作品研究10
第二期ウルトラスポ根的ドラマ論
~『帰ってきたウルトラマン大全』を読み解く~


2003,01,12 UP

『帰ってきたウルトラマン』には、当時ブームだったスポ根ものの影響をうけた部分が作品内にみうけられる。これは「キリギリまで自分を追い込む人間 のドラマ」というものを狙ったためであるという。このコンセプトはやや形而上的であり、そのコンセプトをより明確にするため、スタッフは当時流行だったス ポ根ものの要素を導入したのだ。

 この「キリギリまで自分を追い込む人間のドラマ」というコンセプトは、『怪奇大作戦』におけるドラマと共通したものを感じる。『怪奇大作戦』は、 「キリギリまで自分を追い込む人間」は主に犯人の方だったと言える。『新マン』は、この「キリギリまで自分を追い込む人間」を主人公に設定したといえない だろうか? そしてこの「キリギリまで自分を追い込む人間」を主人公にすえたドラマ作りは、後の『ウルトラマンレオ』において、より過激な形で描かれるこ とになる。

『新マン』で、スポ根ものの影響がもっとも顕著なのは4話『必殺!流星キック』である。この回は横方向の攻撃をバリアーで防いでしまう怪獣キングザ ウルス3世を倒すため、郷が怪獣のバリアーを飛び越える特訓をするというものだ。この回はかねてから「ウルトラマンは空を飛べるのにジャンプの特訓をする 必要があるのか?」という疑問点が指摘されていた。

 しかし、改めて見返すと、郷がやってた特訓というのは、実はウルトラマンに変身したあとで流星キックを使うための特訓ではなくて、郷が直に怪獣の角に攻撃するためのものだったらしい。
 良くみてみると、郷は特訓後に怪獣と対面したとき、変身しないで怪獣の角にジャンプしているのだ。特訓するときに「ウルトラマンが負けたのなら俺が勝っ てやる」という郷の心境を語ったナレーション入るが、これはウルトラマンに変身しないで怪獣の角を攻撃しようとしていたように解釈できる。

 郷は、とにかくジャンプする特訓だけをしているので、郷はキックの特訓をしていたのではなくて、怪獣のバリアを飛び越えて角につかまって角を破壊 しようとしていたのではないかとも思える。そうなると、この4話でよく指摘される矛盾点「ウルトラマンは空を飛べるのになぜジャンプの練習をするのか?」 という点は解消されることになる。

 それでも、生身の人間に巨大な怪獣の角につかまれるだけのジャンプ力が得られるのか?という疑問もわきます。が、これはウルトラマンに乗り移られ た郷が、超感覚をもった上に体力も強化されているというような描写が2話でちょこっとあるので(柔道とか剣道で圧倒的な強さを見せる)、これで説明できな くもない。

 最近発売された『帰ってきたウルトラマン大全』(双葉社)は、スタッフのインタビューやシナリオと完成作品の差異、また著者の日本映画の広範囲な 知識をいかした作品解説(これは特に石堂淑朗作品の分析においていかされた)、さらには、それまで評価されなかった4クール目の作品に、商業誌で初めてき ちんとした評価を与えた点など、瞠目すべき点は多い。しかし、この本、良くよんでみると、帯の「論争に終止符をうつ!」という言葉とは裏腹に、また新たな 論争の火種になるような部分がある。やはり第二期ウルトラ批判というのはサブカル雑誌のライターたちにとっての「因習」なのだろうか。

 この本で筆者がひっかかるのは、やはり27話『この一発で地獄へ行け!』のレビュー(132ページ)などにみられる「スポ根=父権主義」という分 析だろう。70年代スポ根は「反権力」の象徴として当時の学生運動に影響をあたえたのだが、この本では、そういったことが一切書いてない。ひたすら「スポ 根=父権主義」または「スポ根=高度経済成長」という図式を強調しているのだ。

 70年代、スポ根は「反権力」の象徴というように解釈されていたのは事実である。よど号事件での声明文の「われわれはあしたのジョーである」とい うフレーズがあったことがその証拠。寺山修司(劇作家・詩人)は自著『書を捨て街にでよう』で、父権主義を「パパ・スターリニズム」と批判していながら、 同時に『あしたのジョー』のファンであり、力石の葬式を行ったのは有名である。全共闘による大学封鎖のバリケードの中では、『あしたのジョ-』はバイブル の役目を果たしたという。これら事実、あきらかに70年代当時は「スポ根=反権力」という解釈が一般的だったということを意味しているようにおもえる。

また、『アストロ球団』の復刻版の5巻(太田出版)には、「『アストロ球団』は学生運動を意識した」という意味の原作者遠崎史朗氏のコメントが掲載 されている(766ページ)。安保闘争に敗北し、なにをやっても巨大なものは倒せないという虚脱感や無気力感を感じていた当時の若者を、もう一度熱くさせ ようと書いたのが『アストロ球団』だったと、遠崎氏は述べている。
「若者をもう一度熱くさせるものはなにか。私の中のコンピューターが作動し、若者にゲバ棒のかわりにバットをもたせ、大リーグと戦わせることにした。(遠崎氏のコメントより抜粋)」
『アストロ球団』は、安保闘争の敗北によって無気力化した当時の人々に、「安保闘争は負けたが、かといって人生全てを諦めるのは早い」というメッセージをおくっていたのだろうか。

 ウルトラシリーズに参加し、自身もスポ根ものドラマの脚本を数多く書いたこともある脚本家、佐々木守氏は、『怪奇大作戦大全』(双葉社)のインタ ビューで、「今の若い人は権力と戦おうとしない」「現代人は権力と闘わないからダメだとおもうんです」「大手をふって闘わなくてもね、権力に批判的な目を 持つだけでいいんです。」とかたっている。佐々木氏も遠崎氏と同様に、現代人が権力(国家権力)に対して表立って抵抗しなくなったことに不安を感じてるよ うだ。
 しかし、遠崎氏のいうように、選挙の投票率の低さが、現代人にとっての権力(国家権力)への抵抗の意志の現れであるとするならば、本当は現代人の多くは佐々木氏のいう「権力への批判的な目」を持ちづつけているということになる。

 この『帰ってきたウルトラマン大全』では、「スポ根=反権力」という70年代におけるスポ根解釈が完全に無視され、ただひたすら「スポ根=父権主 義」という解釈が強調されている。先に上げたことからいっても、70年代当時は「スポ根=父権主義」より「スポ根=反権力」という解釈の方が一般的だった ように思えるのだが。

 この本では「スポ根=父権主義」という解釈の根拠として「主人公が乗り越えなければいけない壁は、偉大な父親であると設定されているからだ」とい う記述がある。この記述は主人公の父親が主人公を鍛える『巨人の星』にはあてはまるだろう。だが、『新マン』のスポ根は、先の4話にせよ、27話にせよ、 主人公を鍛えるのは主人公の父親ではない。なのに、なぜこの著者は全てのスポ根を「父権主義」とくくってしまうのであろうか?

 この本に限らず、スポ根は、近年「父権主義」という解釈をされることがある。そして父権主義は、伝統的な家父長制の復権を意味する場合もあるの で、スポ根は右翼的作品だと批判されることもある。70年代当時はあきらかに左翼の学生運動に影響をあたえたスポ根が、一方で右翼的とも評される。スポ根 は、なぜこういった極端な解釈の振幅のブレおこるのだろうか。その前に、まず「父権主義」とはそもそも何なのだろうか?

