科学と宗教 の 対立 と 対話 と 調和
(ダライ・ラマ 仏教講演集)
ノーベル平和賞受賞スピーチ
(PP. 4-5)
止まるところを知らぬ科学の進歩が、私たちの生活に大きな影響を与えている今日の世界において、私たちの人間性を呼びもどすためにも、宗教と精神性が果たす役割は次第に大きくなっています。科学と宗教は互いに矛盾するどころか、それぞれに対する優れた洞察を秘めています。科学と仏陀の教えは両方とも、すべての存在が基本的には一つの有機的な統一体であることを説いています。私たちが地球規模の環境問題について積極的に行動するためには、この原理を理解することがどうしても不可欠です。
すべての宗教の目的は一つしかありません。人間の善なるものを育み、あらゆる人間に幸福をもたらすことです。手段は異なるように見えても、その目的は同じです。
私たちは、二十世紀最後の十年に足を踏み入れようとしています。人間を人間たらしめてきた古代の智慧は、私たちがより幸福な二十一世紀を迎えるためには、どうしても避けて通れないものになるはずです。
私は、私たち全員のために祈ります。私たちを抑圧する者と私たちの友人のために祈ります。人間を理解し愛することによってよりよき世界を築き、またそうすることによって、私たちがすべての生きとし生けるものの苦しみと悩みを和らげることに成功するように祈っています。
ありがとうございました。
一九八九年一二月一〇日
ノルウェー、オスロ
ダライ・ラマ十四世
A Scientific Dialogue with the Dalai Lama ; Narrated by Daniel Goleman
(PP. 11-13)
序文
ダライ・ラマ
人間の苦しみの多くは、その根に破壊的感情があります。憎しみは暴力を増長し、異常なまでの渇望は人を悪癖に溺れさせるのです。心ある人間としてわたしたちにできることは、そういった制御不能な感情に起因する苦しみを少しでも緩和することです。仏教も科学も、その任を立派に果たせるとわたしは考えています。
仏教と科学は、その世界観がまったく異なるわけではなく、ただ取り組み方に違いがあるだけです。どちらも目標は同じ、真実の探求。仏教修養の根本は人間のあり方を探ることであり、科学も同じことを独自のやり方で行っています。その用途は異なるにせよ、真実を探求するという点では、どちらのやり方もわたしたちの知識と理解を広げてくれます。
科学と仏教の対話は双方向です。仏教徒は科学の発見を取り込むことで、人間世界をより明確に理解することができますし、科学者たちも、仏教的洞察をその研究に利用することが可能でしょう。仏教が科学の役に立てる分野は数多く、「心と生命会議」はそういったいくつもの分野に的を絞ってきました。
たとえば心のはたらきに関しても、長い歴史をもつ仏教精神科学が提供する情報は、認知科学や神経科学、感情研究の学者たちにとってまことに実用的であり、理解を深めるうえでおおいに役立ってきました。わたしたちと対話を終えた科学者たちは、まったく新しいアイディアを得て、それぞれの専門領域に戻っていきました。
その一方で、仏教も科学から学ぶことができます。わたしは常日頃から、もし科学の証明した事実が仏教の教えと矛盾するのなら、教えの方を変えてゆくべきだと主張しています。ある問題について、論拠も証拠もあることが実証されたのなら、それを受け入れるのは当然のこと。しかし、科学によって発見されていないものと、科学によって存在しないことが立証されたものの区別ははっきりつけるべきです。存在しないことが科学的に立証されたものについては、わたしたちもそれを認めるべきですが、単に発見されていないというのなら、話は別です。〝意識〟を例に挙げてみましょう。人間も含めすべての有情[うじょう]たちは、大昔から、意識というものがあると実体験でわかっていますが、実際にどういうものなのか、そのすべての性質と機能が解明されたわけではありません。
現代社会では、科学が人類と地球を発展させる主戦力であり、その意味で、科学技術の革新が物質的進歩の原動力となってきました。しかし、過去において、宗教がすべての問いに答えられなかったように、科学がすべての問題に答えを出せるわけではありません。心の成長につながる満足感をないがしろにして、物質的改良を推し進めれば進めるほど、倫理的価値観が消滅するスピードは速まります。そうなれば、いずれはみなが不幸せを経験することになるのです。人の心のなかに正義や誠実さの居場所がなくなれば、最初に苦しむのは弱者であり、そうした不公平に対する憤りが、ひるがえってはすべての人に有害な影響を及ぼします。
科学がわたしたちの生活に与える影響が大きくなればなるほど、人間らしさに気づかせてくれるものとして、宗教や精神性が果たす役割はますます大事になります。わたしたちのするべきことは、科学や物質の進歩と、心の成長に由来する使命感との釣り合いを保つことであり、だからこそ宗教と科学の対話が重要で、その対話から、人類に有益な進歩が生み出されるとわたしは信じています。
破壊的感情がもたらす問題についてなら、仏教が科学に伝えられることは多くあります。仏教修行の主な目的は、破壊的感情が生活に及ぼす力を和らげることなのですから。仏教はそのための広範な理論と実践を提供しています。科学的実験によって、こうした修行の有効性が実証されれば、仏教に関心のある人でもない人でも、だれもが行える訓練方法が編み出されるでしょう。
本会議の成果のひとつが、仏教修行に科学的な評価を下したことであります。この本で報告されている「心と生命会議」が、単なる仏教と科学の対話以上のものであったことは、わたしにとって大いなる喜びです。科学者たちはここからさらに一歩踏み出し、普通の人が破壊的感情に立ち向かう際に役立つと思われる仏教修行のいくつかに、科学の光を当てようとさまざまな研究を開始しました。
破壊的感情の原因と治療法探索の旅に、読者のみなさんもぜひ参加し、そこから湧き上がるさまざまな問題について一緒に考えてください。このような形の科学と仏教の出会いが、わたし同様読者のみなさんにとっても、刺激に満ちたものであることを切に願いつつ。
二〇〇二年八月二八日
朝日新聞 (1989 年 9 月 24 日〔朝刊〕)
(P. 30)
「ガリレオ迫害誤りでした」「ローマ法王が名誉を回復」
【ピサ(イタリア)二十三日=ロイター共同】
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は二十三日、一七世紀に地動説を支持して宗教裁判にかけられた天文学者ガリレオ・ガリレイの生地ピサを訪ね、「ガリレイを迫害したのは間違いだった」と公式に名誉を回復。四世紀にわたる科学と信仰の相克に終止符を打った。
~~。
ガリレイ裁判はその後、信仰と科学の対立の象徴となっていたが、両者の「和解」をめざすヨハネ・パウロ二世は十年前、同裁判の調査委員会を任命。八四年の報告書では「ガリレイ迫害は誤り」とされ、法王自身も「ガリレイは無知の犠牲となった」と発言していた。
この日、法王はピサ市内アルノ川にかかる橋に立ち、「ガリレイの研究は当初、軽率にも非難されたが、今やだれもが科学的方法論の欠くべからざる基礎と認識している」と市民らに教会の誤りを認めた。
朝日新聞 (1992 年 11 月 1 日〔朝刊〕)
(P. 31)
