無想剣、夕雲流も同じですが

自分を着飾る心からの脱却が求められます。

    

ここで韓非の言葉を意訳した文章を紹介します。

   

「君子とは何か?

中身(内心)を重視し、外見を捨て去り、実を好み装飾を嫌う者である。

外見に頼り内心を論じ語る様は、その内心が不格好だからである。

だから装飾を頼り、利用をし、内心が素晴らしいかの如く論じている。

  

ピカソの名画を宝石でちりばめた額に収めることはしないし、

ミロのビーナスを金箔で装飾をすることはない。

これらの名画や彫刻は、そのものに価値があるから

わざわざ宝石や金銀で飾り立てる必要はないのである。

 

そもそも、何かの飾りがなければ論じられないような人物は

その論がどれだけ立派であろうと、実質は虚もしくは偽、疑なのである。」

  

この君子というものを

「真実を追求する武道家」

という言葉に変えてみます。

すると無想剣や他の心の剣の本質というものが見えてくると思います。

    

何かで装飾をしないと立派には見えない人物は、

そもそも立派ではないと言う事です。

  

そして

元が悪ければ悪いほど、飾れば飾るほどに良く見える

ようになります。

      

  

なお

「装飾を用い、頼り、利用をして内心が素晴らしいかの如く論じている。」

という下りは、夕雲流剣術書では

「聖賢仏祖の言葉の噂話を利発に聞きたるまで。」

「賢き者。」

と表現されています。

  

  

余談ですが

「見ざる、言わざる、着飾る」

とは

有名な武術家・軍師などの噂話や映像を聞いたり見ざるだけ、

そして、その情報(噂話)を人に言わざるまで。

そして自分を大人物のように見せるために

着飾る

となります。

 

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