不機嫌という問題

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感情と感情表現は同一ではない。なんら演技や企みもなく、内心の感情がそのまま表現されるわけがない。たとえば内心で不機嫌であるのと、いかにも不機嫌という様子を露わに見せるのとでは全然違うのである。不機嫌な面をしている人間がいるとしても、それは必ずしも不機嫌な気分の反映ではない。具合が悪くて顔色が真っ青とか、そういう生理的反応とは対極のものである。

わかりやすく言うなら、下っ端が不機嫌になることはない。不機嫌とは「俺様は機嫌悪い」という意思表示だから、誰かが御機嫌を取ることを前提にしており、それが可能な立場の人間が不機嫌になるのである。「不機嫌な態度」は「顔色を窺う」という相手の反応を期待した行為なのである。アダルトチルドレンという言葉は、父親がアル中である場合の子どもの未成熟さの問題から生まれた。父親がアル中であれば、いつ怒髪天を突いて酒瓶を振り回すか警戒を続けなければならない。世間では変わり者と軽んじられている男が、家族という閉鎖空間では大剣を持った偉丈夫として立ちはだかり、緋色の惨劇の幕を開けるのだ。その不安に満ちた環境が扁桃体にトラウマを植え付けるのである。そういう関係構造は、父親がアル中であるケース以外にも拡張されるようになった。碇ゲンドウが碇シンジに接する時の不機嫌さである。父親が怒っている理由がわからないという不可解さが、子どもを不安にさせるのだ。皇帝から廃嫡されるという畏怖。痩せた土壌でも悪意だけは育つ。人格者が気分を害した時とは対極の、正体不明の怒りは、それに傅く立場の人間を底なしの不安に導き、赦免されようにも理由がわからず、廷臣として平伏することだけをおぼえるようになる。馬鹿にされてから怒っても遅いので、理由もなく怒るのが(というより理由がないからこそ怒るのが)王権の基本ではあるのだが、それは容易く狂気に繋がり、対象となった子どもは、自らの人格が壊疽しているから嫌悪されているという結論に帰着するしかない。

昔日の国鉄職員の態度の悪さは語り草となっているが、彼らはとても不機嫌であったのだ。ろくにボタンも掛けず制服を着崩して、まるで賄賂を待つ警官のようなふてぶてしい態度で一日を過ごした。しかし民営化されてJRになったら不機嫌な駅員がいなくなった。感情と感情表現は別なのである。理由も無く不機嫌な面をしていた国鉄職員が、天に召されたわけでもなく同一人物であるのに、わずか一夜にして変貌し、出掛ける前に悪妻と大喧嘩したイライラも隠し、笑顔で丁寧な接客をするようになった。ヤクザのような国鉄職員は食べ放題の店で鯨飲馬食の限りを尽くすように、もう何が理由かわからなくても不機嫌になっていたのである。JRになって憑き物が落ちたのである。そして御機嫌を取る側に転落したJR職員は、不機嫌な客からよく殴られるようになったのだ。

不機嫌アピールする人間は例外なくクズだと言っていいのである。女でも同じである。たいていは上野千鶴子のような気性が激しい身の程知らずのブスである。気位の高い美少女が高飛車に振る舞うのなら萌えるが、本当にハイスペックなお姫様はそういう行動を取らない。アル中やドブスが勘違いしてるのが不機嫌の正体なのである。
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