~2001.8.18 小木茂光氏トークショー in FUKUI~
2001年8月18日、小木茂光氏の母校であるH学園高校の同窓会主催によるトークショーが、福井市内の某ホテルで開催されました。ここは、その参加までの道のりとトークショーの全容についてレポートしています。
第一話 晴天の霹靂は、ある日突然落ちてくる 篇
8月始め、お友達の掲示板にてH学園高校で小木氏のトークショーが開かれることを知った。
早速、H学園高校のHPを検索するが、サイトが引っ越し中のためか繋がらず断念。
あきらめきれない私は、書き込みをしていたお友達にURLを問い合わせ再びチャレンジした。丁度引っ越しも終わったようで今度は、いきなり小木氏のお写真がぱっと表示されるページに行き着くことができた。(トークショー終了後、お写真は、削除されています)
8/18、小木氏の母校でのトークショー・・・なんてすばらしい企画なのであろう。そして、なにげに映画・テレビ作品の紹介欄をクリックすると思わず見慣れたページが・・・。なんで?と不思議に思い、元のページに戻ってみる。そして、再びクリック・・・。でもさっきの見慣れたページである。そして、突然気がついたのである。私の作ったHPの一部が直リンクされている・・・。次の瞬間、背筋を流れる冷たい汗とアドレナリン・・・。そして、ドキドキと高鳴る鼓動。「嘘でしょ・・・」というのがまず第一の感想である。その後、URLを教えてくれたお友達にメールをすると「あ・・・そうでしたねぇ」というお返事。回りのお友達にこのことを告げると結構知っていたらしく再び、呆然。どうやら知らなかったのは、本人だけという状況だった。
それから、しばらく考えてとりあえず一般参加の問い合わせをH学園高校同窓会事務局にしてみることにした。勿論、webページを作ったものとして「採用ありがとう」という言葉をつけての問い合わせである。(これってちょっと圧力?かなり圧力?)
早速、お返事をくださった事務局のAさんは、まず、リンクについて、「内容の充実」という理由で採用したと書かれていた。嬉しかったけど同時に「アレを念頭にトークショー」という事実に気がつき滝の汗をかいた。数々の小木氏の歴史を何か違った方向に紹介しているのではと心配になった。(まさに「君は、間違っている・・・」状態!?)
でも、まぁ、採用したのは、アチラの判断だし・・・と責任を転化したとたんなぜか身も心も軽くなる。勝手なものである。
こうしてこの度、正式にトークショーにご協力させていただくことになったのである。
さて、一般入場については、座席に限り(150席)があるため問い合わせた人のみのご連絡ということだった。
「小木さん大好き♪」を形にしてこんなサイトになったのだが、それがきっかけで、なぜか同窓生でもないのにトークショーへと潜入取材を試みることになった。
情報と行動は、コーラとポテトより深い関係にあった。何ごとも聞いてみるものである。
その後のやりとりの中でAさんは、さらに小木さんに関する福井限定版情報をくださった。なんと彼は、福井市の観光ビデオにも登場しているというのである。(こちらは、福井市観光課にあります。福井市内の方は、レンタル可能だそうです。柳葉さんも出ていますが、お二人ともワンカットのみのご出演です。シゲさんは、朝倉遺跡の復元された町並みを紹介しています)
人間万事塞翁が馬・・・ドキドキは、わくわくに変わり晴天の霹靂は、棚ボタに変わった。何が幸いするか解らない世の中である。
お盆の帰省ラッシュ時期でもあったが、大阪までの飛行機とそこから福井までの特急列車サンダーバードも難なく確保でき、「突然、炎のごとく」北陸ツアーは、こうして実行に移された。
折しも台風11号の陰影が気象衛星ひまわりの映像にちらつきだした頃だった。
第2話 福井名所観光 篇(Wホテルより見る福井の町並)
8月17日、金曜日トークショー前日の午後、福井入りした私を出迎えてくれたのは、福井在住の舞美さんである。彼女の愛車に乗ってまずは、市役所へ。その後、福井名物ソースカツ丼を昼食に食べる。以前、雑誌記事の中でシゲさんは、得意料理は、カツ丼だと語っているが、そのうちの一つにソースカツ丼も入っていたに違いない。(ふくいポークは、ジューシーで有名らしい)
