円朝と俗謡

菊池眞一

 円朝作の俗謡、円朝作品に現れる俗謡についてまとめる。
 第一部では、民謡・端唄・都々逸・大津絵節等の俗謡を扱い、
 第二部では、浄瑠璃系の義太夫・一中・常磐津・富本・清元・新内・河東、長唄とその系統の荻江、その他地唄・上方唄・めりやす等を扱う。

本稿の構成は次のとおりである。

第一部 円朝と俗謡
 第一章 円朝作の俗謡
  第一節 円朝作の都々逸
  第二節 円朝作の端唄
  第三節 円朝作の大津絵節
 第二章 円朝作品に現れる俗謡
  第一節 円朝作品に現れる都々逸
  第二節 円朝作品に現れる俗謡(都々逸以外)
  第三節 円朝作品に現れる民謡・童謡
 第三章 円朝作品に現れる俗謡(歌詞のないもの)

第二部 円朝とその他の俗謡
 第一章 歌詞の出るもの
 第二章 歌詞のないもの




第一部 円朝と俗謡
 第一章 円朝作の俗謡
  第一節 円朝作の都々逸


1.
能いもわるいもこなさん次第とふせまかせたこのからだ(立花や小円太)

杉之本鈍通(仮名垣魯文)撰の次の書(いずれも中身は同じ)の七丁裏に掲載。
  甲:青木元氏蔵『はうた辻占せんべい(序題:端唄辻占選餅)』
  乙:上田図書館蔵『は唄恋の辻うら(序題:端唄辻占選餅)』
円朝は安政2年(1855年)3月21日、橘家小円太から三遊亭円朝となっている。この都々逸はだいぶマセているので、安政元年、小円太(円朝)十六歳の時のものか。
上記甲乙二本は、中身は同じだが、表紙を異にする。甲が初版で、乙は後刷改題本と考える。


2.
光盛舎さく丸編『都々一はうた節用集』(筆者蔵甲本)所載の円朝作都々逸は、

おまへゆへならういつらいめも〔(はうた)みやまのおくのわびずまゐしばかるてわざいとぐるまほそだにがはのぬのさらし〕いとやせぬぞへともかせぎ(浅草 円朝)

というものである。

光盛舎さく丸編『都々一はうた節用集』(筆者蔵乙本)所載の円朝作都々逸は、

こひのしんくにあきかぜもれてこゑもほそるよきりぎりす(三遊亭円朝)

というものである。

いずれも万延元年刊、円朝二十二歳の時のものである。


3.
『三遊春の風俗』(明治十四年)(『円朝全集』第十三巻、八ページ)の「万橘風」には、都々逸が二首出てくる。

 おはづかしい咄だが僕がをかぼれの婦人の所へ
 「橘の其うつり香に万の事がくもりがちなる軒の月
 トどゞ一を書て遣たら あつかましいヘラヘラ坊主めのんこのしやアだのはひ病面だのと人中で恥をかきました
 △コレサそれは君の思ひつきがわるい かういつてやればいゝ「恋にまよへど姿も見せぬヘラヘラヘとも君を幽霊
 ○真平だ またがりがりもうじやといはせやうと思つて

 末尾に「明治十四年初春三遊亭円朝戯作」とあるので、この都々逸も円朝作であろう。円朝四十三歳。

 以上、円朝作都々逸は五首確認できる。若い頃、仮名垣魯文・光盛舎さく丸などと交際があり、都々逸を詠んでいたらしい。




  第二節 円朝作の端唄

1.『話之種』(『円朝全集』別巻二、五七〇ページ)一七ウに端唄の替え歌がある。

  首尾して忍びの葉唄 静岡町名寄歌
ふけりや静岡首尾して忍び おもひをひと宿くるま町 顔見りや嬉しさ増屋町 はたのやうすを宮のさき 紺屋はしみじみ大手町 ゆツくりと出す茶屋町に たがひに心もとけおふて かたいやく束本通り 話し合 やがて気楽な弥ろく町 実と誠の両替町 はなれぬ二人が中の店

2.『話之種』(『円朝全集』別巻二、五九六ページ)六八オにはオリジナルの端唄がある。

  葉唄武州大宮にて作る
(三下り)桔梗刈かや七艸を おふ見やしやんせ此国に 露のなさけが咲きみだれ (本てうし)色香をきそふ其ながめ あかぬ夕間のくれかたに 虫の声々よびさそう 木のまに洩るゝ三日月の 影も冴けき秋のいろ


 『円朝全集』別巻二、七一六ページは「都々逸・端唄」となっているが、端唄について前者(1)のみ掲載され、後者(2)が抜けているのは不審である。



  第三節 円朝作の大津絵節

 国会図書館蔵『〔花柳内幕〕都々一物語』(〔 〕内は角書。明治25年1月26日刊)の冒頭には、円朝の大津絵節と都々逸崩れの唄が掲載されている。

   枕ばなし         三遊亭円朝
ツエ「是は枕の棚おろし芦生の枕が邯鄲で枕慈童は菊の花石のまくらは一ツ家で五斗の生酔樽まくら空気枕は開化にて天下太平高枕一寸昼寝が手枕で三味線枕は応来よ恥かしいのが新枕船底枕はよけれども番をするのはお気の毒「アノ大津画にある通り癪に障は今夜の始末(しぎ)宵に揚つた其時には大風呂敷をヲツピロゲ芸妓(ねこ)や幇間(たぬき)に執(とり)まかれ旦那々々と云れタル派手な遊びも一睡の芦生の夢ぢやねへけれど五斗の様な酔も醒隣床(となり)の痴話を菊慈童野には臥とも宿借なと彼一ツ家に程近き此名代(めいだい)の塗枕名は船底と言けれど女波は皆無(まるで)寄つかず空気枕の煙(けむ)に成一盃喰た手枕で太平楽を極込で况(おま)けに玉が高まくらコレデ明日の会計が足らぬ三筋の応来で馬を牽(ひく)のも虚飾(みへ)でもねへ飛だ初会の新枕ではづかしい目に逢物だなア」と或青楼のふられ客が台詞廻して囁(つぶや)く折 ボーンカチカチ音羽屋アー
  
「破れ寝間着にやぶれ夜着コレモ誰故小枕ゆへ」

 最後の「破れ寝間着に……」が七五七六と都々逸になっていないのが不審であるが、
「破れ寝間着にやぶれ夜着コレモ誰故小枕ゆへ」
というのは、海晏寺(端唄)の次の文句の後半の一部を替えたものであろうか。

アレ見やしゃんせ清玄は破れ衣に破れ傘これも誰ゆえ桜姫

昭和2年『俗謡全集』(日本音曲全集第七巻。表紙は『俗曲全集』)にはこの文句を載せるが、「海晏寺」の【解説】として、

維新前後に流行した端唄の「海晏寺」を、いろいろに作り替て唄つたもので、明治末期に関西地方の花柳界で行はれた。

と記している。

『〔花柳内幕〕都々一物語』所収の他の話は、都々逸ナシの3話を除き、25話が散文の末尾が都々逸で締められている。『都々一物語』全29話の目録は次のようになっている。(括弧内は末尾の都々逸の作者=目録には掲載されていない)

