権力を持つから権力者なのではない。彼らが威張っていられるのは、人々が真実に目をつむり、自発的に服従するからだ。権力よりも強く、正しいもの、それが真実。真実は誰も欺かず、支配しない。
時間の経過とともに世論は変わる。四十九日が経過した頃、暗殺者に対する同情論は出てくるだろうか? 1921年、朝日平吾が安田財閥の安田善次郎を暗殺した際、最初は犯人への非難一辺倒だった世論も財閥の陰の一面があきらかになると、同情論に変わった。これ以後、原敬暗殺、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件とテロが連鎖したが、果たして歴史は繰り返すのか? 自殺の場合は後追い現象が頻発するが、暗殺やテロも100年前と同様、反復されかねない。
あってはならぬことが起きる時代
「世直し」に賛同する者、奇跡を待望する者、正義を実行したい人、社会や国家に復讐したい人、このクソな世界の滅亡を希求する者、それら不平市民の潜在的人口はかなりの数に上るはずだが、実際に糾弾の声をあげ、行動に打って出る人の数はその1パーセントにも満たないだろう。絶望した者の多くは沈黙と服従に向かう。耐え難きを耐えるのが美徳だと思い込んでいるのか、思い込まされているのか、何か行動を起こしたところで報われることはないと諦めている。「不幸なのはおまえだけではない。みな平等に不幸なのだ」という不幸の民主主義に甘んじている。
世直しを希求しながら、現実にはそれがなされないという絶望が一層深まれば、テロに打って出ようとする者が現れてもおかしくない。もちろんテロはあってはならない。しかし、ありえないことやあってはならぬことがしばしば、政治の世界では起きる。安倍が君臨した時代はその具体例に事欠かなかった。政治の劣化が極まれば、社会もそれに合わせて荒廃する。
――世直しゆうても、政治を変えるゆう意味やない。国会議員になったかて何も変わらん。アホな有権者目覚めさすにはショック療法が必要や。大きなサーカスを立ち上げな。サーカスゆうても、空中ブランコでも象の曲芸でもない。民衆の不安、興奮、恐怖、感動を誘うスペクタクルのことや。戦争、祭典、犯罪、天災、疫病、支配者は権力を強化するためなら、何でも利用する。世直ししたければ、支配者が打ち出すサーカスを超えなあかん。
『パンとサーカス』にはテロや暗殺を焚きつけるフィクサーが登場し、こんなセリフを呟く。その人物は世直しのスポンサーになり、主人公にテロ資金の援助を行う。だが、山上容疑者にスポンサーはいなかった。