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万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが,人間の手にうつるとすべてが悪くなる<ジャン・ジャック・ルソー>
「ゲームの達人」,「OUT OF EDEN」から「ハムレットの吹かす風」へようこそ。それからいつか最後のブログ「Legacy of Ashes・灰の遺産」までですべてを書こうと思っています。
現在管理人は多忙を極め暇をみて内外からアップしてゆきます。
THE ONLY OTHER INSTANCE OF THE WORD 'FRAUD' IN SCRIPTURE IS TO BE FOUND IN PSALM 10, VERSE 7,(注:詩篇) DESCRIBING THE WICKED, WHICH READS AS FOLLOWS:
'His mouth is full of cursing and deceit and FRAUD: under his tongue is mischief and vanity'.(口に呪い,詐欺,詐取を満たし,舌に災いと悪を隠す)
Please bear all this in mind, if you will, in the momentous days which lie close at hand.
(クリストファー・ストーリー&管理人共同声明)
参考:死後の世界と天国・林陽訳
ホーキング博士は言います。「私たち人類は肉体的には非常に限られていますが,心は宇宙全体を自由に探検することが出来ます。<スタートレック>の中でさえ未踏の場所へ果敢に行くということも出来ます......たとえ悪夢を見ても.....ハムレットはそのようなことを表現していたのかも知れません」と。下はStephen Hawking博士。
私はクルミの殻の中に閉じ込められた小さな存在にすぎないかもしれない。しかし,私は自分自身を無限に広がった宇宙の王者と思い込むこともできるのだ。<ハムレット第2幕,場面2>
ポール・タウンゼント教授のP-ブレーン理論(P-ブレーンはP-次元の広がりをもつブレーン。たとえばひもはP-1である,3次元空間の普通の膜はP=2である。10とか11次元時空を考えると,もっと大きなPの値をもった次元の大きいブレーンも考えられる。P-次元の中の何次元か分,もしくは全ての次元がトーラスのように巻き込んでいる場合が考えられる。ひもとは1次元物体。時空とは3次元の空間と1次元の時間を合わせて時空という。)
4次元時空理論参照]
そういえばコーエーのゲームで「遥かなる時空の中で」というのがありましたね。
19世紀の作家チャールズ・ラムはこう書きました。「時間と空間ほど私にとって不可解なものはない。それでいて時間と空間ほど私にとって気楽なものはない。なぜなら,私はそれらについて考えたことがないからだ」と。
考えたことがなければそれは創造性のネメシス
果たして時間旅行は可能なのでしょうか。高度な文明では過去に戻って歴史を変えることができるのでしょうか。
写真はここから
第4章から オイカイワタチの使命
オイカイワタチとは
『AZを頭とし、神様の命を受け、神様の手足となることを一人一人が心に誓って、進化の周期の来た遊星をより良く変化させるため、即ち、その遊星を神の国とするために、その遊星人に生まれ変わり、その遊星において、その遊星の一周期の終りの時期に、神様が行われるわくたまの祝事《いわいごと》の儀式に参加し、各々の身に受けたその遊星と遊星の人々の持つカルマを明らかにし、(オイカイワタチは神様からカルマを頂いて、その遊星に生まれ変わって来たのである。)そのカルマにオイカイワタチは目覚めて、このカルマを解くことにより、その遊星とその遊星の人々の根本のカルマをなくし、次の時代を今までより高く、より良くする、即ち、その遊星を神様の世界とする目的のために、身を挺する高き魂を持った人達の集りである。』