枕噺  三遊亭円朝 ★
三絃の述懐  伊藤専三(シンバシ 小さん)
箱屋の配意  山東京枝(サクラガハ 善孝)
番ひ鴛鴦  為永春水(なかのてう かめ子)
価千金  松琴亭半九(おゝやはた 小紫)
未練  松亭金馬 ★
粋士の三嘆  柳亭秋彦 ★
憎らし想  梅亭化三(三遊亭円遊)
キツカケに落幕  仮名垣魯文(金朝)
雨後の百合  為永春水(燕枝)
桶狭間鳴海軍談  中村福助附吟(中村福助)
助合の猪口  松亭金升〈都々逸ナシ〉
作病のそれ玉  艶の家鳥(よしてう 奴)
曾我  市川左団治附吟(市川左団次)
西南雲晴朝東風  尾上菊五郎附吟(尾上菊五郎)
花すみれ  烏亭焉馬 ★
辻占  柳亭種彦(角海老 金龍)
座敷の受口  為永春暁(イナモト 八雲太夫)
甘ゐ商法  道楽山人(松の家 露八)
一寸と足止  仮名垣魯文(大文字 静江)
琵琶名所月景清  中村芝翫附吟(中村芝翫)
書生の愉快  骨皮道人(蜀山人)
腐れ縁  柳亭秋彦(蜀山人)
火の車  金亭鳥馬(八世 川柳)
野咲の菊  松亭琴升(七世 川柳)
蚤虱の掛合  十返舎一九(五世 川柳)
廓の梅  松亭金水(鉞)
飛だ高野  桂文治〈都々逸ナシ〉
雪降幸兵衛  川村其水〈都々逸ナシ〉

 ★印は末尾の都々逸に作者表記がないもの。その前の文章を書いた人の自作と思われる。したがって、円朝の大津絵節の末尾の唄も、都々逸形式にはなっていないが、円朝の自作と考えてよいのではないか。

 因みに、枕づくしの大津絵節として有名なものは、次のような文句である。

   枕づくし
枕のかづは。さまざまある中に。うたゝ寝枕のひじまくら。西行法師は。哥枕。一夜かり寝の草まくら。たびまくら木枕は。いやよ御寝間のながまくら。夢のまくらやかごまくら。あはぬ其夜は三味線まくら。しんきやと。とがをまくらにあてつけて。ほんに世かゐよすきなおかたのひざまくら(安政四年序『大津画ぶし』。大阪府立中之島図書館蔵)


 なお、『大都会独稽古』(明治27年4月5日。柳派惣連・三遊派惣連著作)は、大津絵節の末尾に都々逸を付したものを64並べたもので、都々逸ばなしの一種といえる。序は会田皆真だが、作者の個人名は出ていない。「枕づくし」もない。


 直接関係はないが、『面白誌』第十七号(明治14年5月5日発行)に、花廼舎まがきが「枕の説」という戯文を書いているので、参考までに掲げる。

   ○枕の説     吉原 花廼舎まがき
世に枕てふものこれを取てあたまを架する時は神慎り体伸ておもふ事もなく慮る事もなししかはあれと枕にも品多くクヽリ枕のやはらかなるには深閨の恨つきず長まくらの油垢には偕老の情ふかし文まくらは傾城買の果。引出しまくらは藪医のものずき旅店の木枕には旅人のつかれを休め別嬪の手まくらにはいかなる夢をや結ぶひぢまくらの楽しみはものしりの上。邯鄲の枕には盧生が妄想を出すと是らは予が枕にくらぶるにあらず枕よ枕よ三伏の暑中午寐の籠まくらには暑さを凌ぎ或は肱枕やぐらまくらつゞみの胴ぎちぎち枕指枕舟底まくら空気ゴムまくら其形は種々なれど用をなすは一なり枕よ枕よ汝いぬるの器にして人の情を知るべからず然れども待宵の遅きには敲れ逢ぬ恋には涙にぬれたゞ汝があづかり知る所にあらずして汝罪を蒙れり汝が薄命いわんかたなしされどもしめやかなる雨の夜鴛鴦のふすまの内比翼の床の上親子にも隠せる事汝ばかりは能く聞つらんおかしき時も有り浦山しき節も有んそをもて罪を被るのさしひきとなすべし予は汝損徳なしとおもふ唯汝を以て寐る事の役となす卑賤の楽は寐るに如かず半時のいびきは天子様もわれわれも菰かぶりもかわらざりけり孟子が浩然の気を養ふといふもたしかに一睡のうちなるべし予今汝に諭示す事あり面白き夢嬉しきゆめうまき夢はさます事なかれおそろしき悲しきゆめは見する事勿れ火事盗人あらば早く告げよ寐言はおかしくも笑ふ事なく人に語る勿れかまへて夫婦喧嘩の得ものとなり人の頭をへこますべからずと云爾


『柳亭遺稿』は、「枕名くさぐさ」として、
入子枕・摺枕・極印枕・革のくゝり枕・畳枕・てり枕・網枕・継足枕・あんぺら枕・花ぬり枕・はりま枕
を挙げる。


 更に無関係だが、清水靖彦『日本枕考』(勁草書房。1991年10月25日)では、次の枕を扱っている。

手枕(肱枕)・膝枕・草枕・菅枕・薦枕・稲枕・かや枕・篠枕・丸太引切枕(丸木引切枕)・角枕・長木枕・黄楊枕・括り枕・箱枕・入り子枕・物入れ箱枕・舟底枕・香枕・撥型枕・陶枕・折畳み枕と飛脚枕・坂枕・紡錘枕(筒型括り枕)・平枕・籐枕・竹枕・空気枕・水枕・最近の新しい枕



 第二章 円朝作品に現れる俗謡
  第一節 円朝作品に現れる都々逸

1.「人の恋路の……」
 『鏡ケ池操松影』(『円朝全集』第一巻、四一八ページ)に出る都々逸は、当時よく歌われたものらしい。

都々一にも有る通り、人の恋路の邪魔する奴は犬に喰れて死ぬがいゝ

 正岡容『小説円朝』では、後半が「馬に蹴られて死ねばいい」となっている。


2.「婀娜は深川……」
2-①
 『業平文治漂流奇談』第六編第六回(『円朝全集』第三巻、六八ページ)
其頃婀娜は深川。勇みは神田。と端唄の文句にも唱ひまして。

2-②
 『月に謡荻江の一節』第七十三席(『円朝全集』第四巻、四三六ページ)
婀娜は深川勇みは神田と云ふ通り

2-③
 『荻の若葉』(『円朝全集』第九巻、四四ページ)
婀娜は深川驕奢は神田」といふ其頃唄の有た位で御座います

2-④
 『名人競』(『円朝全集』第十巻、六三ページ)
是は一体深川の盛つた時分のお話で些と流行後れで御坐いますが其頃《文政十二年》の歌曲の文句にも有ます通り実に全盛な事で全盛は深川勇みは神田ツ子と申まして

 円朝は「端唄」と言っているが、
婀娜は深川勇みは神田人の悪いは飯田町
という都々逸である。
「粋な深川鯔背な神田人の悪いは麹町」という歌詞もある。


3.「旦那お早うと……」
 『鶴殺疾刃庖刃』第八席(『円朝全集』第四巻、一六三ページ)
旦那お早うと両手を突て袴畳むはいつだらうといふ都々一の通りに遣うじやアねへか

 類歌が二首ある。

旦那さんおかへりじやと手に手をついて
(詞)モシお早ふござります
(下ノ句)といふてくらすはいつであろ

(『小歌志彙集』所収。天保二辛卯年秋頃の流行歌)

いきな丸わげゆふきの小袖旦那おはやうと云て見たや
(『小歌志彙集』所収。天保年間の流行歌か)