「父権主義」の「父権」は「父性」ともいう。そもそも、心理学上の「父性」とは、フロイト曰く「自分自身が自分の欲望を克服し、衝動を押さえ込ん で、それらと戦い打ち克っていく」ということである。こういうことから、一般に「子供を注意する」ということは父性的な行為とされる。子供への過干渉は父 性的であり、放任は母性的ということになろうか。スポ根ものは、主人公がコーチに注意をうけながら、自分自身の欲望、衝動と戦っていくという展開のものが 一般的だ。

 スポ根を父権主義だと解釈されるのは、スポ根もののコーチの存在が心理学上の「父性」のメタファーだと解釈しているからなのであろうか。そう解釈すれば、たしかにスポ根ものは「父性」のドラマだということになる。

 しかし、心理学上の「父性」とは、あくまで人間の行為の性質をさすもので、直接、家庭内における父親を意味しないとおもえるのだ。こういう意見の代表として精神科医、斉藤学の著書『「家族」はこわい-まだ間に合う父親のあり方講座』(新潮文庫)をあげよう。

 この本は、家庭における父性の必要性を訴えた本だが、父性というものの捉えかたが、他の父性主義の本とは決定的にちがう。この本の著者は父性の必 要性を唱えていながら、「20世紀最大の功績はフェミニズムだと思っています。(中略)この洗礼をうけていない父親論はおかしくなる(17ページ)」と断 言するのだ。
斉藤氏は、家庭内での父親の権威の復権を主張する「新保守主義」と、自身のスタンスは異なるとした上で、以下のような提唱をする。

 著者の斉藤氏は父性を「生物的父性」「社会的父性」とに区別する。前者は家庭内での父親そのものを指し、後者は家庭内で父性的な指導を子供におこ なう人間を指す。そして家庭に必要な父性とは、あくまで後者の方であるとし、家庭によっては妻が父の役目(この場合の「父の役目」とは、父性的な指導を子 供におこなうこと)をしてもいいし、母親が父と母の両方の役目をしてもいい、というのである(23ページ)。この意見は、父性と「家父長制」が混同して語 られることが多い、今の一部の世論の問題点を見事に指摘しているものだろう。

 このような「父性」と「家父長制」が混同されるということがなぜおこるのか?
それは石原慎太郎の『スパルタ教育』という著書で、この2つが混同されていたことが発端ではないかとおもえるのだ。
 この『スパルタ教育』という本は、70年代にベストセラーになった。現在は絶版のようだ。この本は、子供を教育するには、父権主義の復興が必要だとい い、家父長制を復活させ家庭で父親がリーダーシップをとるべき、というようなことが書いてあるらしい。これが近年、一部で再評価されているようだ。
近年、少年犯罪が増加しているが、その原因を、父親が家庭内で権威を失ったからだと分析する現論人もいる。彼らは家父長制を復活させて家庭内での父親の権威を取り戻すべきだ、と主張している。しかし、筆者はこの問題と少年犯罪はあまり関係ないようにおもえるのだが…。

 ややこしい話ではあるが、「父権主義」という言葉は、前述の「家父長制」や、心理学上の「父性」というような意味とは別に、倫理学上でいうところの「パターナリズム(paternalism)」の日本語訳という意味もある。

「パターナリズム」は「他人に迷惑はかけないものの、本人が損をする行為を行っている人間に対し、他者がその行為をやめさせること」または「ある人間が幸せになれるように、他人がその人間に指図をする」ことを意味する。
なぜこのパターナリズムが父権主義と訳されてしまうのかというと、パターナリズム(Paternalism)はPater(ラテン語で父親)が語源だからである。

 例をあげると、少年の犯罪を更正させる際、「未成年が煙草を吸ったら成長が止まるんだよ」「麻薬を使えば人格が崩壊するんだよ」というように、 「君のためを思って、そういうことはしない方がいいと言っているんだよ」と説得するという行為はパターナリズムとしての父権主義である。
パターナリズムの語源がPater(父親)なのは、こういった行為が、子供の世話をやく父親を想起させるからだそうだ。また、こういった行為は「他者への注意」であるから、前述のフロイトのいう「父性」に根底では通じているともいえるだろう。

 また、自殺の禁止や自動車でのシートベルト、オートバイでのヘルメットの強制もパターナリズムに属するそうだ。泣きわめいていやがる子供を、 親が無理矢理に歯医者に連れていって治療を受けさせるのも、 パターナリズムである。 また「援助交際はよくない」というような性道徳もパターナリズムとしての父権主義だ。
 もっといえば、母親が子供に「自殺はするな」と注意することも「パターナリズム」であり父権主義だとも言えるのである。さらには、母親が父親に「自殺はするな」と忠告するのも「パターナリズム」であり父権主義だといえてしまうのである。

『現代社会とパターナリズム』(ゆみる出版)によると、パターナリズムを父と子の関係を原形にして理 解すること自体に反対する専門家もいるらしい(89ページ)。そういうことからも、パターナリズムは父権主義という訳語があたえられているものの、家父長 制とは本来関係のないものであろう。

 スポ根のコーチは「主人公がスポーツの世界で成功すること」という「主人公の幸せため」に主人公に、いろいろと指図をする。たしかに、これはパ ターナリズムだといえる。そうなると、スポ根における「父権主義」はあくまでパターナリズムとしての父権主義であり、やはり「家父長制」としての「父権主 義」とは関係ないと言えるのだ(父親が子供をしごく『巨人の星』は例外だが)。

 誤解をさけるため、筆者自身のパターナリズムについての現時点でのスタンスを明示しておく。
筆者はパターナリズムは基本的にはあまり認めていませんが、全面的に否定するわけではありません。自殺の禁止というのもパターナリズムですが、自殺の禁止は筆者も共感してますし、これを疑問視する世論は現在でも少ないとおもいます。

 こう考えると、90年代のブーム「恋愛史上主義」もパターナリズムとしての「父権」ということになる。モテなくたって、他人に迷惑をかけることは ないのに、90年代の現論人はこぞって「恋愛の無い人生は無価値だ。だから恋愛しろ!」といって、全ての人間に恋愛することを強制してきました。その上で モテない人間を「社会の病理」としてネチネチと叩く。これこそ歪んだ「父権主義」そのものではないか??…

『ウルトラマンレオ』の場合、ヒーローがコーチに教えを請うのは「地球を守るため」であり、この部分は「自分の幸せため」である従来のスポ根とは根 本的にちがう。つまりコーチであるダンは「ゲンを幸せにするため」に鍛えているわけではないので、『レオ』の物語構造はパターナリズムとは異なるといえ る。
 このため、『レオ』の場合は、コーチに鍛えられるというストーリーであっても父権主義には属さない、といえないだろうか。つまり、第二期ウルトラのスポ 根的な展開は、地球防衛という目的であるが故に「父権」に属さないオリジナリティーのあるスポ根だといえないだろうか?(『仮面ライダー』のシリーズでも 何回か特訓が行われているが、これも同様であるといえる)。
『レオ』のスポ根ものの要素は「キリギリまで追い込まれる人間」を描くための手段として用いられたものであり、コーチであるダンは地球防衛という重い使命をゲンに背負わせることで主人公を追い込む役目だったといえる。

『レオ』の9話『宇宙にかける友情の橋』(ギロ星獣の回)は、怪獣をなんでも危険視して攻撃するダンに、ゲンが反発する異色作である。この回は、怪 獣を敵とみなして退治することが多いウルトラシリーズの不文律を問い直した作品だ。凶暴な性質だが地球上ではまだ何も悪さをしていないギロ星獣。ダンは被 害がでないうちにギロ星獣を退治しようとするが、ゲンとトオルは、なにもしていないのなら退治しないでほしい、と嘆願する。

 この回では、ラストはダンがゲンとトオルの説得に負けてレオにギロ星獣を生き返らせるよう命令をくだす。『レオ』は、この回のようにダンの意見にゲンが反発し、ダンが自身の考えを改める話もある。他にはアトランタ星人の回などだ。
さらには、ゲンがダンの命令を無視し、それによって事件を解決してしまった作品もある(ローランの回やマザラス星人の回)。また、ゲンがダンを殴り倒した回もあり(ババルウ星人編)、これらのシーンは、ダンとゲンが一方的な主従関係にないことを物語っている。

『レオ』は、このように一方的にダンの言い分が正しいというようなドラマではない。一応ダンの方がゲンより経験値が高いことから、ダンの言い分が正 しいとなる話も多いが、そういう話においてもゲンはダンに一度は自分なりの考えで反論する。なのでゲンはダンに盲従しているわけではなく、常にダンの言い 分に疑いをもち、検証し続けるのである。

 蛇足だが『セブン』のときもダンはエレキングが出現すると、何も破壊活動をしていないのに先制攻撃をかけている。怪獣をなんでもかんでも攻撃する ダンの性格は、ある意味セブンのころと変わっていなかったようである(笑)。『セブン』のギエロン星獣の回でも、ダンは兵器開発競争については悩んではい たが、ギエロン星獣を倒すことにはそれほど躊躇していなかったように見える。

 ウルトラに根性ものの要素が入ったのは『新マン』以降だといわれる。だが、ある意味、『セブン』最終回も、「根性もの」のドラマだったのではない か。この最終回では、セブンはすでに戦えない体になっているのに、それでも無理をしてゴース星人とバンドンを倒そうとするのだ。これは日本的な根性思想で はないだろうか。
 戦えない体なら、苦労して戦っても敵を倒せる確率は低いであろう。ならば「戦わない」のが合理的に考えた上では最善策である。なのに、最後の敵を倒すま では故郷へ帰れないと、意地になって死力を尽くしてセブンが戦うのは「苦労して勝利する」という根性ものの物語構造そのものである。

