沖縄から改憲議論盛り上げよ 元自民党沖縄県連会長 西田健次郎氏

祖国復帰50年 新時代への提言 7

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1963年、米国民政府(USCAR)が運営する琉球大学に入学した。私と同世代は27年にわたる異民族の軍事占領に喘(あえ)いでいた。

祖国復帰運動も66年以降は赤旗と労働組合旗一色になった。大学のキャンパスには大学生の命題である「真理の探求」の学業よりも復帰闘争の政治の嵐が吹き荒れていた。

左翼学生は「マル研」「革マル」「社青同」「民青」などマルクス・ヘーゲル・レーニン闘争のセクトが争っていた。

自民党系の立法院議員や団体は排除されはじめ、激しい論争と戦いになり、リベラルであったはずの私は、保守本流の思想と行動に傾倒した。7人の仲間で自由民主党学生支部(自学同)を結成したことがきっかけで茨の政治人生を歩むことになった。

にしだ・けんじろう 1943年、国頭村生まれ。琉球大学法政学科卒。沖縄市議3期、県議を5期務める。その間、自民党沖縄県連幹事長、会長など歴任し、現在OKINAWA政治大学校名誉教授。日本台湾平和基金会理事長。

当時は数十万人のデモ隊が騒いだ第1次安保闘争の余韻があり、さらに、小田実が煽(あお)ったベトナム戦争反対運動は、共産主義革命が日本でも可能だという幻想が広がりつつあった。全学連の東大安田講堂占拠のような大学紛争も頻発していた。

沖縄では、行政主席(知事に相当、米軍が指名推薦し立法院が承認)指名粉砕をはじめ、子供たちの教育を受ける権利を蹂躙(じゅうりん)する学校閉鎖ストの連発、自衛官の住民登録拒否、選挙の際の投票所への入場阻止、自衛官の琉球大学入学妨害などの過激な左翼闘争が日常茶飯事であった。

あまりのすさまじさに業を煮やした琉球政府と保守派は、沖教組の政治闘争至上主義を野放しにしていれば子供たちの学力はますます低下するとの憂慮があり、ついには教育公務員に本土並みの教員像を求めて「教育公務員法」改正を目指した。

沖縄の政治史上、特筆される「教公二法」闘争が展開されたのである。機動隊員が反対グループにごぼう抜きにされ、自民党の立法院議員と支援団体として急先鋒にいたわれわれ自学同も院内控室に缶詰にされ、トイレもままならない異常事態になった。

左翼と対峙(たいじ)するわれわれの運動も先鋭化せざるを得なくなり、それこそ身命を掛けて再三の肉弾戦も演じたので、何度も警察に連行された。

全学連を先頭に、人間の本性を無視した唯物史観に悪酔いした燎原(りょうげん)の火の如(ごと)き左翼革命運動の結末は、よど号乗っ取り事件、テルアビブ空港での日本赤軍の無差別乱射事件、あさま山荘事件やその後発覚した連合赤軍リンチ殺人事件などで終焉(しゅうえん)となった。

ところが、今ではこうした左翼革命闘争の残滓(ざんし)が沖縄に入り込んで反基地闘争を繰り広げている。これに取り込まれてしまったのが翁長雄志前知事だ。彼は自民党青年局時代の後輩だが、ある日、那覇市長と県知事を狙っていて、そのために基地問題で反対の旗を振ると言ってきた。その時、「後で大変なことになるよ。それだけはやめてくれ」と忠告した。

ただ、翁長氏が2012年頃に「オール沖縄」体制を構築するにあたり、革新がその誘いにのってしまったことは、革新自身を弱体させることになった。

今こそ、基地と経済がリンクしていることをはっきりさせる。そして、中国共産党の野望を抑えるよう、沖縄から改憲と国防の議論を盛り上げなければならない。(聞き手・豊田 剛)

(終わり)