「おはよう」とは朝の挨拶ではなく、主人の帰宅を出迎える時の言葉。「おはやいお帰りでございます」「おはようお帰り」の略。


4.「紫の緑りの色と……」「色け離れし……」
『英国女王イリザベス伝』(遺稿)(『円朝全集』別巻二、五〇四ページ)は明治十八年作と考えられているが、この中に、小間物屋が都々逸を歌いながら半襟を売る、という場面が出てくる。

ヘイ是は此度新形染御半襟に紅、お白粉、香ひ袋は、香水、油、花かんざしは役者の立役 お求めになる時は役者声色音曲入 どど逸節は思ふお方の辻占せんべい御用は如何で御座る お安う差上げ升。
……
へ、是は当時流行の半襟で厶います。紫と茶で厶い升 中にどど逸が厶い升 紫の緑りの色と私(わしや)思へ共主は茶にして外に染む
……
へ、是は文人画を上方染に墨画の山水で厶い升 どゝ逸 色け離れし墨画でさへも濃と薄む《ママ》が有わいナ

半襟に都々逸が書いてあるわけがないので、都々逸を書いた紙片を添えてあったものだろう。


5.「かわいお方に……」
『心中時雨傘』(『円朝全集』第十二巻、三三四ページ)には、幕末流行の都々逸が出てくる。

其の頃《慶応元年》の流行の唄で「かわいお方に謎かけられて解ざなるまい繻子の帯」といふ唄を……


 梅亭金鵞著『真情春雨衣』初編(安政四年〈一八五七〉か)に、

粋なお前に謎かけられて解かざなるまい繻子の帯

とあり、光盛舎さく丸編『都々一はうた節用集』二編(万延元年〈一八六〇〉)に、いけのはた錦光の作として

おもふおとこになぞかけられてとかざなるまいしゆすのおび

とある。
明治十年刊『よしや武士』には、

よしやどんなに縛らんしても解かざなるまい繻子の帯

という替え歌が見られる。幕末から明治にかけて、かなり流布したものと思われる。




  第二節 円朝作品に現れる俗謡(都々逸以外)

1.端唄
1-①『蝦夷訛』(『円朝全集』第十一巻、一四二ページ)
其時教ツた函館八景の端唄は未だ忘れやせん……斯です エヽ月は立町駒峰の雪よ弁天さんの夕ばえに亀田に落る雁がねの便りに思ひ重ねる七重浜嵐吹しく風も山瀬に帰る帆影のなつかしく水元の夜の時雨にぬれる間もなく浄玄寺の暁の鐘

 『円朝全集』第十一巻注解は、次のように記す。

唄は不詳。幕末以来、函(箱)館山から望む眼下の港内、遠景などが名勝八景として吟味されてきた。箱館奉行堀織部正等による漢詩を収めた『箱館八景扇面図』(函館市中央図書館所蔵)では、「亀田落雁」「称名晩鐘」「水源夜雨」「立待秋月」「駒嶽暮雪」「七重晴嵐」「弁天夕照」「山脊帰帆」。井原辰五郎『最新函館案内』(明治四十年)下編「名所旧蹟」の項は「函館八景」として、開拓使権判官杉浦誠(梅潭)の詩題となった八勝「高龍寺晩鐘」「大森晴嵐」「臥牛山暮雪」「立待秋月」「谷地頭落雁」「公園夜雨」「東風泊帰帆」「旭橋夕照」を挙げる。


1-②『話之種』(『円朝全集』別巻二、五八〇ページ)
四ツの袖と云ふ葉歌に
憂中のならひとしらばかくばかり花の夕べのちぎりとなるも



2.佃節
『堀の青柳』(『円朝全集』第十三巻、二八四ページ)
深川の芸者を船で迎にやる時には佃節と云ふのをやります
唄「吹けよ川風揚れよ簾、中の御客の顔見たや

 昭和二年刊『日本音曲全集第七巻 俗謡全集』(背表紙・扉は『俗曲全集』)は、「京鹿子」の項目で、次のように解説している。

〔解説〕京鹿子とは八首の小唄を組合せた破手の組唄で、最初の二首によつて斯く題されたが、他は何等の連絡もない唄である。流行したのは元禄頃であるが、作曲されたのは他の組歌と同じく寛永時代であつて。第三の「吹けよ松風」は其後種々に作り替へられ遂に佃節となつて、「吹けよ川風」となつて千古の絶唱として、今日尚ほ江戸趣味憧憬者の喝仰措く能はざる小唄として珍重されてゐる。

『円朝全集』第十三巻注解は、次のように説明する。

下の句は「中の小唄の顔見たや」とも。潮来節でも歌われる。「吹けよ川風あがれよ簾 中の小哥の主見たや」(『江戸いたこ本』文政六年〈一八二三〉写。『文献志林』三号、一九三〇年一月)。」

『近世風俗史(守貞漫稿)』(嘉永六年成稿)第二十一の「佃節」の解説は次のとおりである。

天保比より歟或は天保より古き歟江戸深川の妓歌にて当所の名物とし粗不易に似て今に廃せず屋根舟猪牙舟にて是を絃唄すれば其舟自ら迅走すと云最繁絃也「ふけや川かぜあがれよすだれ中の小うたの顔見たや
追書或書云隆達云々頓智ありて何にもあれ題を出す時は即座に文作して唄之其沙汰堂上へも聞へて或年大内へ召る折しも暴風吹立て御簾もあらはに吹上るほどなりしがやゝあつて止みけりこの御ありさまを直に唄へよと仰ありしかは取敢ず「ふけよ山かぜあがれよすだれ中の上臈の顔見たや」御威あつて記せり右の佃節の唱歌は是を聊か作りかへたること必然なり



3.隆達節(投げ節)
『塩原多助後日譚』(『円朝全集』第十二巻、二六一ページ)
真乳沈んで梢乗り込む山谷堀り と隆達節に唄つた通り

『円朝全集』第十二巻注解は、次のように解説する。

 真乳沈んで梢乗り込む山谷堀りと隆達節に唄つた通り 「隆達節」は、堺の薬種問屋に生まれ、諸芸に秀でた高三隆達(一五二七-一六一一)が創始したという近世初期の歌謡。宝永ごろ(一七〇四-一一)まで歌われた。ただしこの歌は、英一蝶(一六五二-一七二四)の作った小歌か。津村正恭編『片玉集前集』に隆達節歌謡(『文禄二年八月宗丸老宛百五十首本』)を写し取った箇所があり、編者自身が書写するに至った経緯を記す中で、「また一蝶も当時洒落いふばかりなき者にして、みづからつくりたる小哥とて世にいひつたへたるものあり、その詞こゝにしるす」として「真乳しづんで木末のりこむ今戸橋、土手のあひがさ、かた身がはりの夕しぐれ。/首尾をおもへばあはぬ昔のほそ布、とふおもふてけふは御ざんした、そふいふ事をきゝにさ」とある。これは「なげふし本調子」ともある。投げ節は近世初期の流行歌。以上、小野恭靖『「隆達節歌謡」の基礎的研究』による。一方で、端唄集の中にも見える。たとえば、端唄の一派のうた沢のものであるが、歌澤能六斎『改正哇袖鏡』(安政六年〈一八五九〉)に、「待乳しづんでこずえにのりこみさんやぼりどてのあひ傘かたみがはりにゆふしぐれ君を思へばあはぬむかしがましぞかしどうしてけふはござんしたさういふはつ音をきゝに来た」との詞章が載る。また、明治十八年刊、柳園美登里編『古今端唄大全』にも同じ詞章が載る。同書は「歌澤家元発起の説」として、端唄の歴史の中で、「泉州堺の顕本寺の住僧隆達坊端唄を好める処より還俗して在家の聟となり其后端唄の一風を唄ひ起せしより世に広く行れ」とする。うた沢は隆達節の流れをくむと捉えられていたものか。