こういう『セブン』の最終回から根性もの的な要素を取り除いたらどうなるか? それをやったのが、『ウルトラマン80』の最終回『あっ、キリンも象も氷になった!』であろう。

 この話は前回で怪我をして思うように戦えない80が、無理をして変身して戦おうとすると、UGMの隊長がそれを制止し、UGMが自力で怪獣を倒 す、という話である。この回は80が怪獣と戦う場面はなく、80はラストシーンで地球を去る際、1シーンだけ登場するというパターン破りの展開だった。
 この話は『セブン』最終回のアンチテーゼ的な作品といえるだろう。合理的に考えれば、戦えない体なのに無理して戦うのは無謀なのだから、『80』の最終回のように戦わないのが筋が通っていることになる。

この『ウルトラマン80』の最終回は石堂淑朗氏の脚本作品だった。しかし石堂氏の作品の中では、この作品は氏本来の土俗的な持ち味がでておらず、ス トーリーも『セブン』の最終回に似ている。このことから、この最終回のストーリーは最終回の監督であり『80』のプロデューサーだった満田氏のアイデアで あろうか?

 話は前後してしまうが、前述の『アストロ球団』は、実は劇中、金田監督のセリフで「勝負に必要なのは根性じゃない」という意味のセリフがある(3巻『迷うな球三郎の巻』)。これを根拠に、本作を「スポ根」ではないとし、「熱血マンガ」と評する人もいるようである。
 しかし、にもかかわらず『アストロ球団』には金田監督が「どんなスタープレーヤーも、その影には地味な努力をしているもんや」というセリフをいう場面も ある(3巻『変身!球五の巻』)。このように『アストロ球団』は作品中で「努力」という言葉がよく使われ、特訓シーンも多い(丸太を背中に打ち付ける特訓 や、ドリルを手で握るという、とんでもない過激な特訓である)。

 そうなると、これは「根性」という単語だけを否定しているに過ぎず、言葉の言い換えにすぎない。物語構造的には『アストロ球団』は完全にスポ根も ののパターンを踏襲しているので、ここではスポ根として扱っている(事実、他サイトでも『アストロ球団』を「スポ根」の範疇に含めているレビューはおお い)。

「根性」も「努力」も、一般的には、積極的に物事に立ち向かおうとする強い意志という意味で扱われることが多い。「スポ根」は、主人公が強い意志で 苦労を重ねて技を会得するという展開であるがら、「スポ根(スポーツ根性もの)」という言葉にある「根性」はあきらかに、こういう強い意志のことを指すも のだろう。

 しかし、根性という言葉は、別の意味もある。根性という言葉は「身に染みついてしまった、卑しい生活態度(例としては「島国根性」「商売根 性」)」という意味あいもあり、良い意味で使われないこともある。『アストロ球団』で「根性」という言葉を否定したのは、こういった「根性」という言葉の もつ別の意味合いを否定し、あくまで「強い意志」ということを強調したかったからではなかろうか。

 事実、『アストロ球団』は「努力」という言葉は使われているし、特訓シーンが多い(本作は超過激な特訓シーンがある作品として有名になってしまっ ているぐらいである)。なので『アストロ球団』で「根性」という言葉を否定するセリフがあっても、それはけっして「苦労、努力の否定」という意味ではない と思うし、仮に作者の意図がどうであれ、筆者としてはそのように解釈している。
(ちなみに、第二期ウルトラにおいても、『新マン』『レオ』では「根性」という単語は使われていないのは意外な事実である。)

この文章では『あしたのジョー』を「スポ根もの」としてあつかっているが、一部で『あしたのジョー』はいわゆるスポ根ではない、というような意見を いう人もいる。しかし、『巨人の星』と同様、梶原一騎(『あしたのジョー』は「高森朝雄」名義で発表)の原作である点や、劇中で根性という言葉が肯定的に 使われている以上、やはりスポ根ものであろう。力石とジョーが始めて少年院で対決し、ジョーがクロスカウンターを初披露するときに、倒れてもたちあがる ジョーの精神を段平が「ジョーの根性」と形容している場面がある(講談社漫画文庫版の2巻222ページ)。
このように根性という言葉が重要な場面で肯定的に使われているのだから『あしたのジョー』やはりスポ根だとおもえる。事実、前半ではかなり過激な特訓もよくやっているのである。

『あしたのジョー』ではクロスカウンターのことを段平が何度か「肉を切らせて骨を絶つ戦法」と説明する。この「肉を切らせて骨を絶つ」という言葉 や、『あしたのジョー』を象徴する言葉として有名な「たて!たつんだ!」という台詞は『ウルトラマンレオ』でも使われているので、意外に『レオ』と『あし たのジョー』は関連性があるのかもしれない。そうなると、ここで脚本家、阿井文瓶が『タロウ』執筆時にプロデューサーに語ったという「ウルトラマンは反体 制テロリストだ」という発言が、よど号事件のときの赤軍の「われわれはあしたのジョーである」という言葉がリンクしてひとつの糸でつながってくるのではな いかとおもえる。

また、ベトナム反戦運動が盛んだった時期のアメリカ文化について書かれた本、『アメリカ「60年代」への旅』(越智道雄/著・朝日選書)には、ベト ナム反戦運動をおこなった70年代のアメリカ新左翼の過激派活動家集団のウェザーマンが紹介されている。かれらは133ページによると、カラテのレッスン とマリファナ、酒、セックスに明け暮れていたとあります。ウェザーマンがカラテをやっていたというのは、くしくもウルトラマンレオがカラテをやっていたこ とに通じるのではないでしょうか。レオのカラテを使うという設定が、またしても「ウルトラマンは反体制テロリストだ」という阿井文瓶の言葉とリンクしたの でした。

アメリカのベトナム反戦運動についてふれたもうひとつの本『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』(彩流社)によると、ベトナム反戦運動をおこなっ た新左翼の「マザーファッカーズ」という団体(なんて名前だ?)は、集会で空手による瓦割りを披露したそうで「われわれは資本主義や国家をこの(瓦の)よ うに粉砕してみせるのだ」と見得を切ったのだそうです(340ページ)。このように、実は空手とアメリカの新左翼の運動とは縁があり、その空手を取り入れ たウルトラマンレオは、やはり「反体制テロリスト」的なヒーローだったといえそうである。

ベトナム反戦運動をやった反体制運動家集団「ウェザーマン(別称:ウェザーアンダーグラウンド)」は、この時期の左翼運動家の代表的なグループであ る。『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』の565~566ページによると、ウェザーマンは身内を事故で数人死亡させたことはあったが、殺人事件はおこ さなかったという。ウェザーマンは日本の左翼テロリストにくらべ、比較的穏健なグループであった。市民にも人気があり『WEATHER UNDERGROUND』というドキュメンタリーも存在しアカデミー賞にもノミネートされたこともある。

『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』によると、彼等は敵であるアメリカ政府と対決するべくメンバーの増員を図り、アメリカ各地で高校に乱入して 青年たちにアジ演説を行ったりしたが、あまり人員はあつまらず、かれらは逆に市民たちから締め出されます。それでもなお彼等は「敵が優勢で、血祭りに上げ られても、殉教が前衛としての証となる(550ページ)」と考えて動揺もせず、「(ベトナム)戦争を国内へ」をスローガンとして「怒りの四日間」というデ モに突き進んだ(549~550ページ)。

「68年8月のシカゴ大闘争(註:シカゴの民主党大会に反戦デモ隊が押しかけて大荒れになった事件)は、本国白人の反帝国主義運動の懐胎と誕生を印すものである、と彼らは主張した。戦闘の中ではぐくまれ、死をいさぎよしとする運動である。(550ページ)」

このように、アメリカの左派の運動家であるウェザーマンがそういう価値観をもっていたことから考えても、自己犠牲的な価値観は日本人固有ではないよ うだ。しかし、こういう死を伴う自己犠牲は他者へ強制すべきではないのだが(自分の命にかかわらない範囲での、自分の過度の利益を犠牲にするということ は、社会の格差をなくすためには、ある程度義務化されてしかるべきだろう)。

