キチガイどもの代表者である韓さんよ、以下を既に読んでるな!貴様らの真の姿だ!キチガイどもの本当の歴史だ!在日の朝鮮史美化運動家のせいで日本人の目は、ごまかせても、素直な外国人の目は、騙せないぞ!

朝鮮幽囚記録 ヘンドリック・ハメル
(これに関しては、小川教授の論文が非常に参考になる)

悲劇の朝鮮 アーソン・グレブスト
(実際には訪問していないようであるが、キチガイどもは何故気づかないのだ?)

朝鮮事情 C・ダレ
(恐らく、これが最も正確に記述している)

朝鮮紀行 イザベラ・バード・ビショップ
(別ブログで詳細メモ。)

1970年に韓国で出版され、1976年に平木眞氏のよって日本語に訳され出版。
どこの国でも自国の歴史を誇りたがる傾向があるが、この600ページを超す大書は、その傾向があまりにも強く、既に1970年時点で、韓国国内では、バカげた「歴史自慢」が蔓延し、かつ、我々は一貫して被害者であり、侵略者に長期間抵抗し続けたという認識が一般的であったことが良く分かる。韓国人にとって、歴史学者ですら、歴史は、ファンタジーに過ぎないと断言できる。

この歴史書によって、韓国人が書いた朝鮮史の書籍・論文は、無意味であることが鮮明になった。在日朝鮮人による朝鮮史歴史書と概ね同じである。中国側資料によるしかないが入手が困難だ

ただし、中国正史と朝鮮王朝実録は、この中国のサイトで検索できる

p38
この古朝鮮地域には、漢の郡県が設置されることになった。前108年に3郡、その翌年に1郡、合計4郡が設置された。郡の下には県がおかれた。
古朝鮮が漢の水・陸の大軍を迎撃し、はじめはこれを撃退して、1年間も防衛しぬいたことはその土着社会の勢力基盤が非常に兄弟であったことを意味する

p39
楽浪郡の勢力は次第に委縮していったとはいえ、設置後400年もの間、古朝鮮地域の中心部で存続できたわけあるが、
高句麗の勢力によって駆逐され、消滅してしまった

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漢の収奪とその影響
漢人たちは楽浪郡を通じて魚・塩・鉄・木材・農産物などを収奪し、労働力を強制的に挑発した
楽浪郡の管理人や商人たちは、こうした収奪経済と当時高度に発達していた漢の文物を利用して、ぜいたくな生活を享受することができた

p50
紀元前4・3世紀から3世紀ごろにかけて、極めて緩慢ではあったが、この南韓地域に次第に部族勢力が成長しつつあった
こうして形成されたのが、俗に三韓と通称されている馬韓・辰韓・弁韓の諸部族社会であった
馬韓には50余部族が、辰韓・弁韓にはそれぞれ12の部族が散在して居住し、全地域には合わせて70余の部族社会が形成されていたとみられる
(3つ合計で、14万戸程度している。本当であれば、人口は70万~80万程度である。15世紀に、人口は200万程度と後で記述している)

p81
慶州の
古墳からは5世紀から6世紀までの王族や貴族たちの華麗な副葬品が多数出土している
(同じように金を使用した優れた工芸品が、私の知る限り、新羅以降の朝鮮半島には一切ないことから、新羅の出土品は、楽浪郡で製造された工芸品を新羅の王族が、使用していたと断定してほぼ間違いない。要するに、新羅で作られたものではない)

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p84
高句麗の隋軍撃退
高句麗・百済・新羅の三国が鼎立する形勢を示し、一進一退を繰り広げていた5~6世紀には

高句麗の唐軍撃退

(上記のように小見出しをつけて述べているが、高句麗は、ほぼ確実に、現在の朝鮮人どもとは、遺伝的には、異なる。この点については、異論は出ていない。一般にはツングース系とされている)

p86
高句麗と隋・唐との戦争は、東アジアの覇権を争う一大決戦であったわけである

(図書館で借りたこの本には、このあたりから、在日朝鮮人と推定される者が、鉛筆でさかんに書き込みしている。いい加減にしろ!)

