国東市に 糸原[いとはる]、上原[かみのはる]、北原[きたのはる]、行者原[ぎょうじゃばる]、小川原[ここばる]、
小瀬原[こぜばる]、下原[しもばる]、白木原[しらきばる]、野原[のばる]、原[はる]、原畑[はるばた]、
平原[ひらばる]、向原[むこうばる]、茂原[もばる]、湯原[ゆばる]、油原[ゆばる]
速見郡に 大原[おおはる]、原山[はるやま]
杵築市に 出原[いづはる]、今原[いまばる]、槍原[うつけばる]、大内原[おおねばる]、上ノ原[かみのはる]、
北ノ原[きたのはる]、楠原[くすのきばる]、熊野原[くまのはる]、小内原[こないばる]、
下原[しもばる]、白木原[しらきばる]、中ノ原[なかんばる]、中の原[なかのはる]、野原[のはる]、
原[はる]、原北[はるきた]、原南[はるみなみ]、平原[ひらばる]
豊後高田市に 川原[かわばる]、椎原[しいばる]、西原[にしばる]、入津原[にゅうつばる]、原[はる]、
平原[ひらばる]、茂原[もばる]、矢原[やばる]
宇佐市に 中原[なかばる]、四日市台の原[よっかいちだいのはる]
安心院町に 上原[うえはる]、有徳原[うっとくばる]、川出原[かわでばる]、口原[くちのはる]、
内原[ないばる]、中原[なかはる]、中手原[なかてばる]、新原[にいばる]、原[はる]
印内町に 永原[ながはる]、原口[はるくち]、平原[ひらばる]、宮原[みやばる]
別府市に 乙原[おとばる]、乙原[おとばる]滝、乙原[おとばる]川、上原[かみはる]町、古賀原[こがのはる]、
立命館大学のある十文字原[じゅうもんじばる]、船原[ふなばる]山、
鶴見岳の東北山麓の別府市側に石垣原[いしがきばる]台地
日田市に 小迫辻原[おざこつじばる]遺跡 : 秋原町[あきばる]、池ノ原[いけのはる]、祝原[いわいばる]、
上原[うえばる]、三春原[うらせばる] 、小川原[おかわばる]、川原[かわばる]、釘原[くぎはる]、
川原[こうばる]、川原[こうばる]川、地蔵原[じぞうばる]、田ノ原[たのはる]、田来原[たらいばる]、
田ノ原井干原[たのはるいぼしわら]、長者原[ちょうじゃばる]、栃原[とちばる]、新原[にいばる]、
仁田原[にたばる]、原[はる]、萩ヶ原[はんがばる]、平原[ひらばる]、馬原[まばる]村
天瀬町に 馬原[まばる]、宮原[みなばる]
玖珠郡の
九重町に 麻生原[あそばる]、柿ノ木原[かきのきばる]、樫原[かしばる]、地蔵原[じぞうばる]、
栗原[くりばる]、下原[しもばる]、旦原[たんばる]、段原[だんばる]、長者原[ちょうじゃばる]、
中原[なかはる]、九重山麓に九州電力八丁原[はっちょうばる]発電所
玖珠町に 井原[いばる]、上ノ原[うえのはる]、中ノ原[なかのはる]、小原[おばる]、太田原[おおたはる]、
鬼ヶ原[おにがばる]、小野原[おのはる]、梶原[かじはる]、笠置原[かさぎばる]、
釜石原[かまいしばる]、黒灰原[くろはいばる]、神原[こうはる]、小麦原[こむぎばる]、
小清原[こぜいばる]、笹原[ささがはる]、志津里原[しづりはる]、城金原[しろきんばる]、
千間原[せんげんばる]、田能原[たのうばる]、長者原[ちょうじゃばる]、萩ヶ原[はんがはる]、
原[はる]、平原[ひらはる]、前原[まえばる]
由布市に 口ノ原[くちのはる]、染原[そめばる]、塚ノ原[つかのはる]、仲ノ原[なかのはる]、原口[はるぐち]、
向之原[むかいのはる]駅、
湯布院に 平原[ひらばる]
庄内町に 阿蘇野高津原[あそのこうづはる]、上ノ原[うえのはる]、尾原[おばる]、柿原[かきはる]、
河津原[かわづはる]、川原[かわばる]、高津原[こうづはる]、下原[したはる]、染原[そめばる]、
庄内原[しょうないばる]、龍原[たつはる]、塚ノ原[つかのはる]、仲ノ原[なかのはる]、
西原[にしばる]、野津原[のつはる]、羽原[はばる]、原口[はるくち]、原中[はるなか]、
平原[ひらばる]、原[はる]、牧ノ原[まきのはる]
挟間町に 口原[くちはる]、古原[こばる]、下原[したばる]、東の原[ひがしのはる]、向原[むかいのはる]、
大分市に 石合原[いさいばる]、上ノ原[うえのはる]、樫原[かしばる]、北原[きたはる]、
机張原[きちょうばる]、久原[くばる]、小原[こばる]、小池原[こいけばる]、庄の原[しょうのはる]、
城原[じょうはる]、杉原[すぎばる]、田原[たばる]、駄原[だのはる]、旦野原[だんのはる]、
辻原[つじはる]、堤原[つつみばる]、角子原[つのごはる]、天神原[てんじんばる]、中原[なかばる]、
、 野津原[のつはる]、羽原[はばる]、原川[はるかわ]、原新町[はるしんまち]、東原[ひがしばる]、
原[はる]、日吉原[ひよしばる]、宮の原[みやのはる]、向原[むかいばる]沖、向原[むかいばる]西、
向原[むかいばる]東、矢原[やのはる]、吉野原[よしのはる]
臼杵市に 池原[いけはる]、大野原[おおのばる]、尾崎原[おざきばる]、桑原[かばる]、川原[かわばる]、
黒原[くろばる]、佐土原[さどのはる]、杉原[すぎはる]、清水原[そうずばる]、原[はる]、
原南[はるな]、平原[ひらばる]、都原[みやこばる]、宮原[みやばる]
津久見市に 原[はる]、
佐伯市に 大瀬原[おおせばる]、大原[おおはる]、椛ヶ原[かばがはる]、川原[かわばる]、黒原[くろばる]、
桑原[くわばる]山、桑ノ原[くわのはる]、桑原[くわばる]川、神ノ原[こうのはる]、田原[たばる]、
清水原[そうずばる]、天神原[てんじんばる]山、遠久原[とおくばる]、中原[なかのはる]、
仁田原[にたばる]、南田原[みなみたばる]、原[はる]、番ノ原[ばんのはる]、平原[ひらばる]、
屋敷ノ原[やしきのはる]、柚ノ原[ゆのはる]、八匹原[はちひきばる]
豊後大野市に
小原[おはる]遺跡、中原[なかばる]遺跡:池原[いけばる]、石ケ原[いしがはる]、石原[いしばる]、
小原[おはる]、尾原[おばる]、大原[おおばる]、上ノ原[かみのはる]、久原[くばる]、川原[かわばる]、
杵ヶ原[きねがはる]、桑原[くわばる]、高津原[こうづばる]、小原[こばる]、實原[さねばる]、
下ノ原[しものはる]、下の原[しものはる]、代ノ原[だいのはる]、田原[たばる]、田良原[たらばる]、
寺原[てらばる]、徳ノ原[とくのはる]、中原[なかばる]、中原[なかのはる]、中ノ原[なかのはる]、
西原[にしばる]、仁田原[にたのはる]、貫原[ぬきはる]、八原[はちはる]、原[はる]、花原[はなばる]、
早尾原[はやおばる]、平原[ひらばる]、福原[ふくばる]、冬原[ふゆばる]、牧原[まきばる]、
宮原[みやばる]、三重原[みえのはる]、宮原[みやのはる]、都原[みやこばる]、向原[むこうばる]、
屋原[やばる]
竹田市に 相原[あいばる]、石ノ原[いしのはる]、石原[いしばる]、伊藤原[いとばる]、恵良原[えらはる]、
柏原[かしわばる]、神ノ原[かみのはる]、神原[かんばる]、城原[きばる]、木原[きばる]、
北原[きたばる]、久原[くばる]、神原[こーばる]、下ノ原[しものはる]、下原[しもばる]、
田原[たばる]、辻原[つじばる]、鶴原[つるばる]、西原[にしばる]、拝田原[はいたばる]、
原山[はるやま]、平原[ひらばる]、仏原[ぶつばる]、福原[ふくばる]、前原[まえはる]、
南原[みなみばる]、木原[もくばる]、湯原[ゆのはる]
久住町に
井原[いはる]、石原[いしのはる]、尾原[おばる]、鬼ヶ原[おにがばる]、河津原[かわづはる]、
杵原[きねがはる]、高津原[こうづはる]、段原[だんばる]、寺原[てらばる]、塔の原[とうのはる]
仲原[なかばる]、西原[にしのはる]、羽原[はばる]、原[はる]、原中[はるなか]、原山[はるやま]、
萩ヶ原[はんがはる]、平原[ひらばる]、仏原[ぶつばる] 、前原[まえばる]、宮原[みやばる]、
向原[むこうばる]、六反原[ろくたんばる]
◇ 熊本県には、
荒尾市に 榎原[えのきばる]、岡原[おかはる]、海行原[かいごばる]、聖人原[しょうにんばる]
西原[にしばる]町
山鹿市に 岩原[いわばる]古墳群、小原[おばる]浦田横穴群、方保田[かとうだ]東原[ひがしばる]遺跡:
宇田原[うたばる]、小原[おばる]、柿原[かきばる]、金原[かなばる]、川原[かわばる]、
久原[くばる]、桑原[くわばる]、郷原[ごうばる]、佐原[さばる]、四坊原[しぼうばる]、
下原[しもばる]、城ケ原[じょうがはる]、底原[そこばる]、堂の原[とうのはる]、堂原[どうばる]、
年の原[としのはる]、中原[なかばる]、原[はる]、原口[はるくち]、福原[ふくばる]、水原[みずはる]、