どんぶりに景気良く2枚ものせられた大きなカツには、ウスターソースがまんべんなくかかっていて、さらに目玉焼きがトッピングされていた。なんて豪快なカツ丼だろう。ウスターソースのマジックというか結構な量を平気で食べてしまった。恐るべし・・・ソースカツ丼。
さて、その後、私たちが向かったのは、1985年8月2、3日に一世風靡SEPIAが舞った朝倉遺跡である。
全国七カ所でおこなったこの年のサマーイベントは、全て屋外でおこなわれているが、その皮切りになったのが、一乗谷にあるこの朝倉遺跡である。(この「祭り」のもようは、3rdビデオ「ラ・ボラトワール」1986.7に収録されている)
朝倉のイベントに参加した舞美さんの案内で当時のステージ設営場所(写真1)や彼らが雑誌撮影をした場所を(写真2~5)中心に散策。目印は、不変なるものということで岩や石、遺跡である。当時の資料をお持ちの方は、写真でさらに詳しくご確認いただけるであろう。
強者共が夢の後・・・今は、そんな風情の朝倉遺跡だった。なんでも一世風靡の攻め方は、朝倉氏に似ていたらしい。
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(いずれもセピアが、写真を撮った場所)
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(一乗滝)
朝倉遺跡よりさらに2キロ谷に入った所には、かの佐々木小次郎が秘技・燕返しを生み出した一乗滝がある。10度涼しいここは、涼を求める沢山の観光客で満ちていた。
また、日本海側には、越前海岸が広がっており東尋坊からは、水平線の彼方まで続く雄大な海が見える。
シゲさんは、夏になるとチャリンコを20キロこいで海水浴をして過ごしていたらしいが、見渡す限りの日本海をみながら彼は、何を思っていたのであろう。
福井来県のさいには、是非とも訪ねておきたい場所である。
第3話 接近遭遇篇~ボンジュールでボンジュール~
さて翌日の早朝、秋田より寝台列車で川崎緑氏が、ホテルの13階の前線本部に到着。30分後、さらに東京より夜行バスで千穂さんが合流。しばらく雑談で盛り上がった3人は、その後、5階のコーヒーラウンジ・ボンジュールにて朝食としゃれ込んだ。その後は、タクシーで30分ほど福井市内の小木さんゆかりの地を観光の後、再び部屋でダラダラとくつろいでいた。
やがて12時過ぎる頃、「そろそろ下見に行こう・・」と何気なく我々は、3階のトークショー会場へと降りていった。そのときである。なにやら見慣れた美しい後ろ頭が・・・。
「・・・アレ、本人本人・・・」
とっさに出たのは、そんな言葉だった。なんと小木さんご本人が、実行委員の人たちとトークショー会場の下見にお出でになっていたのである。おおっ~。
会場内に入っていくお姿を確認した後、我々は、顔を見合わせとりあえず部屋に置いてきてしまった小木さんへのプレゼントを取りにエレベーターへと駆け込んだ。しかし、あまりの驚きに目的と行動が伴わない。しばらく誰も行く先階を押すことなく動かない箱の中に呆然として立っていた。
第一次接近遭遇、それは、突然、炎のごとくやってきた。
その後、誰かがボタンを押しやっと我々は、部屋に向かうが、ここでも何となくちぐはぐな行動が各自いろいろと続く。動揺は、どーよというくらいピークに達していた。
とりあえず気を取り戻し再び会場に向かってみたところ、我々がばたばたしている間に小木さんのお姿は、消えていた。と・・・そのとき「きっと5階だよ。お昼だし・・・」と閃いたのは、川崎緑その人であった。
5階に向かった我々の目の前にまず「チャイナ・テーブル」のカンバンが・・。お昼は、中華か?と考えながらふっと先ほど朝食を食べた「ボンジュール」に目をやるとそこにまたまた、見慣れたお眉毛とお双眸が・・・・。なんと小木さんは、「ボンジュール」で打ち合わせ中だった。
ドキドキしながら我々は、お茶を飲むことにした。通された席は、レジの横。
「あっちの横の席に変えて貰おうか・・・」
「いや。この辺が正解なのよ」と川崎氏の瞳が光る。
このとき3人の位置からは、小木さんは、後ろ斜め向きに見える位置だった。小木さんは、マルボロ・ライトをくゆらしていた。
「注文何にする?」と言いつつ、目線は、5メーター向こうに釘付け。なかなか自分たちのメニューが定まらない。