「科学と宗教、〝地球規模〟の対立にピリオド」
ローマ法王が発表
「359年4カ月9日ぶり ガリレオの破門解く」
【バチカン31日=都丸修一】
ローマ法王ヨハネ・パウロ二世は三十一日、バチカン科学アカデミー総会閉会式で演説し、十七世紀に地動説を支持して宗教裁判にかけられ教会から破門されたガリレオ・ガリレイに対し、「誠実なる信仰者」であると同時に「天才的物理学者である」と述べ、「三百五十九年四カ月と九日ぶり」(イタリア紙)に破門を解き、正式にガリレオの名誉を回復した。
ヨハネ・パウロ二世はすでに八九年九月にガリレオの生地であるイタリアのピサを訪れた際「ガリレオを迫害したのは間違いだった」と表明している。しかし、バチカンとして正式に破門を解き、名誉を回復したのは今回が初めて。
法王は七九年にガリレオに関する委員会を設置。神学者、科学者、哲学者、歴史学者に、破門を言い渡した当時のバチカン教理聖省の記録や、ガリレオに関する文献を再検討させた。その結果をもとに、法王は「ガリレオ問題の争点は、当時の科学者と聖書解釈学者が、自然現象への科学的アプローチと自然に関する哲学的解釈との間に調和を見いだし得なかった点にある」と述べ、「神学者は、常に科学の成果に目を向け、必要なら神学の解釈と教えを再検討する義務がある」と説いた。
バチカンはガリレオ破門がカトリック教会の過ちであったと認めただけでなく、「いつの日か同じ問題に直面し得る」として、科学、神学、哲学の間の調和の必要性を呼びかけた。
地動説をめぐって四世紀にわたった科学と信仰の対立にようやく終止符が打たれた。
特別掲載
ヴァティカンと科学
「ガリレオ問題」、「進化論問題」に関する教皇発言の歴史的位相
川田 勝
(PP. 21-22)
ガリレオの「破門を解く」あるいは「名誉回復」などと報じられるもとになった発言がなされたのは、一九九二年一〇月三一日、教皇庁立科学学士院の総会における現ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世 (Joannes Paulus II, 一九二〇-、在位一九七八-) の講演の中でであった。ガリレオ没後三五〇年にあたる年である。教皇はこの講演の中で、ガリレオを中心とする論争の核心には「二重の問題がある」としたうえで、次のように述べた(6)。
一つは、認識論の次元におけるもので、聖書解釈学に関わる問題です。これに関しては、さらに二つの問題が生じます。第一に、ガリレオは、彼に敵対するのほとんどの人々と同様に、自然現象への科学的アプローチと、一般にそのアプローチが要請する自然についての哲学的レヴェルでの考察とをまったく区別していなかったことです。まさにそれが、反駁不可能な証明によって確証されない限り、コペルニクスの天文体系を仮説として提示せよ、という助言を彼が拒否した理由であるのです。であればこそ、ガリレオが霊感を受けてその基礎を築いた実験的方法の確立が急務だったのです。
第二は、世界を地球中心的に表現することは、聖書の教えと完全に合致するものとして、当時の文化の中で広く受入れられていたことです。聖書のいくつかの記述は、文字通りに理解するならば、地球中心説を確証するようにも思われます。ですから、当時の神学者たちによって問題にされたことは、太陽中心説と聖書が両立可能であるか、ということでした。
このように新しい科学は、その方法や、それに伴う研究の自由をもって、神学者たちに対して、彼らの聖書解釈の基準を吟味することを強いたのです。しかし、神学者の多くは、一体どうしてよいのか分かりませんでした。
逆説的なことですが、この点に関してガリレオは、敬虔な信者として、彼に敵対する神学者たちよりも鋭い感覚を示していました。彼はベネデット・カステッリに、次のように書き送っています。「聖書に誤りがあり得ないとしても、聖書の解釈者や注釈者のうちには、いろいろと過ちを犯すものがありましょう」。私たちは、彼がクリスティーナ大公妃宛てに、聖書解釈学についての小論文とも言うべき書簡(一六一五)を書き送っていることも知っています。
これらのことから、私たちはまず第一の結論を導き出すことができます。自然現象の研究への新しいアプローチの誕生は、知識のあらゆる分野での解明を必要としています。つまり、それぞれの分野で得られた結果の重要性を正確に定義するばかりでなく、それぞれの領域、アプローチ、方法をもっとはっきりと定義することが必要とされるのです。言い換えれば、この新しい方法は、それぞれの分野がより厳密に自分の領域の性格を把握するようになることを求めるのです。
註
(6) |
川田勝訳「信仰と理性の調和」『みすず』三八九号(一九九三年八月)、三九~四六頁に講演全文の邦訳がある。 |
ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ
――ガリレオ裁判をめぐるローマ教皇庁の見解
教皇ヨハネ・パウロ二世
ポール・プパール枢機卿
〔解題・柳瀬睦男/川田勝訳〕
解 題
(P. 24)
ここに訳出された三つの講演は、一九七九年十一月十日、ヴァティカン宮殿内のサラ・レジアで行なわれた教皇庁立科学学士院によるアインシュタインの生誕一〇〇年の祝典における教皇ヨハネ・パウロ二世の講演、一九九二年十月三十一日、同じ場所で行なわれた同学士院総会におけるプパール枢機卿の報告、および教皇の講演であります。一九九二年の報告および講演は、その後新聞紙上でやや偏ったかたちで伝えられ、もっばらガリレオ問題に対する若干の過ちを認めた宣言に注目が集まっていたようですが、内容を読まれるとお判りの通り、ローマ教皇の本講演は、さらに深い、そして過去から未来に及ぶ広い視野に基づいた画期的な講演ということができるでしょう。この講演はフランス語で行なわれたのですが、英語の公用訳が直ちにヴァティカンの機関紙「オッセルヴァトーレ・ロマーノ」(L’Osservatore Romano)、十一月四日付けに全文掲載され、日本においては「カトリック新聞」(十二月十三日付け)がその要約を掲載しています。今回、本誌がこの二つの講演にプパール枢機卿の報告を併せて、それらの全文を掲載されることは、非常に意味のあることで、また大きな喜びであります。~~。
ガリレオの偉大さはすべての人の知るところ
教皇ヨハネ・パウロ二世
一九七九年十一月十日、教皇庁立科学学士院、アルバート・
アインシュタイン(1)生誕一〇〇年記念式典における演説
(PP. 30-31)
学士院長、あなたは演説の中で、まことに適切にも、ガリレオとアインシュタインはそれぞれ一つの時代を画した、と述べられました。アインシュタインの偉大さと同様、ガリレオの偉大さはすべての人の知るところとなっています。ただし、両者には違いもあります。一方が本日、ここ教皇宮殿において枢機卿団によって讃えられているのに対し、他方は、大いなる苦しみを味わわねばならなかった、しかもその苦しみは――私たちは覆い隠すことはできないのですが――教会内部の人間や機構の手によって被ったものだった、という点であります。第二ヴァティカン公会議では、不当な介入があったことが確認され、深い反省がなされました。『現代世界憲章』(Gaudium et Spes) の第三六章にはこう記されています。「学問の正当な自主性を十分に認めないような態度――それは、ときにはキリスト者自身の間にもなくはなかった――を嘆かないではいられない。そのような態度は対立や論争を引き起こし、多くの人に信仰と科学とは対立するという考えをいだかせた」と。この一文に付された注には、教皇庁立科学学士院発行のピオ・パスキーニ著『ガリレオの生涯と著作』(Pio Paschini, Vita e opere di Galileo Galilei) が引用され、ガリレオのことがはっきりと言及されています。
