重要な見解を示している。(9)
ただ、それらがユダヤ・ヘレニズム的道徳観と自然法的倫理観の無原則の混同の中で、原理的に形而上学的最高存在としての神を根拠にして、そこから形而下の一切の存在を秩序づけることができると考えられたのである。
アウグスティヌス(Augustine)の神学体系である二王国論「神の国(De Civitate Dei)」は、その流れの頂点に位置するように思われるし、宗教改革者M.ルター(M.Luther)が「善きわざは信仰によってのみ生じる」(10)と論じた源流もそこにある。
拙稿:聖書ものがたり・イザヤ書参照
そして、神学的には、この方向は倫理学の教義学的基礎づけといった方向を取ることになるのである。
しかし、西欧社会の中で、キリスト教会的な文化統制が一応の安定を見せた中世において、文化全体を支配する価値観や倫理的な諸要求と個人の魂の建徳的訓練のための諸命題を結合させる倫理学が、世界観や文化全体を明確に認識するために必要不可欠なものとなっていったが、そのために神学自体はかえってギリシャ哲学との結合を濃密にし、キリスト教の根本思想から展開されるようなキリスト教倫理学ではなく、道徳的自然法をアリストテレスの倫理学と同一視して、ただ自然法的な道徳法則から生じるすべての倫理的目的を教会の究極的目的に従属させようとしたのである。
こうして、自然法を正しく解釈し、具体的事例をキリスト教的調停へと導くための司祭の指導が制度化され、神の恵みに伴う超自然的秩序に属するための一種の修道倫理が形成され、特に神の恩寵によって引き起こされた英雄的で禁欲的な行為を内容とする倫理学とこの世界の現存在の自然的目的から生じるような自然的、哲学的な、家庭生活や国家、経済、科学、芸術といった世俗的な諸々の関心を取り扱う倫理学が形成されていく中で、その倫理学的二元性が、一種の宗教的功利主義の枠組みの中で位置づけられたのである。
しかし、こうした中世カトリック的倫理の二元性は、社会構造が聖俗二元論的に静的に固定した存在の秩序として受け入れられている場合には有効であり得たかもしれないが、社会全体においても教会自身においても、ある種の歴史的必然としての世俗化が、初めは物理的経済的に、やがては存在論的精神的に進行するにつれ、社会構造の急激な変動とともに、それを位置づけていた枠組みそのものが崩壊し、せいぜい極端な保守主義と制度化された教会のゲットー化を生み出すぐらいにしか意味を見いだせなくなるのである。
M.ルターの宗教改革は、そのような宗教的功利主義の枠組みに入れられていた倫理の二元性 を破棄することから始まった。
聖-俗の枠組みを外して、「聖書のみ」、「恵みのみ」、「信仰による義」といったような信仰告白的標語が次々と語られ、「義人にして同時に罪人」という逆説的表現の中で、罪のゆるしと和解をもたらす神の恵みの福音への信仰は、人を罪の領域から愛と信頼の領域へと導き、その信仰によって、人は神と隣人への愛へと促されるのであり、そこですべての世俗的目的と秩序とから自由であるという「キリスト者の自由」においてすべての人に愛をもって仕える義務を負うという新しい「愛の倫理」が語られようとした。
この神と隣人への愛という動機によって、社会的、政治的、法的実践が基礎づけられ、福音理解に基づく人間の現存在の倫理的要請が再解釈されたのである。
信仰によって神から与えられた良心に基づいて行為する自由な人間、行為の責任を負う責任主体としての人間の形成が説かれ、その自由と責任の根源としての神の愛についての教説の中で、あらゆる倫理的な事柄が新たに理解されようとした。
そこで、倫理学はいつでも福音理解に基づいて神と世界と人間と救済の概念を示す教義学の中で取り扱われ、その結果、キリスト教倫理学の古典的な問題が再登場したのである。
つまり、信仰と信仰共同体である教会に集中しつつ、国家、法、戦争、教育、哲学を含めた芸術や科学、この世の財、身分、職業などに対してどのような態度をとるべきかという問題である。
そして、ここに至って、神の超越性はその超越性を保持しつつ見事に内在化しようとしたのであり、近代哲学者のカントの人格理念に基づく倫理学もそこから生じたと言えるのである。
しかし、宗教改革後の西欧プロテスタント正統主義は、そのことによってかえって、宗教改革的「愛の倫理」を徹底させるのではなく、科学者や哲学者や法学者がそれ自体の学問的追求との関連で導き出す客観的事実の主張の中で、信仰を主観の領域に限定する傾向から、キリスト教倫理学をただ教会内の、あるいはキリスト者の個人的私生活の在り方を道徳的に問うものへと限定していったのである。
「十戒」と「山上の説教」は内面化され、アブラハムの神は哲学者の神とは異なり、中世カトリックの二元論的構造とは異なった倫理の二重構造がキリスト教倫理学を宗教的特殊倫理学の中に限定していったのである。