ヒッピー文化に深くかかわったビート文学の代表的詩人アレン・ギンズバーグによる『ファン・ゴッホの耳に死を』という詩で「世界を救う詩のために死にたい」と書いていている(『ギンズバーグ詩集 増補改訂版』149ページ)。
こういう自己犠牲は、「特攻隊に通じる」といわれ、日本固有の考え方とおもわれがちであるが、実は日本固有のものではないことがわかる。つまり封建主義的 な国家及びその元首(=天皇)や、特定の民族に奉仕するために自己を犠牲にするのが右翼的な自己犠牲といえ、地球や世界や人類を救うための自己犠牲は左翼 的な自己犠牲ということになる。

ただし、第二期ウルトラシリーズにおいては、死ぬかもしれないことを主人公がおこなうという展開はあったが、最初から死ぬことを目的とした自己犠牲的な展 開というのは描かれなかった。そういう自己犠牲は第二期ウルトラと同時期の円谷作品の『ファイアーマン』の最終回で描かれた。

60年代のアメリカのカウンターカルチャーを代表するアーティスト、ジミ・ヘンドリックスは、ライブ中に「愛国心を持つなら地球に持て」という言葉をいっていたという事実もある。このジミ・ヘンドリックスの言葉は、1967年のモンタレー・ポップ・フェスティバルを収録したアルバム『Jimi Plays Monterey』の「ワイルド・シンク」という曲の前のMCとして現在も聞くことが可能である。
「地球を愛する」という言葉は、ウルトラマンレオの中で、ゲンやダンがよく口にする言葉なのだが、このジミ・ヘンドリックスの言葉「愛国心を持つなら地球に持て」に通じるものがある。実は「地球を愛する」という言葉は「ロックな台詞」なのである。

ウルトラマンの場合は、昭和の場合はとくに、みな「地球をまもる」というポリシーで行動しているので、ナショナリズムではなくコスモポリタニズム だったといえる。しかし、参考までに延べておくと、実は60年代から70年代の国内の左翼運動家たちも「反米愛国」ということを唱えたときがあった。
筆者としては、こういう当時の左翼運動家のナショナリズムには同意しないが、事実としては「愛国」という言葉を左翼も使っていたことは言及しておく。基本的に、強制的なものではない限りは、左翼もナショナリズムを肯定する場合もあるのである。

小熊英二/著『〈民主〉と〈愛国〉』のp15では共産党が一時期「反米愛国」という言葉をいっていたことが言及されている。またp126では、当時の国内の左翼思想家が、天皇と日本を切り離して考えたうえで「真の愛国」をとなえたという。
また、坂口弘/著『あさま山荘1972(上)』によると、70年代に革命左派という運動家グループが「反米愛国」という言葉をよく使っていたということが書かれている(p156、158、166ページなど)。

『ウルトラマンレオ』の序盤では、隊長がゲンに暴力を振るうシーンがけっこうありますが、こういうのも70年代当時の左派の過激派に通じるものがあ るのではないかと筆者は解釈しています(あんまりあの一連の暴力を「子どもへのしつけ」としては解釈したくないですねえ。レオの劇中でもトオルにはゲンも 隊長も暴力をふるわないでしょ。)

副島隆彦の『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(下)』(講談社)の363ページには、
「過激派内部世界というのは、幹部が若い学生党員を狭い部室に呼びつけ、『お前は革命家として、今日は何人、新入生を獲得したか報告せよ』といいながら、 働きの悪い人間に暴力を加える。そういう世界である。それが世界中の過激派、極左集団と呼ばれるものの内部世界である。」という記述がある。

そういえば、ウルトラがらみの本では『君はウルトラマン80を愛しているか』(辰巳出版)の山浦弘靖(脚本)のインタビューでも、山浦氏本人が学生 時代に左翼の学生運動に参加していたという話題がでてきて、その話のなかで左翼学生の団体の内部は「何かあったら(先輩に)即殴られるみたいな感じだっ た」という話がでてくる。
こういう当時の運動家たちの暴力的な体質は、今となってはあまりほめられたものではないが、そこまで当時の運動家たちは追い詰められていたことを物語っていたのではないかとおもわれる。

(『ウルトラマンレオ』での、隊長がゲンに暴力を振るう場面は、あくまで70年代当時の「歴史的価値」とでもいうべきものであり、積極的に新作に反映させるような性質のものではない。)

また『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』によると、ベトナム反戦運動をやった反体制運動家集団ウェザーマン(ウェザーアンダーグラウンド)は「燃えるが如き行動意欲を特徴としていた(536ページ)」とあります。
つまり熱血というスタンスは、60年代後半から70年代初頭の左翼、極左のスタンスであり、よって熱血は「頭が悪い」ということ同義ではないとおもうんですがね。こういう部分を今の映像業界の人たちはちゃんと考えてほしいとおもいます。

レオでは、隊長とゲンがホモではないかと思える部分がいくつかあります。特に4話で隊長が花瓶にさした花を眺めてゲンのことを想うというシーンがホ モっぽいですね。ほかには、1話で隊長がゲンに握手をもとめた直後にゲンのシャツを脱がしちゃうところなんかもそうでしょうか。

これらシーン、上映会などをやって流したら笑いが起こりそうなシーンなのですが、ホモ=ゲイの解放運動というのも、ベトナム反戦運動当時のアメリカ では盛んにおこなわれていて、これもカウンターカルチャーに含まれます(この件は越智道雄/著『アメリカ「60年代」への旅』(朝日選書)にくわしい)。 そういう意味では、このゲイの関係のように描かれたダンとゲンの「男の友情」というのは、じつはゲイ解放運動に通じ、ゆえにカウンターカルチャー的だった といえないでしょうか。

『新・ウルトラマン大全集』(講談社)の田口成光のインタビューによれば、こういうゲイのようなダンとゲンの関係は、単なる偶然ではなく、じつは意 図したものであるようなのです(!?)。以下、『新・ウルトラマン大全集』の田口氏の『レオ』についてのコメントを抜粋しましょう。

「めいっぱい熱かった。書いてる方も熱いし、撮る方も熱かった。この二人ってのは、ホモじゃないかって思われるくらいまでいってみたいと思っていま したからね(笑)。それに、1、2話は真船(禎)さんが撮ってるんだけど、真船さんも乗りまくってましたね。(183ページ)」

このように、脚本の田口氏も、ダンとゲンの関係は「ホモじゃないかと思われるくらい」にしたかったと語っているので、実はかなり意図的にゲイのように描写していたのがわかります(!)(おっと、筆者はゲイは批判しないですが自分自身はゲイではないのであしからず)。

この4話におけるホモっぽいシーンではゲンの博愛主義が強調されている。「僕のふるさとはこの地球です。地球の人たちはみんな、僕の友達なんだ。」とゲンがいうと、ダンも「それは私にとっても同じだ。」と同意する。

公民権運動で有名な、アメリカのリベラル派の市民運動家のキング牧師の演説集『私には夢がある M・Lキング説教・公演集』(新教出版社)によると、キング牧師は以下のように人類愛についてかたった。
「隣人への関心を部族や人種や階級や国家を越えたものへと引き上げる世界的連帯意識へのいざないは、実際はすべての人間に向けられた普遍的で無条件な愛へ の招きでもある。この愛はしばしば誤解され間違って解釈された概念であり、二ーチェのような人々によって惰弱で臆病なものとして簡単に排除されてきたもの だが、しかし人類が存続していくために絶対不可欠なものとなっている。(180ページ)。」

前述のゲンの「地球の人たちはみんな、僕の友達なんだ。」という博愛主義は「隣人への関心を部族や人種や階級や国家を越えたものへと引き上げる世界 的連帯意識へのいざない」というキング牧師のいう「人類愛」に通じるとはいえまいか。さらにいえば、ジョン・レノンの曲『イマジン』の歌詞「人はみな兄弟 なのさ」に通じる人類愛であろう。
ちなみに『アシッド・ドリームズ』(第三書館)によれば、60年代のアメリカのヒッピーたちのモットーは「全宇宙的な人類愛」だったのだそうである(177ページ) 。ゲンは友好的な宇宙人もなんどか助けているので、ゲンの語る人類愛は宇宙人も人類に含んだ「全宇宙的な人類愛」といえるだろう。

『ウルトラマンレオ』の『ベッドから落ちたいたずら星人』はレオとレンボラーがボクシング対決をするのですが、これは『あしたのジョー』と『レオ』 がリンクする部分だといえます。レオとレンボラーのボクシング対決は、ちゃんと『あしたのジョー』で印象的だったクロスカウンターで両者共倒れになる場面 もあるのがすごい(第五ラウンドでの対決)。

