~第4章 大豪雨~

メンバー:井出剛社長、
上野洋子(2015年9月入社、業務推進室)、
橋本樹昌(2013年4月入社、栽培管理室)

インタビュー日:2016年3月


井出:
雨は、ごぉー、ごぉー、ごぉーと地鳴りのような音を立てて何日も降り続きました。気象担当の広川農場長から悲鳴に似たような電話で叩き起こされて自宅のベランダに出ると視界が遮られるような強い雨脚となっていました。

あの恐ろしい湿舌(しつぜつ)が熊本に到来したのです。
橋本:
湿舌って何ですか?
井出:
南洋からの暖かく湿った空気が、まるで化け物の舌先のように、にょろにょろと伸びきって、梅雨前線を刺激して猛烈な集中豪雨をもたらせる気象現象です。15年~20年に1度起こるといわれています。

湿舌の先端が阿蘇連山に衝突した結果、上空に見たことのないような巨大な積乱雲が発生して最多雨量816ミリ(阿蘇市乙姫)という記録的な豪雨をもたらしました。

その積乱雲の真下には果実堂が新設したばかりのグランドリーフ農場がありました。

*九州北部豪雨(2012年7月11日~14日)は活発な梅雨前線による集中豪雨で、熊本県、福岡県、大分県地方に甚大な被害がでました。土砂崩れ、洪水等により死者は30名にも及びました。熊本市内は一級河川の白川の決壊、氾濫で避難勧告がでました。
上野洋:
果実堂の農場はどうなりましたか。
井出:
その前に少しだけ時計の針を戻して、果実堂の初となる新規開発商品グランドリーフについて話をさせてください。
橋本:
えーーー。毎日、栽培しているのだからグランドリーフのことはよく知っていますよ。
井出:
まあ、聞いてください。

ベビーリーフ業界では最後発の果実堂は、絶えず新しい商品を開発していかなければ先発のライバル企業と競争にもなりませんでした。研究開発はメーカーの使命でもあります。しかし、その一方で慢性的な資金不足で開発費用やハウス増設資金の捻出も難しい情況でした。

そこで考えだしたのが<ハウスがなくても作れるベビーリーフ>でした。

ある日、高瀬技師長がオランダやドイツで栽培されている非結球型レタスの露地栽培の写真を見せてくれました。ひと目見た瞬間、身体に電流が走ったのを覚えています。このオランダ産レタスを幼葉の段階で刈り取って既存のベビーリーフと組み合わせるとレタス独特のシャキシャキ感が生まれ<売れる>と直感しました。早速、種子メーカーに問い合わせすると大阪の岸和田で試験栽培しているというので、高瀬技師長に急行してもらいました。
上野洋:
そもそもグランドリーフの名前の由来はなんですか?
井出:
高級感の意味合いで「Grand」と土耕栽培の大地という意味合いで「Ground」の掛け合わせの造語です。

自社での試験栽培を終えると冬になってしまいました。しかし冬のうちに高冷地を確保しなければ春からの仕込みが出来ません。そこで私と高瀬技師長は、大雪の九重連山を登り農場を探すことにしました。西日本農業社の後藤慎太郎社長(現大分県会議員)が案内役を買って出てくれました。後藤社長は左足を大怪我して手術したばかりで足跡が雪の上に奇妙なデザインをつくったのを覚えています。そして転んで肩まで雪に浸かりました。
上野洋:
後藤先生が可哀想じゃないですか。
井出:
赤字ベンチャー企業に雪解けを待つ時間的余裕などありませんでした。
橋本:
結局、農場は確保できたのですか?
井出:
ようやく久住ワイナリー様の葡萄農園(標高700m)の空スペースを借りることが出来ました。ただし傾斜の厳しい農場でした。

阿蘇市出身の新入社員 藤井孝二さん(現栽培管理グループ)が栽培を担当することになりました。雪解けとともに、傾斜に苦労しながらマルチを張り、株の定植を始めました。九重連山独特の大雨と強風に泣かされたスタートになり、作業車が泥地に埋まり、せっかく張ったマルチが鯉のぼりのように宙に舞いました。それでも藤井さんは日没後も懐中電灯で黙々と作業を続けてくれました。

