後藤基次(読み)ごとうもとつぐ

日本大百科全書(ニッポニカ)「後藤基次」の解説

後藤基次
ごとうもとつぐ
(?―1615)

安土(あづち)桃山時代の武将。通称又兵衛(またべえ)。黒田家の臣で豪勇をうたわれた。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役における晋州(しんしゅう)城一番乗りや虎(とら)退治、関ヶ原の戦いの前哨(ぜんしょう)戦となった合渡(ごうと)川渡河戦での武勲などは有名。主君の長政(ながまさ)が関ヶ原の戦いの功で豊前(ぶぜん)中津(なかつ)18万石から筑前(ちくぜん)福岡52万石に増封されたとき、基次も1万6000石を与えられて大隈(おおくま)城主となった。しかしやがて長政と不和になって黒田家を去り、各地を浪々。1614年(慶長19)東西の手切れとなるや、招かれて大坂城に入り、大坂五人衆の一人に数えられた。冬のでは木村重成(しげなり)を助けて、佐竹義宣(よしのぶ)の兵を今福に破り、夏の陣では国分(こくぶ)小松山で松平忠明(ただあきら)、伊達政宗(だてまさむね)らの大軍と激戦のすえ討ち死にした。行年46歳とも56歳ともいう。

岡本良一

『岡本良一著『大坂冬の陣・夏の陣』(1972・創元社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「後藤基次」の解説

後藤基次
ごとうもとつぐ

[生]永禄3(1560)
[]元和1(1615).5.6. 大坂
安土桃山時代の武将。通称は又兵衛,氏房,政次と称する。基国の子。初め播磨三木城主別所氏に仕え,三木城落城ののち,黒田孝高黒田長政父子に従い,九州征伐,文禄・慶長の役に従軍。関ヶ原の戦いののち,戦功により長政より1万 6000石を受けたが,のち長政と意見が合わず浪人,大坂夏の陣には豊臣方に加わり戦死した。江戸時代中期以降,種々の読本,双紙類を通して,豪傑典型として人口に炙した。

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百科事典マイペディア「後藤基次」の解説

後藤基次【ごとうもとつぐ】

安土桃山時代の武将。通称又兵衛。黒田孝高(よしたか)・長政父子に仕えて,九州征伐,文禄・慶長の役,関ヶ原の戦でも武功を立て,黒田家の重臣となった。のち長政にうとんぜられて浪人するうち,豊臣秀頼に招かれて大坂城に入り,大坂冬の陣・夏の陣で勇戦したが道明寺で戦死。

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世界大百科事典 第2版「後藤基次」の解説

ごとうもとつぐ【後藤基次】

1560‐1615(永禄3‐元和1)
織豊政権期の武将。通称又兵衛。氏房,政次ともいう。播磨三木城主別所氏に仕えた新左衛門の子。豊前黒田氏に養われ,孝高・長政父子に仕えた。長政に従って豊臣秀吉の九州征伐,文禄・慶長の役に従軍,関ヶ原の戦にも戦功をあげる。1600年(慶長5)長政筑前移封のとき,大隈城主となる。その後,長政に疎まれ,06年黒田家を出奔細川忠興池田輝政のもとに流寓。藤堂高虎より出仕の誘いを受けたが辞したという。また徳川家康家臣の成瀬正成らからなされた長政への帰参斡旋にも応ぜず,14年豊臣秀頼挙兵に応じ大坂入城,木村重成らとともに鴫野に佐竹義宣の軍を破る。

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