 以上が全集注解である。なお、歌澤能六斎『改正哇袖鏡』よりも前の成立、文政五年序『浮れ草』にも「土手の雨」と題する小唄に、

待乳しづんで小船を乗り出す今戸橋土手の相傘片身がわりの夕時雨君を思へばあわぬ昔がほんにどふ思ふてござんしたそういふ初音を聞に来た(国会図書館蔵『浮れ草』)

とある。

 蜃気楼主人「はうた評釈(第二)」(『日本之文華』第一冊第十八号。明治23年)には、次のようにある。

    片しぐれ 本調子
待乳しづんで。梢にのりこむ山谷堀。土手の相傘かたみがはりの夕時雨。君をおもへば逢はぬ昔しがましぞかし。どうして今日はござんした。さういふ初音を聞きに来た。

待乳沈んでの一句光景画よりも妙なり此唄英一蝶が作なるよし一話一言に見えたり而して其詞今の歌ふ所とは聊違へり左の如し

待乳しづんで。梢にのりこむ今戸ばし。土手のあひがさ片身がはりの夕時雨。しゆびをおもへば。あはぬ心の細布。とふ思ふて今日ござんした。さういふ初音をきゝにさ。

又同書に此歌を評していふ

昌周言、此歌真土山の夕景、波にうつれる梢を乗込む如く舟着て土手に上る途中の体をいらへり片身がはりの着物は其頃の風流歟、それに片時雨をいひかけて、けふの細布むねあはずしてとよめるをいひかけて首尾をおもふまでに途中の義をいひ尽し其次には相逢ての応対の詞を述たり短篇つゞまやかに作れりといふべしと称せり

右にて歌の意明かなるべし但今歌ふ所の君を思へば云々は「逢ひ見ての後の心にくらぶれば」の和歌によりて今調に直せりと見ゆ




4.甚句・浅い川
『心中時雨傘』(『円朝全集』第十二巻、三三九ページ)
浅い川なら膝までまくれ、深くなるほど帯を解くチヽチンチンだ

『円朝全集』第十二巻注解は、次のように解説する。

浅い川なら膝までまくれ…… 座敷踊り「浅い川」の歌詞。一九二五年生まれの芸者増田小夜の手記『芸者』(平凡社ライブラリー、一九九五年)には「浅い川なら 膝までまくる 深くなるほど 帯をとく」とあり、踊りは卑猥な動作を伴う。ここでは遊女と深い仲になって良い思いをしたことを匂わせるノロケ。


以上が『円朝全集』の注解だが、『しんぱん絵入いきなどゝいつ』初編(湯朝竹山人『風流俗謡集』所収)にも、

あさい川なりやひざまでまくるふかくなるほどおびをとく

とある。


 園部三郎は『日本民衆歌謡史考』(1980年。朝日新聞社)37ページに、

文久年間にはやった「角力甚句」は〈浅い川なら帯までまくり 深くなるほど帯をとく〉とうたう。

と記している。文久年間の甚句文献未確認。


5.住吉踊り
『荻江の一節』(『円朝全集』第四巻、四六四ページ)
ヤアトコセエ

『円朝全集』第四巻注解は、

願人坊主の大道芸、住吉踊りの囃子詞。大傘の周囲を、数人で囃して廻るのが本来の芸態。

と説明している。


6.流行唄
6-①『真景累が淵』(『円朝全集』第五巻、三五一ページ)
今の世は逆様だ

『円朝全集』第五巻注解は、次のように説明する。

「おやぢ女郎かう。子はごしやう願[のうこれ]いまのうきよはさかさまよ[ヲヽサほんまのことだにのサヽサヽ」(『江戸よしわら新板かわりもんく』京、阿波屋板。[ ]内は原文二行割り書き)。玩究隠士『色里町中はやりうた』(太平書屋、一九九七年)によると文化・文政(一八〇四―三〇)頃の流行り唄。

『ひねりや』(『円朝全集』第十三巻、二三三ページ)にも、

今の浮世は逆様で、親が女郎買て子が後生願ふ

とある。

6-②『塩原多助後日譚』(『円朝全集』第十二巻、二六三ページ)
桜霧島、難波のさつき歟今宮か抔と申す騒ぎ唄

『円朝全集』第十二巻注解は、次のように説明する。

桜霧島、難波のさつき歟今宮か 幕末・明治初期の名古屋の随筆家小寺玉晁が、文化二年-天保五年(一八〇五-三四)のはやり歌を筆記した『小歌志彙集』に、文政十二年のはやり歌として「桜桐しま山茶花難波のさつきに今見山……」が見える。太平書屋刊『定本・小歌志彙集』参照。


7.俗謡
7-①『熱海土産温泉利書』(『円朝全集』第八巻、四一ページ)
淀の川瀬の水車てヱのは有りますが淀の川瀬のおひや車てエのは有りません

『円朝全集』第八巻注解は、次のように解説する。

 「淀の川瀬の水車……」という俗謡を念頭に置く。「淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると」(『かぶき草紙』慶長〈一五九六-一六一五〉末期-元和〈一六一五-二四〉初頭か。『日本庶民文化史料集成』五巻所収)。「淀の川瀬の水車 ヨウ 誰が繰るやらくるくると」(小寺玉晁『小歌志彙集』下、天保元年の条)。落語『うどんや』にこのクスグリが残る。


7-②『何も商法(十)紙屑のよりこ』(『円朝全集』第十三巻、二五〇ページ)
唄「吾儕(わたしも)此頃零落て紙屑拾」てへのはあるが「紙屑撰(より)になりました」か、


8.尻取唄
『松の操美人の生埋』(『円朝全集』第三巻、一八九ページ)
梅と桜で六百出しヤ

『円朝全集』第三巻注解は、

幕末から流行した尻とり歌「牡丹に唐獅子」の一節「酒と肴で六百出しや気ままよ」をもじったもの。

とする。

『火中の蓮華』(『円朝全集』第十二巻、一三ページ)にも、
梅と桜で六百出しや気儘と云ふ唄があるから

とある。


9.戯れ唄
『にゆう』(『円朝全集』第十三巻、五五ページ)
オヤオヤ労症南瓜の胡麻汁

『円朝全集』第十三巻注解は、

戯れ唄「オヤオヤどうしょう、カボチャの胡麻汁」の洒落。

とする。



  第三節 円朝作品に現れる民謡・童唄

 円朝は諸国を巡った際、その土地の唄を聞いて書き留めている。

1.民謡・麦搗唄(祝賀歌)
『真景累が淵』第三十二席(『円朝全集』第五巻、二八四ページ)
媒酌人が三々九度の盃をさして夫から村で年重な婆アさんが二人来て麦搗唄を唄ひ升 目出度ものは芋の種と申す文句で御坐い升 
目出度ものは芋の種 葉広く茎長く子供夥多にヱ……、
と詰らん唄で夫を婆アさんが二人並んで大きな声で唄ひ目出度祝して帰る

『円朝全集』第五巻注解は、次のように解説する。

麦搗唄 刈り取った麦の穂を扱き落とし、唐竿で打ち、それを臼に入れて杵でつき精麦する際に唄う。作業の苦しさを訴える内容の唄が多い。次に引く「目出度ものは……」は麦搗唄ではない。
目出度ものは…… 高野辰之『日本歌謡集成』十二(春秋社、一九二七年)の東京府・祝賀歌に「目出度いものは芋でそろ、茎長く葉広く、子供数多に」(南多摩郡)。同書の埼玉県・祝賀歌に「めでたいものは、芋の種、葉もしげる、畠でもつくらつくら子が出来る。先づおめでたや、サーサササ」。双方を合わせると酷似する。