人は、個人として与えられた境遇の中で信仰深く、まじめで、誠実な服従心をもって、神の召命に基づいて、自然法的諸要求、つまり国家組織や経済組織の要求に従うことを最善のこととし、あらゆるところで、その自然法的諸要求が先行する中で、神の超越性はただ個人の内面にのみ存在するようになったのである。
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イエス30歳の時ヨルダン川のバプティスト・ヨハネより洗礼を受ける。プロテスタントはイエスの誕生が西暦4年であり世界の終末は2026年に来るという考え方をしている。
また、この宗教改革的「愛の倫理」は、その倫理的要請の前提としてもっていた神の創造の秩序への確信が社会変動と世俗化の中での近代市民社会における個人の権利と自由意識の高揚によって崩壊していく中で、次第に信仰者の個人的領域にのみ有効性をもつか、形而上学から解放されてそれぞれ独自に超越的な神との関連なしに考察されるようになった自然と世界についての科学的認識とは全く別の、単なる宗教的次元の倫理として位置づけられるようになり、西欧倫理思想史の中で、宗教改革者たちの意図とは別の方向へ進んでいったのである。
そして、近代諸科学の合理的認識による理性と認識における形而上学的超越からの解放というコペルニクス的転回は、 国家、経済、社会構造を含めた人間のすべての行為をそれ自体に内在する合目的性から理解するようになり、宗教的な事柄もまた、人間の経験的認識によって取り扱われる諸現象の一つとして部分化したのである。
それはカントの「わたしは信仰に席をあたえるために、知識を廃棄しなければならなかった」(11)という言葉によく表明されているように思われる。
こうして、倫理学は西欧近代社会において、それまでその基礎づけ、もくしは究極的目的として前提されていた形而上学的超越、あるいは神といった枠組みから離れて、独自に近代哲学的倫理学へと向かったのである。
一般的な傾向として、人々は理性によって到達可能な現に存在するものの経験的現象世界に思惟を傾け、数理学的思考が中心となり、人間と世界は数値による比較が可能な経済原理に基づいて理解されるようになった。
たとえば英国ではロック(J.Locke)の経験主義的流れの中で、神学的、教義学的前提なしに、社会と文化生活の行為と目的を人間の理性に基づくそれ自身の道徳性から追求し、自然法に基づく自然状態としての自由と平等が主張され、フランス革命やアメリカ独立戦争を導く要因が生み出されていったのである。
このようにして、倫理学は「人間性の追求の学」としての歩みを進め、神に代わって人間の道徳感情や宗教感情、もしくは先験的(ア・プリオリ)な理性的了解事項がその前提として置かれるようになったのである。
それは、かって古代ギリシャにおいて、超越的神々を人間に無関係な世界外存在として弾き出し、内在の原理のみに従って生きることを主張したエピクロスの亡霊の近代的出現であるとも言えるかもしれない。
西欧思想史全体にわたる背骨のような根本的問題としての「超越と内在」の問題は、近代科学によってもたらされた客観的認識の方法によって明瞭に分離され、超越性は現存在の内在的目的表象へと変形されていき、倫理学は、たとえそれが宗教倫理学であったとしても、内在論的倫理学となった。
そして、この倫理学は、人間と社会の哲学的、心理学的分析成果を前提にして、あらゆる存在現象の個々の事柄を取り扱うがゆえに、ある特定の歴史と状況下における個別の倫理学となり、その個別の領域から全体性が志向されることがあっても、それはただ部分的になされるだけに過ぎなくなったのである。
現代の倫理学的分裂状況はそこに由来する。そして、キリスト教倫理学は、ますます特殊宗教倫理学のひとつとなり、その有効領域をせばめ、信仰と経済的、社会的な実生活の分離が進展していったのである。
キリスト教神学において、こうした近代のエピクロス的亡霊に対する抵抗は、初めはカントの道徳哲学の影響下で行われた。
ドイツ敬虔主義と啓蒙主義および近代自然科学の客観的認識の主張の中で育ったカントは、ルソー(J.Rousseau)のヒューマニズムとの出会いによって、その偉大な天才的思考力を用いて人間の理性を認識論的に厳密に分析し、人間理性の先験性(ア・プリオリ)に基づく倫理学を哲学の総体として形成した。
カントは、人間の道徳性の原理が人間の「人格性」に基づく「自律(自己立法-Autonomie)」にあることを明白にし、「善」なるものとしての人間の理性的意志に基づく倫理の根本原理として、「それが普遍的法則となることを、それによって汝が同時に欲しうるところのその格率(Maxime-主体的行為の原則)に従ってのみ行為せよ。」(12)という断言的命令法則を打ち出し、それぞれの主観的行為の大前提(格率-Maxime)と客観的普遍的法則との綜合を「人格」概念において試みたのである。