こうして厳しい資金不足から窮余の策として考え出した「グランドリーフ」は、ついに2011年7月18日に初出荷され、東京、大阪の大手百貨店向けに高級感のあるベビーリーフとして発売されました。金融機関からは、まず売れるはずがないと言われていましたが、数日後、東京の百貨店担当の工藤洋之さん(故人)から飛ぶように売れているから至急増産してほしいとの報せが届きました。私は思わず万歳をしました。

東京の百貨店でのヒットを受けて、私たちは阿蘇市波野のある方からハウス12棟付の耕作放棄地を借りて農場を拡大することになりました。2011年8月13日、じりじりと太陽が照り付ける日のことでした。男子社員総出で、40度を超えるハウス内に飛び込み、枯れたトマトの苗と雑草とを次々と刈っていきました。砂埃が舞い上がり、汗にまとわりつき、熱風で頭がクラクラしました。<脱走兵>が出るような過酷な作業が終日続きました。
上野洋:
誰が逃げ出したのですか?
井出:
それは秘密ですが、逃げたのではなく、へばって座り込んでいただけでした。
橋本:
でも今は、その農園はないような気がします。
井出:
そうです。必死に農場整備をして、やっと1作をつくり終えたところで、急に息子が使うから出ていけと言われたのです。

この理不尽な仕打ちにショックを受けましたが、窮地を救ってくれたのが、この地の名士の井農園の井一代表でした。見知らぬ果実堂に、なんと2haもの農地を貸してくれたのです。我々は再び藤井さんを先頭に大規模な開拓と定植を始めました。そのおかげで順調にグランドリーフの出荷数は伸びていきました。

まさに、そのような時に、あの恐ろしい湿舌が襲ってきたのです。
橋本:
もう一度、聞きます。グランドリーフ農場はどうなりましたか。
井出:
自衛隊が阿蘇周辺を土砂災害の危険地帯として封鎖したので、1週間以上も立ち入ることができませんでした。

非常に悲しいことも起こりました。藤井さんの親戚が土砂災害で亡くなったのです。そして彼自身は避難勧告を受けて村の公民館で過ごさなければなりませんでした。

我慢の限界に達した私は、河野室長(現DAIZ㈱取締役)の反対を押し切って阿蘇視察決死隊(高瀬技師長、中島工場長、広川農場長、私)を結成して、自衛隊の封鎖地帯を突破することを決意しました。途中、至る所で道路や橋が土砂や濁流で通行止めになっていました。迷走を続けているうちに、普段なら45分のところを2時間かけてようやく波野のグランドリーフ農場に到着しました。
上野洋:
聞きづらいのですが如何でしたか?
井出:
小雨が降る霧の中で、壮絶な光景が広がっていました。大きく崩れ落ちた土砂で農場の大半が埋まっていたのです。
橋本:
やっぱりだめでしたか・・・・・
井出:
私は茫然と立ちつくしていました。再起をかけて取り組んできたグランドリーフが無残な姿で土砂に押し潰されていました。今でもグランドリーフのパッケージを見ると、その時の悔しい光景がはっきりと蘇ってきます。

だから新入社員の皆様には、是非、知ってもらいたいのです。グランドリーフには、先輩達のこのような辛い思い出が詰まっているということを。
橋本:
よく、わかりました・・・・

*果実堂の初めての新規商品となるグランドリーフは、その後社員の努力で生産力を回復して、2015年度の売上は約2億5千万円。売上高こそ地味なものの大手百貨店を中心にロングセラーの高級ベビーリーフとして定着しています。
上野洋:
ところで果実堂の他の農場は被害を受けたのですか。
井出:
九州北部豪雨は阿蘇の農地に甚大な被害をもたらしただけではなく果実堂の主力農場がある益城、菊陽地区も、福岡県との県境の和水地区の農場もすべて水没させました。
土嚢を積むなど全社員で懸命に対応しましたが濁流の勢いを止めることはできませんでした。

2012年7月14日。果実堂はすべての農場を失い出荷するものさえなくなったのです。

新入社員の皆様は、果実堂の出荷がゼロになるということを想像することができますでしょうか。
上野洋:
・・・・・・・
井出:
とうとう消尽点に達しました。もう倒産しかありませんでした。まだ日が昇っているうちから一人でヤケ酒を呑んでふさぎ込んでいると高瀬技師長から写真つきのメールが送ってきました。メールには農場で生き残った赤いアマランサスが写っていました。彼だけは、このような最悪の事態になっても、なお独り言のように「社長、被害は軽微です。軽微です」と言っていました。