2.民謡・機織唄
『霧隠伊香保湯煙』(『円朝全集』第八巻、一四二ページ)
雨が降たり暗かツたりすると誠に織り辛く何か唄が無ければ退屈致します所から機織唄が御坐います 大きな声を出して外飾も無く皆な唄ツて居ります容子は見て居りますると中々面白いもので 
唄「機が織たや機神様よ何うぞ日機の織れるよに」と云ふ唄が有ります 又た小倉織と云ふ織方の唄は少し違ツて居ります 
唄「可愛い男に新田山通ひ小倉峠が淋しかろ」新田の間に小倉峠と云ふ所が御坐います 是は桐生の人に聞きました囃ださうで御坐いますが少し字詰りに云はなければ云へません 
唄「桐生で名高き入山かき揚げに番頭さんの女房に成て見たいと丑の時参りを為て見たが未だに添はれない」トントンパタパタと遣るのですが寔に妙な唄で、

『円朝全集』第八巻注解は、次のように解説する。

唄 以下の唄、底本は「機は織りたや機神さまへ何卒日機が織れるよに」を二席末の正誤文により訂しした。同様に、二つ目の唄の「新田山通ひ」は底本「片山通ひ」を、三つ目の唄の「入山」「番頭さん」は底本「色山」「江戸さん」を訂した。なお『上州俚謡小集』(NHK前橋支局、一九三七年)では二首目のみ採取される(ただし「可愛い男は仁田山通ひ」とする)。また一首目は現代の民謡「吾野機織唄」(埼玉県飯能市)に「機が織れない 機神様よ どうかこの手の あがるよに」として伝えられる。


3.民謡・追分節
3-①『蝦夷訛』(『円朝全集』第十一巻、四一ページ)
北海道で流行る追分節といふ唄を謡ひはじめました其文句は
唄「忍路(おしよろ)高島およびもないがせめて歌寿都磯谷まで
といふので

『円朝全集』第十一巻注解は、「江差追分を指す」とする。

3-②『蝦夷訛』(『円朝全集』第十一巻、四一ページ)
鳥も通はぬ八丈ケ島に遣られる此身は厭はねど
と是れが字余りで
後に残せし妻や子は奈(どう)して月日を送るだろ
と唄ふのを

『円朝全集』第十一巻注解は、次のように説明する。

以下は江差追分ではなく、八丈島の追分。『追分節物語』第四・其三「二上り文句入の部」に、「[追分]鳥も通はぬ八丈島へ[二上リ]「やらるゝ此身はいとはねど、あとに残りし妻や子は、どうして」[追分]月日を送るやら。/(註)○同謡(東京府追分節)」とある([]は原文小字)。


4.民謡・太田甚句
『上野下野道の記』(『円朝全集』別巻二、六三七ページ)
(此所《=太田》の唄の文句)
私は太田の金山でほかにきはないまつばかり


5.民謡・三階節(ヤラシャレ節・おけさじんく・しげさぶし)
5-①明治二十四年九月井上武子宛書簡(『円朝全集』別巻二、七七六ページ)
それより人力車にて柏崎に泊り候時 聞覚し唄の文句 御一笑に
柏崎からしゐやまで 逢ひにあら浜あら砂 あくたの渡しが なきやよかろ
隣から牡丹餅をもらふた きな粉がたらないで旦那の御はらだち ヤラシヤレヤラシヤレヤラシヤレ

(明治二十四年九月)

5-②明治二十四年九月十七日やまと新聞掲載書簡(『円朝全集』別巻二、七七八ページ)
(新潟・片貝村にて)芸妓は小千谷より来れり おけさじんく或はしげさぶしの文句を覚えたれば御笑草に
柏崎からしゐやまで 逢にあら浜あら砂 あくた峠がなきやよかろ ヤラシヤレヤラシヤレヤラシヤレ
隣から牡丹もちをもらふた きなこがたらねへで旦那のお腹立 ヤラシヤレヤラシヤレヤラシヤレ

※今は、「おけさ」といえば「佐渡おけさ」、「しげさ節」といえば「隠岐しげさ節」が有名だが、当時は、いずれもこの地で歌われていたことがわかる。
※現在では5-①②は「三階節」とされている。今の三階節にも「ヤラシヤレ」という囃子がついている。


6.童唄
6-①『業平文治漂流奇談』(『円朝全集』第三巻、五六ページ)
お前はいつも若ひヨ。お月さん幾許
「十三七ツ
が聞いて呆れる

『円朝全集』第三巻注解は、

以下のやり取りは、童謡の「お月さまいくつ、十三七つ、まだ年あ若いな」をふまえて、おさきとおつきとが掛け合いをしている)

とする。

6-②『蝦夷訛』(『円朝全集』第十一巻、三九ページ)
坊主坊主薯蕷ぢやテ

『円朝全集』第十一巻注解は、次のように説明する。

岡本昆石『あづま流行時代子供うた』(明治二十七年。『続日本歌謡集成』五所収)に、「坊主に向つて云ふ/坊主坊主山藷。山ン中で屁を放れた」とある。

6-③『ほし店の道具屋』(『円朝全集』第十三巻、二一二ページ)
道具屋お月さま観て跳る

『円朝全集』第十三巻注解は、次のように説明する。

童謡「うさぎ うさぎ 何見て跳ねる 十五夜お月様見て跳ねる」をふまえた洒落。この童謡は「うさぎ」の題で『小学唱歌』二巻(明治二十五年)に収録。

6-④
〔談話〕『初春の速記』(『円朝全集』別巻二、七〇六ページ)
おひ羽根小羽根酒屋の猫が……


7.遊戯唄
『怪談阿三の森』(『円朝全集』第十二巻、三二〇ページ)
おぢやの塊エツサツサ

『円朝全集』第十二巻注解は、次のように解説する。

子どもの遊び。童謡研究会編『諸国童謡大全』(明治四十二年)に、東京の遊戯唄として「お雑炊(じや)の固まりエツサツサ、お粥の固まりエツサツサ、/肩と肩とに手を懸けて、群童一団となり、斯く唄ふ」とある。



 第三章 円朝作品に現れる俗謡(歌詞のないもの)

1.端唄
1-①『怪談牡丹燈籠』(『円朝全集』第一巻、八六ページ)
其晩源次郎が参り酒宴がはじまり お国が長唄が地で春雨かなにか三味を掻きならし
※「春雨」は端唄。

1-②『後開榛名の梅が香』(『円朝全集』第二巻、一二六ページ)
半六殿はチヨイト三味線の爪びき位が出来。端歌が上手で狂歌をやり。発句がうまかつたから。

1-③『菊模様皿山綺談』(『円朝全集』第九巻、四〇八ページ)
とお座付が済み、跡は深川の端唄で賑やかにやる、

1-④『蝦夷訛』(『円朝全集』第十一巻、一四二ページ)
往はよかツたが復は端唄にある山瀬風といふに出会して

1-⑤『堀の青柳』(『円朝全集』第十三巻、二九六ページ)
夫をポツリポツリと喰ながら小美代さんに爪弾で弾せて渋い錆声でもつてからに端唄をやるがナカナカ旨へゼ

1-⑥『敵討霞初嶋』(『円朝全集』別巻一、三七四ページ)
ナンダ和歌の浦だ、和歌の浦なら端唄だナ



2.デロレン
『怪談牡丹燈籠』(『円朝全集』第一巻、五二ページ)
相助は少し愚者で鼻歌でデロレン抔を唄て居る

『円朝全集』第一巻注解は、

でろれん祭文。俗謡の一種。「でろれんでろれん」と合の手を入れたところからいう。明治時代以降、寄席芸となり、浪花節へと発展した。

とする。


3.チョボクレ
『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二八三ページ)
どうもチヨボクレのやうに裸体へ羽織を着ても歩行ません

