信長軍の標的に、江戸時代は九鬼家の城 兵庫県・三田城
日本の城を知り尽くした城郭ライター萩原さちこさんが、各地の城をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「城旅へようこそ」。今回は、織田信長軍が攻略しようとした兵庫県三田市の三田城です。江戸時代には九鬼家の城となり、水軍で名をはせた大名家らしいものが、敷地にはあるのです。(トップ写真は三田小学校前に立つ三田城跡の石碑)
信長軍が荒木村重を攻めた際の標的に
<織田信長軍が改築した「付城」が出現! 消滅が惜しまれる神戸・松原城>で述べた松原城(神戸市)は、織田信長軍によって付城として改変された城であることがわかった。その際、信長軍が攻略の標的にしていたと考えられるのが、三田城(さんだじょう=兵庫県三田市)だ。
三田地方は1574(天正2)年、織田信長方である荒木村重の甥、荒木平太夫が平定。それまで治めていた有馬氏に代わって有馬郡(現在の神戸市北区、兵庫県三田市、西宮市にまたがる地域)を支配することになった。しかし平太夫は1578(天正6)年に信長から離反した村重に従ったため、信長方に攻められることとなった。三田城を攻めたのは、羽柴秀吉、佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶とされている。平太夫は金心寺に籠(こ)もるも、秀吉軍が寺を焼き払ったため降伏したと伝わる。
現地を訪れると、三田市立三田小学校の校門前に三田城跡の石碑が立っている。これは、江戸時代に三田藩主となった九鬼氏が築いた三田城(三田陣屋)跡を示す石碑だ。かつてはこの地に、赤松氏や有馬氏、荒木氏らの城があった。
緩やかな坂道は大手筋と思われる
「三田」の地名由来を伝える金心寺
三田城の西側600メートルほどのところには、有馬郡内唯一の古代寺院である金心寺がある。「三田」の地名は、金心寺の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像内から見つかった文字「三福田(恩田・悲田・敬田)により三田と改む」が由来とされ、兵庫県立有馬高等学校のグラウンドからは金心寺のものと考えられる礎石や瓦、墓石が出土している。この地域では、古くは金心寺がかなりの勢力を誇っていたようだ。その後、在地領主が定着し、南北朝の動乱が終焉(しゅうえん)する頃に赤松氏系の有馬氏が台頭。丹波・摂津守護の細川氏の相続争いに巻き込まれながら、有馬郡を支配していったようだ。
有馬氏に変わって荒木氏が入り、荒木氏を倒して信長が平定。秀吉の時代になると、1583(天正11)年に秀吉配下の山崎堅家が2万2千石で入った。この時に、三田城は一新されたと考えられる。その後、1600(慶長5)年に有馬則頼が2万石で入封するも、1602(慶長7)年に転封。約20年の空白期間を経て、1626(寛永3)年に松平重直が3万石で入った。
平太夫が三田へ居城を移した際、移転したとされる西方寺
約240年にわたる九鬼氏の支配
そして、寛永10(1633)年に3万6千石で入った九鬼久隆によって三田陣屋が築かれ、明治維新まで九鬼氏の城として機能した。九鬼氏は「無城」の家格だったため城ではなく陣屋が築かれたが、1839(天保10)年、10代・隆国のときに「城主格」に家格が上がり、それを機に三田城と呼ばれるようになったらしい。
九鬼家の菩提寺(ぼだいじ)、心月院。歴代三田藩主の墓石が並ぶ
三田城の築城・改変の時期は諸説ある。台地の先端にあたる有馬高校のあたりには「古城」の地名が残り、現在の三田浄水場あたりに、三田陣屋の前身の城である車瀬城があったと考えられている。三田城はこの車瀬城の一角を大改修する形で築かれたとする説が一般的。車瀬城は荒木氏時代に平太夫が築いた説もあるが、山崎堅家の家臣である車瀬政右衛門が設計したともされる。発掘調査の結果からは山崎氏時代とみられる大きな瓦ぶきの建物の存在が想定され、この時期にかなり大きな城の改変が行われたのは間違いなさそうだ。江戸後期の絵図には天守跡と記されたものがあるようで、いつしかなくなったらしい。
有馬高校の前に残る、堀と土塁
三田城は、三田盆地を南北に流れる武庫川の右岸、現在の市街地に突き出すような河岸段丘の上にある。丘陵の北側は武庫川に浸食され比高約20メートルの崖面となっており、周囲を見渡せば、城が高いところをうまく利用しているのがわかるだろう。東・南側も断崖になっていて、その高低差に驚く。この地は摂津、播磨、丹波を結び、街道が交差する地でもある。支配に適した地であることは明白で、古くから有馬郡の中心地として栄えてきたのはうなずける。三田城は支配者が変わっても重視され続け、中心地を少しずつ変えながら改変が繰り返されたのだろう。
学校になった城の敷地
城のあたりから市街地を見下ろすと、高低差に気づく
寛政年間(1789~1801)の古図を写した「三田古地図」(三田小学校所蔵)を見ると、現在の三田小学校に藩邸だった陣屋が描かれ、四方が水堀で囲まれている。北側には堀を隔てて御用屋敷、その西側に二の丸が描かれていて、この堀の一部が唯一の名残りだ。現在は有馬高校の敷地となっていて、敷地内では井戸が見つかっている。陣屋の南側には大池(三田御池)が広がり、その南側に武家屋敷が並んでいた。また、東側は武庫川との間に町家が並び、武庫川を防衛線とした城下町が形成されていたようだ。三田小学校の校長室の床下には、発掘された台所の一部がそのまま保存されているという。
陣屋北側、現在の三田小学校と有馬高校の間に残る水堀
ところで、九鬼氏と聞いて思い浮かぶのは、九鬼水軍を率いて織田信長や豊臣秀吉のもとで活躍した九鬼嘉隆ではないだろうか。紀伊の九鬼浦出身とされる豪族で、伊勢国司の北畠氏に属した後は志摩を本拠とした。信長の命令で甲鉄戦艦を建造し、毛利水軍を撃破。1592年からの文禄の役での活躍も、よく知られるところだろう。1600(慶長5)年の関ケ原の戦いでは西軍につくも、子の九鬼守隆は東軍につき九鬼家は存続。しかし家督争いをきっかけに分裂し、久隆が三田藩に移された。
陣屋の南側にある大池に、水軍として名を挙げた九鬼一族らしさを感じる。聞けば、水軍としての技術を忘れないように、大池に舟を浮かべて訓練をしたのだという。戦国武将の行く末に思いをはせるのも一興だ。
大池(三田御池)。奥の建物が三田小学校。撮影時は水面が植物で覆われていた
兵庫県指定有形重要文化財の旧九鬼家住宅資料館
(この項おわり。次回は3月9日に掲載予定です)
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■三田城
https://www.city.sanda.lg.jp/shisetsu/176.html(三田市)
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