ニュージーランドのテロと政治右派
この記事の画像(11枚)ニュージーランドのクライストチャーチにおいてムスリムを標的としたテロが起きたのは先月の3月15日だった。クライストチャーチという平和な街で、しかも犯行に及んだオーストラリア人の男が準備や自らの殺戮を動画でライブ配信した衝撃はすさまじかった。ISの犯行と全く同じようなショー化する手法に戦慄を覚えた人は多かったろう。この犯人は、ノルウェーでのテロ事件に影響を受けた節があるという。
2011年、ノルウェーで世界を震撼させた乱射事件が起こった。犯人はノルウェー人の白人青年で、二つのテロで計77人を殺害した。首都オスロの政府庁舎を爆破し、ウトヤ島にわたってそこで開かれていた労働党青年部の集会を襲い、銃を乱射した。彼は根拠薄弱なイスラム恐怖症に駆られていた単独犯だったが、かつて移民規制強化を訴えて躍進した進歩党に所属していた時期があった。この進歩党は2013年には政権入りしており、もはや極右と位置づけることが難しいほどメインストリーム化が完成している。あくまでも合法的な範囲内で移民の制限を訴える政治家と、そうした政党を支持しつつ犯罪や嫌がらせに走るテロリストや極右との関係は悩ましい。極右は移民排斥派の位置する数直線上の先の方に確実に位置するのだが、しかし移民制限を訴えることは犯罪ではないし、ありうる立場だ。興味深いのは、こういった事件が起きると移民排斥派への表面的な批判は高まるが、他方で国民に全般的に不安が高じて、結局は移民排斥派が躍進してしまうということだ。ノルウェーの事例はそれを端的に示している。
オーストラリア政界も、事件後に政治家の主張をどう見るかということに関して同様の問題を抱えている。現に、移民排斥的な立場の政治家がテロの原因をムスリム移民の側に擦り付けたために、生卵をぶつけられて、その若者を殴るというひと悶着があった。今のところはそのような排外主義的な政治家が指弾されるという状況が報道されているが、そこまで物事はシンプルには進まないのではないかと思う。
今回犯行に手を染めた男の出身国であるオーストラリアも、移民問題を抱えている。白豪主義からの転換後、しばらくするとオーストラリアは移民の受け入れを合理的に設計するシステムを導入した。白豪主義が長く続いた結果、合理的な設計なしに受け入れた期間自体が短かったこともあって、また欧州のように地続きで移動できたり、あるいは地中海を挟んでイスラム世界と近い位置に置かれているわけでもないことから、直面している摩擦や問題は欧州諸国に比べれば比較的少ない。
しかし、それでも表面的な、「政治的に正しい」言論に出てこない抑圧された危機感や情念が存在することは確かだ。テロの恐ろしいところは、そこには恐れる理由があることを逆側から立証してしまうところだ。メインストリームの自国民がテロリストになったとき、メインストリームの内側からそのような犯罪者を出さないように社会的不適合者のメンタルケアや治安に力を入れるという意識に繋がるのではなく、移民そのものに責任を擦り付けてしまうか、あるいは、移民問題は全く存在しなかのように振舞ってしまうという対極的な二つの反応を呼び起こすことが多い。前者は自分の社会の問題に目を向けていないという意味で問題だし、後者は犯人を生む構造にメスを入れるには至らず、国内対立は激化するもののさらなるテロの予防には繋がりにくい。一定の確率で生じるこうした犯行を防ぐための警察などの組織的な取り組み、社会的な取り組みを設計するよりも、移民問題(およびその有無)を巡って口から泡を飛ばして口論する方が楽だからだ。
テロを防ぐための言論
テロを予防するためには、その政治性を打ち砕く必要がある。ニュージーランドのアーダーン首相は、テロリストの男の名前を口にしないと宣言することでその目的を一部果たした。しかし、物書きは本来そのようなテロリストが生まれるに至った経緯を探りたくなるものだし、その試みにおいて男が知られたくなかったであろうことも含めて探るものだ。普通の人の一面を持ちつつも常軌を逸した殺人犯として浮かびあがってくるような分析をすることは、テロを無力化するためにはプラスだと私は思う。劇場型のテロへの対抗のためには、その劇場の装置と演出をはがして、日常に引きずり込むことが役立つと思うからだ。
その意味で、米南部フロリダ州パークランドのマージョリー・ストーンマン・ダグラス高校での乱射事件で銃規制を訴える少女エマ・ゴンザレスさんが「沈黙のスピーチ」を行って注目を集めたときも、フランス南部トレブのスーパーマーケットで移民二世の男が銃をもって立てこもったときも、その犯行の背景を伝える記事の乏しさが気になった。
高校乱射事件を起こした元男子生徒ニコラス・クルーズは自閉症と診断されており、コミュニケーションがうまく取れず、からかわれたりし、それが孤立の原因となって優秀な高校から追い出された。その顛末や、二人きりで暮らしていて事件の少し前に亡くなった養母との関係などがひっそりと新聞の片隅で報じられていた。フランスのスーパー立てこもりでは社会的に孤立を深めたモロッコ系生まれの若い男レドゥアン・ラクディムがイスラム国戦闘員を名乗って人質や警官を殺害、自らも射殺された。なぜその男が過激派と繋がったのか。その社会的背景を知ることには意味があるし、警察がマークしていた容疑者の犯行をなぜ止められなかったのかという評価も必要だろうが、そうした情報は(社会のメインストリームによる犯行ではなく移民や移民二世による犯行だった場合はとくに)あまり関心を持たれない。