『円朝全集』第十巻注解は、次のように説明する。

ちょぼくれ(阿呆陀羅経などに節をつけて謡う俗謡)を謡いながら物乞いをした僧のこと。裸体の上に羽織を着る様子が、ちょぼくれの乞食僧のようだということ。


4.よしこの
『鶴殺疾刃庖刀』(『円朝全集』第四巻、一四八ページ)
引続いて八龍とか小龍とか申す芸子が五人参りまして座附万端規則通りに済まして
「些浮ナはらんか
とよしこのでも唄はうといふ時に


5.相撲甚句
『黄薔薇』(『円朝全集』第四巻、一三四ページ)
或は三味線なしで角力甚句を歌ひ


6.馬士唄・麦搗唄
『真景累が淵』(『円朝全集』第五巻、三〇三ページ)
己れが詰らねへ馬士唄アやつたり麦搗唄は斯う云ふもんだて唄つて


7.音頭・端唄
『塩原多助後日譚』(『円朝全集』第十二巻、二五七ページ)
お酌に音頭とか京の四季とかを踊らせる理由には行きませんから、

『円朝全集』第十二巻注解は、次のように説明する。

「音頭」は、ここでは民謡を源流とする端唄のことか。「京の四季」は上方端歌・端唄・うた沢にあり、『日本音楽大事典』は、作曲者・成立年代とも不詳だが、嘉永二年(一八四九)刊の「大会吾妻諷」が初出かとする。漢詩人中島棕隠(一七七九-一八五六)が作った端唄で、多助とは年代が合わないという指摘がある(倉田喜弘「三遊亭円朝遺稿『塩原多助後日譚』解題」『文学増刊 円朝の世界』)。




第二部 円朝とその他の俗謡

 ここでは、『円朝全集』に現れた、浄瑠璃系の義太夫・一中・常磐津・富本・清元・新内・河東、長唄とその系統の荻江、その他地唄・上方唄・めりやす等を扱う。

 第一章 歌詞の出るもの

1.浄瑠璃

1-①『怪談牡丹燈籠』(『円朝全集』第一巻、三八ページ)
一合取ても武士の娘……

『円朝全集』第一巻注解は、

「一合取っても武士は武士」を踏まえる。浄瑠璃の常套句で、どんなにわずかな禄でも武士には武士の誇りがあり、町人などとは違う、という意味。

とする。

1-②『鶴殺疾刃庖丁』(『円朝全集』第四巻、二五二ページ)
浄るりの文句にござり升前後正体無かりけりと申す様な為様でござりました

『円朝全集』第四巻注解は、次のように説明する。

例えば、清元『明烏花濡衣』(嘉永四年〈一八五一〉)に「狂気の如く心も乱れ、涙の雨に雪とけて、前後正体なかりけり」とある。「前後正体なく」と「泣く」をかけた使い方もある。「そなたの泣きやらふ悲しさに。黙っていたと計にて。一度にわつと戸を上げ前後。正体泣叫ぶ」(『心中宵庚申』享保七年〈一七二二〉)。

1-③『荻江の一節』(『円朝全集』第四巻、四六一ページ)
つひ転寐のころび寐に露のちぎりが縁のはし

『円朝全集』第四巻注解は、

「御所桜堀川夜討」三段目「弁慶上使の段」に、「露の契りが縁のはし。オオ恥かしやつひ、闇がりの転び寝に」とある)

とする。

1-④『荻江の一節』(『円朝全集』第四巻、四六二ページ)
又た逢ふ迄の紀念

『円朝全集』第四巻注解は、次のように説明する。

「生写朝顔話」の「宿屋の段」に「秋月が娘深雪が扇に、某がまた逢ふまでの形見にと、書いて与へし朝顔の歌」、「岸姫松轡鑑」三段目「飯原館の段」に「来国光の守り刀、縁頭は紅葉流し、目貫は金の唐子相撲、また逢ふまでの形見にと渡せば」、「源平布引滝」三段目「九郎助住家の段」に「まためぐり逢ふ印にと、相添え置きたるソレこの剣」など、)

1-⑤『名人競』(『円朝全集』第十巻、一五七ページ)
刀は正宗、差添は浪の平、行安と浄瑠璃の文句には並んでありますが

『円朝全集』第十巻注解は、

浄瑠璃『伽羅先代萩』五に、「指添なれども波の平行安」という言葉が見える。

とする。

1-⑥『花菖蒲沢の紫』(『円朝全集』別巻二、一八九ページ)
成は否(いや)なり思ふはホイならアず
ト節を附て語る
伊「宗匠 浄るりは大分上達だの


2.長唄
2-①『鶴殺疾刃庖丁』(『円朝全集』第四巻、一五九ページ)
後ろの地方で
「松一ト木替らぬ色の印迚今も栄に在原のかたみの烏帽子かり衣着つゝなれにし俤とうつし絵島の浦風にゆかしきつてを白浪の寄する渚に世を送るいかに此身が海士じやといふてしんきしんきに袖ぬれて
……
「いとま申て帰る波の音のすまの浦かけて村雨と聞しも今朝見れば松風ばかりや残るらん松風の噂は代々に残るらん
ト唄ひ終りまする

『円朝全集』第四巻注解は、

長唄『汐汲』の詞章。文化八年(一八一一)江戸市村座初演の七変化舞踊『七枚続花の姿絵』の一つ。

とする。

2-②『塩原多助後日譚』(『円朝全集』第十二巻、二五七ページ)
「松の太夫の裲襠は蔦の模様の」ト例の長唄の老松の座附が済むと

『円朝全集』第十二巻注解は、

長唄の老松の座附 謡曲『老松』によって作られた祝儀曲で、各種あるが長唄の『老松』は文政三年(一八二〇)、四代目杵屋六三郎作曲。

とする。


3.今様
『菊模様皿山奇談』(『円朝全集』別巻二、七一ページ)
「○七尺の屛風も踊らばなどか越へざらん、羅綾の袂も引かばなどか切れざらん」と今様一さし奏でしが、


4.メリヤス
4-①『荻江の一節』(『円朝全集』第四巻、三〇九ページ)
折柄聞へ升メリヤスは
色見えで うつらふものは世中の 知るもよしなや身の上を

『円朝全集』第四巻注解は、次のように説明する。

『めりやす六歌仙』(伊賀屋勘右衛門板)に「小町」があり、「三下り 色見へてうつろふものは世の中をしるもよしなや身のうへを」とある。古曲鑑賞会編の『河東節荻江節歌詞集』(一九四九年十二月序)にも同文があり、現行曲。歌詞は小野小町の詠歌「色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける」(『古今和歌集』)による。

4-②『荻江の一節』(『円朝全集』第四巻、三一〇ページ)
此時又も聞ゆるメリヤスは
あかし兼たる春の夜の 夢にも憂を忘れじと

『円朝全集』第四巻注解は、

「小町」(三〇九頁「色見えで……」の注参照)で「あかしかねたる春の夜の 夢にもうきをわすれじと」と続く。

とする。

4-③
『花菖蒲沢の紫』(『円朝全集』別巻二、二〇二ページ)
めりやす〽夜や寒し ころもやうすき ひとつ寐の ゆめもやぶれてうつとりと すゞり引よせする墨の おとさへしのぶ閨の文