三井原[みいばる]、宮原[みやのはる]、米原[よなばる]
菊池市に 板井原[いたいばる]、小原[おばる]、北原[きたばる]、楠原[くすばる]、下河原[しもかわばる]、
塚原[つかばる]、堂原[どうばる]、中原[なかばる]、林原[はやしばる]、原[はる]、林原[はやしばる]、
原細永[はるほそなが]、原板井原[はるいたいばる]、原小楠野[はるおぐすの]、原本村[はるほんむら]
原原本村[はるはるほんむら]、東原[ひがしばる]、米原[よなばる]
菊池郡に 上原[うえのはる]、小原[おばる]、古閑原[こがばる]、御所原[ごしょばる⁆、下原[しもばる]、
東原[ひがしばる]、南上原[みなみかみばる]、南下原[みなみしもばる]
玉名市に 北原[きたばる]横穴群、原[はる]横穴群 :榎原[えのきばる]、宮原[みやのはる]
玉名郡に 皆行原[かいこうばる]
南関町に
豊永の安原[あんのはる]、柿原[かきばる]、小原[こばる]、下原[しもばる]、白木原[しらきばる]、
白尾原[しらけばる]、塚原[つかのはる]、築井原[つくいばる]、前原[まえばる]、向原[むかいばる]、
和水町に
鶯原[うぐいすばる]、榎原[えのきばる]、北原[きたばる]、下原[しもばる]、原口[はるくち]、
久井原[ひさいばる]、前原[まえばる]
玉東町に 栗地原[おちばる]、西原[にしばる]
鹿本郡に 岩原[いわばる]、佐原[さばる]、宮原[みやのはる]、米原[よなばる]
鹿北町に 柿原[かきばる]、金原[かなばる]、桑原[くわばる]、堂原[どうばる]、四丁原[よんちょうばる]
菊陽町に 古閑原[こがばる]
菊水町に 原口[はるぐち]、久井原[ひさいばる]、前原[まえばる]
上益城郡に
麻生原[あそばる]、市野原[いちのはる]、市の原[いちのはる]、市原[いちばる]、稲生原[いのばる]、
井無田原[いむたばる]、大原[おばる]、柿原[かきばる]、北高遊原[きたたかゆうばる]、
郷野原[ごうのはる]、古閑原[こがのはる]、小原[こばる]、才原[さいばる]、椎原[しいばる]、
塩原[しおばる]、西原[しおばる]、下原[しもばる]、須原[すばる]、宗心原[そうしんばる]、
田原[たばる]、高遊原[たかゆうばる]、駄貫原[だかんばる]、知行原[ちいきばる]、竹原[たけばる]、
天神原[てんじんばる]、堂ノ原[どうのはる]、鳥原[とりばる]、 西原[にしはる]、貫原[ぬきはる]、
野原[のばる]、原尾野[はるおの]、原尻[はるしり]、東竹原[ひがしたけばる]、古原[ふるのはる]、
古野原[ふるのばる]、仏原[ほとけばる]、本郷野原[ほんごうのはる]、牧原[まきのはる]、
柳井原[やないばる]
益城町に 田原[たばる]
下益城郡に 糸原[いとばる]、志道原[しどんばる]、下原[しもばる]、竹の原[たけのはる]、中原[なかばる]、
平原[ひらばる]
阿蘇市に 市ノ原[いちのはる]、花原[かばる]川、上田原[かみたばる]、蔵原[くらばる]、白粉原[けしょうばる]
枳原[げずばる]、古室原[こむろばる]、下原[しもばる]、下ノ原[しものはる]、竹原[たけばる]、
田原[たばる]、中原[なかばる]、波野原[なみのばる]、原[はる]、原口[はるぐち]、原の口[はるのくち]
南宮原[みなみみやばる]、役犬原[やくいんばる]、上役犬原[かみやくいんばる]
下役犬原[しもやくいんばる]
阿蘇郡の
産山村に 杖木原[つえきばる]、原大利[はるおおり]
西原村に 阿蘇高游原[あそたかゆうばる]、河原南原[かわはらみなみばる]
南阿蘇村に 桑原[かばる]、桑原田[くわばるた]、高津原[こーづはる]、中原[なかばる]、原尻[はるしり]、
平原[ひらばる]
南小国町に 地蔵原[じぞうばる]遺跡:黒原[くろばる]、小原[こばる]、田の原[たのはる]、中原[なかばる]、
原[はる]、矢田原[やたばる]
小国町に 秋原[あきばる]、小原田[おはるだ]、神原[かみのはる]、切原[きりばる]、室原[むろばる]、
下城田原[しもじょうたばる]
北里村の南に 小原田[こはるだ]、蔵原[くらばる]、田原[たばる]、名原[なばる]、原[はる]、宮原[みやばる]
高森町に 井無田原[いむたばる]、大野原[おおのばる]、小倉原[おくらばる]、黒原[くろばる]、
才原[さいばる]、塩原[しおばる]、田原[たばる]村、永野原[ながのはる]、中原[なかばる]、
野原[のばる]、前原[まえばる]
熊本市の北部に 五丁中原[なかばる]遺跡群
北区植木町に 埋原[うつばる]、田原[たばる]坂、平原[ひらばる]、宮原[みやばる]、迎原[むかえばる]
中央区に 柿原[かきばる]、寺原[てらばる]、茶屋原[ちゃやばる]
東区に 西原[にしばる]、野間原[のまんはる]
南区に 平原[ひらばる]
合志市に 黒石原[くろいしばる]、木原野[こはるの]
球磨郡に 小原[こばる]横穴群 : 上ノ原[うえのはる]、岡原[おかばる]、小田原[おだばる]、小原[こばる]、
神殿原[こうどんばる]、諏訪原[すわのはる]、高原[たかんばる]、忠ヶ原[ちゅうがはる]、
中原[なかばる]、西原[にしはる]、平原[ひらばる]、朴ノ木原[ふうのきばる]、前原[まえばる]、
蓑原[みのばる]、宮原[みやばる]、無田の原[むたのはる]、茂原[もばる]、八原[やつはる]、
湯ノ原[ゆのはる]、大王原[だいおうばる]
宇土市に 神原[こうばる]、西原[にしばる]、平原[ひらばる]
天草島に 楠原嶺[くすばるとーげ]、十原[じゅんはる]、上田原[かみたばる]、河内太原[たいばる]
宇城市に 新開原[しんかいばる]、中原[なかばる]、平原[ひらばる]、峯尾原[みねおばる]
水俣市に 薄原[すすばる]
八代市に 椎原[しいばる]、長原[ふさばる]、
葦北郡に 市居原[いちいばる]、上原[うわばる]
人吉市に 合の原[ごうのはる]町
◇ 宮崎県には、
東臼杵郡の
門川町に 阿仙原[あせんばる]
美郷町に 天子ノ原[あまごのはる]、伊久良原[いくらがはる]、池の原[いけのはる]、猪原[いのばる]、
落原[おちばる]、小野々原[おののはる]、柿木原[かきのばる]、合戦原[かせばる]、上原[かみばる]、
神ノ原[かみのはる]、北郷小原[きたごうこばる]、楠原[くすばる]、北郷黒原[くろばる]、
小原[こばる]、西郷小原[さいごうおばる]、西郷大内原[さいごうおおうちばる]、
西郷小原[さいごうこばる]、西郷椎原[しいばる]、北郷下ノ原[したのはる]、田野原[たのはる]、
下田の原[しもたのはる]、塚の原[つかのはる]、鞁原[つづらばる]、中原[なかはる]、
南郷小原[なんごうこばる]、橋の原[はしのはる]、深田ノ原[ふかだのはる]、神門原[みかどばる]
又江の原[またえのはる]、御堂原[みどうばる]、椋原[むくばる]、屋形原[やかたはる]、
山須原[やますばる]
椎葉村に 石原[いしばる]、一谷原[いちやばる]、猪原[いのはる]、合戦原[かせんばる]、小原[こばる]、
桑の木原[くわのきばる]、久居原[さいばる]、椎原[しいばる]、田口原[たくちばる]、
田野原[たのはる]、八重原[はえばる]、橋原[はしばる]、又江原[またえのはる]、
神門原[みかどばる]、屋形原[やかたばる]、柳原[やなばる]
諸塚村に 紋原[かばる]、桑原[くわばる]、塚原[つかばる]、黒原[くろばる]、小原[こばる]、古原[こはる]、
菅原[すげばる]、竹原[たけばる]、塚原[つかばる]、黒葛原[つずらのはる]、仁田原[にたばる]、
原内[はるうち]、万ケ原[まんがばる]、御堂原[みどうばる]、屋形原[やかたばる]、柳原[やなばる]
矢野原[やのはる]、山の原[やまのはる]
西臼杵郡
日之影町に 上小原[かみこばる]、葛根ヶ原[かんねがはる]、楠原[くすばる]、黒原[くろばる]、
杉の原[すぎのはる]、竹の原[たけのはる]、仁田原[にたのはる]、分城小原[わけじょうこばる]
高千穂町に 秋原[あきばる]、池原[いけのはる]、猪原[いのししばる]、伊良野原[いらのはる]、
祝原[いわいばる]、上原[うえばる]、大原[おおはる]、大内原[おおうちばる]ダム、
大野原[おおのばる]、黒原[くろばる]、尾迫原[おさこばる]、黒葛原[くろくずはる]、
黒原越[くろばるごえ]、小原[こばる]、神原[こうばる]、笹の原[ささのはる]、椎原[しいばる]
四季見原[しきみばる]、菅原[すげはる]、園原[そのはる]、押方草の原[そうのはる]、
竹原[たけばる]、田原[たばる]、塚原[つかばる]、鼓原[つづみばる]、葛原[つづらばる]、
中之原[なかのはる]、仁田原[にたのはる]、原内[はるうち]、原山[はるやま]、古原[ふるばる]、
笛原[ふえばる]、万原[まんのはる]、御堂原[みどうばる]、宮原[みやばる]、紋原[もんばる] 、