原 注 |
(1) |
アルバート・アインシュタイン(一八七九-一九五五)は、今世紀の傑出した優れた科学者で、特殊および一般相対性理論を発見した。~~。 |
信仰と理性の調和
教皇ヨハネ・パウロ二世
一九九二年十月三十一日、教皇庁立科学学士院総会における演説
(P. 43)
実のところ、プパール枢機卿が指摘したように、論争において何が真の問題であるかを理解していたロベルト・ベラルミーノ自身は、地球が太陽の周りを回っているということを示す科学的証明が可能な場合には、地球は不動であると確信しているように思われるすべての聖書の章句を「細心の注意を払って解釈し」、「証明された当の主張の方が実は誤りであるのだ、などと言うのではなく、聖書の記述をよく理解していなかったのだと受け止める(4)」べきだと感じていました。ベラルミーノ以前にあっては、アウグスティヌスがこれと同じ知恵と神の言葉の尊重によって導かれ、「聖書の権威が明晰で確実な論拠と矛盾するようなことがあれば、(聖書を解釈する)人がそれを正しく理解していないことを意味しているに違いない。真理と矛盾するのは聖書の意味ではなく、解釈者が聖書に与えようとしている意味である。聖書と矛盾するものは、聖書の中にあるものではなくて、これこそが聖書の意味するところだと信じて、自分で聖書の中に置いたものなのである(5)」と書いています。一世紀前、レオ十三世は、アウグスティヌスのこの勧めを回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』(Providentissimus Deus) の中で繰り返しました。「真理は真理と矛盾し得ない。だから誤りは、聖句の解釈のうちで、あるいは論争的な議論そのもののうちで犯されていると思ってよいのである(6)。」
(P. 44)
私たちが得ることのできるもう一つの教訓は、知識の相異なる領域は相異なる方法を必要とする、ということです。卓越した物理学者としての直観と、種々の論証によって、実験的な方法を実際に編み出したガリレオは、なぜ太陽だけが、当時知られていた謂わば天文体系としての世界の中心として機能するかを
理解していました。地球が中心であることを主張した時の、当時の神学者たちの誤りは、物理的世界の構造についての私たちの理解は、ある意味で聖書の文字どおりの意味によって決められている、と考えたことだったのです。バロニウス (Baronius) が言ったとされる有名な警句を想い起こしてみましょう。「聖霊の意図していることは、いかに天が動くかではなく、いかにして天に行くかをわれわれに教えることである」(Spiritui Sancto mentem fuisse nos docere quomodo ad coelum eatur, non quomodo coelum gradiatur)。事実、聖書それ自体は物理的世界の細部にまで関わるものではありません。それを理解するのは、人間の経験と推論の能力によるのです。知識には二つの領域があります。一つは、啓示にもとづく知識であり、もう一つは、理性がそれ自身の力で発見できる知識です。特に実験科学と哲学は、後者に属しています。この知識の二つの領域の区別は、矛盾と解されるべきではありません。~~。
原 注 |
(4) |
フォスカリーニ宛て、一六一五年四月十二日付け書簡。cf. Edizione nazionale delle Opere di Galileo Galilei, dir. A. Favaro, vol. 12, p. 172. |
(5) |
Saint Augustine, Epistula 143, n. 7 ; PL 33, col. 588. |
(6) |
Leonis XIII Pont. Max. Acta, vol. XIII (1894), p. 361. |
《 How the Heavens Go 》
「ガリレオの生涯と科学的業績」
豊 田 利 幸
クリスティーナ大公妃あての手紙
「~~。どうして一方をとることが、信仰の上で(デ・フィデ)、そんなに必要なのでございましょうか。どうして一つの意見をとることが異端であり、魂の救済に無用なのでございましょうか。聖霊は救霊に関して何もお教えになるお気持ちがないとでもいうのでしょうか。私はここで、非常に高い位におられる、ある聖職者の方から伺った言葉をのべたいと思います。すなわち、聖霊の御意思は天界にどのようにして行くかを教えることであって、天界がどのように運行しているかを教えることではありません」
以上で明らかなように、最後にある、人口に膾炙[かいしゃ]している言葉は、ガリレオ自身のものではない。ガリレオはこの箇所の欄外に「バロニウス枢機卿」と記入している。バロニウス(一五三八~一六〇七)は、一五九八年にベルラルミーノ枢機卿といっしょにパドヴァを訪れている。
岩波新書 (朝永振一郎/著)
第 Ⅰ 章
4 科学と教会
(PP. 117-118)
~~。これは彼が庇護者トスカナ大公の妃にあてた「クリスティーナ大公妃あての書簡」のなかにある文句です(4)。
「……聖書も自然も共に神の言葉から出ており、前者は聖霊の述べたもうたものであり、後者は神の命令によって注意深く実施されたものであります。従って、聖書におきましては、一般的な理解に資するために、章句の裸の意味にかんするかぎり、絶対的な真理とは異なる多くのことが述べられています。これに反して自然は、それに課せられた法則の言葉を超越するようなことはありません。……神は聖書の尊いお言葉のなかだけでなく、それ以上に、自然の諸効果のなかに、すぐれてそのお姿を現わしたもうのであります。……」
すなわちガリレオにとっては、神の啓示は聖霊を通じて語られた聖書のなかにあるだけでなく、神の創造物である自然の動きそのもののなかにもあるのです。そして前者では一般の人々に理解されるような言葉が用いられており、後者では特殊な人々の刻苦によってはじめて理解される言葉が用いられている。従ってそこには、一見通常の言葉で語られたこととちがって見えるものが現われるかもしれない。しかしそれをもって後者が偽りであるということはできない。そしてさらにガリレオはつけ加えます(5)。
「……聖霊の御意思は魂の救済すなわち天界にどのようにしていくかを教えることであって、天界がどのように運行しているかを教えることではありません。」
つまり彼は魂の救済と天文学との守備範囲を分けるべきだと主張したわけですが、これが聖書を自己流にこじつけた解釈といわれたのでしょう。
ところが、ガリレオの自己流こじつけだと非難されたこの聖書解釈を、期せずしてケプラーも行なっているのです(ちなみにケプラーはガリレオとちがって新教の信者でした)。彼は『新しい天文学』のなかでこういう趣旨のことをいっています(6)。これまで少なからぬ人々が信仰上の理由でコペルニクスに同意することを阻害されている。すなわちそれらの人々は、地球が動いており太陽が静止している、と主張することが聖書に書かれている神の精神が偽りであると非難することになるのを恐れているのだ、と。~~。