4-④『円朝手記 荻江露友之伝』(『円朝全集』別巻二、四四七ページ)
めりやす 色見へでうつろふ物は世の中のしるもよしなや身の上を
めりやす あかしかね春の夜の夢にもうきをうきをわすれじと


5.富本節
『操競女学校』(『円朝全集』第六巻、三六四ページ)
十九や廿歳は色盛りと云ふ譬の通り艶麗い盛りだナア、

『円朝全集』第六巻注解(四六二ページ)は、

富本節「年朝嘉例寿」の一節。「あだと色とをこいむらさきの十九やはたちはいろざかり」。
とする。


6.上方歌
6-①『黄薔薇』(『円朝全集』第四巻、一〇六ページ)
上方歌の鳥辺山
「一人り来て 二人り連れ立つ極楽の 清水寺の鐘の声。

『円朝全集』第四巻注解は、次のように説明する。

近松門左衛門作詞、湖出金四郎作曲、岡崎検校改調とされる二上り芝居物の地歌。宝永三年(一七〇六)都万太夫座上演の『鳥辺山心中』の道行曲を地歌にしたもの。「ひとりきて。ふたりつれだつごくらくの。清水でらのかねのこゑ」と唄い出され、「ぎをんばやしのむらがらすかあいかあいのこゑきけば。ちゝはゝのこと思ひだす」という詞章があり、「はやてらでらのかねもつきやみよはしらじらととりべやまにぞつきにける」(『増補大成糸のしらベ』)と唄い終わる。

6-②『黄薔薇』(『円朝全集』第四巻、一〇七ページ)
父母の事思ひ出す 早寺々の鐘もつき やみ夜はしらじらと鳥辺山にぞ着にける。

6-③『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二三三ページ)
どうか旦那の上方唄を伺ひたい、花も雪も払へば清き袂哉といふのを伺ひたい

『円朝全集』第十巻注解は、次のように説明する。

地唄の名作とされる「雪」の冒頭の歌調。「雪」は、天明・寛政期(一七八一―一八〇一)に峰崎勾当(生没年未詳)作曲。川村羽積(?―一八一二)作詞。ここでは大石内蔵助の作としているが不明。大石の作と伝えられる地唄には他に「里景色」「狐火」がある。


7.清元
『菊模様皿山奇談』(『円朝全集』第九巻、二三六ページ)
清元の上るりにアノ川端へ祖師さんへ抔と申す文句のござりますのは

『円朝全集』第九巻注解(四四四ページ)は、

清元『袖浦誓仲偕』(文化八年〈一八一一〉初演)の詞章「アノ川ばたの祖師さんへ日にせんべんのお題目」をふまえる。
とする。





 第二章 歌詞のないもの

1.長唄
1-①『怪談牡丹燈籠』(『円朝全集』第一巻、八六ページ)
其晩源次郎が参り酒宴がはじまり お国が長唄が地で春雨かなにか三味を掻きならし

1-②『鶴殺疾刃庖丁』(『円朝全集』第四巻、一五六ページ)
老松や喜撰

『円朝全集』第四巻注解は、次のように説明する。

いずれも長唄、清元の曲名。『老松』は文政三年(一八二〇)四代杵屋六三郎作曲で、お座敷長唄の先駆け。『喜撰』は天保二年(一八三一)初演の歌舞伎の五変化舞踊『六歌仙容彩』内の清元、長唄。

1-③『鶴殺疾刃庖丁』(『円朝全集』第四巻、一五九ページ)
老松とか長生とか雛鶴三番とか申す芽出度事を舞で有う

『円朝全集』第四巻注解は、

清元『長生(栄能春延寿)』、長唄『雛鶴三番(雛鶴三番叟)』のこと。

とする。

1-④『荻江の一節』(『円朝全集』第四巻、二七五ページ)
其時鷺娘を一段唄ひますと如何にも声が能く節が上手で

『円朝全集』第四巻注解は、

長唄の曲名。宝暦十二年(一七六ニ)四月江戸・市村座で、瀬川菊之丞の五変化舞踊「柳雛諸鳥囀」のひとコマとして初演。

とする。

1-⑤『荻の若葉』(『円朝全集』第九巻、一五ページ)
其中で長唄を唄て居ましたが

1-⑥『名人競』(『円朝全集』第十巻、三ページ)
長唄でも、清元の師匠でも、常磐津の師匠でも

1-⑦『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二三九ページ)
長歌の紅葉狩

『円朝全集』第十巻注解は、次のように説明する。

本名題「色見草月盃」。初世杵屋正次郎(?―一八〇三)作曲、安永五年(一七七六)初演。四行後の「立舞や」はこの唄の出だし「物思ふ立ちまふべくもあらぬ身の、袖うちふりし心まで」(『声曲文芸叢書二 長唄集』)による。)

1-⑧『明治の地獄』(『円朝全集』第十三巻、九三ページ)
夫から豊前太夫が来ました、富本上るりに庄五郎が来ましたので長唄の出囃が有升
『円朝全集』第十三巻注解は、

二代目松島庄五郎(一八三三―九〇)。幕末・明治期の長唄唄方。

とする。


2.清元
2-①『鶴殺疾刃庖丁』(『円朝全集』第四巻、一五六ページ)
老松や喜撰

『円朝全集』第四巻注解は、次のように説明する。

いずれも長唄、清元の曲名。『老松』は文政三年(一八二〇)四代杵屋六三郎作曲で、お座敷長唄の先駆け。『喜撰』は天保二年(一八三一)初演の歌舞伎の五変化舞踊『六歌仙容彩』内の清元、長唄。

2-②『鶴殺疾刃庖丁』(『円朝全集』第四巻、一五九ページ)
老松とか長生とか雛鶴三番とか申す芽出度事を舞で有う

『円朝全集』第四巻注解は、

清元『長生(栄能春延寿)』、長唄『雛鶴三番(雛鶴三番叟)』のこと。

とする。

2-③『名人競』(『円朝全集』第十巻、三ページ)
長唄でも、清元の師匠でも、常磐津の師匠でも


3.一中節
3-①『松の操美人の生埋』(『円朝全集』第三巻、一八八ページ)
狂歌師談洲楼焉馬の弟子で馬作といふ男、……一中節を少し呻るので、

『円朝全集』第三巻注解は、

浄瑠璃節の流派の一つ。十七世紀末に、京都の都太夫一中がはじめたとされる。上層階級に好まれ、江戸を中心に栄えた。

とする。

3-②『黄薔薇』(『円朝全集』第四巻、四ページ)
芸と云と三曲は勿論茶を立て歌を詠み 挿花発句上がた歌に一中節が出来て 

3-③『荻江の一節』(『円朝全集』第四巻、二八五ページ)
へイ今晩亀井戸の巴屋に一中節の順講が御坐い升

3-④『粟田口笛竹』(『円朝全集』第七巻、八六ページ)
持物が本筋で声が美くツて一中節が出来ると云ふのだから

3-⑤『荻の若葉』(『円朝全集』第九巻、五ページ)
河東節或ひは一中節の三味線を能く弾き荻江節も中々上手だツたと云ひます

3-⑥『名人競』(『円朝全集』第十巻、五ページ)
河東節も一中節も巧妙で、

3-⑦『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二三一ページ)
善兵衛の富本 宗匠の一中節 御主人公の河東などを伺って御酒を頂くといふ是ほど結構な事は御坐るまい。