AZとは
『オイカイワタチの頭の役目であり、AのワンダラーからZのワンダラーまでを統帥する方で、現在の“AZ”は、2千年前地球上にイエスとしてイスラエルに生まれ、地球上の人々に真《まこと》の神の道を伝えんとし、最期に地球上のルシファーの力がいかに大きいかをワンダラーに示すために十字架上に礫《はりつけ》になられ、3日後に、それでも神様の御力の方がそれ以上で、遥かに偉大であることを知らせるために復活された、イエス・キリストである。金星の長老で、金星における御名をサナンダという。』
金星の自転周期と公転周期参照
神が宇宙を創造され、各遊星をお創りになる。その遊星には、神様がお降りになり、“わくたまの祝事の儀式”が行われる聖なる場所が必ず1ヶ所ある。その地は、宇宙に存在するどの遊星にもある。永遠に変わらない、神様の降りたもう地、神聖たるべき聖地があるのである。この地球においては日本にあり、日本の某所がそれにあたる。日本の使命について、金星の長老サナンダは次のように語られた。
『永遠に神様の降りたもう地、今までも降りられたのです。』
『日本は神様を崇《あが》めることが役目です。ワンダラーが多いのは、神様を守るためです。ワンダラーは、生きている天の使いです。』
この意味において、日本の地は地球創造の時から既に約束され、定められた神聖な地である。これは、相対的な意味からではなく、絶対的な意味からのものである。
これを早合点して、日本人独尊の意味に取ってはいけない。また、過去にあったごとき日本神国論とも全く違うのである。我々は昔、日本人は天孫民族と教えられ、そこから生じた歪められた神国論が正当化されたこともあるので、この問題(日本人の天孫)について、長老サナンダに問うたことがあるが、その答は次の通りであった。
『日本の地にはいろいろの遊星からやって来ましたが、たびたび来ては、たびたび駄目になるのです。(オリオン・ルシファーの誘惑に負けて)』
ルシファー研究室参照
The Testament of Solomonから
73. それから、私ソロモンは万軍の主の名において召喚し、それぞれの性質に対して、次々と質問した。私は各々に要求し、その行動を話すように命じたのだ。すると最初の者が現れ、こう言った。
「吾は黄道帯の円の最初の十度角にして、白羊宮と呼ばれ、これらふたつは吾と共にある」
私は彼らに質問した。
「汝の名は?」
1番目の悪魔は言った。
「おお主は、吾をRuaxと呼び、吾は人の頭を空虚にし、彼らの眉毛を略奪するもの。しかし吾は、〈Michaelよ、Ruaxを投獄せよ〉という言葉を聞くだけで、すぐに退散する」
74. 次に、2番目の悪魔は言った。
「吾はBarsafaelと呼ばれ、吾が時間を支配する者たちに、偏頭痛の苦痛を感じさせるもの。ただ、〈Gabrielよ、Barsafaelを投獄せよ〉という言葉を聞くならば、吾はすぐに退散する」
75. 3番目の悪魔は言った。
「吾はAratosaelと呼ばれ、目に害を及ぼし、酷く傷つけるもの。ただ、〈Urielよ、Aratosaelを投獄せよ〉、という言葉を聞くならば、吾はすぐに退散する」
(空白がここにあると思われる。4番目の悪魔が抜けている)
76. 5番目の悪魔は言った。
「吾はIudalと呼ばれ、耳を聴こえ難くし、聴覚障害を引き起こすもの。吾が〈Uruelよ、Iudalを〉という言葉を聞くならば、吾はすぐに退散する」
77. 6番目の悪魔は言った。
「吾はSphendonaelと呼ばれ、耳下腺腫瘍と扁桃腺と破傷風の後屈の炎症を起こすもの。〈Sabraelよ、Sphendonaelを投獄せよ〉という言葉を聞くならば、すぐに吾は退散する」
78. 7番目の悪魔は言った。
「吾はSphandorと呼ばれ、肩の力を弱め、震えさせるもの。吾は、手の神経を麻痺させ、首の骨を折って傷つけ、骨髄を吸い出す。しかし、〈Araelよ、Sphandorを投獄せよ〉という言葉を聞くならば、吾はすぐに退散する」
79. 8番目の悪魔は言った。