引 用 出 典
(4) |
豊田利幸「ガリレオの生涯と科学的業績」(世界の名著 21『ガリレオ』所収、中央公論社、一九七三年刊)一〇二頁 |
(5) |
豊田利幸「ガリレオの生涯と科学的業績」一〇三頁 |
(6) |
ケプラー『新しい天文学』島村福太郎訳(世界大思想全集 31 所収、河出書房新社、一九六三年刊)一一二頁下段-一一三頁上段、一一三頁下段、一一六頁下段 |
講談社学術文庫 (渡辺正雄/著)
第五章 科学の世界と価値の世界
(P. 215)
~~、ガリレオ自身あまり気づいてはいなかったようであるが、そのころ、ガリレオにかねてから好意的だった人物が法王に就任したので、ガリレオはむしろ喜んだのだが、この法王は、政治的な理由から、ガリレオのパトロンであったメディチ家のトスカナ大公に対してたいへん敵対的な気持ちを抱いていたのである。
(PP. 216-217)
~~。彼が宇宙を書物と見て『聖書』になぞらえたことは先に見たところであるが、そのことを述べた『偽金鑑識官』よりも八年前に書かれた長文の手紙、メディチ家の「クリスティーナ大公妃宛の手紙」(一六一五年)には、ガリレオの考えがきわめて詳細に記述されている。それは、『聖書』と科学の問題を正面から取り上げて本格的に論じたものである。
彼はその中で「『聖書』も自然の現象もひとしく神の言葉に由来する」と述べ、同じ神に由来する『聖書』と天文学ないし科学の間に不一致が生じるのは二つの理由による、としている。ひとつは、宇宙とか自然を研究する研究者が誤っている場合で、もうひとつは、『聖書』の言葉の読み方が誤っている場合である。太陽中心説の場合はこの後者に該当する、と彼は言う。『聖書』は、それが書かれた当時の人々にもわかるような言葉で書かれているのであるから、これを字句どおりに受け取ると、かえってその真意から外れてしまうことがある。例えば、『聖書』に太陽が動くように書かれてあるのは、もしも太陽は止まっていて地球の方が動くように書いたとしたら、人々はそれを理解できず、それを受け入れないのみか、『聖書』における最も重要な事項である信仰上の事がらさえ受け入れなくなってしまうであろう。地球の運動を唱えたコペルニクスでさえ、読者の思考を混乱させぬために、必要に応じて太陽や恒星[こうせい]の「出没」とか「太陽の運動の変化」とかいう表現をとっているのである。確かにガリレオが言うとおり、今日のわれわれも「朝日が昇る」とか「夕日が沈んだ」という言い方をするが、それは何もわれわれが地球中心説[ちきゅうちゅうしんせつ]をとっているということではない。
当のコペルニクスについてガリレオは、彼がカトリックの聖堂参事会員であったこと、教会暦[きょうかいれき]の改革のためにローマに招かれたこと、その著書を法王パウロ三世に献げたことなどの事実に注目すべきであると記し、また、『聖書』の解釈は偏見に陥ることのないように下されねばならぬというアウグスティヌスの言葉を援用している。
『聖書』によれば地球中心説が正しいと主張する論者がしばしば取り上げたのが「ヨシュア記」一〇章一二-一三節である。~~。
(PP. 221-222)
~~。ただし、この議論に限って言えば、ガリレオの主張は、確かに両宇宙体系[うちゅうたいけい]によく通じた者ならではの発言ではあるが、今日われわれがそのまま肯定できるようなものではない。あるいはガリレオ自身も、多少の詭弁[きべん]とは知りつつ相手を煙に巻くためにこのような長広舌をふるったのかもしれない。
「クリスティーナ大公妃宛の手紙」の中の議論は、その他の点ではきわめて妥当なものばかりである。コペルニクスの著書をよく読めば彼の説の正しさがわかること、火星と金星の大きさの変化や金星の形の変化を見ただけでも、コペルニクスの体系が正しくて、プトレマイオスの体系は成り立ちえないことが明らかになることなど、天文学的な事がらも論じられている。しかし、天の運動と静止、その形状、地球の位置などについて、いずれが信仰的に正しくまた誤りであるかを決めるなどということはできないとガリレオは言明している。そして、「きわめて高位の聖職者」(「バロニウス枢機卿」と欄外に註記)から聞いた言葉として次のように記している。
聖霊の御意図は、人はどのようにして天に行くかを教えることでありまして、天はどのように運行するかを教えることではありません。
これは、いつまでもわれわれの記憶に残る名言であり、『聖書』と科学の関係を簡単な言葉できわめて明快に示したものといえよう。すなわち、『聖書』は、もっぱら魂の救いを問題にしている書物であって、「どのようにして天に行くか」(how to go to heaven) を教えるために書かれたものである。それは、科学のように「どのように天は動くか」(how the heavens go) を教えようとするものではない、というのである。ガリレオの復権を認めた現ローマ法王が、『聖書』と科学の関係を正しく言い表すものとして引用したのも、このガリレオの言葉であった。
さて、ガリレオ裁判とその歴史を顧みて、筆者には次のような思いが去来するのである。
もしもガリレオがコペルニクス体系を天文学上の計算に便利な単なる数学的仮説として支持したのであったならば、彼はとがめだてを受けずにすますこともできたであろう。しかし、彼にとって、この体系は仮説ではなくて自然学的な真実なのであり、まさに神によってそのように造られた宇宙の構造そのものなのであった。このようなものとして彼はそれを研究し、人々の前に提示した。そして、そうであればこそそれは、キリスト教神学に抵触するものと解された。しかし、また、そうであればこそそれは、近代科学と言われるものを創り出すことに寄与することができたのであった。
Newsweek Special Report
'How the Heavens Go'
By Kenneth L. Woodward
~~. Although Pope John Paul II declared in 1992 that the church had erred in condemning Galileo, the incident was never a simple conflict between science and religion. Galileo overstated the proof he could provide for a heliocentric (sun-centered) cosmos and incautiously caricatured the pope in a published tract. Yet he could also quote one of the pope's own cardinals in his defense: "The intention of [the Bible] is to teach us how one goes to heaven, not how the heavens go."
© 1998 by Newsweek, Inc.