このレオとレンボラーのボクシングの対決シーンも、『あしたのジョー』と『レオ』が通じる部分であるが故に「反体制テロリスト」に通じる部分だとい えそうです(偶然の一致なら奇跡的、いや運命的な偶然ではないか!)。こうみると、この『ベッドから落ちたいたずら星人』の回は、コミカルながら実は奥の 深い話だったといえそうです。
あと、レンボラーが虹を食べるシーンでは、合成で口から虹の破片がポロポロこぼれるところまで描いているのはすごい。この回では、特訓しない話なのにレオ が2回変身したりと、意外と特撮の見せ場もおおいです。劇中で何度もながれるフィンガー5の曲もいいムードをかもし出していますね。

この回は、『レオ』にめずらしいコミカルな話ですが、話の中心は、地球とほかの惑星とのカルチャーギャップを描いたというもので、ある意味『レオ』 の1話のテーマに通じるものがありますね。コミカルに描いている分、1話とはニュアンスがちがっていますが、テーマそのものは共通しているとおもいます。

また、この回は、怪獣レンボラーがあばれる原因をつくったのがコロ星人自身ではなく、地球人の子どものいたずらによるという点も興味深い点で、ある 意味『帰ってきたひげ船長』における船長の台詞「人間のほうが(星人より)よっぽど危険だ」に通じる人間批判が込められているともいえなくないですね (どっちも脚本は若槻文三だ)。(『レオ』では、初期からコミカルな話があったし、最初からコミカルな劇伴が作曲されていたりするので、このレンボラーの 回のようなコミカルな話がまざっても、あまり違和感を感じないのは筆者だけでしょうか。)

『あしたのジョー』は、力石との試合までは、ジョーはコーチの段平から技の特訓をうけている。しかし、そのあとのカーロス・リベラとの試合からはジョー自身が試合中に技を考案して即興で実行するようになり、それからは段平から技の特訓をうけることはなくなる。

主人公がコーチから途中で特訓をうけなくなるという点も、奇しくも『レオ』と『あしたのジョー』の共通する部分である。『レオ』の場合は視聴率が悪 かったために、途中から序々に特訓をやらなくなるが、この『レオ』のシリーズの流れが偶然にも『あしたのジョー』と似ていたのは奇遇である。ちなみにカー ロス戦あたりから、スパーリングやランニングなどの普通のトレーニングは常時行っているもののジョーが自分で技(対戦相手の得意技を封じる戦法)を特訓す る場面もなくなる。
(カーロス戦以降だと、ジョーは一度だけ対ハリマオ戦の前にゴロマキ権藤たちとケンカ風スパーリングをやっているが、これは技の特訓というより失いつつ あった野生のカンを取り戻すためのものであった。ジョーはハリマオの必殺技「後方回転ダブル・アッパー」を封じるための技も、やはり試合中に考案して実行 している)

このように『あしたのジョー』の場合、対カーロス戦から、いつのまにかジョーは特訓しなくても試合中に自分で技を考案し実行できるようになっている すが、これはやはりジョーが試合になれてきたために成長したということなのだろう(もちろん「試合になれたから試合中に技を自力で考案、実行できるように なった云々」という説明が作品中にあるわけではなく、いつのまにかそういうストーリーの流れになっていた)。
このジョーと同じで、レオも中盤からは戦いになれたために、序々にダンの特訓をうけなくても怪獣と戦えるようになっていったのだと解釈できる。
(こういう『あしたのジョー』の前例があるだけに、筆者はレオが途中でダンの特訓をうけなくても怪獣を倒せるようになったことがそんなに不自然に見えなかったんですね。)

『レオ』のローランの回を見返してみると、レオはマグマ星人が振り下ろすサーベルを両手でつかんで封じているがこれは、対カネドラス戦で会得した真 剣白羽取りを使っているといえます(真剣白羽取りとは本来は相手の刀を両手の平で挟んで封じるものだが、『レオ』の場合、対カネドラス戦でもカネドラスの 剣を両手で握って封じている)。特訓をしなくなったあとの『レオ』で、特訓によって会得した技をつかっているというのは、なかなか感慨深いものがある。

『レオ』の主人公おおとりゲンは、スポーツ万能で頭もいいらしい(1話でスポーツセンターの子供たち全員の宿題をみてっているというシーンがあるか ら、おそらく頭もいいのであろう)。その上ゲンは宇宙人としての超能力ももっている。スポーツ万能で頭がいいのも、どうやら宇宙人であるため、地球人より 優れているためのようである。

 このように変身前のゲンは他の地球人にくらべると明らかに優秀である。レオが他のウルトラマンに劣るのは変身後、あくまで比較対象がウルトラマン たちである場合であり、人間社会におけるゲンは宇宙人であるが故に人並み以上の能力を持つ人物としてえがかれる。そしてゲンは、そういう自分の有能さを鼻 にかけてスタンドプレーをくり返し、他の人間を(時には自分の恋人まで)傷つけてしまうという人物である。

 自分の有能さにうぬぼれるゲンを、ダンは「思いあがるのもいい加減にしろ!!」と叱りとばす(6話など)。ゲンがエリートでいられるのは地球人た ちの前だけでり、ダンを前にすると途端に「落ちこぼれのウルトラマン」に堕落するのである。このように、ある意味『レオ』のドラマは、エリート主義の否定 という解釈もできるのではないか。

レオはウルトラマンとしては「落ちこぼれ」であって「天才」ではない。この部分も筆者は評価したい。 「天才」のヒーローが、自分より能力の弱いものを潰していくだけという展開のヒーローものは、それこそナチスの行った弱者への大量虐殺の構図そのものでは ないかと思えるからだ(ナチスは「優生思想」というエリート主義に傾倒しており、障害者の虐殺をおこなった。)。

岩波新書『イソップ寓話集』(中務哲郎/訳)を読んで驚くのは、有名な童話『ウサギとカメ』の話は、 日本昔話ではなくて、じつはイソップ寓話だったという事実である(p174に『亀と兎』という題で収録)。『ウサギとカメ』は、努力は才能にまさる(こと もある)というような教訓の話として有名である。

90年代以降の日本の文化人たちは、『ウサギとカメ』が日本昔話だと勘違いしているようで、こういう 「努力は才能にまさる場合もある」という価値観を日本人固有の価値観と勘違いしているようにおもえる。それゆえに「努力は才能にまさる場合もある」という 考え方を「ダサイ」と否定し、「努力家は天才にかなわない」というような価値観を唱え始めたのではないかとおもいます。

こういう「努力家は天才にかなわない」という考え方は、90年代以降の日本の文化人たちがよくいうこ とであり、それゆえに、いわゆる「スポコン」の漫画が批判されたのではないかとおもう。第2期ウルトラのスポコン的なドラマが批判されたのも、あきらかに こういう文脈によるものだろう。

『レオ』は、「現代っ子を甘え癖から脱却させる」というコンセプトが企画書にあり、自分の能力を誇示してスタンドプレーをくり返すゲンは、そういっ た甘えた現代っ子の象徴なのだろうか。ちなみに『レオ』は、オイルショックの時期に制作されたため、そういった厳しい時代に「生きることの厳しさ」を視聴 者に説き、厳しい時代に生きている当時の子供たちを励ますという狙いもあったらしい。これはシナリオの表紙にかかれたコピー「生きる厳しさと哀しさを鮮烈 に謳う」に象徴されている。ゲンに厳しくあたるダンは、そういった厳しい社会の軋轢の象徴であるといえるだろう。 『俺たちのウルトラマンシリーズ セブン&レオ』(日之出出版)での田口成光のインタビューで、『レオ』の時のダンは影のある感じを狙った(大意)とあるので、『レオ』の時のダンは意図的に精神的にちょっとまいっている人物として描いていたようである。つまり、『レオ』におけるダンのシゴキは、ダンが精神的に不安定なことを表す心理描写で、ゲンにとっては、この精神的に不安定になってしまったダンと向き合わないといけないということも「生きる厳しさと哀しさ」ということなのである (変身できなくなってしまったことが強いトラウマになり、コンプレックスを感じていることを表すと思えるダンのセリフが4話の「何かといえばウルトラマンレオに変身するお前の心が許せない」というセリフであろう。こういうセリフを元ヒーローに言わせることがシビアかつハードである)。

 現代(2003年現在)は、不況であり、多くの人が厳しい生活を強いられている。こういう現代と『レオ』制作当時の状況は、極めて似ているといえる。「生きる厳しさと哀しさを鮮烈に謳う」という『レオ』の作品コンセプトは今の時代にも通じるのではないだろうか?