柳原[やなばる]、矢野原[やのはる]、山原[やまのはる]
高原(たかはる)町に 霞原[かすみばる]、地蔵原[じぞうばる]、東原[ひがしはる]、後原[うしろばる]、
前原[まえのはる]、中小手原[なかこてばる]
五ヶ瀬町に 上原[うえのはる]、尾原[おはる]、長原[おさばる]、スクナ原[すくなはる]、貫原[ぬくばる]、
宮野原[みやのはる]
延岡市に 伊原[いばる]、樫原[かしばる]、黒原[くろばる]、菅原[すげばる]、中原[なかばる]、平原[ひらばる]町
宮原[みやのはる]
日向市に 石原[いしばる]、一谷原[いちやばる]、岩戸原[いわとばる]、上野原[うえのはる]、小原[こばる]、
沖の原[おきのはる]、河原[こうばる]、権現原[ごんげんばる]、田ノ原[たのはる]、
田口原[たぐちばる]、田代ヶ原[たしろがはる]、国富町塚原[つかばる]、中原[なかばる]、
中ノ原[なかのはる]、中の原[なかのはる]、西の原[にしのはる]、八重原[はえばる]、原[はる]、
百町原[ひゃくちょうばる] 、三日月原[みかづきはる]、宮ヶ原[みやがはる]、向原[むこうばる]、
柳原[やなばる]
児湯郡の
川南町に 上野田原[うえのだばる]、大内原[おおうちばる] 、唐瀬原[からせばる]、切原[きりばる]、
国光原[こっこうばる]、西光原[さいこうばる]、椎原[しいばる]、下原[しもばる]、
白髭原[しらひげばる]、新生原[しんせいばる]、寺原[てらばる]、長岡原[ながおかばる]、
野田原[のだばる]、東原[ひがしばる]、南原[みなみばる]、八方原[やかたばる]、
夜明原[よあけばる]、宗麟原[そうりんばる]供養塔
木城町に 川原[かわばる]、中原[なかばる]、屋敷原[やしきばる]
都農町に 征矢原[そやばる]、中野原[なかのはる]、三日月原[みかづきばる]
新富町に 祗園原[ぎおんばる]古墳群、新田原[にゅうたばる]古墳群 : 祇園原[ぎおんばる]、
三財原[さんざいばる]、塚原[つかばる]、新田原[にゅうたばる]
高鍋町に 切原[きりばる]、中原[なかばる]、馬場原[ばばのはる]、北平原[ひらばる]、東平原[ひらばる]、
西平原[ひらばる]、水谷原[みずやばる]
西米良村に 児原[こばる]
西都市に 西都原[さいとばる]古墳群、茶臼原[ちゃうすばる]古墳群、百塚原[ひゃくつかばる]古墳群:
笠原[かさばる]、川原[かわばる]、上原[かみのはる]、上原[かんばる]、椎原[しいばる]、
高原[たかはる]町、寺原[てらばる]、外原[とばる]、仲原[なかばる]、中野原[なかのばる]、
原田[はるた]、原向[はるむき]、原無田[ばるむた]、東原[ひがしばる]、平原[ひらばる]、
元知原[もとちばる]、前原[まえばる]、茗荷原[みょうがばる]
宮崎市に 柿木原[かきのきばる]遺跡、本野原[もとのばる]遺跡:壱町原[いっちょうはる]、糸原[いとばる]、
江佐原[えさばる]、江田原[えたばる]、大原[おおはる]、岡ノ原[おかのはる]、沖ノ原[おきのはる]、
柏原[かしわばる]、加勢原[かせばる]、合戦原[かっせんばる]、神足原[かみあしばる]、
上ノ原[かみのはる]、北原[きたばる]、北ノ原[きたのはる]、 笹原[ささばる]、下ノ原[しものはる]、
下原[しもはる]、田原[たばる]、塚原[つかばる]、鳥居原[とりいばる]、中原[なかばる]、
永の原[ながのばる]、西ノ原[にしのはる]、原[はる]、原ノ田[はるのた]、原ノ前[はるのまえ]、
稗原[ひえばる]町、東原[ひがしばる]、平原[ひらばる]、前原[まえばる]、町ヶ原[まちがはる]、
松ノ原[まつのはる]、向江原[むかえばる]、芳原[よしばる]
東諸県郡の
国富町に 上床原[うわとこばる]、小原山[おばるやま]、仮屋原[かりやばる]、太田原[おおたばる]、
小原[こばる]、高田原[こうだがはる]、塚原[つかばる]、原口[はるくち]、
平原[ひらばる]、牧原[まきばる]
綾町に 尾原[おばる]、錦原[にしきばる]、宮原[みやばる]
西諸県の
郡高原町に 後原[うしろばる]、皇子原[おうじばる]、霞原[かすみばる]、小手原[こてばる]、
地蔵原[じぞうばる]、高原[たかはる]町、前原[まえのはる]、東原[ひがしばる]
北諸県郡の
三股町に 中原[なかばる]、花見原[はなみばる]、餅原[もちばる]
都城市に 菖蒲原[あやめばる]町、池ノ原[いけのはる]、大堀原[おおほりばる]、柿木原[かきのきばる]、
久保原[くぼばる]町、桑原[くわばる]、山野原[さんやばる]、諏訪原[すわばる]、
高木原[たかぎばる]、田原[たばる]、月野原[つきのばる]、中原[なかばる]、中原[なかんばる]、
高城原[たかじょうばる]、塚原[つかばる]、原村[はるむら]、牧原[まきばる]、牧の原[まきのはる]、
蓑原[みのばる]町、都原[みやこばる]町、百原[もばる]、餅原[もちばる]、山神原[やまかみばる]
小林市に 山ノ口原[やまのくちばる]遺跡 :上鵜戸原[かみうとばる]、西鵜戸原[にしうとばる]、
上ノ原[うえのはる]、漆野原[うるしのばる]、大塚原[おおつかばる]、神ノ原[かみのはる]、
城原[じょうばる]、黒園原[くろぞのばる]、桑原[くわばる]、北小林原[きたこばやしばる]、
南小林原[みなみこばやしばる]、前陣原[まえじんばる]、小原[こばる]、後陣原[うしろじんばる]、
陣原[じんばる]、中原[なかばる]、西ノ原[にしのはる]、西原[にしばる]、麓上原[ふもとうえばる]、
野尻原[のじりばる]、八幡原[はちまんばる]、保楊枝原[ほようじばる]、堅田原[かただばる]
豊原[とよばる]
日南市に 楠原[くすばる]、郷ノ原[ごうのはる]、向原[むこばる]
えびの市に 小木原[こきばる]遺跡群:赤松千本原[あかまつせんぼんばる]、上の原[うえのはる]、
上ノ原[うえのはる]、王子原[おうじばる]、柿木原[かきのきばる]、神社原[じんじゃばる]、
浜川原[はまかわばる]、原[はる]、木崎原[きさきばる]、小木原[こきばる]、鳥井原[とりいばる]、
妙見原[みょうけんばる]、大溝原[おおみぞばる]、西の原[にしのはる]、牧之原[まきのはる]、
宮原[みやはる]、本地原[もとじばる]、四日市原[よっかいちばる]
串間市に 川原[かわばる]、穂佐ヶ原[ほさがはる]
◇ 福岡県には、
北九州市の
小倉北区に 黒原[くろばる]
小倉南区に 道原[どうばる]、平尾台に羊群原[ようぐんばる]
戸畑区に 中原[なかばる]
八幡西区に
上の原[うえのはる]、 陣原[じんのはる]、中の原[なかのはる]、茶屋の原[ちゃやのはる]、
夕原[ゆうばる]町
京都郡に 柿木原[かきのきばる]、狐原[きつねばる]
みやこ町に 上原[かんばる]、下原[しもばる]、唐原[とうばる]、勝山宮原[かつやまみやばる]
苅田町に 南原[みなみばる]、与原[よばる]
行橋市に 新田原[しんでんばる]、福原[ふくばる]
築上郡の
上毛町に 唐原[とうばる]
築上町に 櫟原[いちぎばる]
豊前市に 合原[ごうばる]、平原[ひらばる]
鞍手郡若宮町に 浦ノ原[うらのはる]池、湯原[ゆばる]
田川郡の
赤村に 大原[おおばる]貴船神社、柚須原[ゆすばる]、前ガ原[まえがはる]、
大任町に 今任原[いまとうばる]、柿原[かきばる]、桑原[くわばる]、下伊原[しもいばる]、
東伊原[ひがしいばる]
川崎町に 上原[かんばる]
香春町に 宮原[みやばる]遺跡 : 大内原[おおてばる]、紫竹原[しちくばる]、庄ヶ原[しょうがはる]、
中津原[なかつばる]、南紫竹原[みなみしちくばる]
糸田町に 原[はる]
添田町に 伊原[いばる]、屋形原[やかたばる]、柳原[やなばる]
福智町に 徳人原[とくじんばる]、中原[なかばる]、原[はる]、原田[はるだ]
田川市に 角銅原[かくどうばる]、平原[ひらばる]
嘉麻市に 九郎原[くろうばる]、新原[しんばる]
飯塚市に 彼岸原[ひがんばる]遺跡
宗像市に 相原[そうばる]古墳群 : 江口原[えぐちばる]、神の原[かみのはる]、椚原[くぬぎばる]、
光星原[こうぼしはる]、中原[なかばる]、原町[はるまち]、平原[ひらばる]
宮若市に 湯原[ゆばる]、欅原[けやきばる]、小金原[こがねばる]、平原[ひらばる]
福津市に 新原・奴山[しんばる・ぬやま]古墳群 : 旦ノ原[だんのはる]
古賀市に 川原[かわばる]、新原[しんばる]、船原[ふなばる]、町川原[まちかわばる]
福岡市の
東区に 下原[しもばる]、唐原[とうのはる]
西区に 北原[きたばる]、城の原[じょうのはる]、女原[みょうばる]
早良区に 城ノ原[じょうのはる]
南区に 塩原[しおばる]、中原[なかばる]、萩ノ原[はぎのはる]峠、桧原[ひばる]、松原[まつばる]、
屋形原[やかたばる]