「飲み物だよね。こういう場合は・・・」
言ってるそばから小木さん達のテーブルには、サラダが運ばれていく。
「あ~それをあたしに運ばせてくれ~・・・」などと小声で喜びながら、我々は、とりあえずコーヒーを注文した。
それからカレーが、運ばれて小木さんは、おいしそうにお昼ご飯をめしあがっていた。(一抹のハヤシじゃないのかという疑惑は、残っている・・・どうだったのだろう)
そして、突然、川崎氏が、私立探偵のようにこうささやいた。
川崎「アチラが席を立ったらこちらも立って先に会計をして足を止める」
我々の席は、なんと言ってもレジの真横なのである。
私「さすがですね。局長。それから、おもむろにお声をおかけするんですね・・・」
千穂「あ・・・私お渡しするものがない」
川崎・私「今すぐ買ってくれば間に合うよ」
こうして真昼の謀議の間隙を縫って千穂さんは、お花を買いに行ってしまった。
そして、まもなく小木さんたちは、立ち上がった。
我々は、何食わぬ顔で荷物を持った。(でも結構、端から見ると変だったかも・・・)
私は、会計へ。川崎氏は、千穂さんを呼び寄せる電話をかけ始めたのだ。
その手際の良さは、まるで何度もシュミレーションしたかのごとくだった。二人は、役割分担の妙を発揮した。
が・・・。
お釣りを貰っている私の斜め後ろを通って行く小木氏。
『いったい、会計済ませた後は、どうすりゃいいんだ』と不安な私。見渡したけど川崎氏は、まだ電話中だ。
そして、ついに会計を終え、する事の無くなった私の後ろでは、実行委員のNセンセイがお金を払いおわろうとしている。
「行くしかないっ!!」とついに意を決した私は、袋から色紙を取り出すと椅子の前に立って待っている小木さんにおもむろにお声をかけたのである。オギッチ突撃隊・その1・・・特攻の瞬間である。
「あの・・小木さん。サイン御願いして良いですか・・・」
小木さんは、ちょっと不思議そうな不審そうなそんな顔をしてこっちを見た。が、すぐに
「ああ・・。いいですよ」と穏やかにおっしゃった。そして、色紙とマジックをお渡しすると
「お名前は・・?」と言われ、名前を告げると「どんな字?」とおっしゃられたので「普通の○○です」と答えた。それからさらさらとマジックでサインをされた後、日付を書くときに
「2001.8.1・・・・」
とちょっと手を止めた。
すかさず頭上から「8」と言ったのは、川崎氏である。このとき私は、やっと彼女が戻ってきたことに気がついてほっとした。(彼女は、戻ってきたら、すでに私が、小木さんにサインを貰っていて驚いたらしい。いや~、ホントは、内心ドキドキだったんですよ。どんなにあわてても目的は、一応、遂行するけど・・・それなりの年だし)
「お写真撮らせていただいても良いですか」
「ああ・・。いいですよ」
立ち上がったところが、丁度、逆光の位置だった事もあり
「逆光かな・・・」
と小木氏。
「いえ。ここで結構です。御願いします」
そして、ツーショットを一枚取って貰ってさらにとどめに
「握手していただいて良いですか」
「ああ・・。いいですよ」
差し出された小木さんの手は、大きく柔らかく、そして、美しかった。
こうして私は、2年越しのスペシャルな野望を果たしたのである。(往年のファンの皆様、ゴメンナサイ。でもシ・ア・ワ・セ~♪ってこんな突然、やってくるものなのね)
それから、お礼にブランドもののネクタイ(気合い入りまくりの状態の時に勢いで買ったベルサーチ)とファン・レターを袋ごとお渡しした。
「プレゼント、受け取ってください」
「ああ・・。いいですよ。どうもありがとう」
その中には、実は、製本した「集積~おすすめオギさん、おすすめ一世風靡SEPIA」も入っていたのだが、もう勢いは、止まらなかった。こうして、私は、せっせと自ら墓穴を掘っていったのである。
その後、バトンタッチして川崎氏が、用意してきた名刺を渡し自己紹介をした。来年度のファン集いの事をお伺いすると「ああ・・。聞いてます」と小木さんは、おっしゃられた。(彼女は、事務所のマネージャー氏より小木さんのご出演情報などを連絡していただいている公認サイトの管理人である)それからサインと写真撮影。
最後に、彼女がお土産の秋田銘菓「はたはたパイ」を渡すと
