中部の「鉄源」 発展の礎 新日鉄・名古屋製鉄所
工場再光 中部ものづくりの現場 1
名古屋港を臨む愛知県東海市。新日本製鉄名古屋製鉄所は南北3キロ、東西2キロの広大な埋め立て地にある。半世紀前に中部経済界が強く望み、新日鉄の前身の富士製鉄が応じて建設された高炉を持つ一貫製鉄所だ。ここで作られた鋼材は自動車や電器、産業機械など様々な製品に姿を変えて世界中に送り出されてきた。中部のものづくり産業の発展をけん引してきた立役者の一人だ。
グォーン、グォーン。高さ10メートル、直径8メートルの巨大な鋼鉄の"窯"が轟音(ごうおん)を響かせながら溶けた銑鉄を運ぶ。窯をつるすクレーンが止まると、高さ18メートルの重い扉が開き「転炉」が出現。窯が傾き、燃え盛る銑鉄が流し込まれる。
転炉は炭素分が多く「堅いが、もろい」銑鉄を成分調整し、粘りがあり加工しやすい「鋼」に変えるための設備。転炉がある製鋼工場は鉄鉱石や石炭から銑鉄をつくる高炉と並ぶ製鉄所の心臓部といえる。転炉で生まれた鋼はゆっくり冷やされながら板状の鉄塊となり、引き延ばされ切断されて製品になる。
薄鋼板に強み
多様な鋼材のうち名古屋製鉄所が強みとするのは自動車などに使う薄鋼板だ。粗鋼生産量(2009年度で約600万トン)の8割が薄鋼板向け。この比率は新日鉄の他製鉄所に比べ群を抜く。それは名古屋製鉄所誕生の経緯と関係がある。
名古屋製鉄所の建設が提唱されたのは1957年。当時、中部経済連合会の副会長だった井上五郎中部電力社長は、繊維産業中心だった中部の産業構造を自動車や機械の集積地とする目標を掲げた。その基礎素材としての鉄鋼を安定供給できる製鉄所の誘致を進めた。
中経連は幹部7人で構成する誘致委員会を設置。現在のトヨタ自動車や中部電力、大同特殊鋼、オークマ、岡谷鋼機の社長、会長らが実動部隊となり誘致活動に取り組んだ。鉄鋼メーカーの選定は大同製鋼(現大同特殊鋼)社長だった里村伸二氏が担い、この要請に富士製鉄社長だった永野重雄氏が応じた。
当初、富士製鉄の一事業所とせず、中部経済界との共同出資会社「東海製鉄」としたのは地元との緊密な関係を明確にするため。中部の主要製造業をはじめ電力やガス、銀行、商社、愛知県などの自治体を加えた総勢134者が出資。富士製鉄が51.7%を出資したほかは少数株主とすることで「総意の製鉄所」との意味合いを込めた。
そして60年、建設地の埋め立てに着工。伊勢湾岸に約630万平方メートル(ナゴヤドーム130個分)の用地を整備し、計画立案から高炉稼働までわずか7年で駆け抜けた。当時で総工費7000億円という巨大事業だ。
そのころ中部産業界は自動車生産が本格化し軽工業からの脱皮を目指しており、域内の製鉄所を渇望していた。64年の高炉稼働から現在まで、出荷量の6割が中部向けという状況をみても地元との密着度がうかがえる。高品質な薄鋼板を歩留まりよく生産し続ける技術も、中部の顧客とともに技術革新を続けてきたことで確立されたものだ。
自動車産業支える
中でも自動車産業との関係は深く、自動車各社と共同で鋼材開発を手掛けてきた。「名古屋製鉄所発」の独自技術も多数存在するという。09年には自動車ボディーに最適な素材研究のための自動車衝突試験設備を導入。高機能な薄鋼板の品質向上に弾みをつけた。
ここ10年は廃材のリサイクル技術の確立にも挑んでいる。2000年に廃プラスチックのリサイクル工場棟を建設。愛知県の廃プラスチック処理量の4割に相当する年間2万3000トンを処理し、製鉄所内で熱源として使うほか、関連化学メーカーの原料として再利用する体制を確立した。
名古屋製鉄所の粗鋼生産量は今では稼働当初の約13倍。巨大工場は時代のニーズに適合するように進化してきた。中部経済界によって誘致された域内唯一の一貫製鉄所は高炉稼働から50年を迎えようとしている今も、中部製造業の最上流を担い続けている。