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「フジモリ大統領亡命秘話」その1 [2008年12月10日(Wed)]


フジモリ元大統領とは旧知の間柄(ペルーにて)


「フジモリ大統領亡命秘話」その1


ペルーのフジモリ大統領(当時)は、2000年11月、インドネシアで開催されたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)に出席。現地からホテル・ニューオータニで夕食を共にしたいとの連絡が入った。

いつもは帝国ホテルかホテルオークラなのにと思いながらもホテル内の日本料理店に予約を入れると、すでに満席。一階の庭に面した少し固い雰囲気の場所での夕食会となった。

夕刻8時きっかり、大統領はいつもと変わらず、にこやかな表情で現われた。警護官が同行していないこと、食事中、庭に面したカーテンを降ろして欲しいとの依頼以外特に変わったこともなく、曽野綾子(日本財団会長)との世間話に終始した。

二時間足らずでお開きとなりお見送りしようとしたところ、部屋に来て欲しいと同行を求められ、アリトミ駐日大使と私の三人で部屋に入った。

雑談の後
「笹川さん!! 僕、日本に長く滞在したいのですが」
「長くって、どのくらいですか? ビザがあれば何の問題もありませんよ」
「僕は日本国籍もあるから、長く滞在したいのです」
「話がよく解かりませんが、亡命するということですか?」
「亡命って何ですか?」

横からアリトミ大使がスペイン語で説明する。

「身の危険が迫っているので、大統領を辞めて日本に滞在したいのです。もうペルーには帰れません。力を貸して下さい」

「よく解かりました。全力を上げて協力します。ここは日本です。身の安全については何の心配もいらないと思いますよ」

「有難う。僕は大統領を辞任するので、国家の金をホテル代には使用できません。ホテルを出たいのです」

「解かりました。しかし、私は月曜日からラオス、カンボジアに行かなければなりません。月曜日早朝、成田に行く前に参りますので、お疲れでしょうから、今日はゆっくりお休み下さい」
と言って別れた。

月曜日早朝、曽野会長宅に寄り、留守中のフジモリ氏の対応をお願いする。その後、午前7時過ぎ、ホテルの部屋をノックすると、既に背広にネクタイ姿でアリトミ大使と共に待っておられた。

朝食にオムレツを注文し、差し向かいに座り食べ始めた。アリトミ大使はソファーに座り、食事には加わらなかった。

大統領はオレンジジュースに少し口をつけただけで全く食欲は無く
「大統領辞任を公表しました。今日から泊る所がありません」

「1週間で帰国しますから、心配しないでこの部屋にいて下さい」

「この部屋は料金が高いです」

「それでは小さな部屋に移ったらどうですか。ホテルが一番安全ですから。ところで大統領府に残っているケイコさんの身の安全は確保されていますか?」

「ペルーでは女、子供には手を出しませんから、それは心配ありません」

「時間が無いので成田に行かなければなりません。留守中の要件は曽野綾子会長に連絡してください。何でも協力するからご心配なくとの伝言を頂いております」

若干不安そうに、ドアに手をかけて送り出してくれた。

翌日、ラオスの首都・ビエンチャンにアリトミ大使より電話が入る。

「フジモリからの伝言ですが、カンボジアのフン・セン首相に亡命受け入れの相談をして欲しいのですが」

「日本国籍を持っておられるのだから日本が最も安全です。とにかく私が帰国するまでホテルの部屋から出ないようにして下さい。何かあったら曽野会長に連絡してください」
と言って電話を切った。

何が不安であったのかわからないが、私の帰国を待てず、22日、曽野邸に移動した。

『窮鳥懐に入らずんば、猟師もこれを撃たず』
別に曽野会長が猟師というわけではないが、熱心なクリスチャンであり、フジモリ大統領が辞任し、一私人・フジモリとなったことを確認されたところで受け入れを決意してくださったようだ。後に「私は運命に従った」と回顧されている。

それ以来約3ヶ月に亘り、曽野邸で食客となった。
食事は勿論のこと、物心両面で親身にお世話をして下さった。

石原慎太郎都知事からは、自分の事務所を提供するとの電話を頂き、故人の末次一郎氏からは、短期間ではあったが自家用車の提供があり、フジモリ氏とは面識のない料亭のおかみさんは、正月用のおせち料理を届けてくれた。

マンションを提供して下さった方もあり、日本人の多くの善意に支えられながら亡命生活は順調にスタートした。

提供されたマンションに到来物の胡蝶蘭を届けた折
「大統領!! かつてフランスのドゴールは亡命先のロンドンから『自由・フランス放送』とかいって、しばしばフランス国民にメッセージを送り続けたと、何かの本で読んだことがあります。あなたも毎日、インターネットでペルーの国民にメッセージを送り続けてください」

「それはいいアイディアです」

以来、彼は「フジモリ健在」をアピールするため、毎日のように日本から発信のためキーボードをたたき続けた。

またある時、到来物の果物を届けに行くと「96年~97年の左翼ゲリラによる日本人大使公邸占拠事件の最中にカナダで橋本首相と対談した折、何度も『人質の生還を最優先にお願いしたい』と頼まれた。この人質救出作戦は本当に頭を痛め、何としても全員生還のため全力を上げたいと知恵をしぼった」と述懐され、当時のフィルムを見せてくれた。

まるでスティーブ・マックイーンの名画『大脱走』を見るようであった。軍隊の施設の中に日本大使公邸の縮尺版を建設し、あらゆる角度から検討の結果、公邸直下までトンネルを掘り、最後にフジモリ大統領が防弾チョッキを着て作業する兵士と共に公邸直下から公邸を見上げる様子など、迫真の映像を見せてもらった。

フジモリ大統領の卓越した指導力で、人質は全員無事、奇跡的に救出された。この時救出された外務省職員・小倉某氏の「ゲリラのニ、三人は生きていた。彼らは軍隊によって殺害された」との発言が、現在のフジモリ裁判の主な一つであることは皮肉である。そのことについて、フジモリ氏は一度も小倉某氏を非難したことは無い。

―つづく―
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コメント
 その時、私は末次一郎事務所9人のトップでした。フジモリ大統領のために、小林、浜野の二人をドライバーにしました。
その小林等くん、今は葛飾区の区議会議員になっています。
とりあえずのご報告です。
Posted by: 吹浦忠正  at 2008年12月12日(Fri) 17:17


フジモリ氏の母堂が立派な方であったことを思い出します。
 「自分は、パレスでは暮らしていない。」と仰っていたことも。

 ケイコさんの奮闘を祈念しています。

   原 不二子
Posted by: 原 不二子  at 2008年12月10日(Wed) 18:02

ワシントンDCの菊地です。

フジモリ大統領の亡命時の裏話、とても興味がありますが。しかし、要らぬ心配かもしれませんが、まだ裁判が終わっていない時にそのいきさつを発表することは裁判に悪影響を及ぼすかもしれません。

是非弁護士さんと相談してください。

菊地邦夫
Posted by: KIKUCHI Kunio  at 2008年12月10日(Wed) 14:28

フジモリ氏が笹川会長を頼りにされ、日本人を代表して笹川さまが身を挺してフジモリ氏を助けられたストーリーを感銘して拝読いたしました。

笹川さまの貴重なご経験を歴史の語り部として今後も我々に教えて下さい。ストーリーの後続が楽しみです。

小柳津浩之
Posted by: 小柳津浩之  at 2008年12月10日(Wed) 09:13