糸島市に 平原[ひらばる]遺跡 : 飯原[いいばる]、川原[かわばる]、唐原[とうばる]、前原[まえばる]
粕屋郡の
宇美町に 神武原[こうたけばる]、桜原[さくらばる]、神武原[じんむばる]、仲の原[なかのはる]、
原田[はるだ]
粕屋町に 乙仲原[おつなかばる]、甲仲原[こうなかばる]、長者原[ちょうじゃばる]、仲原[なかばる]、
原町[はるまち]
新宮町に 原上[はるがみ]
須恵町に 大島原[おおしまばる]、新原[しんばる]
那珂川市に 中原[なかばる]、萩ノ原[はぎのはる]、松原[まつばる]、柚原[ゆすばる]
大野城市に 白木原[しらきばる]、主城原[しゅじょうばる]
春日市に 春日原[かすがばる]、白木原[しらきばる]
筑紫野市に 塔原[とうのはる]東、塔原[とうのはる]西、 塔原[とうのはる]南、 原田[はるだ]、原[はる]、
柚須原[ゆすばる]
小郡市に 大原[おおばる]古戦場碑、大保原[おおほばる]古戦場跡、長ノ原[ながのはる]、平原[ひらばる]
大宰府市に 大原[おおばる]
朝倉市に 原[はる]の東遺跡:荷原[いないばる]、小原[おばる]、柿原[かきばる]、上城原[かみじょうばる]、
中原[なかばる]、西原[にしばる]、原田[はるだ]、宮原[みやばる]、屋形原[やかたばる]
三井郡の
大刀洗町に 西原[にしばる]、原村[はるむら]
浮羽郡に 内ヶ原[うちがはる]
うきは市に 原[はる]古墳 :大野原[おおのばる]、注連原[しめばる]
久留米市の
御井町の北に 太郎原[だいろばる]町、
城島町に 原中牟田[はるなかむた]、六町原[ろくちょうばる]
田主丸町に 上中原[かみなかばる]狐塚古墳 : 上原[かみはる]、太郎原[たいろばる]
三潴町に 壱丁原[いっちょうばる]、原田[はるだ]
大川市に 郷原[ごうばる]
八女市に 磐井の墓がある人形原[にんぎょうばる]
福島南部に 川合原[かわいばる]
山内に 現原[うつはる]
旧忠見村に 東原[ひがしばる]、平原[ひらばる]
旧光友村に 原嶋[はるじま]
旧白木村に 宮ヶ原[みやがはる]、合ノ原[あいのはる]、田楽原[でんがくばる]
旧北山村に 東原[ひがしばる]、西原[にしばる]、上ノ原[うえのはる]
黒木町に 城ノ原[じょうのはる]、田ノ原[たのはる]、原[はる]
大淵村に 吹原[ふけばる]
星野村に 上原[うえばる]、金原[きんばる]、栗原[くりばる]、合原[ごうばる]、仁田原[にたばる]、
柱原[はしらばる]、柳原[やなばる]
矢部村に 栗原[くるばる]、星原山[ほしはるやま]
立花町に 出ノ原[いでのはる]、小原[こばる]、境原[さかいばる]、駄原[だばる]
上陽町に 金原[きんばる]、合原[ごうばる]、中原[なかばる]、仁田原[にたばる]、宮ヶ原[みやがはる]
八女郡広川町に 磐井の父の古墳(石人山古墳)がある人形原[ひとかたばる]、西原[にしばる]、
南原[みなみばる]
筑後市船小屋に 久郎原[きゅうろばる]
みやま市の
高田町に 原[はる]
瀬高町に 北原[きたばる]
大牟田市に 平原[ひらばる]町
◇ 佐賀県には、
唐津市に 池原[いけばる]、桑原[くわばる]、中原[なかばる]、原[はる]、平原[ひらばる]、
平原仲原[ひらばるなかばる]
伊万里市に 上原[うわばる]、大川原[おおかわばる]、川原[かわばる]、小麦原[こむぎはる]、
多久市に 莇原[あざみばる]、笹原[ささばる]、多久原[たくばる]、中ノ原[なかのはる]、
西ノ原[にしのはる]、原口[はるくち]、東ノ原[ひがしのはる]、東原[ひがしばる]、
平原[ひらばる]、山犬原[やまいぬばる]、両ノ原[りょうのはる]
西松浦郡の
有田町に 楠木原[くすのきばる]、桑木原[くわのきばる]、南原[なんばる]、舞原[まいばる]
武雄市に 網土原[あみどばる]、 小野原[おのばる]、上原[かみはる]、原[はる]、百堂原[ひゃくどうばる]、
柚ノ木原[ゆのきばる]
鳥栖市に 柿ノ原[かきのはる]、原[はる]町
三養基郡に 市原[いちばる]、中原[なかばる]、原古賀[はるこが]、蓑原[みのばる]、屋形原[やかたばる]
神崎市に 市原[いちばる]、柏原[かしわばる]、唐香原[からこうばる]、川原[こうばる]、境原[さかいばる]、
城原[じょうばる]、狸原[たぬきばる]、中の原[なかのはる]、 中原[なかばる]、右原[みぎばる]、
八反原[はったばる]
神崎郡に 柏原[かしわばる]、唐香原[からこうばる]、境原[さかいばる]、城原[じょうばる]、
城原[じょうばる]川、右原[みぎばる]
吉野ヶ里遺跡近くに 上ノ原[うえのはる]、竹原[たけはる]、右原[みぎばる]、目達原[めたばる]、
佐賀市に 西原[にしばる]古墳 :背振山南面に大野原[おおのばる]、柏原[かしわばる]、鎌原[かまばる]、
祇園原[ぎおんばる]、葉隠で有名な山本定朝の碑がある黒土原[くろどばる]、
権現原[ごんげんばる]、中原[なかばる]、八反原[はったばる]、東原[ひがしばる]、藤原[ふじばる]、
宮原[みやばる]、若宮原[わかみやばる]
鹿島市に 金原[かなんばる]
小城市に 黒原[くろばる]、鷺ノ原[さぎのはる]、笹原[ささばる]、平原[ひらばる]
杵島郡に 太原[たいばる]、
藤津郡太良町に 川原[こうばる]
◇ 鹿児島県には、
出水市に 小原[おばる]、田原[たばる]
薩摩川内市に 尾原[おばる]、権現原[ごんげんばる]、椎原[しいばる]、寄田十原[じゅうばる]、平原[ひらばる]
平原山[ひらばるやま]、別府原[びゅうのはる]
いちき串木野市に 大原[おおはる]町
鹿児島市に 紫原[むらさきばる]、三州原[さんしゅうばる]
桜島町に 赤生原[あこうばる]
南さつま市に 小原[こばる]、原[はる]、平原[ひらばる]
伊佐市に 楠原[くすばる]、猶原[なおばる]
薩摩郡に 井手原[いでばる]、尾原[おばる]、柏原[かしわばる]、仮屋原[かりやばる]、北原[きたばる]、
京塚原[きょうづかばる]、楠原[くすばる]、鹿之原[しかのはる]、田原[たばる]、轟原[とどろきばる]
仁田原[にたばる]、梁原[やなばる]、湯田原[ゆだばる]
南九州市に 大戸原[おおとはる]、越ケ原[こしがはる]、鳴野原[なきのはる]、藤野原[ふじのはる]、
曽於市に 国原[こくばる]、新原[にいばる]、宮原[みやばる]、緩ケ原[ゆすけばる]
垂水市に 柊原[くぬぎばる]、根木原[ねぎばる]町
鹿屋市に 旭原[あさひばる]、小原[おばる]、大原[おおはる]、小野原[おのばる]、鹿屋原[かのやばる]、
永小原[ながおばる]、根木原[ねぎばる]町、東原[ひがしばる]
霧島市に 川津原[こうづはる]、十三塚原[じゅうさんづかばる]、須川原[すかわばる]、高千穂寺原[てらばる]、
飛ヶ原[とびがはる]、西ノ原[にしのばる]、仁田原[にたばる]、春山原[はるやまばる]
平下原[ひらしたばる]、間手原[まてがはる]
姶良[あいら]郡に
葦谷原[あしだんばる]、楠原[くすばる]、田尾原[たおばる]、田尾原[たおばる]川、
原田平[はるだひら]
志布志市に 野井倉原[のいくらばる]、東原[ひがしばる]
肝付町に 真戸原[まとんばる]
種子島に 伊原[いばる]
中之島に 池原[いけばる]
奄美大島の名瀬市に 崎原[さきばる]、西原[にしばる]、根原[ねばる]
沖永良部島に 西原[にしばる]
徳之島に 崎原[さきばる]、下原[しもばる]、南原[みなみはら→地元では「はいばる」]、前原[めーばる]
◇ 長崎県には、
魏志倭人伝の島
対馬に 下原[しもばる]、北部に中原[なかばる]、宮原[みやのはる]
壱岐に 原の辻[はるのつじ]遺跡 : 射矢原[いやんはる]、片原[かたばる]、大原[たいばる]天神の森、
対陣原[たいのはる]、唐人原[とうじんばる]、原島[はるしま]、深江田原[ふかえたばる]、
與原[よばる]
五島列島の嵯峨ノ島に 竹原[たけばる]教会、先原[さきばる]
松浦市に 池原[いけばる]、田原[たばる]、田原免[たばるめん]、原免[はるめん]、平原[ひらばる]、
盲ヶ原[めくらがはる]
北松浦郡に 本田原[ほんだばる]、盲ヶ原[めくらがばる]
佐世保市に
上原[うわばる]町、大手原[おおてばる]、木浦原[きうらばる]、下の原[しものはる]町、
下原[しもばる]、十郎原[じゅうろうばる]、内陸部に世知原[せちばる]町、田原[たばる]町、
小佐々町田原[たばる]、太ノ原[たいのはる]、中原[なかんばる]、原分[はるぶん]町、平原[ひらばる]
原[はる]、目暗ヶ原[めくらがはる]
宇久島に 大久保草原[おおくぼそうばる]
東彼杵郡に 上原[うわはる]、川原[こうばる]、太ノ原[たのはる]、長原[ながはる]、面丁原[めんちょうばる]
大村市に 大村湾に面して放虎原[ほうこばる]