p89
高句麗の国力は衰退していた
60余年間にわたる隋・唐との戦争によって、人民の生活は破綻に直面し、国家の財政は蕩尽していた。

p90~93
唐勢力の駆逐と三国統一
735年
ここに新羅の半島統一は成就された

p107
新羅の三国統一は、大同江以南の高句麗の旧領土を兼併しただけにとどまったので、その以北の広大な高句麗の旧領は唐の支配下に入った

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p108
渤海国は、自ら高句麗の後継者であると自認し、時には自ら高麗国と称していたことさえあった

p109
渤海はその後927年に契丹に滅ぼされた。
こうして我が国の歴史上、南北朝時代とも言うべき渤海と新羅との共存時代は、約2世紀ぶりにここに終末を告げ、渤海が滅亡すると同時に、満州は、わが民族の歴史の舞台から消えていった
(赤字部分は、いくら何でも、酷すぎる。キチガイそのものである)

p115
統一新羅の文化の中で、最も後世に長くその光彩を放ったものは、美術であった。現在もなお慶州一帯に残されているこの時代の美術品は、優れた製作技術と高尚な美的感覚にあふれているので、見る人を驚嘆させている。この新羅人の芸術活動は、ほとんどが仏教の影響によって形成されたもので


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p135
新羅の王は、
王建に投降してきた(935年)
分裂していた国土は、再び一つに統合されることになった。(936年)

p150
契丹の第一次侵入と撃退

契丹の第二次侵入と撃退
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よく出てくる長城とは、単に国境線を意味するに過ぎない

契丹の第三次侵入と撃退

(太字にしているのは、いずれも小見出しだからだ。彼らの特異な被害者意識が良く分かる。
ちなみに、日本人の教授様によれば、「北方に契丹が興ると、高麗は三度その侵攻を受けて、一時は国都開城を占領され、契丹の冊封を受けた」そうで、撃退など全然していない)

p173
武臣政権の成立
(崔氏武臣政権について述べているのみ)

p182
1227年オゴタイは東方に対する侵略を開始した
このとき彼は部下の徹礼塔に別動隊を与えて高麗に侵攻させた
モンゴル軍が撤退した後、モンゴルは巨額の貢ぎ物を高麗に強要した。
(事実は、確実に順序が逆である。思考能力があるのだろうか?)

モンゴルは、「達魯花赤」と呼ばれる72人のモンゴル人の監督官を全国の要地に駐屯させた

長期抗戦を決意して首都を江華島に移した(1232年)
陸地の一般の民衆に対しては、山城や島々に避難するように命令した

1232年12月、徹礼塔は、高麗に対する第二次侵攻を開始した
徹礼塔が、高麗の僧金充侯に殺害されたので、モンゴル軍は士気を失って、北方に撤退した
(これがキーポイントである。暗殺者は英雄)

モンゴル軍の侵略は、その後の30年間、前後7回に割って繰り返された
第三次1235~1239,、第4次1251、第5次1254~1255、第6次1255、第7次1257

高麗はついにモンゴルの鮒馬(女婿)になってしまった

【ここからは、このキチガイの書籍からの引用ではなく、元史から】

http://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm

この中国語サイトで、中国の正史原文は検索できる、以下は、元史からのみ
①十三年(略。太祖13年。在位:1206年 - 1227
是年,伐西夏,圍其王城,夏主李遵頊出走西涼。契丹六哥據高麗 江東城,命哈真、札剌率師平之; 高麗王(てつという漢字)遂降,請歲貢方物。

チンギスカンが征西に出る前に既に 高麗王(てつという漢字)遂降,請歲貢方物
であり、朝貢関係にあったのだ!在日朝鮮人の自称歴史家は、このことを全然書いてない!!!この時点で、降伏している。ただし、元史は中国の正史の中で最も評価の低いものであり、かつ、この頃、まだモンゴル最大の強敵「金朝」はまだ一応健在であり、他の1次資料との突合が必要であるが、名古屋大学教授の小山氏は、「東アジアの変貌」の中で次のように書いており、上記の元史の記述をそのまま使用している。しかし、このキチガイは完全に無視している

「チンギスハンが金の燕京を攻略すると満州での金の支配体制は崩壊した。これに乗じて、モンゴル軍は満州を制圧して高麗の北部に侵入し高麗を屈服させた。その後、チンギスハンの西征により高麗への軍事的圧力は一時緩んだが、」