“GALILEO”
Per il Copernicanesimo e Per la Chiesa
by Annibale Fantoli
© Copyright 1993 by Vatican Observatory Foundation
© Copyright 1993 - Libreria Editrice Vaticana - 00120 Città del Vaticano
3 聖書をめぐる論争の結末
三 フォスカリーニとベラルミーノ――コペルニクス問題をめぐって
(P. 180)
『クリスティーナ・ディ・ロレーナへの手紙』〔(Lettera a Cristina di Lorena) ; cf. P.179 〕を書くときにもコペルニクス説のために戦うときにもガリレオの励ましとなったのは、疑いなく、カルメル会の神学者アントニオ・フォスカリーニ(20)が小冊子を出版したことであった。その小冊子の標題は、『大地の可動性と太陽の不動性ならびに新しいピュタゴラス的世界体系等々についてのピュタゴラス派とコペルニクスの意見に関するカルメル会士パオロ・アントニオ・フォスカリーニ師の手紙』(Lettera del R. P. M. Paolo Antonio Foscarini carmelitano sopra l’opinione de’ Pitagorici e del Copernico della mobilità della terra e stabilità del sole e del nuovo sistema pitagorico del mondo) であった。これは、フォスカリーニ自身がカルメル会総会長に送った手紙を印刷したものである。三月七日にチェシは、手紙を添えてその一冊をガリレオに送った。その手紙にはこう記されていた。
これはまさに絶妙のタイミングで出た本です。もっとも、敵どもをさらに怒らせるとなると、面倒なことになりますが、そんなことにはなるまいと思います。(XII, 150)
この小冊子でフォスカリーニは、何よりもまずプトレマイオスの体系が十分なものでなく真実らしくないということを浮き彫りにしてみせた。彼は次に、ガリレオの諸発見について語った。~~。
(PP. 181-184)
この『手紙』はすぐに広く流布し、反対を引き起こし、次いで論争を引き起こした。~~。チャンポリはたぶん、フォスカリーニの『手紙』に対するこの反対の激化を知ったのであろう。彼は実際、三月二十一日にはガリレオに次のように書き送った。
最近ナポリで刊行された小冊子が出まわっていますが、それは地球の運動と太陽の不動という意見は聖書にもカトリック信仰にも反しないと論じています。前にも言いましたように、この書物は間違いなく、聖書に論及したがために、これから一ヵ月間の予定の検邪聖省の最初の会議に掛けられるという危険を冒しています。(XII, 160)
このように、チャンポリはチェシよりも情報通だった。フォスカリーニが未知の顧問官のこの検閲について知るに至ったことは疑いない。彼は実際、四旬節の説教の合間に自分の意見を守るためのラテン語の手紙を書き、その中で検閲官のさまざまな批判に応酬したのである。そしてそれを自分の小冊子一部とともにベラルミーノに送り、この権威ある枢機卿にこの件についての意見を求めたのであった(23)。一六一五年四月十二日、ベラルミーノは次のような手紙でもって彼に答えた。
大いに尊敬すべき神父様、
尊師がお送り下さいましたイタリア語のお手紙とラテン語の論説、喜んで読ませていただきました。~~。
~~。
第三に、こう言いましょう。もしも太陽が世界の中心にあって地球は第三の天にあること、また太陽が地球をめぐるのではなく地球が太陽をめぐることの真実の証明があるとすれば、それと対立するかに見える聖書の記述を説明するにあたっては大いに慎重に前進しなければならないでしょうし、また、証明されたことを虚偽だと言うのではなく、むしろわれわれがそれら〔聖書の記述〕を理解していないのだと言わなければならないでしょう。しかし、実際に示されない限りは、私はそのような証明があるとは信じないでしょう。それに、太陽が中心にあって地球が天にあると仮定すれば現象は救われると説明することと太陽が中心にあって地球が天にあるのは真実なのだと説明することは、同じことではありません。というのは、第一の証明はありうると信じられますが、第二の証明は大いに疑わしいからであります。そして、疑わしい場合には、聖なる教父たちの解釈した聖書を放棄すべきではないのです。さらに、こう付け加えておきましょう。「太陽は昇りかつ沈み、かくしてもとの場所に立ち戻る」云々と書いたのはソロモンでしたが、彼は単に神の霊感によって語っただけではありません、人間の知識においても被造物の認識においても万人に優って最も知恵と学識のある人でありました。しかも、彼はその知恵のすべてを神から受けたのです。したがって、彼が証明済みの真理や証明可能な真理に反することを主張したというようなことは、ありそうなことではありません。そこで、もしも、岸辺から離れていく人には岸辺が船から離れていくと思われるように、本当は地球がまわっているのにわれわれには太陽がまわっていると思われるのであるから、ソロモンは見かけに従って語ったのだ、と言う人があるならば、私はこう答えましょう。岸辺から離れていく人には岸辺が彼から離れていくように思われるとしても、それでもその人は、船が動いていて岸辺が動いているのではないことを明瞭に見て取るのだから、それが誤りであることを知り、その誤りを正すのである、と。しかし、太陽と地球に関していえば、賢明なる人は誰一人として誤りを正す必要はありません。というのは、地球が不動であることも、太陽が動くと判断する際に目が欺かれているのでないことも、月や星が動くと判断する際にも目が欺かれているのでないのと同じく、明瞭に経験されるからなのです。さしあたってはこれで十分でありましょう。
これをもって、尊師に心からなる挨拶を申し上げます。また、尊師に幸多かれと神に祈って止みません。
一六一五年四月十二日、拙宅にて
尊師の兄弟である
枢機卿ベラルミーノ
(XII, 171-172)
ベラルミーノのこの返書が私的なものであったことは疑いない。しかし、当時の神学界での枢機卿の信望からすれば、これには非常な重みがあったし、コペルニクス問題に対する教会の態度を示すものと受け取ることができたのである。
四 ガリレオの回答――『クリスティーナ・ディ・ロレーナへの手紙』
(PP. 188-189)
すでに見たように、ガリレオは今度はクリスティーナ・ディ・ロレーナ自身に宛てて新たにより詳しい手紙を書き始めた。彼はこの中で、カステッリやディーニに宛てた手紙に含まれていた考察をより体系的なより深めた形で提出したのである(30)。
ガリレオは、まず最初に自分の諸発見について述べ、次いでそれらが多くの哲学者たちの間に引き起こした――「自然と諸科学とを混乱させるために私が自分の手でそれらのものを天に置いたというような」(V, 309) ――反応を強調する。これらの「教授たちは」彼の諸発見に反対して「空しい論議に満ちたいくつかの論説を」書いたばかりでなく、「さらに由々しいことには、そこに聖書の証言を撒き散らしたのです。しかも彼らは、それらの箇所をよく理解しないまま本来の趣旨とはかけ離れた仕方で持ら出し、引用したのです」(V, 309)。しかし、時がたつにつれて自分の諸発見の真なることは万人に明らかとなり、「思いがけない新奇さやそれらを感覚経験によって実際に見る機会がなかったことのために」(V, 310) 最初は疑っていた人々も信じるに至ったのである。しかし、故意に敵対する人々の集団はなおも存在し続けたのである。