政治家がリーダーシップをとるために一定の象徴的行動を選ぶことは、私は前向きに評価したいが、だからといって言論や報道がそうした「狂言者」が出来上がる過程に触れなくてよいということにはならないのだと思う。
ヒジャブを被る意味とは
テロを無力化するための方策として打ち出されたもののうち、今回のニュージーランドのテロをめぐって非常に気になったことがあった。犠牲となったムスリムや打撃を受けたムスリム・コミュニティに共感するため、アーダーン首相を初め多くのニュージーランド女性や、ニュースキャスターがヒジャブ(ヘッド・スカーフ)を付けたことだ。
事後的にその動きを報じた高級ファッション誌、ハーパース・バザーが、多くのインスタグラム写真付きでその様子を肯定的に報道している。小さな娘に被せたり、自分も被る母親、美しきファッションリーダーやニュースアンカーの女性キャスターがインスタグラムやツイッターに載せた写真などには、まさにムスリム女性さながらの格好が溢れていた。ニュースアンカーのサマンサ・ヘイズもニュース番組出演時に黒いスカーフを被り、斜めから写真を撮っている。
彼女が直接ヒジャブを被ることにした理由として挙げたのが、事件後、列車でヒジャブを被っているがゆえに嫌がらせを受けた女性を目撃したことだ。こうした動きは、#HeadscarvesForHarmonyや#HeadscarfForHarmonyといったハッシュタグでNZ中の女性たちがヒジャブを被った写真を投稿する行動へと広がっていった。
元々、ニュージーランドにはこうした相手の文化の表象を身に着けたり相手の文化であるダンスを踊ったりすることで包摂を測るという発想がある。マオリの先住民に対する和解・包摂政策として行われているものだ。これが米国の先端的リベラルにかかると、それは「文化の盗用」であるという批判もでてきうる。だが、そもそもヒジャブを被ることに抵抗がある国においては、被差別的な文化の表象をあえて身に着ける、という勇気の方が評価されるのだろう。豪州、ニュージーランド、米国のような社会からのヒジャブ着用に対する批判は比較的少ない印象があった。
ただ、ヒジャブを身に着けるという行為、マオリ族の格好をして踊ること自体に、すでに抑圧される弱者に対する上からの目線が感じられることはやはり指摘しておかねばならないだろう。それに加えて、もっと気になったのがあまりにそのヒジャブの写真がスタイリッシュで綺麗すぎたことだ。よく、インスタグラムへの投稿は虚栄がいりまじったコミュニケーションだと言われる。自分のファッションを見せるために写真を投稿したり、買ったばかりのバッグを投稿すること自体は、私は肯定的だ。
しかし、テロが起きて一週間のうちに投稿された、ニュースアンカーやタレントの女性たちのヒジャブ付き写真は明らかに自分の纏う「エキゾティックな美」を意識したものだった。そこで悲しむ美しい自分を演出する余裕があること自体、あまりに偽善的で私にはなじめなかった。
そこに表れていたのは、すぐに反応したい、何か象徴的なことをしたい、自分をより良く美しく見せたい、というものが入り混じったSNS時代の人間の性だったのだろうか。
9.11のとき、しばらくの間埃にむせながら崩落後の現場を中継するキャスターたちにはそんな余裕はなかった。日本だって東日本大震災のときに遺族に共感を示すためにつやつやと髪を結いあげて黒喪服なんか着る人はいなかった。つんと澄ました角度でインスタを撮っていたらそれこそ袋叩きにされただろう。本当に絶望したり悲しんでいるとき、人にはそんな余裕はないものだ。9.11のメモリアルに行くと、死にゆく人によって最後に残されたメッセージや、崩落する世界貿易センタービルを見上げていた人々の会話がいかに単純で、驚愕やあるいは絶望と愛に満ちていたかが良く分かる。
いま必要なのは、綺麗にヒジャブを被って見せることではなくて、そういった悲嘆ではなかったのだろうか。アーダーン首相が最初に髪を振り乱しやつれて喋ったときのあの表情だ。ムスリムでないために自分事として受け止められなかったのであれば、自分たちが同じ攻撃を受けたときに憎しみから報復へと向かわない強い心を育てるという、静かな悟りを育むための教訓として悼むべきだったように思う。
政治家や表に出る人は、象徴的行為を扱うことができる。その象徴的行為は時に意図とは別に大きな意味合いを持ってしまうことがある。ヒジャブを被る行為は、世界に誤ったメッセージをもたらす可能性もあるが、それを意識しない人も随分と多い。事実、このことに対する感じ方をめぐるSNSの投稿では、男性のジャーナリストに対しずいぶんと日頃の論じ方とは違う自分とのずれを感じた。ヒジャブが宗教上の慣習として定着しているが法律で強制されてはいないムスリム国家の方が多い、ということや、ヒジャブを被ることで身の安全を確保でき外出できるようになったという、女性にそもそも危険の多いムスリム社会があるという実情は、何らヒジャブを被ることを支援する理由にはならない。そうした事情は、ヒジャブを攻撃する必要がない、ということに繋がるだけだ。
ヒジャブを被ること自体を好まない女性もムスリムには存在する。それが抑圧の象徴だと捉える人もいる。またヒジャブを被る女性を魅力的だと捉え、自分たちムスリム男性の好ましい対象物となったと考える男性もいる。あるいは、ヒジャブを被らない女はみな娼婦であると考えるムスリム男性もいるのだ。
文化はそもそも多様だ。女性を抑圧する作用を持つ文化もある。そんななか、他人の文化に寄りかかって主張しなくても、十分に悲しみや連帯を表わすことはできたはずだ。美しい布を選んでヒジャブを被らずに、胸を叩いて一緒に苦しむ。それこそがテロの根絶に繋がる道であり、人の道だったように思う。