李さんよ、正しい記述が多いですが、以下の「外国人の目からみたあなた方の真の姿」を既にご存知ですよね!全てボロクソに書かれてます。悲劇の朝鮮 アーソン・グレブストについて、何故、バカバカしい程簡単なことに気づかないのですか?

朝鮮幽囚記録 ヘンドリック・ハメル
(これに関しては、小川教授の論文が非常に参考になる)

悲劇の朝鮮 アーソン・グレブスト
(実際には訪問していないようであるが、キチガイどもは何故気づかないのだ?)

朝鮮事情 C・ダレ
(恐らく、これが最も正確に記述している)

朝鮮紀行 イザベラ・バード・ビショップ


p41
韓国社会の指導者たちが自分の国というものは誤って建てられた国であると考えるには何かしら特殊な文化史的あるいは精神史的な背景があります。私はその一つのとして19世紀まで支配的であった性理学の影響を挙げておきたいのです。性理学は、一種の原理主義哲学なのです。そこでは事物の因果がもっぱら根本的な一要因によって説明されます

p64
19世紀の末になると北部の高原地帯と江原道の奥地を除いた大部分の山野が赤く禿げ上がっていました
その結果、農業生産が減少し始めます
慶尚道と全羅道において
18世紀の中葉に比べて19世紀の末には土地の生産性がほぼ三分の一の水準に下がったことを示しています

p77
挺身隊という名目で朝鮮の娘たちを動員し、日本軍の慰安婦にしたが、その数は数十万に達した・・・。教科書はこのように記述しています。私が、自分の講義を受けている学生に直接確かめた事実ですが高校の国史の時間にこのくだりが出てくると、教師は今にも泣きそうな顔になり、生徒も涙したと言います。しかし。私はあえて言います。このような教科書の内容な事実ではありません。全く事実にそぐはないものもあり、似たような事実はあっても内容が誇張されていたり誤って解釈されているものが大部分です。ビックリされる方も多いと思いますが、単刀直入に言うと、そのような話はすべて、教科書を書いた歴史学者が作り出した物語です

p78
生産されたコメのほぼ半分が日本に渡っていたのは事実です
米が輸出されたのは総督府が強制したからではなく日本内地の米価が30%程度高かったからです。
その結果朝鮮の総所得が増え全体的な経済が成長しました
具体的な推計によれば、人口一人当たりのカロリー摂取量が減ったとは必ずしも言えないのが実情でした

p81
日本が朝鮮人の土地を大量に収奪したという神話が初めて学術論文に示されたのは、1955年日本の東京大学に留学中だった李在茂によってでした。
このように作られ始めた土地収奪説が教科書に初めて載ったのは1962年に歴史教育委員会という団体が作った中学用の国史教科書からです

p85
1997年、私を含めた数名の研究者が土地調査事業当時の原資料に基づき、(略)研究書を出版しました。それ以降、以前のような乱暴な収奪説はだいぶ下火になりました。にもかかわらず、教科書の記述は今日まで変わらないままです。一度作られた記憶は容易には消えないということです

p92
日本が残した統治資料を見れば、永久併合という言葉がしつこいぐらいにしばしば出てきます。つまりは永久に日本の領土とみなすということです

p95
日本は1909年に戸籍を作成する際に、白丁にも登録を強制しました。植民地期には白丁たちも姓を持ち、本貫も持つようになりました。ついには白丁の子弟が学校に通うようになります
すると両班たちが反旗を翻します。どうしてうちの子供を白丁の子と同じ教室で勉強させることができよう、と憤りをぶちまけました。

p97
1910年から1940年における韓国の経済は年平均にして3.7%の成長を見せていました。同期間における人口の増加率が年平均で1.3%でしたので、一人当たりの実質所得は年平均にして2.4%増加したことになります。このような成長率は同じ期間における主要な資本主義国家が停滞と危機の時代だった中で、世界的に見て高い水準でした

p107
1945年8月、日本が滅びると両班村では歓喜の声が沸き上がりましたが、平民の村は静寂だったそうです。西北人たち、すなわち平安道出身の人々からも同様の話を聞くことができます

p121
まず、一つ指摘しておきたい点は、慰安婦と挺身隊は別個の問題であるという事実です。私は機会あるごとに、この点について私の周辺にいる人々に話してきましたが、その度に、大部分の人たちは初耳だとって驚いていました。それほどに今日、大部分の韓国人は、挺身隊と言えば即ち日本軍慰安婦のことだと思っています。
中学校・高等学校の歴史教科書にもそのように書かれていますので、そのように考えるのも当然でしょう

p126
言い換えれば、解放後から1960年代初めまでは挺身隊と慰安婦を同一視する、今日のような韓国人による集団記憶は一般的に成立していなかったということです

p127
しかし、その間に、いつのまにか韓国民の集団記憶において挺身隊の実体が少しづつ慰安婦に変わっていったと考えらます。やはり小説からその好例を探すことができます。挺身隊を慰安婦として描写し始めた最初の事例ととして、1969年に発表された金廷漢の「修羅道」を挙げることができます

p132
1997年からの教科書において挺身隊を慰安婦と同一視する記述が現れるようになったのは、1991年8月に金学順さんが慰安婦だった自身の過去を明らかにし、日本政府の賠償を求めるという出来事が大きな契機にとなったことが知られています

p168
最終的に慰安婦事件の底辺には、女性に対する男性の家父長的な支配の問題が横たわっています

p200
韓国で発行されている歴史教科書やまた多くの研究書を見ると1920年代以来満州と中国において「武装独立戦争」がたゆみなく繰り広げられたと書かれています

p201
しかしながら、このような言説は、全てが過大評価であり、実態とかけ離れた叙述だと思われます。(略)満州の広野において独立軍が日本軍と独自の力で戦闘を繰り広げたのは、3・1運動の直後である1920年の1年限りであったと私は承知しています。(略)ソ連の赤軍が独立軍の武装解除を強要し、そして数百名が射殺されるなど、独立運動の歴史において実に悲劇的な事件が発生しました

(独立軍?とは、もし自力で武器・弾薬を調達したのであれば、実態上、匪賊・強盗団と言い切ってよい。金日成の強盗団があてはまる。抗日パルチザンとは、朝鮮人歴史創出家が作り出した幻影であり、満州の深い森林地帯を利用した朝鮮人以外の非常に多数の匪賊・強盗団が存在していたことは、満州引揚者の証言によくみられる。

100名以上の人員について、軍と呼べるレベルで武器・弾薬調達は、絶対にソ連の支援なしでは不可能である。上の記述から、明らかに、ソ連の関与があったことが分かる。

ちなみに、当時の陸軍が相手ではなく、満州の日本人警官隊との撃ち合いであったことは、100%確実である。相手が警官隊ではなく、本物の陸軍であることを知ると、当時の満州に多数いた匪賊は、すぐに逃げたそうだ。反面、警官隊の場合にはすぐに逃走せずに、撃ち合いに発展。著者は、「独立軍が日本軍と独自の力で戦闘」と書いているが、所詮、朝鮮人の限界であろう)