諫早市に 上原[うわばる]町、新田原[しんたばる]、小長井町に田原[たばる]、高来町に平原[ひらばる]
西海市に 平原郷[ひらばるごう]
長崎市に 小江原[こえばる]
雲仙市に 原[はる]
島原市に 礫石原[くれいしばる]、弘法原[こうぼうばる]、田代原[たしろばる]
島原で読み方が変わった所
大手原[おおてばる→おおてばら]、中原[なかばる→なかばら]、原口[はるぐち→はらぐち]
◇ 沖縄県には、
国頭郡に 具志原[ぐしばる]貝塚 : 喜瀬武原[きせんばる]、城原[ぐすくばる]、桃原[とうばる]、
野原[のばる]、六田原[むたばる]
中頭郡に 木綿原[もめんばる]遺跡:上原[うえばる]、北上原[きたうえばる]、千原[せんばる]、棚原[たなばる]、
桃原[とうばる]、牧原[まきばる]、南上原[みなみうえばる]、屋宜原[やぎばる]
北中城郡に 北上原[きたいいばる]、南上原[みなみいいばる]、屋宜原[やぎばる]
名護市に 運天原[うんてんばる]
うるま市に 伊礼原[いれいばる]遺跡、仲原[なかばる]遺跡 : 西原[いりばる]、江洲原[えすばる]、
桃原[とうばる]、南風原[はえばる]、浜原[はまばる]、与那城桃原[よなしろとうばる]
沖縄市に 桃原[とうばる]
那覇市に 宇栄原[うえばる]、田原[たばる]、首里桃原[とうばる]
南城市に 親慶原[おやけばる]、喜良原[きらばる]、志堅原[しけんばる]、玉城新原[たまぐすくみーばる]
島尻郡に 上田原[うえだばる]、南風原[はえばる]町、屋宜原[やぎばる]、与那原[よなばる]
慶良間諸島の阿嘉島に 岳原[たきばる]山
八重山諸島の宮古島に 底原[そこばる]、野原[のばる]、与那原[よなばる]
石垣島に フルスト原[ばる]遺跡 : 伊原間[いばるま]、底原[そこばる]、野原崎[のばるざき]
波照間島に 下田原[しもたばる]城跡 、
島の100km西に台湾がある与那国島に 田原[たばる]川、
◈ 新しく発見した「原」を「バル・ハル・ハラ・ワラ」以外の読みの地名
周辺の地名から推測すると、「バル・ハル」の語尾が変化したものが多いように思う。
福岡市早良区に 椎原[しいば]
宮崎県の
椎葉村に 間柏原[まかやば]
高千穂町に 才原[さいぼる]
鹿児島県の
曽於市に 下原[しもばい]
日置市に 井手原[いでばい]、原掛[はいかけ]、春原[はらんばい]
肝付町に 中原[なかばい]
佐田郡の南大隅町に 川田原[かわだばい]
肝属郡の錦江町に
大原[おおばい]、上原[かみはい]、崩原[くえんはい]、古中原[こなかばい]、郷ノ原[ごうのばい]、
才原[せばい]、馬場中原[ばばなかばい]、槙原[まつばい]、宮原[みやばい]、宿利原[やどりはい]
鹿児島市桜島町に 磧原[かわらばい]
霧島市に 上野原[うえのばい]、平野原[ひらのばい]
種子島に 郡原[こうりばろ]
◇◇思考の過程を示すために時系列に記す◇◇
「××原」を「××ばる」「××はる」 と読む地名考 <1>
[2001.03.01]
つい最近のことだが、朝日新聞紙上で縄文文化を研究している人の談話が載っていた。そこには、「縄文集落のあったところの名称には不思議と丸山の付いた地名が多い」と書かれてあった。何処がそうなのかは、その人の著作を読んでみないと分からないが、確かに青森の三内丸山遺跡や岡山の丸山古墳はその通りである。
つらつら閑に任せて調べてみると、埼玉・上尾の丸山住居跡、港区芝公園の芝丸山古墳や丸山貝塚、川崎の岡上丸山遺跡、沼津の井出丸山古墳、山梨の丸山塚古墳、長野の丸山古墳群、愛知・岡崎市の丸山古墳群、岐阜の丸山遺跡、富山の眼目新丸山遺跡、奈良の丸山古墳、京都・舞鶴の三浜丸山古墳、和歌山の丸山古墳、島根の小丸山古墳、佐賀の久保泉丸山遺跡、・・・といった具合。これらはほんの一部で、指摘されたように確かに多い。全国に散在しているということは、「丸山」という地名は古代から存在していたということだろう。恐らく、「まるやま maruyama」という発音のどこかに古代につながるヒントが隠されているに違いない。例えば「大きな円墳」から「丸山」という地名が付いたとか・・・。
私たちが高校生の頃には地名や文化などを研究する「人文地理」という科目があった。昔の地名には歴史的な何かの情報が隠されていると、その時の先生も話されていた。昭和の時代は町名改称が一種のブームで、大字・小字を無くして「何丁目何番地」という連番地名に改めた所が多い。貴重な情報が失われてしまったことは極めて残念である。
以前、「地名に『館』の付いた街」の稿で、「××舘(だて)」という地名が茨城の下館以北にしかなく北限が北海道の凾館であることを書いたが、九州にも同種の地名がある。「…隈(くま)」、「…丸(まる)」と、「…原(ばる・はる)」という地名である。特に魏志倭人伝に載っている「巴利国」が「はり・はる」国とも読めそうなだけに、本稿では「・・・原(ばる・はる)」について考えてみたい。
「・・・原」という地名を「・・・ばる」とか「・・・はる」と読ませているが、魏志倭人伝に「巴利国」という国が出て来る。しかも、邪馬台国の比定地でもある福岡県に多く見られるというのも気になる。また、この読み方は不思議なことに九州地区だけに限定される。他の地区では、「はる」という読みには「春」か「治」を当てることが多いようである。
思いつくままに挙げただけでもかなりな数にのぼる。例えば、福岡県には前原(まえばる)、唐原(とうばる)、春日原(かすがばる)、原田(はるだ)、萩ノ原(はぎのはる)峠、人形原(にんぎょうばる・ひとかたばる)、大分県境には竹原(たけはる)峠、長崎には世知原(せちばる)町、原(はる)島、佐賀県には吉野ヶ里遺跡の近くに目達原(めたばる)、中原(なかばる)、大分県には野津原(のつはる)、天神原(てんじんばる)山、石垣原(いしがきばる)台地、川原(かわばる)川、熊本県には西南戦争で有名な田原坂(たばるざか)、岡原(おかはる)、宮崎県には高原(たかはる)町、宗麟原(そうりんばる)供養塔、沖縄県には南風原(はえばる)、与那原(よなばる)といった具合である。細かく挙げれば、これら以外にも数え切れないほどある。
驚いたことに九州だけでなく、東南アジアにも「バル」の付く地名がある。関連性があるのかどうかは不明だが、ボルネオ島北部のマレーシア・サバ州の州都はコタキナバルと言う。その近くにコタバルという町もある。また、キナバル山という有名な山もある。ボルネオ島南部のインドネシアにもコタバルという地名がある。マレー半島にもタイ国境近くにコタバル、シンガポールの近くにジョホールバルという都市がある。
こうして見てみると、「ばる」という読みは南方から入って来た外来語のような気もする。しかし、そうとも言い切れない点もある。と言うのは、古代に南方から黒潮に乗ってやって来た人々が四国や和歌山南部の尾鷲(おわせ)付近や東北地方まで太平洋岸の広範囲に住み着いていると言われているが、何故、それらの地区に「・・・原(ばる・はる)」という地名が残っていないのだろうか?という疑問が残る。
となれば、韓国からかと思ったが、韓国語では「バル」は「原」、「ハル」は「原、春、広げる」を意味し、「ボル」は「村、集落」を意味するそうである。この点においては韓国から入って来た名称のような気もするが、もしもそうであれば、韓国からの渡来人が大勢入った出雲や越や畿内の奈良地区に存在しないことの説明が出来ない、という不都合が起こる。
ということは、どうも韓国語は起源ではないと言えそうである。そこで「…原(ばる・はる)」地名の分布を調べてみた。やはり九州地区に限定して存在していることははっきりしたが、最も多いと思っていた福岡県は4位であった。「…原(ばる・はる)」地名を見付ける度に更新して現在上記の通りである。
「××原」を「××ばる」「××はる」 と読む地名考 <2>
[2019.06.14]
2001年3月に「『××原』を『××ばる』と読む地名」という本稿を書いた時、ちょっと思いつくままに挙げただけでもかなりの数に上ったが、今回、どうせ調べるならと、郵便番号帖から該当する地名を引っ張り出してみた。中には本来であれば「ばる」や「はる」である筈のものを、市町制の一新か何かの機会に敢えて「はら」や「わら」に読み替えたのではないかと思われるものもあった。それらは表示していないが、住人がいなくなったり、合併したりして地名が消滅したところもあることを考えれば、想像以上に多いのに驚いた。