「あ~、はたはたパイだぁ・・・」
と突然、可愛く小木氏。
「エッ?ご存じなんですか?はたはたパイ」と驚く川崎氏。
「ううん。・・・知らない」
と小木氏。
「・・・・」
噂通り、やはり天然な人だった。
それから、帰ってこない千穂さんの為に我々は、「もう一人花を買いに行った友達がいるんですが~」と御願いモード全開で申し上げたところ
「まだ、時間あるからいいですよ」と小木さん達は、ラウンジ横の応接シートに移動して待ってくださることになったのである。
「どうぞ、となりに座ってもいいですよ・・」と小木氏の左横と真正面の席を空けてくれた御親友のT氏とNセンセイ。ありがたくももったいない。
我々は、それ以上は、遠慮して小木氏に近づくことはせず、タダただ柱の影から「私たちは、この辺で・・」とあき子ねぇちゃんのごとくたたずんでいた。
待ってる間、小木さんは、川崎氏の渡した名刺をニコニコながめ、その後、上着の胸ポケットに入れられた。名刺になりたい瞬間だった。
「ファックスありがとうございました」と川崎氏。
「ああ・・・。あれで良かったのかなぁ・・・」と小木さん。
くつろいでいるけど輝いている。
うっとり見ているとそこに帰ってきた千穂さん。遠慮する彼女をけしかけて写真を撮って貰うようにいう我々。
すっと立ち上がる小木さん。その所作も実に美しかった。
こうして第二次接近遭遇篇は、思いがけないディープ・ミッションとなったのである。
小木さんは、その後、控え室に戻られトークショーまでの間、ご休憩された。果たして「集積」を怒らずに最後まで読んでくださっただろうか・・・。行動が大胆な割には、結構小心者の私であった。
第4話 「小木茂光氏を囲む会」 篇 14時30分~15時30分
「前略、道の上より」をBGMに小木さんご入場。
トークショーは、司会者・実行委員長・小木さんの対談形式でおこなわれた。
ご挨拶「こんばんは。あ、こんにちは。初めまして、小木と申します」
(小木茂光さんは、H学園高校を昭和55年に卒業されている)
プロフィール
「一世風靡SEPIA」というパフォーマンスグループをつくりましてその後、役者に転向した小木茂光です」
役者になったきっかけ
「役者になったきっかけと言うよりも・・こういうことが元々好きだったこともあって・・卒業してからなんか大きな事がやりたいと言うのがあって上京しました。それから一世風靡という形ができてきて今の自分があります。
(ここで親友のT氏が登壇)
T氏「クラスが一緒の大戸(代表)とシゲと3人で一山上げようと東京に行きました。たまたま渋谷原宿のホコ天に行ったら竹の子族が出てきて、そこで違ったグループを作ろうとロックンローラー族を作ったんです」
小木氏「ロックンローラーやっていて・・・変な奴でスミマセン」
「体育祭の時に応援団とかやっていてそのときに優勝させて貰った事がある。そのとき、なにわぶしの様なパフォーマンスをして多分、それが僕の中で忘れられずにこんな事やっている。」
(ちなみにローラーを解散して別のパフォーマンスグループを作ろうとしたとき、連絡しようにもT氏は、行方不明状態だったらしい。連絡が付けば、おそらく彼もメンバーだっただろうということ)
一世風靡解散後、役者に・・・
「一世風靡がパンとうれすぎちゃってそれから、いろんなもめ事があって・・・。自分の中でやりたいことが無くなったというのもある。役者をやってみないかと言ってくれる人がいて・・・俳優になった。新たにテレビに出るのに2年ぐらいかかって、その間、アルバイトしたり売れない奴らとちょい役やったり、やきとり屋でバイトしたりしながらなんとか食いつないでいた。当時は、歌手や役者さんに尊敬できる人がいなかった。なんかちょっと違うなというかんじがしていた。」
捕捉(1989年の「湘南物語」でいったんブラウン管から姿を消した小木氏は、1991年「獅子王たちの夏」により再びスクリーンデビューを果たす。以下、1992年は、「いつかどこかで」「ミンボーの女」「エンジェル 僕の歌は、君の歌」と3本の映画にご出演、さらにテレビでも「親愛なる者へ」「NIGHT HEAD」などにキャスティングされている。雪印バターの四季のCM起用もこの年からである。)
なかなか聞けない芸能界のギャラについて
