12年ほど前になるか。文芸誌の中でも格が高いとされる某月刊誌の担当編集者にこんな話を聞いた。
――巻頭エッセイ(一編2頁)の一つを、AV監督のバクシーシ山下に依頼した。内容は当然のことながらAV制作がらみの、山下ならではのエッセイ。きちんと書けていたそうなのだが、編集長から「これはダメ」と、事実上のボツの指示が出たという。理由は、「女優のウンコを食う」という表現が含まれていたこと。
まあ、バクシーシ山下の得意分野の一つがスカトロだから、当然その手の表現も出てきますわな……。
編集者曰く、「『ウンコを食う』という表現は、Tさん(編集長)の語彙コードにはありえない表現だったんですよ……」。
結局、「女優の小便を浴びる」あたりの表現に修正することで決着がつき、バクシーシ山下のエッセイは掲載された。
新聞でもないテレビでもない、一応専門的な文芸誌にして「ウンコを食う」がダメ……、文学ってその程度のもんなんだな、と思った。今は私も文壇にはすっかり御無沙汰してしまったが、当時は何度か続けて有名なお祭りの当事者になっていたこともあり、文学業界内部の人間として文学表現の許容度にまつわる面白いエピソードだ、と感じたのである。
ここまででも十分私には面白かったのだが、続きがある。
後日、その編集長T氏に会う機会があったので、そのことについてばっくれて尋ねてみたのだ。その場には私ら二人の他に前任の編集長と、確立した地位ある小説家がいた。
「……なんか、山下さんの掲載が難航したと聞きましたが。どこがまずかったんですか?」
するとT氏、一瞬言葉を探すようにして、
「あれはねえ……女性器の名前をズバリ書いたりとかね……」
なるほど……。引用法ですら言えないほど、「良識の壁」は厚いか……。
ざっくばらんな談話の4人だったので、とりたてて遠慮はなかったはず。にもかかわらず間接的に話の種にするのもはばかられる下劣表現のようなのだ、T氏的にはいくらなんでも「ウンコを食う」というのは。(「女性器の名前」なら、同じお下品でも市民権を得たお下品なわけだった)。
やっぱりそんなものかな……とずっと記憶に残っていたこのプチエピソードだったのだが、
そう、このたび
『のぞき学原論』を出版してみて、似たような感慨が甦ってきたわけである。(関連事項はp.199,注25等)。
献本した人々からメールや葉書の個人通信で、「これヤバイんじゃありませんか?」式「反響」を結構もらったのである。活字でも、東京新聞の「大波小波」がその調子に近かったような。ネット上にもその種の「御心配」が書き込まれているよと教示あり。
哲学、とくに数学に近い方面は比較的面白がってくれた反面、肝心の文学や美学の人からは拒否反応が強い。やはり文学は、俗情に依拠し格式を尊ぶがゆえに、馴致されていない主題については保守的なのだろうかと改めて。
ともあれ目下、ウェブでも活字でも「垣間見る」程度のレビューしか当方の目に留まっていないためまだ何とも一般化できないが、このたび、個人通信の典型をかなりストレートに濃縮したような評を活字でいただいたのでここに報告したい。
『熊本日日新聞』3月8日。平川祐弘「書物と私」。
百行ほどのエッセイのうち、14行が私への言及だが――
(前略……)三浦俊彦はラッセルの(……中略……)今年は『劇臭のぞき弁序』という学者の風上に置けぬ臭い本を書いた。三五館はその身も蓋もない題を『のぞき学原論』ともっともらしく改めた。今の日本は言論の自由は憲法で保障されているが、教職から追われることのないよう祈る次第だ。(……後略)
この記事は熊本市在住の知人が見つけて送ってくれたのだが、しばらくして平川先生御自身からもコピーが送られてきた。同趣旨の添え書きつきで。(それにしても〈トイレ盗撮〉という破廉恥なテーマへの言及を回避しつつ、『劇臭のぞき弁序』という旧仮題を示すことでうまくテーマを暗示しおおせたあたり、さすがは文学者。旧仮題を平川先生が御存知なのは、おそらく1月の『出版ニュース』に載せた私の出版予定メモを見たのだと思われる。目ざとい……)
自ら送ってくださったということは、全面的に否定的な反応というわけではないと楽観的に私は受け止めた。しかし比較文学界でも物わかりのよい筆頭である平川先生にしてこの字義的反応ということは、他の大先生がたは推して知るべし……?? 「教職の身にあって立場がまずくならないか?」的反応は予想したよりも多かったので、世の「良識の壁」の意外な厚さ堅さを改めて思い知った次第。
実のところ御心配には及びませんというロジックは、この日記2007/2/11に記したとおり。むしろ出版から2ヵ月、今もって「垣間見られる」程度の断片的反響のみなのが淋しいというか、トイレ盗撮ビデオというアンダーグラウンド分野の「超マイナーで居続けたい」潜航パワーに『のぞき学原論』が押されてしまっているというか、まあそれも覗き的同化の賜物と一部割り切りながら、
次回この日記では、〈世の良識〉に眩まされ隠れてしまっていたら残念だ、と著者が感じる『のぞき学原論』執筆の狙いを、(自分でも忘れぬうちに)いくつかメモしておくことにいたしましょう――……

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