「原」という字は、全国的には「はら」「ばら」「わら」と読ませており、この読み方は九州にも多く見られるが、「…原」という地名は本州や四国等に比べると九州に圧倒的に多い。高原以外では地形的には稀に台地状のところもあるが、広辞苑には「はら(原)」について「平らで広く、多く草などが生えた土地。特に、耕作しない平地。野原。原野」とある。しかし、「ばる(原)」や「はる(原)」で調べてみても載っていない。九州以外の地域では「はる」や「ばる」という名称には「春」か「治」を当てることが多いようである。
九州では「…原」を「…ばる」とか「…はる」と読ませているが、殆どが濁った音の「ばる」で、「はる」と読ませているのは少ない。この読み方は魏志倭人伝の島である対馬や壱岐から、台湾のすぐ隣の沖縄の石垣島まで九州全域から南西諸島迄広範囲に分布している。しかし、何故か、目と鼻の先の四国や黒潮に近い和歌山辺りには全く存在しない。海洋国でありながら、九州地区だけにしか存在しないという不思議な地名である。
しかも、その地形を見ると、現地を知っている人なら直ぐ分かるが、必ずしも「野原」や「原っぱ」ではない。平野部と山間部の境であったり、高原であったり、峠であったり、平坦地であったりする。ただ特徴的な傾向として、海岸部には極めて少ないことは言えそうである。そして、その地域にの周辺には必ず古代の遺跡が存在しているように見える。これらは何かのヒントになりそうで、何かが必ずあると思うのだが、まだ皆目見当が付いていない。
超古代の日本には元々人類は住んでおらず、紀元前4~5万年前後に渡来した人類が日本原人となったという説があるようだが、そうなると古代九州にいたと日本書紀が伝える北九州の「土蜘蛛(つちぐも)」や南九州の「熊襲(くまそ)」と呼ばれる民族との関係が考えられそうだ。
また、紀元前100年頃には既に中国の揚子江周辺から直接九州へ渡来する人々や、台湾・琉球列島を経由して渡来する人々や、朝鮮半島を経由して日本海側から渡来する人々がいたようである。これらの朝鮮半島諸国や中国との国交が盛んであったことが、「前漢書地理誌燕地の条」や「魏略」や「魏志倭人伝」等に出ている。特に筑紫の君「磐井」の時代の前後は、新羅とは鉄を通じて強力な関係が出来上がっていたようである。その名残りは、 九州の各地の「…原(ばる・はる)」の近くに「白木」とか「白木原(ばる)」という地名で残っている。
ということは、古代九州には「熊襲」や「土蜘蛛」等の原住民系と新羅系韓国人が住んでいたことが推測できる。それが「磐井の乱」に代表されるように、5~6世紀に百済や高句麗と組んだ大和朝廷が九州を征討征伐した。それらの征討征伐戦争によって倭国の原住民系と新羅系の住民が追い立てられるように散り散りに逃げたことが想定される。その逃げ延びた先が山間部であったのではないか。
そのために海岸部に「…原(ばる・はる)」という地名が少ないのではないだろうか。そんなことも考えるが、これだけでは「…原(ばる・はる)」という地名が本州や四国に存在しない理由が説明出来ないという謎が残る。
また、魏志倭人伝に読み方が「はり」とも「ばり」とも読める「巴利国」という国があったことが記載されている。これも何か関連があるかも知れないとも考えている。ひょっとしたら巴利国の人々が移住して出来た町かも知れないと思ったりしているが、それにしては分布が広範囲に過ぎるという難点がある。
東南アジアのインドネシア語圏にも「バル」の付く地名があることは既に述べたが、インドネシア語で「バル BARU」は「新しい」という意味だそうである。であれば「移住」して出来た「新しい」集落ということかも知れない。しかし、人口もさして多くなかった古代に、これほど広範囲な地域に、しかも不便な地区に移住して来たという理由を説明するのは難しい。
だが、対馬や壱岐島にまで「ばる」という独特な発音が残っていることを考えると、矢張り古代に後世日本原人の祖となる南方系の渡来人が大勢黒潮や対馬海流に乗って渡来したことと無関係では無さそうな気がする。「ばる」という発音も南方から入って来た外来語のような気もするが・・・。いやはや、超難問である。
「××原」を「××ばる」「××はる」 と読む地名考 <3>
[2019.8.31]
大変な作業の割には結論らしきものもなく残念だが、ひとまず本稿はこれで最終稿とする。「原(バル・ハル)」地名を丹念に調べていく過程においていくつか「地名や苗字に関わる面白い発見」があったが、これらは何かの機会に出稿しようと思う。
18、9年も昔のことだが、魏志倭人伝にいう「…至末盧國…東行至不彌國…次有斯馬國 次有巳百支國 次有…次有巴利國…」という国々の所在について不彌国(宇美)以降を調べているとき、「…原」を「ばる」とか「はる」と読ませる地名が福岡県に異常に多いことに気が付いた。その時、ふと頭に浮かんだのが「巴利国」である。「巴利」というのは「バリ」あるいは「ハリ」と読むのかも知れないと思って、調べ始めたことに端を発する。
最初は九州のドライブ地図帳を眺めることから始り、次に郵便番号リストに進み、更に国土地理院や埼玉大学の「今昔マップ」等諸々のMAPを経て、最終はスタンフォード大学図書館が公開している100年ほど前の5万分の1地図であった。やはり100年ほど前の地図にはかなり多く記されていたが、残念なことは振り仮名が少なく「はら」なのか「ばる・はる」なのかの判定が付かないことであった。已む無くこれらについては一件一件ネットで読み方を調べた。
しかしこれらの作業は際限(きり)が無く、調べれば調べるほど正に「ドツボ」に嵌まって行く感があった。途中、馬鹿々々しくなって何度も放り投げようかと思ったが、行き掛かり上何らかの結論は出したいと考えた。その終盤、「バラ・ハラ」とは違った「バイ」「ハイ」「バ」「バロ」という新たな読みを福岡県早良区と大隅半島と種子島に発見した。地域特有の訛りの強い発音の所為でそのような表記になったのだろうと推測しているが、語源的に異なるという説もあるらしい。
「沖縄のハル・バル地名」や「うるま市の地名~小字編~」によれば、今は多くが消滅しているが、琉球諸島の「バル・ハル」地名は全小字名の九割ぐらいを占めていたのではないかと書いてある。九割とは如何にも極端すぎると思い、下記の数値には取り合えず沖縄に「+200」を加算した。ということは、矢張り「バル・ハル」という名前は大型船のない縄文時代、紀元前後頃から小舟によって南方から島伝いに九州に渡来した人たちがもたらしたのだろうと推測している。
DNAによって日本人の分布を見ると、東日本と西日本とでは明らかな区分が見られ、西日本特に九州は北方よりも南方からの移入が多かったことを示しているらしい。南方系とは中国やベトナムやマレーシヤ系を言い、北方系とは主に韓国系を意味すると考えればよい。西日本でも近畿・中国あたりは、東日本ほどではないが、比較的北方系が多いようである。
恐らく日本原人はこの「バル・ハル」民族だろうと考えているが、具体的には日本書紀が「アイヌ」とか「熊襲」とか「土蜘蛛」と呼んだ民族が日本原人であろうと思う。九州にもアイヌ系の地名が残っているという説もあるようだし、新日本人、即ち新渡来人が北九州から中国・近畿地区へ渡来し、旧渡来人である日本原人を東西に分断したのだろうと思う。
この稿に掲げた「原(ばる・はる)」地名は、恐らく現存している殆どを網羅出来たのではないかと思っているが、中には昭和に流行った市町村名改称によって「ばる・はる」という呼び名を「ばら、はら、わら」に変えた所や、あるいは消滅した所もあるかも知れない。また振り仮名の付いていない「原」の中にもまだ100~200件前後は「バル・ハル」地名が存在している可能性があると思われる。
これらを調べるには、現地に行って古老に聞いて確認するか、市町村役場に問い合わせるくらいしか方法は無いように思う。そういう意味では個人の趣味レベルでは限界であると言える。
「原(ばる・はる)」地名の内訳は次の通りである。その数を県別でみると、大分県352、熊本県261、宮崎県257、福岡県185、佐賀県72、鹿児島県63、長崎県56、沖縄県231(31+200)合計1,477件となる。大分県がダントツの1位で、熊本2位、宮崎3位で、当初最も多いと思っていた福岡県が可成りの間をおいて4位というのは予想外であった。
しかし、九州の目と鼻の先にある四国や山口、島根、それに紀伊半島と調査範囲を広げてみたが、やはり全く見当たらない。この謎は深まるばかりである。当初からの推測通り、九州、沖縄以外の県には全く存在していない。また、島で見ても、対馬、壱岐、五島列島の嵯峨ノ島、宇久島 、九州島、奄美諸島、琉球諸島の八重山諸島に存在し、島根県の隠岐の島や福岡県の沖ノ島には存在しない。
地名に「原」を使うこと自体が九州以外では少ないようだが、山口県長門市と島根県出雲市に「原」の付く地名がやや多いように思った。しかし全て「はら」や「わら」と読んでおり、「バル・ハル」地名は存在しないことも分かった。
