「長崎にもルルドがあるみたい」と伴侶が話してきて、調べることにしました。「ルルド」とは「ルルドの泉」のことです。ルルドの泉は、南フランスのスペインに近いピレネー山脈の麓の川縁に厳かに潜む秘境地ルルドにある泉です。1858年に聖母の出現によって発見され、ローマ法王庁にも"奇跡"として認定された泉です。幾つもの不治の病を治した奇跡の泉とされます。
1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルー(フランスでは「ベルナデット」)が郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、初めて聖母マリアが出現したといわれています。「聖母」はまずベルナデットに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」と言いました。近くに水は無かったため、彼女は近くの川へ行こうとしましたが、「聖母」が洞窟の岩の下の方へ行くように指差しました。
すると、泥水が少し湧いてきており、次第にそれは清水になって飲めるようになったといいます。これがルルドの泉の始まりです。これまで2,500件が「説明不可能な治癒」とされますが、奇跡と公式に認定される症例は大変少数(68件)となっています。その後もルルドの泉の水によって不治と思われた病が治癒する奇跡が続々と起こり、ルルドはカトリック最大の巡礼地になり今日に至っています。
ルルドの泉は、聖母マリアと同様に、キリスト教カトリックの教会のシンボル的な存在と感じます。過去にエネルギーワークで幾つかのカトリック教会に訪れました。《函館 カトリック元町教会 ~巡礼の旅(27)~》にありますが、函館のカトリック元町教会の裏手には、マリア様の像があるルルドの泉の洞窟を模した祈りの場所ありました。ルルドの泉の意味は、当時は分かりませんでしたが、今は分かります。
洞窟と泉がセットになっているので、隠された松果体収穫の場所だということです。湧水の地という光の場所を封じるために秘密裏に人命を犠牲にして松果体を収穫していたのです。長崎のルルドをネットで調べると、《長崎のルルド巡礼》のサイトを見つけ、長崎市本河内にある「カトリック本河内教会」と分かりました。『聖マキシミリアノ・コルベ神父は、長崎市街地を取り囲む山の一つ、彦山中腹の斜面に、
昭和6年(1931年)、コンベンツアル聖フランシスコ会聖母の騎士修道院(無原罪の園)を創設。5年後に修道院内に現在の聖母の騎士学園の前身である「本河内神学校」を開校した。今現在も発行が続いている月刊誌「聖母の騎士」を創刊させ、日本国民にキリストの福音と聖母マリアの愛を伝えるための出版による布教を活発に行った。修道院を建てる際に、山の方がいいと、コルベ神父自らの希望で、この地を求めたのだとか。
現在、境内にはコルベ記念館、幼稚園、中学、高校があり、この敷地の一番高い場所に本河内教会のルルドがある』とカトリック本河内教会について記述されています。グーグルマップでカトリック本河内教会を観ると、周囲には、高林寺(曹洞宗)、水神社など寺社が多くあり、1km程の距離にシーボルト記念館もありました。ウィキペディアには、「マキシミリアノ・マリア・コルベ(コルベ神父:1894年-1941年)は、ポーランドのカトリック司祭。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなったことで知られ、「アウシュヴィッツの聖者」と呼ばれる。カトリック教会の聖人で記念日は8月14日。マキシミリアノ・マリア・コルベ神父は、1894年1月8日に当時ロシア帝国の衛星国であったポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで、織物職人であるユリオ・コルベとマリア・ドンブロフスカの5人兄弟の次男として生まれた」と記されています。
過去のワークから「裏のキリスト教の教義は、いかに松を取るかが神への奉仕」と伝えられていました。本河内教会のルルドを作ったコルベ神父も、松果体収穫の工作員としての闇の役割を担っていたと感じます。また、本河内教会のルルドが置かれた山が「彦山(ひこさん)」であることも気になりました。「彦」のつく場所は、サンカの拠点であり、松取り場であることが分かっていました。
マキシミリアノ・マリア・コルベ神父の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「トカゲ」と伴侶が伝えて来ました。カトリック本河内教会の山口雅稔司祭、本河内教会のルルド、彦山に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ロスチャのワニ」「松取り場所」「いいです」と伝えられました。彦山を含む本河内の地は重要な水の場所であり、水という光を封じるための隠された松取り場としてのルルドが置かれたのです。(つづく)