 熱血ドラマは、第2期ウルトラの全作品に存在する要素である。この要素は、第2期ウルトラ及び、この時期のTBSの7時代のドラマの制作を取り仕 切っていたTBS映画部の局プロデューサー(後に1978年まで映画部部長)橋本洋二氏のカラーである。橋本氏は、あらゆるドラマは人間の内面から生じ る、という理念をもった人間の情念と怨念にこだわる人間ドラマ(ヒューマンドラマ)重視のプロデューサーである。

この橋本氏の方針から『コメットさん(旧・新)』『怪奇大作戦』『刑事くん』『柔道一直線』『刑事犬カール』などの名作TVが生まれた。もっとも 『レオ』は橋本氏は企画の出だしにしか関わってはいないそうで、毎回のシナリオ審査には立ち合っていないそうだが。しかし『レオ』に関しては、直にタッチ していなくても、橋本氏の息のかかった文芸スタッフがやっていたので、でき上がった作品は紛れもなく橋本氏のカラーの作品に仕上がっていたと思う。橋本氏 が不在でも、まるで橋本氏が関わっているかのような作品をスタッフが作り上げてしまったという事が、橋本氏に人望があった事を物語っているのではないか。 なので、この文では、『レオ』を事実上の橋本作品とみなして論をすすめる。

 この時期、橋本氏は、よく熱血ドラマというコンセプトを自身の担当作品で打ち出した。ウルトラ以外では『柔道一直線』『刑事くん』といった作品も熱血ドラマだった。
 しかし、橋本氏の作品における熱血ドラマは、いわゆる精神主義ではない、という点が異色である。近年出版された、東映プロデューサー平山亨氏が書いた 『東映ヒーロー名人列伝』(風塵社)という本には『柔道一直線』『刑事くん』の制作中の裏話が出てくる(『柔道一直線』『刑事くん』は、平山亨氏が橋本氏 と組んで制作した作品)。この本によると、この時橋本氏は『柔道一直線』の制作にあたって「柔道ものだけど精神主義はいやらしいから止めよう」という制作 方針を打ち出したという。
 この言葉を受けて『柔道一直線』では、根性によって一生懸命特訓しても技が鍛練されていなければライバルは倒せない、という展開のドラマになった。『柔 道一直線』では、根性で一生懸命特訓しただけで奇蹟が起こってライバルを倒せる、という従来のスポ根ドラマにありがちな展開は否定された。よって『柔道一 直線』は、根性ものでありながら精神主義を否定するという作品となった。既成の根性ものと異なる、かなりひねった視点の、いわば『脱・根性もの』とでもい える作品が『柔道一直線』だった。この“精神主義を否定する根性もの”というコンセプトは『柔道一直線』以降の『刑事くん』や第2期ウルトラといった橋本 作品の熱血ドラマの根底に流れるポリシーとなっていった。

『ウルトラマンレオ』の13話『大爆発!捨て身の宇宙人ふたり』では、レオが敵の宇宙人を倒す為に技の特訓をするが、根性で一生懸命やったにも関わ らず、技が完成しないまま話が終わってしまう、という従来の根性ドラマでは考えられない展開がある。これも精神主義を否定する『脱・根性もの』という橋本 作品のカラーが如実に表われた好例である。

『ウルトラマンレオ』の精神主義の否定は、モロボシダン隊長のセリフにもあらわれている。ダン隊長はゲンの特訓に対して、努力したかどうかよりも技 が完成したかどうかという結果について、非常に厳しく追及する。ここに、根性ものでありながら精神主義を否定する『レオ』および橋本作品の特徴が表われて いる。ダンはゲンが特訓の辛さに耐えられず泣き出しても「お前の涙で敵が倒せるのか?」とゲンを突き放すのである。

橋本氏は精神主義を否定したが、『レオ』や『柔道一直線』をみればわかるように「努力が報われることもある」というスタンスでドラマをつくっているため、精神主義を全否定しているわけでもない。
精神主義の対立概念は物質主義だが、実は60年代アメリカのドラッグ文化の人間たちは、物質主義には否定的だった。物質至上主義は資本主義につながるからである。
『カッコーの巣の上で』の作者として知られる作家ケン・キージーは、60年代のアメリカのドラッグ文化に深くかかわった人である。60年代のドラッグ文化 ではティモシー・リアリーという心理学者も有名だが、このリアリーにキージーが書いた手紙というのが『アシッド・ドリームズ』(第三書館)に引用されてい る。この手紙によると、キージーは物質主義へかなり批判的であり、「物質主義という毒素に烙印を押し指弾し、すべての人間にやさしさがあふれなければ、わ れわれはいまの生活と国土を失うばかりか、われわれやのわれわれの子孫々生まれながらの権利をも失ってしまう」と書いている(310ページ)。

『レオ』やスポコンもののマンガのように、厳しく鍛えてスポーツ選手を育てるということは、実際のスポーツのトレーニングでも行われている。新日本 プロレスの名トレーナー、名レフェリーとして知られる山本小鉄氏のインタビューをまとめた『山本小鉄~鬼軍曹のプロレス一代記(鹿砦社)』という本の 186ページによれば、山本小鉄氏は新人の選手を育てるとき、教える相手の性格に合わせて教え方を選ぶのだという。大人しい性格の選手は誉めてやさしく教 え、調子にのっている生意気な性格の選手には竹刀で叩いて厳しく教えるのだそうだ。そういう教え方はプロレスの神様として有名なカール・ゴッチから学んだ そうで、ゴッチもそうやって選手によっては厳しく指導するという。
 劇中、おおとりゲンは、内に優しさを秘めながらも、いつもはMAC内部での自分の優秀さを鼻にかけた言動のおおい生意気な性格でトラブルばかり起こしている。そういうゲンに対してはダンも厳しく教えざるを得なかったのだろう。

『ウルトラセブン』の28話『700キロを突っ走れ!』は火薬恐怖症のアマギを治すため、わざと隊長がアマギに爆弾の輸送をさせるという話である。 爆弾の輸送をいやがるアマギを隊長がひっぱたくシーンまであるが、こういう恐怖症(神経症の一種)の治療のために患者をシゴくことはかえって患者を追い詰 めることになり、本来は大変危険である。刺激を与えて直す方法もあるにはあるが、弱い刺激から少しずつ慣らしていくのが普通のようだ(渡辺昌裕著『うつ病 と神経症 増補改訂版』(主婦の友社)199ページより)。つまり、いきなり強い刺激を与えるのは逆効果である。
 また前述のように、山本小鉄やカール・ゴッチは、大人しい選手はシゴかなかったそうで、アマギのような大人しい内気なタイプの人間をシゴくというのは問 題ではないか。それに対して、『レオ』及び第二期ウルトラは、隊長が主人公をシゴくにしても主人公が大人しいタイプではなく活発なタイプなので『セブン』 よりも理にかなっているだろう。

 また『レオ』のダンは、特訓の際厳しく怒号をあびせながらも「おまえならできる!」と誉めながら叱っている場合もある。ゲンがよい結果をだしたときは「よくやった!」と誉める。このように『レオ』のダンは、厳しいながらも意外に誉め上手?でもあったのだ。
『レオ』のレギュラーである梅田トオルは内向的な性格に描かれている少年である。だが、そういう性格のトオルに対し、ゲンは常に優しく接しているのにも注目したい。

レオで一時期批判されたのは、モロボシ・ダンの性格がセブンのときとより厳しくなっていることだった。セブンのときのダンは温厚な性格だったが、レオになるとダンは厳しい鬼隊長としてえがかれている。
かつてはセブンのファンが「人間の性格がかわるはずがない」として、こういうレオのモロボシ・ダンの性格描写を批判していた。しかし、心理学的には人間の性格はかわることもありうると考えられているので、レオのモロボシ・ダンの性格描写は批判にはあたらないだろう。

実は心理学では「性格は生涯発達していくもの」と考え、人間の性格は年齢や経験によってかわっていくと考えるという。神奈川県立保険福祉大学の教授 である清水弘司(文学博士)の書いた『図解雑学 性格心理学』(ナツメ社)には、人間の性格の変化について言及した箇所がある。