(PP. 191-194)
ガリレオは、聖書には科学的性格の主張をする意図がまったくないことの裏づけとして、聖書がほとんど天文学的な言及をしないことに注意を促している。
そこには――太陽と月は別として――惑星の名前は見られず、金星ですら明星の名前でたった一度か二度出てくるにすぎません。(V, 318)
したがって、聖書は天の運動について何かを教えようとしているのだと主張しようとするならば、このように限られた言及しかないことは説明がつかない。これはまた、聖アウグスティヌスの意見でもある、とガリレオは続ける。彼はこうして『創世記逐語解』の一節 (II, 9) を引用しているが、この箇所についてはわれわれはすでに序章で言及しておいた(34)。ガリレオはさらに、聖アウグスティヌスのこの著作の第十九章からよく似た箇所を引用した後、このように結論する。
以上のことをふまえていまの私たちの具体的なことがらへと降りてきますならば、必然的に次のような結論になりましょう。すなわち、聖霊は、天が動いているのか不動であるのか、その形が球なのか円盤なのか広がった平面なのか、地球がその中心にあるのか隅の方にあるのかというようなことを私たちに教えようとはされなかったのですから、同じ類いの他のことがらについても、また、こちらを決定しなければあれやこれやを断言することができないというような仕方でいま列挙されたことと結びついていることがら――たとえば、この地球と太陽のどちらが動きどちらが静止しているのかを決定するというようなこと――についても、私たちに確実な結論を与えるつもりはなかったわけでありましょう。(V, 319)
ガリレオによれば、この結論は、「非常に高い地位におられるある教会人が」かつて彼に言ったことと一致するものである。「すなわち、聖霊の意図は、どのようにして人は天に行くのかを教えることであって、どのように天が運行しているかを教えることではありません(35)」(V, 319)。かくしてガリレオはこう結論する。
こういうわけですから、そして先に述べましたように二つの真理が互いに矛盾することはありえない
(36)のですから、賢明なる解釈者の責務は聖書の章句のさまざまな意味を洞察するように努めることなのです。それらの章句は疑いなく、まずもって明白な感覚経験ないし必然的証明によって確実とされ保証された自然学の諸結論と一致するでありましょう。そればかりか、先に述べましたように、聖書については、前述の理由により多くの箇所で、言葉の字義的意味からかけ離れて解釈することが認められております。また、私たちは、すべての聖書解釈者が神の霊感を受けて語っているということを確実なこととして主張できるわけでもありません。というのは、もしそうであるならば、聖書の同じ箇所の意味について彼らの間にはいかなる不一致もないはずだからです。したがいまして、自然学上のあれやこれやの結論を真だと主張するために聖書の章句を盾に取ることや、それらをある仕方で強制使用することを誰にも認めないとしますなら、それは大変に思慮深いことと申せましょう。というのは、自然学の結論については、感覚や論証的必然的議論が時としてそれらと反対のことをわれわれに示すことがあるからなのです。
(V, 320)
このように、ガリレオは、この『手紙』の最も重要な一節であるこの箇所で、自然の問題に触れている聖書の章句については科学的考察が釈義的考察に優先すると主張しているのである。その際、彼は二つの場合を区別する。第一は、科学がすでに確実な結論に到達してしまっている場合で、このときには釈義者はその結論に一致するような聖書の真実の意味を見出さなくてはならない。第二は、将来において確実な科学的結論の可能性がある場合である。この場合には釈義者は大いに思慮深くなければならず、そうした可能な科学的結論によって反証されうるような聖書解釈を真と主張することは避けるのである。
そこでガリレオは、こうした前提にもとづいて反撃に転じる。すなわち、自分は勝手に聖書を解釈しようとしているとして非難されるべきではなく、逆に自分の諸発見を断罪するために聖書を使っている多くの敵たちこそ非難されるべきなのである。ガリレオはここで具体例を挙げ、まったく無能な人たちから加えられた攻撃について言及している。
もっと微妙なのは神学者たちの場合であった。彼はこれについて、次のように説明する。
私といたしましては、同様な著作家の中に幾人かの神学者を数え入れるつもりはありません。思いますに、彼らは深遠なる学識をもち、道徳的にもまったく聖なる人々であります。それゆえまた、大変に敬われ崇められてもいるわけです。しかし、私にしてみますと、ある種の危惧を感じないではいられません――それが結局は解消されることを望んでおりますけれども――。といいますのは、彼らは自然に関する討論において聖書の権威を持ちだし、その章句により一致すると自分たちが考えるような意見に従うようにと他の人々を強制しようとしていると思われるからであります。しかも彼らは、それに反する議論や経験に対しては、これを解きほぐす義務はないのだと信じております。(V, 323-324)
ガリレオによれば、彼らがこうした態度を取る理由は、彼らの考え方にもとづいている。彼らは、神学は最高の学問であるから自分より下位の学問の主張に自分をあわせて身を低くするようなことはあってはならず、その逆に、下位の学問の方が神学的認識の卓越性を認識し、「神学的な規則や法令に合致するようにその結論を変えたり改めたり」(V, 324) しなければならない、と考えているのである。ガリレオはここでもこの議論に反駁する。つまり、神学はまさに最高の学問(その対象が人間にとって可能な最高のものであり、その結論が神の啓示の教えるところにもとづいているという意味で――とガリレオは精確に述べている)であるがゆえに、それは「自分より下位の学問の最も低く最も卑しい考察にまでは降りて行かないのであり、むしろ、先に説明しましたように、至福に関係のないものとしてそれらの学問の面倒は見ないものなのです」(V, 325)。それゆえ――と彼は結論する――、「それ〔神学〕の管理者や教授たちは、自分たちが従事したことも研究したこともない仕事について法令を発する権威があるなどと僭称すべきではないでありましょう」(V, 325)。
注
(20) |
パオロ・アントニオ・フォスカリーニ(一五八〇?-一六一六)はカラブリア人で、カルメル会に入った後、二度この地の管区長になり、神学を教えることもあった。詳細については、Boaga 1990 を参照。 |
(23) |
フォスカリーニがベラルミーノに送った自己の立場を弁護する書簡のテクストは Boaga 1990, 204-216 にある。フォスカリーニはこの手紙に『防御』という題をつけて、もとの手紙に訂正と省略を加えた上で、出版するつもりだった。しかし、この企ては実現しなかった。~~。 |
(30) |
この『クリスティーナへの手紙』は、おそらく一六一五年の夏には完成し、前の『カステッリへの手紙』と同様、写本の形で回覧された。刊行された最初の版は、ずっと後(一六三六年)にストラスブールで出たものである。これは V. 309-348 にある。~~。 |
(34) |
