みずの こうや
水野 洸也
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2019年 09月06日 (金) 20:22
フリードリッヒ・ニーチェ『権力への意志 下 ニーチェ全集13』23-25頁

「内的世界」の現象論。年代記的逆転がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識されるにいたる。――私たちが学んでしまったのは、苦痛は肉体の或る個所に投影されるが、そこに座をしめているのではないということである――、私たちが学んでしまったのは、幼稚にも外界によって制約されているとみなされている感官感覚は、むしろ内界によって制約されているということ、すなわち、外界の本来的な作用はつねに意識されることなく経過するということである・・・私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の「原因」として投影されている・・・
「内的世界」の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、「内的世界」の根本事実である・・・同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、――私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのである・・・私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである。
 全「内的経験」は、神経中枢の興奮に対して一つの原因が探しもとめられ表象されるということ――また、みいだされた原因がまず意識されるにいたるということにもとづいているが、この原因はほんとうの原因に対応するということは絶対にない、――それは、以前の「内的経験」を、言いかえれば記憶を根拠とした一つの手探りである。しかるに記憶は、古い解釈の、言いかえれば誤った因果性の習慣をも保存しているのであり――そのため「内的経験」は、以前につくられた偽りの因果という虚構すべての帰結をもそれ自身のうちにになわざるをえないのである。私たちが瞬間ごとに投影している私たちの「外界」は、根拠についての古い誤謬に解けがたく結びつけられている。それゆえ私たちは「事物」その他の図式でもって外界を解釈するのである。
 私たちが「内的経験」を意識するにいたるのは、ようやく、個人が理解することのできる言葉をそれがみいだしたのち――言いかえれば、或る状態が個人にとっていっそう熟知の諸状態へと翻訳されたのちにおいてである――。「理解する」とは、言いかえれば、ただ単純に、何か新しいものを何か古い熟知のものの言葉で表現しうることにほかならない。たとえば、「私は気分がわるい」という場合――そうした判断は観察者の偉大な老成した中立性を前提する、――ところが幼稚な人間は、これこれのことが私の気分をわるくさせると、つねに言っている――そうした人間は、気分のわるいことの根拠をみとめるときにはじめて、おのれが気分のわるいことが明瞭となる・・・このことを名づけて私は文献学の欠如と言う。その間に解釈をまじえずに原典を原典として読みとりうるということは、「内的経験」の最もおくれてあらわれる形式である――おそらくはほとんど不可能な形式であるかもしれない・・・
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