②三年(太宗=オゴタイハン。在位1229年9月13日 - 1241年12月11日
秋八月,(略)是月,以高麗 殺使者,命撤禮塔率師討之,取四十餘城。 高麗 王遣其弟懷安公請降。

高麗 王遣其弟懷安公請降。で、偽物?の弟まで差し出して降伏を請うている

中国側正史からみれば、単なる反逆に過ぎない。ただし、元史は一番いい加減なようだが・・・
撤禮塔が40もの城を攻め落としたようだが、朝鮮半島に侵攻してきたのは、元寇と全く異なり、本物のモンゴル軍だったはず?だ。在日朝鮮人の朝鮮に関する歴史創出家連中は、撤禮塔が40もの城を攻め落とした」ことを知っているはずだが、その旨一切書いていない。

③四年(太宗=オゴタイハン。在位1229年9月13日 - 1241年12月11日
夏四月,出居庸,避暑官山。高麗 叛,殺所置官吏,徙居江華島。

八月,撒禮塔復征 高麗,中矢卒。金參政完顏思烈、恒山公武仙救南京,諸軍與戰,敗之。

高麗は、元が監視に残した官吏を殺して、2年続けて、元に反逆したようだ。江華島に本拠を移したのは本当である

太宗7年
唐古征高麗

太宗13年
秋,高麗國王王綧以族子綧入質
(人質に差し出した、この国王の子は、偽物であった。はっきりと「人質」である)

⑦憲宗2年(憲宗は、在位1251年 - 1259年)
冬十月,命諸王也古征高麗

憲宗3年
罷也古征高麗 兵,以札剌兒帶為征東元帥。

命宗王耶虎與洪福源同領軍征 高麗,攻拔禾山、東州、春州、三角山、楊根、天龍等城。

憲宗4年
夏,幸月兒滅怯〔土〕之地。遣札剌亦兒部人火兒赤征高麗

憲宗5年

是歲,改命劄剌(漢字1字)與洪福源同征高麗 。後此又連三歲,攻拔其光州、安城、

憲宗8年
三月,命洪茶丘率師從劄剌(漢字1字)同征高麗

(元朝は、宮廷他で中国歴代王朝で最も奴隷の多かった王朝だ。推測だが、その多くが、高麗人だ。しかも、高麗の奴婢ではなく、高麗の常民や高位者を奴隷に差し出すことを何回も数千人単位で要求された可能性が高い。武田氏の高麗史の解説にも記載があったはずだ。だからこそ、高麗は、降伏後も元に対し反逆せざるをえなかったのだ。多分これで間違いない。

【ここで元史から抜粋終わり】

p184
1259年、
降伏の意思を表示し、
翌年(1260)太子がモンゴルから帰国して王位を継いだ

(このあたりの記述は、他の歴史書と一致するので細部省略。ただし、抵抗を非常に強調している。
何よりも酷いのは、この記述では、この時点で、初めて降伏したことになる。歴史の偽造レベルではなく、創出だ!酷すぎる!明らかに2回も人質を差し出しており、元史が正しければ、既に、チンギスカン存命時に降伏している。少なくとも、国王の子を人質に差し出した太宗13年に完全降伏している

p189
二度にわたるモンゴルの日本侵略によって、高麗人が被った人名・物質の損失は言語に絶するほど巨大なものであった

p220
高麗磁器は、その形態(線)と色彩、文様から生まれる洗練された美しさのために、古くから絶賛を浴びてきた。

【キチガイどもよ!嘘をつくのもいい加減にしろ!「下賎の者が作ったものの価値を見出した」のは、貴様らが言う日帝強占期の日本人だ!若林美智子さんの著作から
柳宗悦氏は
李朝陶器への系統は大変なもので
朝鮮民族美術館の設立を成し遂げました。当時半島の人々は古美術などにあまり関心はなかったようです。
柳宗悦氏たちが朝鮮民族美術館設立を思い立った頃、半島側からの思いがけない反対に出会ったということです。下卑の人々が作った品々で朝鮮の美などと語ってもらっては甚だ迷惑だということでした
半島では明器(副葬品)や古い物、汚い物、破損品には鬼神がつくと古くから信じられ、忌み嫌われていたのです。