教会の教父や他の神学者たちからの引用は『カステッリへの手紙』にはまったくなかったが、この『クリスティーナ・ディ・ロレーナへの手紙』にはかなりたくさんある(二十七箇所)。その多く(十五箇所)は聖アウグスティヌスから取られており、しかもただ一箇所を除いてそのすべてが『創世記逐語解』からのものである。ガリレオは明らかに、これらの引用によって、地球の不動性に関しては教会の教父たち全員が一致しているという主張(『フォスカリーニへの手紙』でベラルミーノが繰り返した主張)に対抗しようとしたのである。特に彼は、これらの最も偉大な教父たちの一人である聖アウグスティヌスによって与えられた聖書解釈の規則がコペルニクス説に対して性急な決定をしないようにという神学者たちへの警告になっていることを示そうとしたのである。そのような性急な決定は正当ではなく、将来誤っていることが示されうるであろう。もっとも、ガリレオが『創世記逐語解』を自分で読んだとは思われない。~~。 |
(35) |
ガリレオ自身、注で「バロニオ枢機卿」と付け加えている。バロニオ(一五三八-一六〇七)は、一五九八年にベラルミーノとともにパドヴァを訪れたことがあった。おそらく、ガリレオはこのときにピネッリ邸で彼に会ったのであろう。もしそうだったとすれば、バロニオのこの一句は、聖書にもとづく地動説反対論(すでにあったにせよ単に予想されただけにせよ)に関して当時からガリレオのうちにあった憂慮を示すものであろう。つまり、その憂慮のために彼はバロニオに尋ねる気になったのであり、その結果このような安心のできる(少なくとも彼には)回答を受け取ったというわけである。 |
(36) |
実にしばしばガリレオの書くものに出てくるこの原理は、すでに第五ラテラン公会議で承認されたものである。この公会議は、第八会期(一五一三年十二月十九日)で、二重真理説に反対してこう主張していた。「われわれは、真理は真理と決して矛盾しないがゆえに、照明された信仰の真理に反するすべての主張は完全に偽であると宣言する」(cf. Denzinger and Schönmetzer 1967, 1441. この同じ言葉は、そのまま第一ヴァティカン公会議でも用いられた。Ibid. 3017)。神学者たちはこの原理をしばしば用いたが、有名なイエズス会の釈義家ベニト・ペレイラ(一五三五-一六一〇)もそうであった。ガリレオは、われわれがここに引いた章句のすぐ前の箇所で彼を引用したのである(その名 Pereyra はラテン語化されてペレイルス Pereirus となっているが)。~~。 |
7 「ガリレオ」問題
五 十九世紀におけるガリレオ論争、ヴァティカン文書館の「開放」
(P. 504)
より効果のある自由化政策は一八八〇年から八一年にかけてようやく始まった。新教皇レオ十三世がヴァティカン秘密文書館の開放を布告したからである。この政策の最も顕著な成果は――ガリレオ研究に関する限りでは――ガリレオ裁判に関するすべての文書が集成され刊行されたことである。それらは、一八九〇年から一九〇九年にかけてアントニオ・ファヴァロが編纂した国定版ガリレオ全集の第十九巻に収録されている。
同じ教皇レオ十三世は後の一八九三年にその回勅『大いなる摂理の神』(Providentissimus Deus) で聖書と科学の関係の問題を論じたが、それはほぼ三世紀前にガリレオが『クリスティーナ・ディ・ロレーナへの手紙』で用いた神学的諸原理と非常によく似た諸原理にもとづいていた。~~。とはいえ、教皇はきわめて慎重な言葉遣いで、個々の教父や後の時代のその解釈者たちが聖書の章句――今日では科学的な問題と考えられるものに関わる章句――の解釈をするにあたって冒した誤りをほのめかすにとどめたのである。
六 ピオ・パスキーニの『ガリレオ』、第二ヴァティカン公会議
(P. 505)
この「護教的」姿勢を克服する教会の最初の試みとしては、一九四一年に教皇庁立科学学士院(37)によって採用された企画がある。ガリレオの没後三百年(一九四二年)にあたってガリレオの伝記を出版しようとしたのがそれである。学士院長のフランシスコ会士アゴスティーノ・ジェメッリは、特別に作られた委員会の意見にもとづき、この任務を教皇庁立ラテラン大学で教会史を講じており、同大学の学長でもあったピオ・パスキーニ師(38)に委嘱した。~~。
(PP. 506-508)
しかしながら、パスキーニが細心かつ誠実に行なったこの探究の成果をローマ当局は喜ばなかった。この浩瀚な著作はガリレオを弁護する書と判断され、当局は出版するにふさわしくないと考えたのである(41)。これでわかるように、教皇庁科学学士院の当初の意図が客観的で公平な研究を出版することにあったとしても、ピウス十二世の時代に特徴的な教会の雰囲気はなおも教会の「威厳と名声」を守ろうとする憂慮に満ち満ちていたので、こうした書物の発行は許されなかったのである。それが可能になったのはようやく二十年後、パウルス六世の時代であり、著者の死後二年目であった。しかも、本文は訂正されてしまい、きわめて重要な点においてさえも意味はしばしば完全に歪められたり変えられたりしたのである(42)。
パウルス六世の時代は、周知のように、現代世界における教会の立場と役割とを考え直そうとするあの大きな努力、すなわちヨハネス二十三世の意志によって始められた第二ヴァティカン公会議が実を結んだ時代である。その意味で特に重要なのは公会議の最終会期(一九六五年十二月)において公表された司牧憲章『歓喜と希望』(Gaudium et Spes〔現代世界憲章〕) であるが、その主題はまさに現代世界における教会の問題であった。こうした議論においては、キリスト教信仰の見解と現代科学の見解との関係について何らの考察もせずに済ますことはできなかった。これは今日の世界では大問題だからである。そして、この文書が準備されている段階では、教会がガリレオに対して冒した誤りを率直に認めようという提案がなされた(43)。これは「混成委員会」によって部分的に認められ、文化の自律性の問題を扱う箇所に新しい一節(第四十節)が設けられた。ここでガリレオ断罪の誤りについて短かな指摘がなされることになったのである(44)。しかし、委員会の副議長ピエトロ・パレンテ師などがこのような言及は不適当であると干渉したのである。それは記録文書の中に次のように要約されている。
ガリレイ。この文書で彼について語るのは適当ではない――「私は間違っていた」などと教会に言わせないように。これ〔ガリレオ問題〕は当時の基準で判断されるべきである。パスキーニの著作ですべてに真の光が当てられている
(45)。
この多数の反対意見が通った結果、『歓喜と希望』(第三十六節)の確定本文のうちには次のような言葉が挿入されることになった。
ここでわれわれは、ときにキリスト教徒の間にも見られたある種の精神的態度を嘆かずにはいられない。それは、科学の正当な自律性を十分に理解しなかったために生じたものであり、誤解や論争を引き起こすことで多くの魂を信仰と科学は互いに対立すると考える地点にまで追いやったのである。
そして、本文のこの部分には次のような注が添えられた。「ピオ・パスキーニ『ガリレオ・ガリレイの生涯と著作』(Vita e Opere di Galileo Galilei) 二巻、教皇庁科学学士院、ヴァティカン市国、一九六四年、参照。」このように、わずか二年前にもなお、他ならぬパレンテ師その人によって、出版するに「ふさわしくない」と判断されたパスキーニの著作が、タイミングよくついに出版されるや、公会議において引用されるという栄誉に浴し、突如として公式文書としてのお墨付きを得たのである。~~。
まことに不幸なことと言わざるをえないのは、第二ヴァティカン公会議が開かれるという新しい雰囲気の時代になってもなお、「教会の威信」を守らねばならないとする姿勢がいまだ根強く残っていたことである。まさにその結果、苦難の歴史を経て「改訂」されたあげくに出版された経緯を思えばとうてい科学研究の自由を証しするとは言えない書物、著者が決して自分のものとは認めなかったであろうような書物が、公会議において(こともあろうに、「科学研究の自由」を厳粛に宣言するという文脈において)引用されることになったのである。