翌日二日酔いの頭で昼過ぎに工場に行くと、高瀬技師長がアマランスを中心に農場で生き残ったベビーリーフを掻き集めてランダムにいれた商品を見せてくれました。こんなものが売れるはずがないと即座に反対しましたが、ためしに営業の久池井さんと工藤洋之さんに電話すると「是非、売らせてください」と言われました。中島工場長、石井ライン長からは一刻も早く工場を再開してパートの皆様に仕事を与えてくださいと懇願されました。

それでもお客様や青果バイヤー様の反応が読めずに私が渋っていると広川農場長が言いました。「(親戚を亡くした)藤井が命令を聞かず、濁流の阿蘇の坂道を登って、グランドリーフ農場の復旧作業を勝手に始めました」
井出:
彼の気持ちを想うと胸が熱くなりました。こうなるとやるしかありません。
河野室長の発案で「サマーリーフ」という商品名になりました。従業員全員が工場に入って「サマーリーフ」の出荷に取り掛かりました。

しかし欠品を許した果実堂には、お店からの厳しい対応(ペナルティ)が待っていました。棚は次々とライバル大手の商品に埋められていきました。
それでも営業は諦めませんでした。ベビーリーフやグランドリーフの欠品を叱責されながらも「サマーリーフ」を売っていきました。催事担当の山田奉文くん(現DAIZ㈱)は東京の百貨店を駆け巡り、声が枯れるまで「え~、日本一おいしい果実堂のサマーリーフは如何でしょうか、熊本県産のサマーリーフは如何でしょうか。」を連呼し続けました。
上野洋:
結局、サマーリーフは売れたのですか?
井出:
売れました。10月になり農場が完全復活するとサマーリーフの役目も終わり、通常品と切り替えを始めた時、お客様やバイヤー様から惜しむ声が出たくらいです。

この頃、ライバル企業から棚を奪回すべくパッキング工場作業は深夜2時、3時までに及びました。ベンチャー企業が大企業に勝つためには2倍、3倍の努力をしなければなりません。農場の男子社員は早朝6時からの作業が終わると、夕方に黙って手を洗いパッキングラインに立ちました。農場で一番若い岡田卓也くん(現夢実堂社長)は若干二十歳ぐらいでしたが文句ひとつ言わず、むしろ真剣に深夜までのパッキング作業に一緒に挑んでくれました。
上野洋:
挑む?とは、どういう意味ですか?
井出:
われわれ創業メンバーは誰ひとりとして残業をしているなどと思っていませんでした。ひたすら日本一のベビーリーフ会社になるために挑んでいたのです。昇給、ボーナスなどありません。それでも自分たちを惨めに思う社員はいませんでした。むしろ夢と昂揚感で胸が一杯でした。

さすがに女性社員は深夜まで働くわけいきませんので途中で帰ってもらいましたが、それでも私が怒鳴らないと10時を過ぎても河野室長も石井ライン長もパートの髙木富士子さんも帰ろうとはしなかったのです。会社がどん底にあって、なお、みんな夢に向かって挑んでいたのです。高瀬技師長はとうとうお子様の出産に間に合いませんでした。

資金繰りはいよいよ厳しくなりました。九州北部豪雨の被害が知れるとベンチャーキャピタル、銀行はさらに態度を硬化させました。公的機関や農林漁業金融公庫に豪雨による必死の窮状を訴えましたが、冷淡にあしらわれました。
橋本:
誰も果実堂を助けてくれなかったのですか?
井出:
いいえ、果実堂を<捨てる神>だけではありませんでした。猛烈に<拾う神>が現れたのです。

ある春の日のことでした。熊本空港の到着ロビーはスーツ姿の大勢の出迎え社員が緊張した面持ちで整然と並んでいました。そこに現れたのは売上高1兆円、自動車用ハーネスの世界的企業 矢崎総業の矢﨑裕彦会長でした。
上野洋:
えーーーーー