この本ではユングが「性格は生涯発達する」という「ライフサイクル論」という論を提唱したことが紹介されています(146ページ)。ユングは人間の 一生を「少年期」「成人前期」「中年期」「老年期」という4つの段階に分けており、太陽の一日の動きに例えて「少年期」「成人前期」を「人生の午前」と し、そのあとを「人生の午後」といいます(147ページの図表)。

そのうえで「成人前期から中年期への移行期(40歳ごろ)を「人生の午前から午後へ移行する時期」として人生最大の危機としている」そうです(146ページ)。ようするに40歳の時期が、人間の性格が一番かわりやすい時期としているのです。

人間の一生をいくつかにわける「ライフサイクル」の研究は、ユング以外の研究者によってもおこなわれています。アメリカの精神分析医エリクソンは、 人生を8つの段階にわけて考えるそうです(148ページ)。エリクソンの研究では、人の一生を「乳児期」「幼児期」「就学時期」「学童期」「青年期」「成 人初期」「成人期」「老年期」の8つにわけます。
そして、このなかの7段階めにあたる「成人期」は、「次世代の育成に興味・関心を抱く(157ページの図表)ように性格が発達し、これを「生殖性」という言い方をするそうです(156ページおよび157ページの図表)。

また、このライフサイクルのような性格の変化とは別に、特別な出来事がきっかけになって性格がおおきくかわることもあるそうです(160ページ)。こういう特異な体験による病的な変化は「性格の不適応的な変化」というそうです(160ぺージおよび161ページの図表)。

そういう「性格の不適応的な変化」の一例として、この本ではナチスの強制収容所に収容された人々に、画一的で持続的な性格変化がみられたことが紹介されています。これは、『夜と霧』の著者であるフランクルの記録によるものである。

フランクルの記録によると、強制収容所での過酷な生活が日常的になると、人々は、ささいなことで興奮し、神経過敏になるなどの慢性的反応を示すようになったそうで、これをこの本では人間の性格の変化の一例としてあげています(164ページ)。

これらのことから考えるとレオにおけるモロボシ・ダンの性格の変化は、まず年齢的に中年になったので、エリクソンのライフサイクル論における「成人 期」にさしかかっていて、次世代の育成に興味をもっていたことでゲンを鍛えることに意欲を見出したことによって性格が変化したと考えられます。
さらにマグマ星人によって足を折られて変身不能になったことのショックにより「性格の不適応的な変化」をおこして、ナチス強制収容所で過酷な日常を経験した人々のように、ささいなことで興奮して神経過敏になり、ああいう怒りっぽい性格になったと考えられる。

 精神主義に話を戻すと、先に述べた精神主義の否定という橋本作品の根性ものは、根性ものでありながらクールなニュアンスを作品に与えている。この 部分が、他の根性ものと橋本作品との違いである。そのなかでも『レオ』は、ダンが非情で冷徹なキャラとなっており、それが作品のなかで存在感を持っている 為、他の橋本作品と比べると、よりクールなニュアンスが強調されていた。
 『レオ』 4話『男と男の誓い』は瀕死の状態から救われたばかりのゲンを内心心配しつつも、ゲンを鍛えるしか地球を救う方法はないと、ゲンに非情な特訓を課すダンの 苦悩のドラマである。平和の為には、非情にならなくてはいけない時もある、というテーマは、後に7話『美しい男の意地』(脚本,阿井文瓶)等でもこの回と は違う形で描かれる。これらの作品は、ダンが非情で冷徹なキャラであることをドラマの中心に置いた作品で、根性ものでありながらクールな『レオ』の作品カ ラーが顕著に表われた作品である。

『レオ』と他の橋本作品の熱血ドラマとの違いはもう一つある。『レオ』の熱血ドラマは、『刑事くん』や『柔道一直線』の健康的な熱血ではなく、狂気と紙一重の熱血であるという点だ。この点は、『レオ』と他の橋本作品との大きな違いである。また『レオ』は、残酷描写が多い。

 この辺は、『レオ』をそれなりに楽しんだ人ならお分かり頂けると思う。ゲンの常軌を逸した絶叫や、特訓する際のダンの危ない目つき(6話『男だ! 燃えろ!』でのジープでゲンを追いかける時の表情が特に危ない!)からは熱血を通り越した狂気が感じられる。通り魔星人やブニョといった猟奇的な敵キャラ クターが多く登場したことも作品世界に狂気の存在を感じる要素だ。また、ウルトラシリーズ中最も残酷描写が多いこと(3話のツルク星人の人体真っ二つや、 40話のシルバーブルーメの口から内臓をひきずり出すレオ、また50話のブニョによるレオのバラバラ殺人など)やダンの特訓が過激なことは有名だが、これ らの『レオ』独特といえる過激さは一体制作スタッフの誰のカラーなのかは謎だが、意識してやっているのは間違いないだろう。

 また、『レオ』は事件の対処方法をめぐってダンとゲンが対立するという展開が多い。『レオ』では、いわば“正義とは何か”を問いただすストーリー が、シリーズの中で頻繁に行われていたといえる。『レオ』におけるこれらの展開は、2人のウルトラマンによる形の違う価値観のぶつかり合いという展開であ り、ある意味、『レオ』は最新作『ウルトラマンガイア』におけるガイアとアグルの対立を先取りしていたともいえる。

 22話『レオ兄弟対怪獣兄弟』では、嘗ての自分と同じ境遇の兄弟を助けるあまりに「先にガロンを倒せ」というダンの命令を無視してしまうというレ オの葛藤に、異なった2つの価値観の衝突という問題提起が見える。ほぼ同様の問題提起が直前の21話『北の果てに女神を見た!』にもみられる。21話は宇 宙人と人間との恋愛というアダルトな題材だが(なんとこの回は子供の登場人物は全く登場しない)、この場合、北山隊員のニケの女神への想いをとるか、それ とも市民の安全のために北山の想いを犠牲にする慎重論か、という問題提起をも盛り込んでいる。どちらを守るのが正義なのか? という問題提起だといえる。 この場合は、北山のニケの女神への想いというのは、命にかかわるような問題ではないので、やはゲンの行動は同情するにしても行き過ぎといえ、あとにダンに 厳しく批判される。

『レオ』は、こういった主人公の善かれと思って行った行動が裏目に出て、ダンに批判されるという展開や、ダンとゲンが事件の対処をめぐって対立す る、という展開も結構みられる。こういった展開はヒーローの守るべき正義に揺すぶりや疑問符を投げかける展開といえよう。『レオ』のこういった展開は、あ たかも不確実性の時代であった70年代後期を象徴したかのようなドラマであるとは言えないか。

 こういった点にくわえ、先に延べた狂気と紙一重の熱血という、ある種の毒気と、根性ものでありながらクールというスタンス。この3つが『レオ』のドラマ の魅力ではないか。また、それまでの冬木透氏の曲とは違う、ハープやティンパニーを多用し、ハリウッドの映画音楽を彷彿させるゴージャス感のある音楽や、 ウルトラで唯一矢島信男氏がローテーションに入った特撮、そして本編の凝った演出、といった『レオ』のドラマ以外の部分の魅力も忘れられない。

『ウルトラマンタロウ』は、虚構における夢、という物が作品のコンセプトだったが、『レオ』はそれを裏返すかのように、現実の過酷さというものをコンセプトにしている。いわば『タロウ』と『レオ』は表裏の関係にある作品である。

脚本家、市川森一は、ウルトラシリーズに参加したときに、『帰ってきたウルトラマン』などで主人公が努力するという展開を極端にきらっていた。市川 氏はキリスト教信者として有名だが、このことと、ウルトラシリーズにおいて市川氏が主人公が努力するという展開をきらったこととは、実は関係があるのかも しれない。

911以降の国内マスコミは、アメリカのキリスト教原理主義というものを、完全に正反対に誤解していたとおもえます。キリスト教原理主義というのは、聖書の『ローマ人への手紙』の9章の一部の記述をもちだして、キリスト教を個人主義として解釈するというものである。

『ローマ人への手紙』の9章には、
「神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(15-16節)」

という言葉があって、これをもちだして「誰が救われるかは神がきめる。人間が弱者を救済してはいけない」と社会保障を否定してリベラル派(左派)と対立するのがアメリカのキリスト教原理主義者でありWASPなのです。こういう聖書解釈を「予定説」といいます。