「吾はBelbelと呼ばれ、人間の心と精神を歪めるもの。〈Araelよ、Belbelを投獄せよ〉という言葉を聞くならば、吾はすぐに退散する」
80. 9番目の悪魔は言った。
「吾はKurtaelと呼ばれ、 疝痛を腸の中に送り、苦痛を引き起こすもの。〈Iaothよ、Kurtaelを投獄せよ〉という言葉を聞くならば、吾はすぐに退散する」
81. 10番目の悪魔は言った。
「吾はMetathiaxと呼ばれ、手綱を傷ませるもの。〈Adonaelよ、Metathiaxを投獄せよ〉という言葉を聞くならば、吾はすぐに退散する」
82. 11番目の悪魔は言った。
「吾はKatanikotaelと呼ばれ、争いを引き起こすもの。人間の家に悪事や、激しい気性を送る。もしおまえの家を平和にしたいなら、吾を妨げる天使の名前を月桂樹の7つの葉の上に書くこと。〈Iae、Ieo、Sabaothの子、偉大な神の名前において、Katanikotaelを黙らせよ〉。それから、水の中で月桂樹の葉を洗い、その水を家に撒く。すると、吾は退散する」
83. 12番目の悪魔は言った。
「吾はSaphathoraelと呼ばれ、盲目的忠誠を人に吹き込み、彼らをつまずかせ、楽しんでいるもの。どんな人間でも天使の名前、〈Iaco、Iealo、Ioelet、Sabaoth、Ithoth、Bae〉を紙に書き、それを畳んで首のまわりや耳に擦るならば、吾はすぐに退散し、飲んだくれの気分は散るだろう」
84. 13番目の悪魔は言った。
「吾はBobel(原文ママ)と呼ばれ、猛攻撃によって神経質な病気を起こすもの。大いなる名前、〈Adonaelよ、Bothothelを投獄せよ〉を聞くならば、吾はすぐに退散する」
85. 14番目の悪魔は言った。
「吾はKumeatelと呼ばれ、震る発作と無気力を与えるもの。 ただ、〈Zoroelよ、Kumentaelを投獄せよ〉という言葉を聞くならば、吾はすぐに退散する」。
86. 15番目の悪魔は言った。
「吾はRoeledと呼ばれ、 冷気と霜を起こし、胃の苦痛を与えるもの。 〈Iaxよ、こらえさせよ、暖めよ、11人の父より公正なソロモンにおいて〉 という言葉を聞くならば、吾はすぐに退散する」
87. 16番目の悪魔は言った。
「吾はAtraxと呼ばれ、 不治の有害な熱を人に与えるもの。 吾を投獄するならば、コエンドロを切り刻め。そして、以下の呪文を暗唱し、それを唇に塗り付けよ。〈汚れよりの熱よ。我はいと高き玉座の神により汝を追い払い、汚れを退かせ、神によって作られた生き物を退散さす〉。すると、吾はすぐに退散する」
88. 17番目の悪魔は言った。
「吾はIeropaelと呼ばれ、人間の胃に、風呂の中や道路で痙攣を起こすもの。 そして、吾は何処でも人を見つければ、そのものを落とす。 しかし、どのような人間でも右耳に3回、〈Iudarize、Sabune、Denoe〉、これらの名前を苦しんだものに言うならば。吾はすぐに退散する」
89. 18番目の悪魔は言った。
「吾はBuldumechと呼ばれ、 妻が夫と別居し、互いの恨みを引き起こすもの。 紙に汝ソロモンの父祖の名前を書き留めて、それを家の控え室に置くならば、吾はそこから退散する。紙に記す伝説的人物は次の通りである。〈アブラハムの神と、イサクの神と、ヤコブの神は汝に命ず、安らかなこの家を退散せよ〉。すると、吾はすぐに退散する」 <転載おわり>
悪魔メフィストフェレスを召喚中のファウスト博士。ゲーテの「ファウスト」を読まれたし。
西洋の没落は悪魔メフィストフェレスのせいだとされる。
だから、この意味において、戦前日本で喧伝《けんでん》された神国論とは全く位相の違うものなのである。
地球という遊星を神が創りたもうた悠久の昔から、日本の地は神の降りたもう地で、ある重要な役目を果たす運命の地であるということである。この意味において日本は神聖な地であり、“わくたまの祝事の儀式”が行われる時期(世の終り)に、オイカイワタチとして生まれて来た日本人のワンダラーという者は、外国におけるワンダラーとは役目も異なり、ある重要な意味を持つのである。