p281
15世紀における人口の総数は、約200万人内外であったと推測される
(決定的に重要な記述で、これが本当なら、モンゴル侵攻時に、人口の半分が消滅したはずだ)

p311
1636年
清軍は南漢山城を包囲する一方、江華島を攻撃した。
45日目に清軍に降伏した

p353
奴婢体制の崩壊
朝鮮王朝の初期に、政府では官奴婢を確保するために莫大な数の(5万名)にのぼる寺社奴婢を官に移籍させたことがある。(続いて、秀吉の朝鮮侵攻時に、奴婢が奴婢文書と呼ぶ記録を焼き払ったことを記述しているが、それだけが原因ではない)

p354
政府はすでに維持しきれなくなっていた奴婢に対するそれまでの厳しい身分的制約を緩和せざるを得なくなっていたのである

p377
絵画の面でも18世紀に入るとそれまでの傾向を脱して一段とその画風に心境を見せた
それは中国における画風の変遷から来る傾向であったということができよう。
明代の後期から盛んになった南宋の画風が清代に入って完全に支配的になり、それに伴って、朝鮮の画家たちもその影響を受けるようになった。
韻趣を尊び、水墨画を主とする文人画盛んになった

p378
従来の画家たちが中国画の模写ばかりに没頭していた傾向を脱皮して、
18世紀から19世紀にかけての著名な画家としては、申潤福(1758~?)と金弘道(1745~?)

p379
朝鮮王朝の工芸の中で、もっとも代表的なものといえば、それは白磁である。
前期には、中国から輸入してくる以外になかった青色顔料が、この時期には国内でも生産されるようになり、青色顔料だけで山水・鳥花などを描いた白磁が大量に生産され、使用されるようになった


(いつも感じることではあるが、李朝朝鮮の500年は、何もない。それで、李朝時代のくだらん部分は、飛ばした)

p521
1905年7月には、日本の首相桂太郎とアメリカの陸軍長官タフトとの間に、日本の東京で密約が成立し、日本はアメリカがフィリピンを支配することを、またアメリカは日本が韓国を支配することを相互に承認した。翌八月には、日本とイギリスとの間の第二次日英同盟が締結されて、日本の韓国に対する指導・監理・保護の権利がイギリスによって承認された

p524
日本は韓国の土地を収奪するために、土地に対する私有権を新しく法制化して日本人による略奪的な買い占め行為を正当化した。

p542
1910年
8月29日に発布されて、
韓国には日帝の朝鮮総督府が設置されることになった。
韓国民の武力抗争はその後も続けられたが、これら義兵の抗日党争は、日帝の武力の前に次第に気勢が弱まり、韓国の南部から北部に追われて、さらに国境地帯へと追い詰まられていった。その結果、間島と沿海州が抗日武力闘争の既知になった

p555
経済面における収奪
「土地調査事業」という名目のもとに、日本人の土地に対する占有と投資を容易にしたことであり、もう一つは、「会社令」を制定して企業を統制し、日本人の独占資本の浸透・育成を容易にしたことである

p547
土地調査事業は、2500万という莫大な経費をかけて前後9年にわたって行われ、1918年に終了した

(この韓という著者は、1909年の民籍法について一切記述していない。恐らく、このバカな韓という著者の父又は祖父は、1909年に初めて、姓を持ったはずなのに!酷い!)

p553
3・1運動の背景
弾圧によって国内の抗日武力闘争は次第に弱まって秘密結社・国民運動の形態に転換されていき、

3.1運動の勃発
1919年
高宗は、同年1月に急逝したのであったが、その時高宗は日本によって幽閉されていたさなかでもあったので、日本人の策略によって毒殺されたのではという噂が流れた。
3月1日を期して決行されることになった

p570
満州などの地域に根拠を置いた独立運動
大小の独立運動団体は、豆満江・鴨緑江を超え、国内に潜入して日本の軍隊や警察を襲撃した

p572(この地域はソ連沿海州のこと)
当時この地域にあった韓国人の諸軍事集団の総兵力は約3000名に達していたが、ソ連軍の指揮補給に依存しなければならなかった。

p604
(訳者あとがき)
本書は韓国でもっとも定評のある代表的な通史としてよまれており、その意味で韓国の人々は自国の歴史についてはこの書を通じて知識を得、思考に資していると考えても差し支えない