それは、カントが彼の哲学において、それまで西欧思想史の根本問題として横たわっていた超越と内在、主観と客観、個人と世界、特殊性と普遍性などの二律する概念を明瞭に区別すると同時に、そのことによって人格の実践理性の要請として両者を包み越える絶対的で永遠なる神に帰依して行くという人間の倫理的行為の静態的基礎づけを厳密におこなったことを意味している。
そして彼は、そこから意図的に倫理学を主観的意志のア・プリオリに必然的な諸規定の教説として提示し、彼以後の倫理学の方向を決定づけ、哲学的倫理学は、やがてシラー(J.C.von Schiller)やフィヒテ(J.G.Fichte)を経てヘーゲル(Hegel)に至るドイツ観念論の中で、それまで倫理学的前提とされてきた形而上学的超越を人間精神と自我、もしくは精神の弁証法的運動の中に解消し、歴史と実存の諸問題へと向かったのである。
また、ヘーゲルを批判したキルケゴール(S.Kierkegaard)に始まり現代に至る実存倫理学も、神の超越性が人間の真の実存の回復に不可欠の問題として問われるにせよ、実存の弁証法の中での「緊張」として内在的な人格機能として考えられていることから、その倫理学的構造はカントの批判哲学のG線上の延長であるように思われる。
カントの影響を受けたキリスト教神学者たちは、カントが、従来の形而上学的超越に基づく上からの倫理学とは全く異なる純粋実践理性のア・プリオリの要請としての超越(神)を見定めつつ自律的意志の倫理学を形成し、しかも、その倫理が不可避的に個人の外に立つ法授与者の理念に入って行くという、つまり、「為すべき当為(sollen)」の背後で善を命じる「法授与者」の存在へと目を向けざるを得ないという「倫理から宗教へ」向かう基本的倫理学構造を保持していたことから、倫理学の補完もしくは形而上学的保証としてキリスト教を位置づけ、神について語る代わりに人間の道徳性の完全な姿を神という言葉の下で模索した。
ここに至って、神学もまた、ヘルマン(W.Herrmann)の主観的神学やトレルチの歴史主義的神学のように内在論的神学の方向へと向かったのである。19世紀を代表する神学者の一人であるシュライエルマッハー(F.E.D.Schleiermacher)はカントの認識理性のア・プリオリに対して、「宗教感情」もしくは「宗教意識」を人間精神のア・プリオリとして捕らえ、宗教を形而上学から切り離し、人間の全体的な人格性の中心にあるものとして位置づけ、倫理学をその人間の行為の諸目的の普遍的客観的規定へと向かわせた。
従ってそこでは、倫理学は、行為の客観的価値を規定する国家、社会、法、芸術、科学、家族、宗教(教会)などの実質的目的へ向かう実質的価値の倫理学となり、キリスト教をそれらの実質的価値目的へと向かう「精神」の強化原理として理解することによる文化哲学となる。
そして、それによって彼は、キリスト教信仰の精神化を行ってしまったのである。
こうした内在論的神学におけるキリスト教倫理学の構造は、ある意味では、神がイエス・キリストの「受肉」において自らの超越性を放棄し、完全な内在において自己を啓示したというキリ スト教信仰の使信の必然的帰結であると同時に、世俗化していく社会変動の中で人間のすべての領域において形而上学的超越を否定して人間の行為と存在を理解可能な理性の限界内で思惟してきた近代知性の必然的結果であるとも言える。
こうした内在論的神学に対して、20世紀になって、バルト(K.Barth)に代表される弁証法神学者たちは、明瞭に「否」を告げ、再び、「神の言葉の啓示」に基づいて、つまり、倫理を「神の戒め」から、もちろん決定論的にではなく弁証法的にではあるが、再構築しようとした。
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Karl Barth
そこでキリスト教倫理は、「神の行動によって規定された人間の行動についての学問」(E.Brunner)となり、プロテスタント神学においては、あの宗教改革の原理であった福音理解に基づく人間の現存在の倫理的要請という観点からキリスト教倫理学の再構築が試みられてきたのである。
しかし、超越概念が意味を失う世俗化された社会の中では、超越概念に基づく教義学的教説と現存在を全くの現存在の側から認識しようとすることとの分離が明瞭となり、ボンヘッファー(D.Bonhoeffer)が提示したような「そもそもキリスト教倫理は存在しうるのか」(13)といった根本的な問い直しが起こってきたのである。
従って、キリスト教倫理学の基本問題は、超越論的倫理学と内在論的倫理学をいかに綜合するかということにかかっている。この問いは、さしあたり、キリスト教の使信と倫理的規範の関係、広義には宗教と倫理との関係の問題として問われる。