なぜならば、……
オイカイワタチとして生まれた日本のワンダラーが、地球のカルマに目覚めて地球のカルマを解くことによって、その遊星が良く高く変われるか、
それとも、……
地球のカルマが全部解けずに残ったため、災害や戦争によって、地球の破滅による世の終りが来るか、
このいずれかに決まるからなのである。そして、それは日本に生まれてきたオリカイワタチの肩にかかっているのである。
“わくたまの祝事《いわいごと》の儀式”が完全に行われれば、カルマが全部解けるため、その遊星の人々は一人残らず救われる。これは現象界に限らず、地球の霊界においてもいえることであり、その遊星自体が一進化を遂げることにより、地球の周波数《バイブレーション》が上り、愛と調和に満ちた、喜びにあふれる神の世へと変化するのである。
しかし、今までのオリカイワタチのたどって来た道は、必ずしも輝かしいものではなかった。
現在の地球へ来るまでの数多くの遊星においては、“祝事《いわいごと》の儀式”に到達するまでに、サタン(オリオン・ルシファー)の強力な妨害と誘惑により、真に目覚めず、眠ったままのワンダラーとなったり、あるいはサタンを神と間違えたワンダラーもあった。また、ついには、ワンダラー同志の争いのまま“世の終り”を迎えたこともあった。つまりワンダラーは、自分の魂に、遊星のカルマに目覚めなかったのだ。目覚めなければ、その遊星のカルマは解けない。カルマが解けない前に“世の終り”を迎えたために、その遊星は艮く高く変わることができず、大災害や戦争で終ることとなった。最悪の場合にはその遊星自身を爆発粉砕させ、粉々に砕《くだ》いてしまうようなことになり、多くの人類は苦しんだまま“世の終り”を迎えることとなったのだ。
『悪く賢いサタンは、彼(ワンダラー)を我が身(ルシファーのこと)と同じような苦しみで神から断とうと、悪いテレパシーを彼に送っているのです。
サタンは、彼(ワンダラー)の前を神のような顔で迷わすので、彼は判《わか》らず、迷うのです。サタンを神と間違えて、彼はカルマを作ってゆくのです。』
5世紀の思想家,聖アウグスティヌスは世界が始まる前には時間もなかったと考えた。(神の国より)
この地球では、大昔から多くの予言者達が、前々の遊星における“失敗の世の終り”のさまを霊視し、それを“世の終り”であると語り、また語りつつある。多くの予言者達も、本当の“神の讃美したもう世の終り”を知らないのである。
このような形(大災害、戦争、粉砕、人類の苦しみの“世の終り”)で遊星の変化がなされることは決して神様の御心ではなく、万物に対する大きな愛を持っておられる神様の大きな悲しみであり、“AZ”である金星の長老、サナンダ(イエス・キリスト)の悲しみでもあった。
前々からの遊星での「失敗の世の終り」によって、これまでの遊星で解けなかったカルマは次の遊星へと持ち越されてゆく。カルマは段々と増えてオリカイワタチの手に負えなくなり、この地球においても失敗に終ることは明らかであった。
そこで、オイカイワタチの頭であるAZ(サナンダ)は、神様に、オリカイワタチが今までのように方向を誤らないようにするための『特別の手段』をとって戴くように願われたのである。そして自分自身は地球上に救世主(イエス・キリスト)として出現され、オリカイワタチに、悪の力(オリオン・ルシファー)がいかに強大なものであるかを、自らの十字架の死によって教え示されたのであった。そして、この特別の手段が『カミラ』という御魂によって現われたのである。
AZはワンダラー全部を吾が子としておられ、自らの御子はお持ちでない。そこで、その偉大な御魂の降臨を、金星のワンダラーであるタノアス家に願われた。その御魂は神様から直接に分かたれた太陽の御魂の方で、『カミラ』とは神様のおつけになった御名である。
