「批判者と議論する必要はない」といえば誰しもおかしいと思うところ、批判者を「差別者」と認定するだけで無敵の論法が完成するので、その誘惑に使い手が逆らえるかというあたりなんだと思います。ここでも「認定するのは誰なのか」問題ですね。
「差別者」にしても議論のなかで偏見に気づいて修正することもあれば、逆に文脈の説明で差別という評価がとりさげられることもある。しかし議論の相手に徒労感をおぼえさせるだけの場合も「差別者」にかぎらずあるだろう。
そもそも一般的に批判を黙殺する権利もあるはずだ。その権利の行使は反論の機会を放棄することでもあり、批判に説得力があれば不利になるだけだ。それは「無敵の論法」ではあるまい。
しかして上記ツイートを引用して賛同したひとりが「EvoPsy(エボサイ)@selfcomestomine」氏。現代ビジネスに「Ore Chang」名義で寄稿*1している科学ライターだという。
「批判者と議論する必要はない」といえば誰しもおかしいと思うところ、批判者を「陰謀論者」と認定するだけで無敵の論法が完成するのでその誘惑に使い手が逆らえるかという辺りなんだと思います。ここでも「認定するのは誰なのか」問題ですね。コロナは風邪は陰謀論ではないとようやく認定されましたが
直前に下記のようなツイートをしていることから実際に「コロナは風邪」論者と考えられ、おそらく意図した皮肉ではないだろう。
「"コロナはただの風邪"と言ってるあいつと一緒にされたくない」という連合心理がここまでコロナ茶番を不毛に長引かせたという総括でいいと思う。ヒトの「あいつらと一緒にされたくない」という動機は非常に強力で、その動機を逆手取って「○○を言う奴は陰謀論」とすればここまでの全体主義ができる。
誤読や虚偽や詭弁を指摘しても再反論や修正をおこなわず、まったく同じ虚偽や詭弁をぶつけつづけるだけの「批判者」と相対した経験が河野氏にどれだけあるだろうか。