七 ヨハネス・パウルス二世とガリレオ事件
(PP. 509-510)
一方、ヨハネス・パウルス二世の方は何度か繰り返してガリレオを論じている。教皇は一九八三年五月には多数の科学者を前にしてフランス語で語り、次のように表明した。
ガリレオ・ガリレイの偉大な著作『二大世界体系についての対話』の出版から三五〇年の記念すべき年を祝おうとしておられるみなさんに申し上げたいのは、ガリレオ事件の際に、あるいはそれ以後の時代に教会が得た経験のおかげで、教会に固有な権威についての成熟した、いっそう正しい理解が可能となったということです。……こうして、いっそうはっきり理解されるようになったのは、まさに、教会が擁護し証している神の啓示それ自体はなんら宇宙についての科学理論を含むものではなく、聖霊の助けは実在世界の物理的構成に関してわれわれが与えようとする説明をなんら保証してくれるわけでもないことです。~~。(John Paul II, 1992, §§ 2,3)
それから六年後、ヨハネス・パウルス二世はピサの町を訪れた際にも新たにガリレオを論じ、こう主張した。
……少なくとも、ここに生まれここから不朽の名声へと最初の一歩を踏み出した、かの偉大な人物の名を、どうして思い出さずにいられましょうか。私が言うのはガリレオ・ガリレイのことであります。彼の科学的業績は、当初は思慮を欠いた反対に会いましたが、いまでは探究方法の重要な一里塚として、一般的にいえば自然認識の道における重要な一里塚として、万人に認められています。(John Paul II, 1989, § 2)
ヨハネス・パウルス二世は、一九九二年十月三十一日に教皇庁立科学学士院で開催された、数学、物理学、化学、生物学諸科学の分野における複雑性の出現の問題に関する総会が閉幕するにあたって行なった演説の中で、もう一度ガリレオの問題に立ち戻った。今回はたまたま言及したというのではなく、総合的な判断を下したのである。これは、十三年前に設置された研究委員会が終了したのを機に、その活動を最終的に総括することを意図したものであった。~~。
注
(37) |
この学士院は一九三六年に「新リンチェイ教皇庁ローマ学会」を改組して生まれた。これに新しい規則と新しい名称を与えることによってピウス十一世が欲したことは、その活動がキリスト教信仰と近代科学との出会いを促すことに向けられるということであった。会員に選ばれるには、学士院の活動に関わる諸分野で際立った能力がありさえすればよく、思想や信仰が問われることはない。 |
(38) |
ピオ・パスキーニ(一八七八-一九六二)はフリウリに生まれ、ウーディネの神学院で学んだ。司祭叙階後、同学院の教会史の教師となり、その開けた精神によって知られるに至った(このことから、「反近代主義的」反動の時期にあって、ある種の嫌疑を招くことになった)。~~。 |
(41) |
同書の出版の不運な成り行きの詳細については、Bertolla 1980, 173-208 ; Nonis 1980, 158-172 ; Maccarrone 1980, 49-93 を参照。~~。 |
(42) |
~~。検邪聖省においても、参与官のピエトロ・パレンテが「実質的には新しいものは何も示されていない」との理由でこの書物の有用性と、またしてもその出版の「適格性」を疑っていた。しかし、ヴァティカン第二公会議の閉幕が間近になった頃にパスキーニの著作を出版することの有用性に新たな光が当てられるようになり(本文の続きを参照)、検邪聖省はついにこれを認可したのである(一九六四年三月四日)。~~。 |
(43) |
第十三草案「現代世界における教会について」(De Ecclesia in mundo huius temporis) は、一九六四年七月三日、付属文書とともに公会議の教父たちに送られた。この草案の第四章第二十二節「文化を正しく促進することについて」(De cultura rite promovenda) と第三付属文書「文化の発展を正しく促進することについて」(De culturae progressu rite promovendo) においては、「諸科学と全文化の正当な自律性」が認められていた。草案の討論は十月二十日に始まり、文化の問題は――マッカローネ (Maccarrone 1980, 90) が記しているように――「十月三十日の第百十三会議と十一月四日の第百十四会議で討論〔されたが〕、比較的わずかな時間であった」。ストラスブールの補佐司教アルテュール・エルシャンジェ師がガリレオに関して表明することを提案したのは、まさにこの最後の会議においてであった。~~。 |
(44) |
この一節は次のようであった。「健全な科学研究とは無縁の、おそらくは過去数世紀にわたり教会自身の内部にはっきりと見られた (intra ipsam Ecclesiam fortasse videri sese manifestaverunt) ある種の精神的態度を嘆かずにはいられない。争いや論争を生み出したこれらの精神的態度は、科学を信仰と対立させ、そのいずれにも大きな傷をもたらす原因となった。他方、これらの誤りはそれぞれの時代背景を考慮するなら容易に理解できることであり、カトリックに限ったことでなかったことは、同様の態度が他の宗教〔おそらくこの一節の筆者は、プロテスタントのような他の教派を意味しているのであろう〕にも存在したことが示している。しかしながら、われわれは、弱き人間としてなしうる限り、このような誤り――たとえばガリレオの断罪――を決して繰り返すことのないよう最善をつくさねばならない」(ラテン原文は Maccarrone 1980, 91 を参照)。このように、非常に慎重に綴られたこの文章においては、ガリレオへの言及は削られ、ほんのわずかな挿入句だけになってしまったのである。つまり、エルシャンジェ師によって提案された率直な表明とはまったく異なったものになっているのである。それにもかかわらず、こうした言及すらも抑えられ――これからすぐに見るように――「適当ではない」とみなされたのである。 |
(45) |
パレンテ師の発言は一九六五年四月一日の会議でなされた。Cf. Maccarrone 1980, 91-92. パレンテは、検邪聖省の参与官として、前年以来検邪聖省で決定されてきたことには十分に通じていた。~~。 |
文 献
John Paul II, 1989. “Discourse to the City of Pisa, Vatican,” L’Osservatore Romano, 24 September, p. 4.
John Paul II, 1992. “Discourse on the Occasion of the Plenary Session of the Pontifical Academy of Sciences and the Conclusion of the Work of the Study Commission on the Ptolemaic-Copernican Controversy” in Discorsi dei Papi alla Pontifìcia Accademia delle Scienze (1936-1994), Vatican : Pontifical Academy of Sciences, pp. 271-280.