都市化や逆の廃村化の進行とともに消滅したものも可成り多いのではないかと思うが、スタンフォード大学図書館の「100年前の5万分の1地図」によって可成り保存されていたと言えるようである。数値だけから判断すれば、沖縄が発端であることは間違いないと思われる。九州で見ると、大分県と熊本県と宮崎県と福岡県の山地・山麓・高原に異常に集中していることが分かる。
こうしたことから見ると、九州の「ばる」の発祥地は4県が交わる阿蘇・久住山・高千穂周辺である様に見える。山岳信仰の山である英彦山の周辺山村にも極めて多い。これらの地域は九州の屋根と称される山岳地帯で繋がっており、分布状況もそれら山岳地帯の周辺に集中している点で一致している。
そして、これらを調べていて判明したことは、殆どの「原(ばる・はる)」地名の周辺地区に縄文・弥生の古代遺跡や古墳が存在していることである。即ち、これらの地区には縄文時代後期~弥生時代初期・古墳時代に人が生活を営んでいたことが考えられるということである。人が生活するというからには、その地区に何らかの利点がある筈だが、このような山深い不便な地区に住む利点は何だろうか?あるいは逆に見れば、人が来ないような地区に住まわなければならなかった理由は何だろうか?邪馬台国時代の国々の比定からは脱線するが、判明した点と発生した疑問点を掲げる。
[1] 高千穂、阿蘇、久住、由布の山岳高地や耶馬渓等の周辺に多く存在する。
[2] 「バル・ハル」地名の周辺地域には縄文遺跡や弥生遺跡が存在する。
[3] 海岸から少し入った地区から久住・九重高原や高千穂などの相当な内陸部にも多数存在する。海岸地区や近隣の島には殆ど存在しないのは、渡来人が入って来るからか?それとも狩猟民族なのか?
[4] 長崎県の対馬・壱岐・宇久島には存在するが、近くの隠岐島や沖ノ島等には存在しない。朝鮮系の名称であれば隠岐島にはあって然るべきと思うのだが・・・。
[5] 個々の「バル・ハル」地区の広さを推測すると、極めて狭いものもあるが、逆に近世において「上××原」「中××原」「下××原」と表記されているように可成りな広さがあるところもある。
[6] 渡来人系の集落であれば九州以外の四国や紀伊や山口・島根辺りにも存在していなければならないが、その形跡がない。何故か?
[7] 古代の渡来系縄文人に関係があるとすれば、東北の縄文・弥生遺跡の周辺にも存在していなければおかしい。
[8] 渡来人に追われた人たちが内陸部に移住して作った集落とした場合、「バル・ハル」という地名が対馬から九州全域と沖縄の八重山諸島の石垣島まで存在することは余りに広域過ぎ、逃げた先であるとは思えない。広範囲に存在する理由がある筈である。
[9] 逆に「バル国」という国が大分の宇佐・由布・日田・玖珠郡あたりにあったと仮定した場合、同じような相似系の名称が極めて多いのは、何らかの原因で「バル国」の人々が九州各地に拡散したのだろうか?
[10] ただ、この地名の発現が沖縄と初期の邪馬台国内に限定されているように見えることに、何かの意味が隠れているのではないか?
と、数多くの疑問が湧いて来る。原(バル・ハル)」という言葉は韓国語に語源があるという説が大勢を占めているようだが、それで説明が付かない点も多く、私には南国語源も捨て切れないものがある。
「バル・ハル」の人々が生活していた時代というのは、我が国に100余国の小さな国があちこちに存在し、それが30余国に収束して更に王国へと発展していた頃のように思う。その時代というのは、魏志が「倭国乱」と言う時代で、男王や女酋が誕生していた時代と重なるように思う。即ち、縄文時代後期から弥生時代前期・古墳時代初期の頃で、王墓が誕生し、前方後円墳が誕生した頃である。
そして前方後円墳は倭国の統合が進むにつれて段々と巨大化していった。3世紀頃に安芸や出雲の西部に「四隅突出型墳丘墓」というのが現れ、殆ど同じ時期に出雲に「方墳」が現れている。200年~300年頃のことだと思われる。
247年か248年に卑弥呼が亡くなり、「殉葬者奴婢100余人」「径100余歩」という「円墳」が築造された。その円墳はまだ発見されてはいないが、奴婢100余人が殉葬されているという規模は決して小さくはないと言える。この時代の豪族の古墳様式は九州は円墳、出雲・吉備・越等は方墳や四隅突出型墳丘墓が主であった。卑弥呼の墓を畿内の箸墓古墳としたり、糸島市にある王墓とする説もあるが、殉葬者が60数名確認されている久留米市御井町の祇園山古墳を卑弥呼の墓と唱える人もいる。
残念ながらこの祇園山古墳は破壊されて一部しか保存されていないようである。場所が邪馬台国の比定地でもあり、しかも墳頂が方形で、底部は円形のようであるので円墳と見てよさそうだし、時代も3世紀半ばの造りで合致している。北九州の古墳の特徴である鏡や剣も出土しているようである。
ところがややこしいのは、奈良県桜井市箸中に存在する「箸墓古墳」である。この古墳は、以前は4世紀半ばの古墳とされていた古墳だが、新しく開発された年代測定法の「炭素14 年代測定法」によって100年ばかり古くなった。これによって卑弥呼が亡くなった時期と、3世紀半ば築造という大型の「前方後円墳」の矛盾が解決されたことになり、これで邪馬台国畿内派が勢いを取り戻した。
この測定法は、当初から測定値が100年ほど古く出ると異論を唱える人がいて疑問視されていたが、邪馬台国畿内説の人たちにとっては実に都合がよく、疑問が提起されただけで今に至っている。どうも結論を出したくないのではないかと勘繰りたくなる。
「××原」を「××ばる」「××はる」 と読む地名考 <4>
[2019.11.20]
先に掲げた「10の疑問」をもう少し考えてみたい。
1.「高千穂、阿蘇、久住、由布の山岳高地や耶馬渓等の周辺に多く存在する」。「海岸から少し入った地区から久住・九重高原や高千穂などの相当な内陸部にも存在する。海岸地区や近隣の島には殆ど存在しないのは、渡来人が入って来るからか?それとも元々が狩猟民族なのか?」
この地区は正しく九州の屋根と称されるところである。清流や台地も多く、獣や魚や木の実等が豊富な地域で、狩猟民にとっては恰好の地であったと思われる。他に金銀銅等の鉱物資源も豊富で、それらを溶かす火、即ち木や石炭にも恵まれている。このような地区での仕事というのは狩猟は勿論だが、土や鉱物を扱う熔工人や陶師が考えられる。魏志倭人伝には「倭国は山と海ばかりで平野が少ない」とあり、「魚をよく捕る」人たちが住んでいる」と海浜地区の人々のことは詳らかに記しているが、山地に住む人たちのことまでは触れていない。ということは、中国の人たちが知らない民族であると言うことが出来るのではないだろうか。
2.「バル・ハル地名の周辺地域には縄文遺跡や弥生遺跡が存在する。」
ということは、「バル・ハル」民は相当古い年代、具体的には紀元前後から居住していたことを示していると考えられる。「バル・ハル」地名が海浜に少なく、殆どが山間地に存在するということは、狩猟民であればどうしても生活の拠点を山間部に求めるだろうし、古代は海水が高かったために海岸線が内陸部まで入り込んでいたことも大きく関係しているのではないかと思われる。しかし、僅かだが海浜地区にも存在する。
3.「長崎県の対馬・壱岐・宇久島には存在するが、近くの隠岐島や沖ノ島等には存在しない。朝鮮系の名称であれば隠岐島にはあって然るべきと思うのだが・・・。」
古代の中国は、新羅を「倭国」として見、新羅人を「倭人」と称していた時期もある。新羅も、倭の属国だった時期もあるようだし、九州の各地に「白木」という村が存在することや新羅に前方後円墳が存在することなどから見ても、新羅人と和人の間には同一国民的交流があったと見てよさそうである。
その点、新渡来人と目される朝鮮半島北部の高麗系朝鮮人とは人種的に異なるように思う。対馬や壱岐に「バル・ハル」地名が多く存在し、さほど離れていない隠岐島や沖ノ島に全く存在しないというのは実に不可思議である。大体、文化というものは時間の経過とともに西から東へと伝播していくものと言われているが、大分の目と鼻の先の四国や、関門海峡を挟んだ向かい側の山口県、海流に乗れば隣組のような出雲などに、西から東へ伝播していないのも不可思議と言える。まるで境界線でも引いたかのように一件も存在しないという理由が分からない。
4.「『バル・ハル』地区の広さを推測すると、極めて狭いものもあるが、逆に近世において『上××原』『中××原』『下××原』と表記されているように可成りな広さがあるところもある。」
険しい山地や渓谷に住んだ人々もいるし、山地において農業に携わった人たちもいるというこから考えると、本来は狩猟が主体の「バル・ハル」民も長い間に特定の場所に定着し、農業を覚えていった人たちもいるということだろうか?