聖書の「予定説」は、キリスト教のリベラルな信者は「なかったこと」にしてキリスト教を信じるものらしいです。しかしキリスト教原理主義は、こういう聖書の「予定説」に通じる記述にこだわりキリスト教を個人主義と解釈するものである。

しかし、911以降の国内マスコミは、キリスト教原理主義を利他主義だと正反対に誤解し「キリスト教の利他主義をアメリカが武力で世界中におしつけ ている」と報道した。それによって、こどもに競争原理をおしつけるテレビドラマ『女王の教室』が国内で人気になってしまった。

人気になってしまうだけならまだいいのですが、よりによって、市川森一は、この『女王の教室』に向田邦子賞をあげるという暴挙をやってしまう。
市川森一は、キリスト教信者として有名だが、どうも市川氏の発言を聞いていると、市川氏はキリスト教原理主義者と共通する部分がおおくある。はっき りとした根拠はないが、市川氏はカルヴァン派のキリスト教信者だという可能性があり、仮にそうでなかったとしても、予定説の根拠となる聖書のいくつかの記述から、予定説に近い聖書解釈を独自で編み出してそれを信じている可能性もある。

前述のように市川氏は、ウルトラシリーズに参加したとき主人公が努力するという展開をきらっていたが、これは先にかいた聖書の『ローマ人への手紙 (ローマ書)』の9章の予定説に通じる記述「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」という記述を市川氏は妄信して絶 対的なものとしてしんじていたからかもしれません。

キリスト教原理主義者の市川森一に抵抗したあげく「危険人物」にしたてあげられた橋本洋二には、ただ「気の毒」としかいいようがない。ウルトラシ リーズにおける市川氏と橋本氏の対立というのは「キリスト教原理主義者VSリベラル派」の対立だったと総括できそうです。<了>


おまけの小論
『帰ってきたウルトラマン大全』雑感

『帰ってきたウルトラマン大全』の石堂淑朗氏のインタビューはスゴイ内容ですね! 「宇宙人」という項が特に爆笑(イイ意味で!)。名作『E,T』 を「インチキだ」と言い切り(!)、「そんなのいるわけないのに」「オレ宇宙人嫌いなんだ。宇宙人を憎んでいるんだね」「ヤクザの三下みたいだっていうけ ど、それしか思い付かないんだもの」というヤケクソ気味のコメントは強烈でした(笑)。

「野球の好きな人が書いた野球マンガが『巨人の星』なら、野球に興味のない人が書いた野球マンガが『アストロ球団』」とある人がいっていました。
『アストロ球団』の作者は、野球にそれほど強い興味がなかったと思われるのですが、それゆえに破天荒な名作野球マンガになりました。それと同じように石堂 淑朗がウルトラで書く「キテレツ宇宙人(敬意を示しつつあえてこう記す)」たちは、石堂氏本人が宇宙人に思い入れがなかったがゆえに、他の追従をゆるさな い個性と魅力をもちえたといえましょう。

パラゴンの回のストラ星人の侵略目的「地球を別荘にする」は、視聴者に妙なインパクトと妙な「ひっかかり」を覚えさせますが、ストラ星人はブルジョア階級を皮肉った星人だ、というこの本の指摘には納得してしまいました。

しかし、NGになった実相寺昭雄脚本作品「月と星のメルヘン」に出てくる宇宙人の侵略目的がストラ星人の侵略目的に酷似していたというのは、この本 で指摘されて初めて気がついた(笑)。『タロウ』で実相寺氏が書いたNG脚本も、石堂氏の書いた「タロウの首がふっとんだ!」にアイデアが似ている気がす るし(大仏を地蔵に置き換えてみよう!)わりと実相寺脚本と石堂脚本はリンクする部分がおおいですね(劇場作品で何度も組んでますからね)。今おもうと 『ティガ』の『花』も、石堂脚本みたいな日本的なノリでしたね。

 さて、『帰ってきたウルトラマン大全』について苦言めいたことばかり書いてしまったが、この本は第二期ウルトラのスタッフに、本格的にインタ ビューした初の本であり、その中には今まで謎とされていた部分が解明された部分がある。特に宇宙人ササヒラーの名前の由来は衝撃の事実?だった。

読んでいない人のために説明すると、このササヒラーが登場する『地球頂きます!』は小山内美江子氏の脚本作品であり、小山内氏の本名は笹平で、ササヒラーという名前はこれのもじりであった。

 第二期ウルトラでは、怪獣が登場する理由が劇中でちゃんと説明されない作品も多々あるのですが、これは真船監督の意見でこうなったんですね。これ は意外ですが共感しましたね。大体、現実の社会でも、生物がなぜ存在するかなんて誰にも分からないわけだから、ウルトラシリーズの世界でなぜ怪獣が存在す るのかなんていうことをいちいちこだわるのはヤボだ、なんて思ってた。

 いままで第二期ウルトラの本というと、なぜか初期ウルトラから関わってたスタッフの取材だけやって、それでお終い、というものが多くて大いに不満 でした(この場合初期ウルトラの話が中心で第二期ウルトラはちょこっとふれる程度の場合もある)。この本はちゃんと第二期ウルトラだけに関わってた人たち にきちんと取材をしていて納得でした。

 あと、第二期ウルトラの特撮は画面上の印象では初期ウルトラより金がかかっているようにも見えるのに、「第二期ウルトラは予算が低い」とかいう話 ばっかり出てくるのかが最大の疑問点でした。でも、橋本プロデューサーの発言で、第二期ウルトラは予算の管理などを以前よりきちんとやった、という発言が あってこれも納得。

『新マン』の初期は岩山ばっかりで、これに比べたら『レオ』の初期の方がまだ市街地のセットをちゃんと作ってたので、視聴者の立場からすれば、『新 マン』初期の方が『レオ』より低予算にみえますね。熊谷プロデューサーは『レオ』について「Aパートで等身大の星人をだし、Bパートで巨大怪獣」という段 取りで予算を削ったといわれてますが、実際『レオ』はAパート、Bパート両方に巨大怪獣が出てる話もけっこう多くて、そんなに低予算に見えないんです が…。

 この『新マン』大全、4クール目の作品でも、きちんと評価している作品もあるのも良かった。とくにコダイゴンの回やフェミゴンの回の分析は一本取 られた感じですね。コダイゴンの回の村びとの「神渡りが観光化したで、神様が怒ったんだ~」というセリフは筆者は見落としていたのですが、これに触れてい たのは上手い。

 ただ、また苦言をいってしまうが、この『新マン大全』、一部の凡作エピソードについてちょっと批判的に書き過ぎてないか、という感じもあった。こ れが『セブン』だったら、テペトの回とかゴーロン星人の回などの凡作でも、もうちょっとフォローするような書き方をしていたと思うのは筆者だけでしょう か。

でも、ゴーストロンの回とか「一向にサスペンスが盛り上がらない」とか書かれてあったけど、そうかな~。あの爆発したように見せて実はイメージシーンだった、というのは結構みててびっくりしましたけど(決定稿に存在しなかったというのは意外でしたが)。

 あと、フェミゴンの回などは構成面についていろいろアラを指摘していたが、それならなぜ『セブン』のユートムの回の構成ミスを商業誌でまったく指 摘しないのかは今だに不満。大体この本で指摘している構成面のアラというのも、30分の特撮番組の場合、及第点ではないかと思えるような(それこそ『セブ ン』あたりでもやってそうな)些細なとこまでアラとして指摘しているのもおおい。

 あと、ザコラスって当時の着ぐるみとしてそんなに造型悪いかなあ…。ここでいう造型とはデザインも含めたことのようで、この本の著者は、おそらく あのカエルみたいな顔が気に入らないのでしょう。ザコラスは筆者の印象としてキャプテンウルトラのバンデラーみたいな怪獣といった印象です。バンデラーは デザインもカエルみたいでかわいいし、ザコラス以上に造型も粗いのですが、そんなに批判されないんですよね。
ここでは、第二期ウルトラは怪獣の造型の悪さがドラマの本質を見損なわせている、という評がある。しかし、この時期のウルトラよりよほど造型の悪い『人造人間キカイダー』は、特撮ファンの間でドラマ性がきちんと評価されているのだ。

 また、レオの放送中、『アストロ球団』はまだ連載中だった(『アストロ球団』の連載期間は1972~1976年)。また、『侍ジャイアンツ』も放 送中でした(放送期間は1973年10/7~1974年9/15)。なので、『レオ』本放送当時もまだ完全にスポ根は商品価値をうしなってはいなかったと おもわれます。

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