3-⑧『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二三三ページ)
宗匠 久しぶりで一中節を伺がひませうぢやアないか、何か賤機を……

『円朝全集』第十巻注解は、

一中節の「賤機帯(峰雲賤機帯)」。壕越二三治作詞。宮崎忠五郎作曲。宝暦元年(一七五一)初演。

とする。

3-⑨『蝦夷訛』(『円朝全集』第十一巻、二八ページ)
一中節が少し出来るが

3-⑩『応文一雅伝』(『円朝全集』第十一巻、三〇八ページ)
P308
蛭子講だとか、一中節の凌ひでもあると、

3-⑪『離魂病』(『円朝全集』第十一巻、三五〇ページ)
一中節を唸つて、絹洗から、童子対面までやつた時には

『円朝全集』第十一巻注解は、

一中節の曲名『頼光衣洗段』『頼光童子対面段』。近松門左衛門の浄瑠璃『酒呑童子枕言葉』(宝永四年〈一七〇七〉九月、大坂・竹本座初演)の調章を取り入れた曲。

とする。

3-⑫
『離魂病』(『円朝全集』第十一巻、三六二ページ)
一中節の門付


4.上方歌
『黄薔薇』(『円朝全集』第四巻、四ページ)
芸と云と三曲は勿論茶を立て歌を詠み 挿花発句上がた歌に一中節が出来て


5.荻江節
5-①『粟田口霑笛竹』(『円朝全集』第七巻、二二六ページ)
花魁が船中で琴を弾き千蔭先生が文章を作り稲舟といふ歌が出来まして二代目名人荻江露友が手をつけて唄ひました、

『円朝全集』第七巻注解は、次のように説明する。

稲舟 めりやすを荻江節に移したもの。『古今集』東歌「最上川上れば下る稲舟のいなにはあらずこの月ばかり」を始めに置き、静かに男を想う女心を唄ったもの。荻江節の秘曲。『古今の今』(古典会監修、竹内道敬解説)「荻江節」に収録される。

5-②『荻の若葉』(『円朝全集』第九巻、三ページ)
荻江節と云ふもの

5-③『荻の若葉』(『円朝全集』第九巻、五ページ)
河東節或ひは一中節の三味線を能く弾き荻江節も中々上手だツたと云ひます

5-④『名人競』(『円朝全集』第十巻、一六ページ)
荻江節で其頃ろ流行た八島と云ふ歌曲で、

『円朝全集』第十巻注解は、

内容は源平合戦に取材したもので、地唄から荻江節に取り入れた曲(竹内道敬「曲目解説」『荻江節考』コロムビア。大西秀紀氏のご教示による)。

とする。

5-⑤『名人競』(『円朝全集』第十巻、八〇ページ)
荻江節河東節抔と云つても


6.河東節
6-①『荻の若葉』(『円朝全集』第九巻、五ページ)
河東節或ひは一中節の三味線を能く弾き荻江節も中々上手だツたと云ひます

6-②『名人競』(『円朝全集』第十巻、五ページ
河東節も一中節も巧妙で、

6-③『名人競』(『円朝全集』第十巻、八〇ページ)
荻江節河東節抔と云つても

6-④『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二二八ページ)
河東節が十寸見可慶の御弟子で飽迄甘い

6-⑤『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二三一ページ)
善兵衛の富本 宗匠の一中節 御主人公の河東などを伺って御酒を頂くといふ是ほど結構な事は御坐るまい。

6-⑥『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二三三ページ)
どうか御主人の河東節を一段伺ひたい……

6-⑦『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二三五ページ)
お前が此処で富本の浅聞をやったを聞くと
(全集注解:富本節の『其俤浅間嶽』の略称。安永八年(一七七九)初演。


7.薗八節
『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二三八ページ)
園八の桂川

『円朝全集』第十巻注解は、

薗八節(宮薗節)の代表曲「桂川恋の柵」(初代宮薗鸞鳳軒〈生没年不明〉作)のこと。

とする。


9.清元
9-①『名人競』(『円朝全集』第十巻、三ページ)
長唄でも、清元の師匠でも、常磐津の師匠でも

9-②
『塩原多助後日譚』(『円朝全集』第十二巻、二四八ページ)
彼清元の梅の春に「首尾の松が枝竹町に渡し守身も時を得て」抔と申す文句が有まして

『円朝全集』第十二巻注解は、

彼清元の梅の春 「梅の春」は清元の祝儀物の代表的な曲。四方真門(長州侯毛利元義)作詞、作曲は異説があるが川口お直。文政十年(一八二七)の作と言われる。

とする。


10.常磐津
10-①『円朝全集』第七巻
粟田口霑笛竹(五二ページ)
抑突出しの初めからと云ふ文句が有り升から大きい花魁が万事突出し女郎の支度をして遣るんださうで

『円朝全集』第七巻注解は、次のように解説する。

抑突出しの初めからと云ふ文句 常磐津『恨葛露濡衣』(通称『小夜衣』、二代目河竹新七作、文久二年〈一八六二〉守田座初演)の詞章で、「そも突出しの其日より、廓馴れぬ身にしみじみと惚れて起請の書様も弄られながら朋輩に聞て書くよの墨の色」と続く(吉田章一氏御教示による)。

10-②『名人競』(『円朝全集』第十巻、三ページ)
長唄でも、清元の師匠でも、常磐津の師匠でも

10-③『塩原多助後日譚』(『円朝全集』第十二巻、二五七ページ)
此方は富本の浅間が出ると向ふの隅で常磐津の将門が出る 或ひは震ひ声の一中節もあり……

『円朝全集』第十二巻注解は、
富本の浅間 本名題『其俤浅間嶽』。安永八年(一七七九)七月、江戸・市村座初演。『世善知鳥相馬旧殿』のうち。宝田寿助作詞、五代目岸沢式佐作曲。

とする。


11.富本
11-①『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二三一ページ)
善兵衛の富本 宗匠の一中節 御主人公の河東などを伺って御酒を頂くといふ是ほど結構な事は御坐るまい。

11-②『八景隅田川』(『円朝全集』第十巻、二三五ページ)
お前が此処で富本の浅聞をやったを聞くと
(全集注解:富本節の『其俤浅間嶽』の略称。安永八年(一七七九)初演。

11-③『塩原多助後日譚』(『円朝全集』第十二巻、二五七ページ)
此方は富本の浅間が出ると向ふの隅で常磐津の将門が出る 或ひは震ひ声の一中節もあり……

『円朝全集』第十二巻注解は、

富本の浅間 本名題『其俤浅間嶽』。安永八年(一七七九)七月、江戸・市村座初演。『世善知鳥相馬旧殿』のうち。宝田寿助作詞、五代目岸沢式佐作曲。

とする。

11-④『明治の地獄』(『円朝全集』第十三巻、九三ページ)
夫から豊前太夫が来ました、富本上るりに庄五郎が来ましたので長唄の出囃が有升
『円朝全集』第十三巻注解は、

四代目富本豊前太夫(一八三〇―八六)。富本節の家元。

とする。


12.新内
『書簡』(『円朝全集』別巻二、七八三ページ)
其時下道を通る新内語りを御招ぎにて ふじ松節の御馳走「藤かつら白木やの上」二段 西京の婦にて「小勝梅吉」と申別品なり
(明治二十五年九月二十五日)





菊池眞一
2016年12月19日公開
2016年12月20日増補改訂
2017年1月5日増補改訂
2017年1月10日増補改訂
2017年2月28日増補改訂


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