「CMの場合は、一年間で500万ぐらいがレベルとしてあって上は、2000万、3000万と上がっていくのが相場です。役者として出た場合は、約50万、後は、かかった日数も関係ある。頻繁に新しいバージョンにかわって撮影が続くと結局、上積みされる形で出演料が上がっていく。CM一本で食べていくのは、難しいですね。
僕は、余りCM出てないですよ。雪印バターとかハミングとか・・・ローソンぐらいしか・・」
給料について
「歩合制で貰っている人もいますけど、僕の場合は、給料という形で貰っている。その方が、自分にとっても楽なんでそうして貰っている」
(ちなみに「サトラレ」等のDVDをファンが買っても小木さんの懐には 、何も入らないらしい)
「哀川君は、上手くやっていてビデオのレンタルや売れた枚数分だけ入ってくるように契約しているんです」
恩師と共に
(ここで高校3年の担任H先生がご登壇)
H先生「クラスでの存在は、にぎやかと言うか腕白というか、僕らから見ると難しいなと・・・。(会場、笑)まぁ、クラスの雰囲気作りをしていた、そう言う意味では、よかったかなぁと・・・」(小柄で穏やかそうな先生である)
実行委員長「打ち合わせの時に話し聞いていたら『やんちゃな奴だなぁと・・・』それで、思わず『卒業できたんか?!』と聞いてしまったら『一応できたと・・・』(笑)」
小木氏「H先生じゃなきゃできない奴もいたんじゃないかな・・・」
H先生は、小木さんが在学中よりあまりに立派になったとおっしゃり驚きを隠せない様子だった。
会場より質問
Q.芸能人で親しい人は?
A.「お水の花道」の財前さんとは、よく飲みに行きます。甲本君という人がいて彼とは、よく遊んでいます」
Q.藤原紀香さんは、どんなひとですか?
A「.みなさんが、思っている通りきれいな人です。背も高いしスタイルも抜群で・・・とても礼儀正しい人です」
Q.柳葉さんについて
A.「彼は、良く飲んで人前で暴れると言われるけど、それは、一つの役を真剣に作っていくタイプだからで・・相手が研究してきてくれていないとくやしいじゃないですか。それで飲んだときに相手に抗議しようとして騒ぎになることがある・・。今は、子供ができて良いパパになっている。凄く一つのことに対して真剣になる人です。」
Q.映画とドラマの違いは?
A.「映画というのは、監督が撮りたいものが全てなんです。監督の表現したいことというのがあってその中で役者はやっていこうとする。
テレビは、プロデューサーがいて視聴率に左右される。視聴者が、見たいモノにドラマは、なっていくんです。
CMは、企業がこうしたいというイメージに。」
Q.今までやった役の中で一番印象に残っているものは?
A.「やっぱり苦労したものは、残っているもんで・・・。テレビや映画より・・・自分たちで作っているものの方がおもしろいです。僕はR指定ものが多いのはなぜかといわれますが、それは、人間の中で排除できないものであり、本当は、あるべき人間の生き様であり・・・そんなものをやっている方が非常に楽しいし、やっていて印象に残るからなんです。」
Q.お水の権藤さんをここでやってもらえませんか?(会場より拍手)
A.「権藤・・・・どんなだったかな(思い出している)」(←ちょっと困った様子)
「余り器用な役者じゃないんで・・・」(←セリフを一生懸命思い出そうとしている)
「えっと・・・(意を決して)『摩天楼グループ社長の権藤です』・・・・」(←またまた困ってしまう)
「あ・・・できない・・・」(←非常~に困っている)
実「こんなに知り合いの顔ばっかりだとできないですよね」
司会「やっぱり東京じゃないと・・・」
若い人たちにメッセージ
「若者には、何も解らないと思う。自分が何者なのか解っている若者は、まずいない。卒業してから自分は、大学に行かなかった分、社会的にどう対応していけばいいのかすごく研究したのは事実です。哲学やったり心理学やったりいろいろ自分で勉強しました。それをやらなかったら今の自分もなかった。それが一番大きかった。
役者やってる若い人たちに最近、言ってることがあるんです。
『君は、何者なんだ、君はどういう人間なんだ、それが解っているのか、わかっていないのか』と。