AZが『天の神様』に特別の手段を願われたのには、もう一つの意味がある。ワンダラーの中には、今まで辿って来た長い宇宙年月での多くの遊星の失敗において、自責の念から必然的に神様のみもとに帰れず、また自分の遊星の我が家にも帰れず、さ迷う運をつけたものがある。さらに、自責の念からワンダラーの役目を神様に返上して宇宙をさ迷いつづけ、この時期に再び地球に生まれ変わって来た元ワンダラーもいるのである。『萬たる元ワンダラー』といわれたその数から推しても、悪の力と遊星のカルマがいかに大きいかを知ることができるだろう。
AZが特別の手段を願われたのには、これら多くのさ迷う運を持つワンダラー、萬たる元ワンダラーが真に目覚め、身に受けたカルマ・遊星のカルマに目覚めて正しく役を果たし我が遊星に帰ることができるよう助けるための意味もあるのである。
1940~50年代より特に、“空飛ぶ円盤”なる謎の物体が世界中の話題となり、その目撃談に続いて、それに搭乗して宇宙人に会見したり、地上で宇宙人に会った人達が現われた。
その結果、これに興味を持つ人々が世界各国でいろいろの団体をつくったり、あるいは少数グループで、また個人で、真剣な研究を始めた。
これは、地球が新時代を迎えるにあたり、この大事業を遂行すべき使命を持ったワンダラーとこれに関係する人達を集めて、その使命の目覚めを促すための警鐘となるものである。だから円盤も宇宙人も、公然と彼らの前に姿を現わしたのである。
(1)宇宙船
(2)宇宙人
(3)地球の大周期の大変化と新しい世
この3項になんの矛盾も感ぜず、異常な関心と興味と確信を持つ人々の大部分は、ワンダラーか、将来ワンダラーたるべき人、もしくは、リンゴや元ワンダラー、それに真《まこと》に目覚め、使命を知った横の糸の方々であると考えられる。
未知なる内惑星
双子のパラドックス
オイカイワタチに寄せて
九州大学名誉教授
東京農業大学教授
塩 谷 勉
とにかく驚くべき書である。
地球上の物理学、いな自然科学的にはもちろん、哲学的、いな人文科学的な、総知識、総思惟を動員しても、理解しがたいところだらけである。したがってその内容は、SFの類いの企て及ぶところではない。どうしてこんな本が世に出たのか――と思う人が大多数であろう。しかしこれは、やっぱり何時かは出さねばならぬ本であった。そしてそれが、今出たというだけである。また出るべき時が来たということであろう。
しかし使命をもった人達(その多くは使命に気付いていないのだが)は、小学校を出ていなくともよく分かるはずである。円盤と宇宙人の理解のために必要なのは、知であるより遥かに多く、勘であり感であるからである。ひもといてみると、宇宙人の本質、宇宙人と霊界人との関係、宇宙人にも悪なる者が……等々、私にはよく分かるし、同感するところが多い。それでは私も、ワンダラーの一人だったのかなあ、という気持にもなる。
今にして思えば、重要な時期であったといわれる1960年前後は、私もテレビ、ラジオに講演にと、何十回引っぱり回されたことだろうか。ヨーロッパで同志達との会合に、時間の短かさをかこったこともある。その後いつとなく遠ざかっていたのだったが、いま大起さんの、謙虚ではあるが自信に満ちた呼びかけを聴くとき、“地球という遊星の大周期の到来”という目前の事実に、私は皆さんとともに、心から真摯《しんし》でありたいと思う。
昭和50年4月20日(日)、日本心霊科学協会東海支部の祖霊祭に本部理事として出席するため、名古屋に行くことになっていた。そのことを知った大起さんから「19日の晩は、お話ししたいこともあるから是非一泊するように。」とのお手紙を頂いた。初訪問の家庭に泊めて頂くなんて、いかにもおっくうになった近頃の私なのに、いとも簡単にOKしてしまった。OKしておいて、自分でもなんか解せない気持であった。
「話したいこと」の内容は、おおかた察しがついていた。しかしそれが、本書のゲラという形で私の前におかれたとき、手回しのよさ、というかタイミングのよさに軽い驚きを覚えた。しかしそれと同時に、身の引きしまる期待感が湧いてきたのである。
