人気番組「欽ちゃんのどこまでやるの!」などを手掛けた元テレビ朝日取締役、編成・制作本部制作局長の皇達也(すめらぎ・たつや)さんが20日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都内の病院で死去した。79歳。広島県出身。告別式は近親者のみで行う。
慶応大卒業後、1964年に日本教育テレビ(現テレビ朝日)に入社。76年、「欽ちゃんの―」でプロデューサーを務めた。「欽どこ」の愛称で親しまれ、関東地区で視聴率42%(ビデオリサーチ調べ)を記録する人気番組に育てた。ほかに「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」「タモリ倶楽部」「ミュージックステーション」「ビートたけしのスポーツ大将」などをヒットさせた。2001年に取締役を退任した後、テレビ朝日社やコンサルティング会社の社長を務めた。
◆欽ちゃん、型破りエピソード明かす
「欽どこ」で皇さんと仕事を共にしたタレント・萩本欽一(79)がスポーツ報知の取材に応じ「テレビプロデューサーになるために生まれてきた人。商社や銀行だったら会社をつぶしちゃう。緻密な計算はできないし、感覚とひらめきで動く人」と評した。
型破りなプロデューサーだった。出演依頼の時も「オレ、サラリーマンで言われて来ただけだから」と口説き文句は一切なかった。ある日突然、皇さんが自宅を訪ねてくると、そのまま半年ほど居着いて寝食を共にした。「オレのパジャマ着て。でも一切仕事の話はしなかったね」。欽ちゃんが楽屋に残り反省会をやっていると「ずいぶん考えるのね」とリハーサル室にセットを作り「朝まで考えていなよ」と告げた。「2週間ほど寝泊まりしたけど、スメさんは一回も顔を出さなかった」と笑った。
企画会議では全スタッフを集め、全員が気持ちよくやるための方法を模索した。視聴率が上がると一切顔を出さなくなったが、自慢話や偉そうな振る舞いもなかった。「声を大にして言いたい! 欽ちゃんが、まだ笑いをやっていられるのはスメさんのお陰。本当にありがとう!」