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イチロー、バント失敗で生じた波紋とチーム事情

スポーツライター 丹羽政善

8月16日のブルージェイズ戦のこと。マリナーズが3点を追う五回2死1、2塁という場面で、イチローが打席に入った。ヒットなら2点差。長打なら1点差――そんな状況である。

監督の苦言に記者も驚く

しかし、そこでイチローはセーフティーバントを試みて失敗。深めに守っていた三塁の前を狙った打球は、ピッチャー前に転がった。

そういう状況でのセーフティーバントは、メジャーにおいて常識か、非常識か――。試合中の段階で地元記者らから「WHY?」などと、さっそく議論を吹っかけられたが、半ば冗談気味。やはり彼らも長くイチローの野球を見ている。

だから試合後、エリック・ウェッジ監督がそのプレーに対して、「イチローにはバットを振ってほしかった」と苦言を呈したことには、彼らも少し驚いていた。

監督が続ける。

「彼が何をしようとしていたのかは理解できる。チャンスを広げたかったのだろう。三塁手も後ろに守っていたし。1死なら、ありだ。でも、あの2死の場面では、打ってほしかった」

4月に失敗したときには…

そのことは試合中、イチロー本人にも伝えたそうだ。「彼は分かってくれた」とウェッジ監督は話したが、今年4月にイチローが同じような場面で、やはりセーフティーバントをして失敗したときには、こんなことをいっている。

「あれが彼の野球だ。もし、ボールがもう少し左に転がっていれば、同点になっていたかもしれない。あれが彼の野球だ」

そのときのこととの矛盾を指摘していたのは、シアトル・タイムズ紙のラリー・ストーン記者だが、スタンスの違いについてストーン記者は「4カ月以上、マリナーズを指揮してきて、監督は『これは俺のチームだ』ということを示したのだろう」とブログにつづっていた。

記者もどう伝えるか迷い

裏を返せば、4月の時点ではイチローに遠慮があったということか。

いずれにしても、ウェッジ監督の言葉を使って、地元メディアはイチローのプレーをどちらかといえば否定的に伝えたわけだが、どう報じるか、記者の方にも迷いがあった。

たとえばシアトル・タイムズ紙のジェフ・ベイカー記者は、試合後のブログにこう書いている。

「Wedge didn't feel that Ichiro made the best decision.」(ウェッジ監督は、イチローが最善の選択をしたと感じていなかった)

しかし翌朝、新聞にはこう書かれてあった。

「Mariners manager Eric Wedge wasn't happy with Ichiro's choice and spoke to him about it briefly.」(マリナーズのエリック・ウェッジ監督は、イチローの選択に満足ではなかった。そして、彼とちょっとした会話を交わした)

戦術として否定できない面

後者の方が、読者には"監督が怒っていたんだなあ"というニュアンスが伝わるものの、実際の表現としては前者の方が近い気もする。そこまできつい言い方ではなかった。

おそらく、伝え方を迷ったのは、戦術として否定できない面があったからか。確かに、あの場面のバントは、メジャーでは一般的に非常識ととらえられるが、成功しても同じように非難されるか――となると、ためらいを排除できなかったと思われる。

「2死1、2塁」と「2死満塁」。どちらが点が入りやすいかはデータをたどるまでもないが、「The Book」という野球の確率を詳しく調べた本によれば、1999年から2002年までの3シーズンでは、2死満塁なら0.815点の得点期待値があり、2死1、2塁では0.466点。倍ほどの開きがあった。

普通に打てば波風は立たず

かつてイチローは、こうした場面でバントをすることについて「(得点の)可能性を広げようと思ったまで」と話しているが、この言葉はデータでも裏付けられている。

つまり、常識、非常識という物差しではなく、結果次第で評価の変わるプレーだったといえる。

しかし、こうしたセーフティーバントを試みたことで、イチロー個人が負ったリスクは小さくなかった。

成功した場合の称賛と、失敗した場合の非難の度合いを比べれば、どちらが大きいかは想像に難くない。普通に打って凡退した方が、波風が立たなかったはずである。

否定的な意見が多く

案の定、失敗に終わったことで、翌日以降、地元紙のブログの書き込みやラジオなどなどでは否定的な意見が多く、「イチローは200安打を打ちたい。そのために、決まる確率の高い場面で、バントヒットを狙ったのだろう」という見方まであった。よって「自分勝手である」と。

そこまで器が小さかったら、今のイチローはなかっただろうし、人の評価をいちいち気にしていては野球などできないだろうが、非難の矛先がことのほか鋭く向けられたのは、彼の今季の低迷も相まってのことか。

チームトップの年俸(1800万ドル、約14億4000万円)をもらっていながら、打率は3割を大きく下回り、出塁率も3割ちょっと。今年のチーム不振のスケープゴート、不満のはけ口にされても仕方がない。

野球のスタンスに微妙なズレ

また、あのバントからは、やや大げさにいえば、イチローとウェッジ監督の野球に対するスタンスの違いも浮かび上がったわけだが、それをいえば、他の選手と監督の考え方にも、最近は微妙なズレを感じるようになっている。

監督の考えを実戦するのが選手。選手の個性を生かすのが監督。

このバランスの妙が6月までのマリナーズを支えていたような気がするのに、そこにあった緊張感のようなものが消えて久しく、今はどこか冷めたものがある。

それは負けていることによるフラストレーションが要因であると思いたいが、そうでなければ厄介だ。

たかがバント、されどバント――。

なんでもないようにみえて、イチローのプレーからは、チーム状況を巡る多くのことが透けて見える。

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