兄・邦雄さんらの支援でフォーミュラーカーを購入し、80年にはFL550クラスで年間チャンピオンに輝きます。81年からハヤシレーシングに加入し、FJ1600へステップアップ。

ハヤシレーシングの畑川治マネージャーは、当時を振り返ります。

ハヤシレーシング 畑川治マネージャー
「『宮様』って呼んでいたんですよ。皇室にいてもおかしくない」



畑川は、その速さに驚嘆したといいます。

ハヤシレーシング 畑川治マネージャー
「ぶっちぎりで、しかも雨だったかな。3位以外、全部1周遅れにしちゃったんですよね。ダントツで速かったです」



さらに82年、F3にステップアップしますが、同じハヤシレーシングのエースドライバーに、のちにF1で活躍する鈴木亜久里もいました。

ハヤシレーシング 畑川治マネージャー
「その1年に関して言えば、1年の間に腕を上げて亜久里君を追い越すぐらいのそういったスピードを見せましたから。本当、とんとん拍子です」

鈴木亜久里は、90年のF1日本グランプリで3位に入賞するなど、日本を代表するトップドライバー。現在は、国内ナンバー1の観客動員数を誇るスーパーGTでARTAというチームを率いています。

ADVERTISEMENT



鈴木亜久里さん
「本当にもう天性で走るドライバーだね。自分で感じ取って、それで走らせられるドライバー。ライバルだと思ったけど、彼は俺より才能あるなと思った。たぶん彼が生きていたら、もっともっと早くF1に行けたかもしれないね。日本のレース界にとって、もったいないかなと思う」

高橋徹さんは、その年のF3で2位となり、たった3年間余りでついにトップカテゴリーのF2へと上り詰めます。

当時の実況
「さあ、その高橋徹、最終コーナーにかかります。さあ、アクセルオンだ。高橋逃げ切るか、高橋逃げ切るか、2位に入ればルーキーとしては最高の位置であります。今、高橋徹、2位でフィニッシュ」

83年3月、日本最高峰のF2のデビュー戦で高橋徹さんは2位に。いきなり中嶋悟、星野一義ら当時のトップレーサーと堂々と渡り合ったのです。



高橋徹さん(当時)
「終わってホッとしましたね。前半、かなり気持ちも抑えて。スタートをかなりミスったんですけどね。一生懸命、1レース、1レースがんばっていきたいですね。それだけ」

日本のレース界で長年、トップを争ってきた星野でさえルーキーの活躍に驚きを隠せませんでした。



ホシノインパル 星野一義代表
「いきなり俺の後ろに来ちゃうんだもん。馬鹿野郎って言いたい。彼の時代は目に見えていたんでね。自身も負けていられないと。もっともっとがんばらなくちゃいけないと。けっこうスーパースターになる要素はあったね。記憶にはすごい印象深いドライバーだね」

当時、徹さんにあこがれてレース界に入ってきた若者たちも数多くいました。その1人、スーパーGTのレーシングディレクターを務める服部尚樹。



服部尚樹さん
「あこがれで、夢で、目標の選手でしたね」

還暦を越えた今もスーパーGTで現役で走り続けている和田久も徹さんを慕う1人です。



和田久さん
「高橋徹さんっていうのは、ある種、俺がレーシングドライバーになるきっかけになった方。徹さんの遺志を引き継いで、俺が次の徹さんになろうっていう、そういう夢みたいなものを抱けたというのはありましたね」

和田は、FJチャンピオンに3年間(86年~88年)だけ贈られた高橋徹メモリアルトロフィーを獲得していました。

和田久さん
「今まででもらった賞では一番うれしい賞ですね」

そして、元F1レーサーの片山右京ですら徹さんのヘルメットのデザインを真似したといいます。