私は、ゲラを持ち帰って読んでよろしい、といわれた時は嬉しかったが、「感想なり批評なりを、どれだけの長さでもよいから………」という注文がつけられたとき、一瞬たじろいだだけでなく、返上しようかとさえ思った。じつは10日刻みで4つも原稿の約束があったし、公私くさぐさのことどもが頭の中を占領していたからであり、また書く気になれるかどうかについても、確信がなかったからである。
しかし大起さんは、「書けなかったら書けなかったでいいのですよ」という。これは本書にも一貫して流れている、「無理してはならない。ほんとうに必要なら、必要さに合せた形で神が書かせたもうであろう」という思想である。
だから私も、あまり気にすることは要らなかった。その辺りのやりとりはいともスムースに、私はゲラをお預かりした。
翌20日の朝、私は御神前にぬかづいた。それは新居にふさわしく真新しい立派な神やしろであった。普通のお宅の神棚では感じられないような、高い神々の活き活きと働いておられる気配があった。それは「大起さんが何か大きな使命を果たしつつある」ことを、十分察するに足るものであった。また神やしろに隣あって祀られた先祖霊の方から、「大起に力を貸してやって欲しい」といわれた時、私はただ頭を深く垂れるだけであった。私に何ができるというのだろう! しかしこれはタダ事ではない。
私がこんな拙い短文を認めることにだって、意味がありそうである。こんな経緯を書くことの中にも、本書の真価をお伝えするに役立つものが何かあるのだ、と思えてきたのであった。
シュレディンガー方程式(未来で起ることを予測する)
以下この世界での仮説より転載
この世界には、なぜ、《自己》と《外界》について認識する能力を持った個体が存在できるのだろうか。この問題に理論的に答えようとする哲学の徒は、必然的に方法論的な障害に突き当たることになる。すなわち、問題を定式化することそれ自体が、きわめて困難だという事実である。
理論的な定式化の際に範型として用いられる自然科学の手法においては、一般に、必ずしも明示されない「暗黙の前提」がいくつも導入されている。認識能力を取り上げようとするとき障碍になるのは、おそらく「学問的な記述の対象は、表現空間内部に並存し得る要素の集合として表記できる」という前提だろう。これは、客観性を保証するための自明の前提として、通常は無批判に受け入れられる。最も典型的なケースは、古典的な物理学に見られるように、3次元の座標空間内部にさまざまな物体が存在するという表記法である。よりソフィスティケートされた諸学においては、集団遺伝学のように、座標空間内部の不要な要素を捨象して遺伝子のみを学問的対象として抽出したり、マクロ経済学のように、企業や消費者などの経済単位が活動する領域として抽象空間を措定するなど、多様なヴァリエーションが見られる。
その内部に複数の対象が並存するような特定の「表現空間」を前提とする記述は、科学的方法論に基づいて学問を構築する上で、きわめて有効に機能する。だが、《自己》と《外界》について論じようとするとき、この記述法を用いること自体、問題のポイントを見失わせる結果をもたらす。その理由は、《自己》と《外界》では、それを記述するのに必要な表現空間の構造が根本的に異なっている点にある。《外界》に関しては、個物が並存する一様な空間を基本フレームとして記述することが可能である。しかし、《自己》を記述しようとすると、その世界におけるさまざまな事象――記憶表象や知覚、観念連合など――を、「私の」という相の下に、非一様な“遠近感”をもって描出するしかない。これは、《外界》の表現空間が有する一様な構造と著しい対照をなす。こうした構造上の差異は、《自己》と《外界》を関連づけようとするとき、いっそう際だってくる。すなわち、実感として《自己》が閉じた自立的な世界を形作っているにもかかわらず、《外界》の記述においてこれに相当するのは、数多く存在する知的生命体の中の1個体の“内面”という1部分でしかない。表現空間の構造的差異を無視して、《自己》と《外界》を統一的に記述しようとする――例えば、「中枢神経系がこれこれの状態になったときに、しかじかの意識が派生する」というように――と、一般に、《自己》の有する本質的な特性が黙殺される結果となる。