それらをどうやって自分の中で追求していくのかってことで言っているのがまず、『君のお父さんお母さんは、どういう人間なんだ、本当に知っているのか、何に喜んで何に泣いて何をしたか、それをどれくらい知っていますか』と・・。それを知ろうとすることによって人間として父親や母親の人間性が見えてきて人間が理解できる。それを追求すると人間てこういうものなんだと解ってきて自分が何者なのかわかってくる・・・と思うんです。そうすると自分のことも解ってきて『もっとこういう風にしたいんじゃないか』と言うこともわかってくる。それは、普通の生活の中でもありえると思うし、そういうことを追求していって欲しい。僕は、自分の中でできない役は、多分ないんじゃないかと思ってるんです。いろんな人間である自分、それからいろんなものが反映されている自分がある。それらを確認していくことが大切じゃないかと・・・」(内容は、要約しています)
司会「高校時代もそんなことを考えていたんですか?」
小木氏「全然(きっぱり)」(笑)
役者としてのこれからの抱負
「役者は、僕の仕事だけど何かもっと違うこと・・・シナリオ書いたりして役者一本ではない・・・書いた側から役者を見直したりもしてみたい。」
実行委員長まとめ
「お話しさせていただいて大変、前向きでまじめな方ですばらしい人だと思いました。メジャーになってくるといろいろあると思いますが、気さくな方で・・。この世界は、厳しいのでここにおられる方々で輪を広げていただいてできれば、これからも「小木茂光さんを応援する会」でもつくって俳優としての活躍を応援していきたいものです。みなさんで盛り上げていただきたい。ひとつよろしく御願いします。」(会場大拍手~♪)
花束贈呈
(55年卒業生を代表してNさんより花束が贈呈される)
司会「同級生ですよね」
小木氏「そうですね・・・」(薄そうな認識)
司会「昔、つき合っていたとか・・・」
小木氏「僕じゃないです」
司会「じゃ、Tさんのほうですか?」(笑)
T氏「いえ。違います・・・(笑)」
司会「これからもすばらしい活躍を期待しています。今日は、ありがとうございました。」
(小木さん退場)
この後、個人に戻った小木氏は、同窓会レセプションに参加された。
第5話 考察「汝自身を知れ!」 篇
古代ギリシャのデルフォイのアポロ神殿の扉に書かれているこの言葉は、もともと「自分の身の程をわきまえよ」という意味だった。しかし、ソクラテス以後、「自分の無知を自覚せよ」という意味で使われるようになった。
そして、本日の小木茂光氏の言った「自分を知れ」という言葉の意味は、さらに人間を根元的に追求していく「自分探し」の意味に近かった。
役者として様々な人の人生を演じている小木氏だからこそ到達した境地、その意味では、小木氏の演じられているのは、もはや役柄ではなく一人の登場人物の人生ではないだろうか。
かのゴーギャンが、自殺寸前に描いた作品にも同様の問いかけがタイトルとして掲げられている。
「我々は、どこから来たのか、我々は、何者なのか、我々は、何処へ行くのか」と。
その答えを見つけられぬままゴーギャンは、命を絶ったが、それは、きっと自分の中にあるのだと小木氏は、言っている様に思えた。
今回のトークショーは、これまで作品を通してしか伺い知ることのできなかった俳優 小木茂光本人の考えがはっきりと語られていた。「一世風靡」時代は、「一世風靡新聞」などを通して彼の世界観や人生観などを多少なりとも伺い知ることができたのであるが、役者としてスタートした俳優 小木茂光は、長い間、マスコミに沈黙していたように思う。故に、視聴者は、彼自身をなかなか伺い知る事ができなかった。
我々は、人間に対する深い洞察をいかにして彼が習得しようと試みたかをここに理解した。多様な役を演じる小木氏は、「自分を知ることで、自分にできない役はない」と言う。短い一瞬の役においても彼のこなす役柄は、とても魅力的で印象的だ。それは、こうした人間に対する深い理解とそれを追求していく絶え間ない努力や研鑽の結果なのであろう。どんな役柄にでも挑戦していく小木氏の役者魂・・・今後も目が離せない。
このツアーに際しましてご尽力いただいたすべての皆様に感謝いたします。ありがとうございました。
2001.8.21 ERIN
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