5.「渡来人系の集落であれば九州以外の四国や紀伊や山口・島根辺りにも存在していなければならないが、その形跡がない」。「古代の渡来系縄文人に関係があるとすれば、東北の縄文・弥生遺跡の周辺にも存在していなければおかしい。」
日本列島には人類は住んでいなかったらしいから、そういう見方からすれば、大きな意味で彼ら「バル・ハル」民も渡来人であると見てよい。彼らこそが日本原人の末裔だろうと思う。四国や紀伊・山口・島根辺りに「バル・ハル」地名が無いのは高麗系の新渡来人が渡来した、謂わば外国のような地区にわざわざ九州から出て行くこともなかったということではないだろうか。同じことは東北等の他の地区についても言える。
6.「渡来人に追われた人たちが内陸部に移住して作った集落とした場合、『バル・ハル』という特異の読み方の地名が対馬から九州全域と沖縄の八重山諸島の石垣島まで存在することは余りに広域過ぎる。」
「バル・ハル」民たちが新渡来人に追われて集落を作ったと仮定すると上記のような不都合が起こるが、元々九州の山地に住んでいた人たちであると考えれば、特に違和感はない。元々は山地に住んでいた狩猟民の人々であろうと考えるが、中には少数であるが海浜に住んで漁労民となった人々もいるだろうと思う。
7.「‘バル国’という国が大分の宇佐・由布・日田・玖珠郡あたりにあったと仮定した場合、同じような相似系の名称が極めて多いのは、何らかの原因で『バル国』の人々が九州各地に拡散したのだろうか?」
矢張り、魏志倭人伝が言う「バル国(巴利国?)」があったという仮定は苦しいように思う。むしろ「バル族」とでもいうような民が生活していたことを示しているのではないだろうか。共通の統治組織を有していれば「国」ということになる訳だが、単に同じような仕事をしている人たちの集団を示しているだけではないだろうか。「…原(ばる・はる)」という同じような名前の集落が九州から沖縄列島までの広範囲に存在するというのは、やはり何らかの関連性を示唆しているように思う。元々は阿蘇・久住・由布・耶馬渓・宇佐の安心院(あじむ)辺りが祖であるように思う。
後世、大和朝廷が九州征伐をする際、「大和朝廷に(表向きは「天皇に」)従わずに逆らった」という民も、彼らが鉄器の技術を持っていたが故に逆らうことが出来たのではないだろうか。余程の恨みを買ったがために、大和朝廷に「土蜘蛛」や「熊襲」と蔑んだ名称を付けられたのだろうと思う。
8.「この地名の発現が沖縄と初期の邪馬台国内に集中していることに、何かの意味が隠れているのではないか?」
この県別調査結果から見ると、「初期の邪馬台国内に集中している」と考えたのは正しくないようである。むしろ、中国の史書が「倭国は百余国に分かれ、相争う」と表現した時代、邪馬台国が誕生する前後の九州の状況であると言えそうである。感覚的には、紀元前100年~起源200年頃のことではないかと思う。
大体、「バル・ハル」民とは一体どういう人達であろうか?どういう人達であるかが分かれば、山間部に多い「…原(ばる・はる)」という町も理解できるかも知れない。更に、渡来人にとって、近隣でかつ移動にそれ程難しいとも思えない四国や山口や出雲に「バル・ハル」地名が全く存在しないことにも何らかの理由がなければならない。九州や琉球だけが完全に独立した「バル・ハル」地名圏であって、まるで別の国のような印象を受ける、という異常さを感じる。
この「…原」を「バル」あるいは「ハル」と読む地名は、台湾のすぐ近くの石垣島から八重山諸島、琉球列島、屋久島、種子島、九州本島、天草島、五島列島、壱岐島、対馬島と線で繋がったように存在している。ところが前にも述べたように、隣接している四国や山口、島根、隠岐の島などには全く存在しない。日本人自体が南や北の方々からの渡来人が祖でありながら、そして彼らによって出来上がった島国でありながら、「バル・ハル」地名はまるで一線を引いたかのようにクッキリと区分されている。
この分布状況だけを見れば、南から上って来たようにも見えるし、あるいは北から下って来たようにも見える。しかし、この分布が「バル・ハル」民の移動によって出来たものと考えれば、当然、出発点となる中心地がなければならない。そういう目で分布状況を見ると、明らかに集中が目立つのは、九州の屋根と言われる阿蘇・久住・由布・英彦山周辺の山間部と、琉球・沖縄である。分布の地形から見ると、琉球島の「バル・ハル」民は魚も獣も獲る漁猟民のように思えるが、九州の「バル・ハル」民は漁労民ではなく、狩猟民であるように思える。
九州の状況をもう少し細かく見ると、英彦山北部の嘉穂・田川地区から京都(みやこ)・中津・宇佐の耶馬渓・安心院(あじむ)地区、由布・久住山系から祖母山系に至る玖珠・久住地区、そして阿蘇山、所謂九州の屋根と呼ばれる山岳地帯を経て鯛生金山のある日田、九重に囲まれた円形の地域に顕著な分布が見られる。
この地区の特徴としては、火山地帯で硫黄の産出が多く、金山や銅山も随所にあり、鉄や石炭にも恵まれており、水にも恵まれていると言える。勿論、 森も多く、木材も豊富であるし、猪や鹿等の獣も獲れた筈である。山間部のこれらの地区は狩りをしたり炭を作ったりするには至便だが、人が生活する場所としては決して楽な場所ではない。冬は寒いし、夏は暑い。
耶馬渓なぞは今でこそ道路が整備されて有数の観光地となっているが、当時は渓谷と奇岩の地で、修験僧には恰好の修行の地であったかもしれないが、常識的にはとても人が住むような場所ではなかっただろうと思う。周辺にはもっと楽に生活出来る場所があると思えるのだが、そうもいかない特別な理由があったのだろうと思う。
英彦山北面の筑豊には石炭や銅、東面の耶馬渓には鉄や銅、日田から玖珠郡には金銀銅、というように諸々の鉱物資源が存在することは特筆して置かなければならないように思う。近世にはなるが上野(あがの)焼きや小鹿田(おんだ)焼という有名な窯場もある。いずれも「火」に関わりがあることも無視できない。
これら「バル・ハル」地名の周辺には縄文遺跡や弥生遺跡も存在しており、さらに銅や鉄等の鉱物資源も豊富に存在することから見て、感覚的には、九州の「バル・ハル」民の多くは紀元前後の渡来人ではないかと考えている。縄文後期から弥生初期の最先端地域ではなかったのか。具体的には、銅や鉄の先進地である長江系渡来人と、中国の史書が一時「倭」と同一視した新羅からの渡来人が主で、渡来人として数えられている日本から新羅に渡って技術を身に着けて戻って来た「熔工人」たちもその一部ではないだろうか。
それが、銅や鉄という当時の最新技術を身に着けた渡来集団が産地と思しき地を探索して居ついた所が「バル・ハル」地名となって残ったのではないだろうか。当然、彼らの間には情報や物資の交換があった筈で、「バル・ハル」地名というのは仲間を示す「旗」や「目印」のようなものだったのだろうと思う。
さらに、渡来人にとって近隣で移動にそれ程難しいとも思えない四国や山口や出雲に「バル・ハル」地名が全く存在しないことにも何らかの理由がなければならない。例えば、「バル・ハル」地名圏とそれら地区が別の国家ぐらいの断絶があれば、人の動きにも制約が掛かり、「バル・ハル」地名が波及しないことも納得できる。
この頃の朝鮮半島は、新羅と高句麗は民族も違って極めて仲が悪く、度々戦っていたようである。反面、新羅は琉球と九州の小国とは頻繁に往来する程親しかったようで、琉球諸島も新羅からの渡来人が殆どだったようである。高句麗系の渡来人は主に越や近畿等に渡来し、九州には殆ど渡来していないようである。従って九州には「白木」とか「白木原」という地名が津々浦々に存在しているが、高句麗系の集落は殆ど無いと言っていいくらい少ない。
これらのことから考えても、一寸強引な仮定かも知れないが、殆どの「バル・ハル」民が高句麗系の地区へ移動することなく、仲間の多い九州圏内に留まっていたために「バル・ハル」地名が九州から外へ伝播しなかった可能性が大きいと言えなくもない。しかし、邪馬台国成立以前の小国乱立の頃の状況であるだけに、正直なところ、何とも不可思議としか言いようがなく困っている。
結論的には、「バル・ハル」民というのは、縄文末期から弥生初期の頃に主に新羅から渡来した「熔工人」集団だろうと考えている。秦の徐福は新羅のその動きを見て、中国の「熔工人一家」集団を引率したのではないだろうか。いずれにしても、「熔工人」である彼らとしては鉱物資源と鉱物を熔かす燃料を求めて山間部を転々と渡り歩いたのではないだろうか。その足跡が「…原」という「バル・ハル」地名となって広域に残ったのではないだろうか。鉱物を掘り尽くせばその地は用を終える訳で、町としても発展せず、同じような地名だけが方々に残ったのではないだろうか。
(完)