少なからぬ哲学者が、こうした問題は、近代的な科学的方法論の限界を示すものと解釈している。現に、フッサールは、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において、主観的な経験に“理念の衣”を被せる「物理学的客観主義」が、感性的・身体的世な生活界の豊穣さを忘失させる危険を持つことを指摘し、「現象学的還元」のような客観主義とは異質の方法論が必要であることを説いている。
しかし、こんにちに到るまでの科学の驚異的な成功を考えると、《自己》と《外界》の関係を解明しようとする試みに対して、科学が全く無力であるとは、にわかには信じがたい。少なくとも、「表現空間」の構造上の差異に起因する問題に限っては、科学的方法論の手法に基づいて、矛盾を解消することが可能だと思われる。
この論文では、こうした観点から、《自己》と《外界》をどのような空間で表現するかという問題に絞り込んで、両者を調和的に記述することを可能にする枠組みを提示するものである。この議論において鍵となるのが、空間の次元数である。通常の表現空間は、比較的小さい次元(座標空間の場合は3次元)を有すると考えられている。この場合、空間内部に存在するいくつかの個体は、同一の次元内部に並置させられるため、《自己》のような閉じた構造を持つ「部分」を構成することは困難だった。だが、きわめて高い次元数を持つ空間においては、その内部に、閉じた「部分空間」を想定することが可能になる。《自己》と《外界》とは、きわめて高い空間次元を持つ単一の世界を、異なるアスペクトにおいて記述したものと解釈することができる。
断っておくが、この論文は、これまで誰も提唱しなかった「新説」を提唱するものではないし、従来の科学ないし哲学の学説に本質的な修正を加えることすら意図していない。援用される科学理論も、大半が定説として科学者に受容されているものばかりである。筆者の目的は、あくまで、ある解釈の下に世界の姿を描き出そうとすることにある。
現代においても、人が世界の何たるかを知ろうとする努力は、いまだに「群盲象を撫でる」の域を脱していない。確かに、人類は、自然現象を記述する有効な科学理論を数多く獲得してはいる。だが、その内容は、必ずしも日常的な直観や宗教的な信念と相容れるようには見えない。このためか、科学に対する不信感や嫌悪感を耳にする機会も多く、科学が解明し得ない超常現象への関心も、TVや週刊誌などの大衆的マスメディアにおいて根強い。科学が提供する世界像は、一般の人にとっては、何か「しっくりしない」ところがあるようだ。譬えて言えば、科学の描く世界〈象〉が「壁のようなもの」であるのに対して、日常的直観は、それが「柱のようなもの」だと訴えているのである。
これから私がしようとしているのは、この矛盾の劇的な解消ではなく、「柱のような」足の上に「壁のような」胴体が乗った〈象〉の似姿をデッサンすることである。このような折衷案とでも言うべき描像は、科学的知見や日常的直観をほとんどそのままの形で採用し、ある解釈を媒介として両者を強引につないでしまうことによって得られる。ただし、この仮説は、単純で合理的だが、それなしには胴と足がバラバラになってしまう重要な役割を果たしている。
もしかしたら、私が描き出す〈象〉は、足が3本しかなく、胴体から直に鼻が突き出ている異形の怪物かもしれない。だが、それはそれでかまわないと思う。「足は4本あるはずだ」とか、「鼻と胴体の間に頭があった方が良い」との批判をもとに、描像を修正することは常に可能だからだ。悲しむべきは、「人間は盲だから〈象〉そのものについて語ることはできない」と賢しらに決め込む態度である。世界は峻厳にして近寄りがたいが、あらゆる解釈を受け付けぬほど茫洋としてはいない。世界について合理的に語ることを可能にする解釈を思いつく限りは、その妥当性を検証してみることが、「知を愛する者」の勤めなのである。