@chablis777
シャブリ

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(優子)もう 話してもいいよね。長い話になるけど 聞いてくれるねぇ?
お父ちゃんとお母ちゃんの 昔の話…。
♪~
♪「陽の光纏う朝」
♪「開く窓 願う姿」
♪「忘れない 机の前 あなたの場所」
♪「また会えたら話をしよう」
♪「あの日の続きを聴かせてよ」
♪「届いて この歌あなたへ」
♪「降り注ぐ順光線」
♪「照らす背には永久の願い」
♪「『大丈夫ほら 見ていて』」
(暢子)いつの写真?
(優子)昭和18年ぐらいかね。
うちの家族と お父ちゃん。たった一枚 残っている写真。
お父ちゃんがずっと持っててくれてたわけ。
これが お母ちゃんのおうち?
(優子)そう。うちは 那覇の食堂の娘だったから。
♪~(「浜千鳥」)
(優子)うちの家族は両親と おじぃ おばぁ時恵ネーネー 弟の秀夫の7人家族。
(優子)ネーネーは 琉球舞踊が上手で弟は 賢秀に似て やんちゃだったよ。
♪~(「浜千鳥」)
(良子)お母ちゃんも 踊りを習ってた?
(優子)ネーネーに少し教えてもらっただけ。
お母ちゃんの踊り見てみたい。
(賢秀)おう。 ハッハッハ…。
(優子)お父ちゃんはうちのお店で働いていたさぁ。
お店の名物は そばだったよ。
あ~ だから お父ちゃんがそばを作れたわけ?
(良子)そのお店でお父ちゃんと出会ったわけ?
初めは ただのお客さん。
芸人一座の 一番下っ端でね。
(歌子)もしかしたら上原さんも その一座にいたわけ?
上原さんが座長だったんだのに。
(賢秀)アキサミヨー。父ちゃんの夢は 歌手だったわけ?
歌子が 今 使っている三線はお父ちゃんがそのころから使っていたもの。
上原さんの一座は 苦しくなってお父ちゃんは本土に出稼ぎに行ったわけ。
♪~
(房子)私の両親はやんばるの出身で幼い姉を親戚に預けて鶴見に仕事を探しに来た。
私は 鶴見で生まれた。
だから 私は 一度も姉には会ったことがない。
その姉の息子が 賢三。暢子さんの父親。
(二ツ橋)つまりオーナーの 甥御さんですね。
賢三は 戦前出稼ぎで鶴見に来ていた。
私は 親戚というものに初めて出会った。
うれしかった。
明るい若者で 三線はうまいし県人会にも すぐになじんだ。
 回想 (賢三)♪「親ぬ寄し事や」
♪「肝に染みり」
♪「親ぬ寄し」
(田良島)じゃあ 三郎さんは暢子ちゃんの父親から三線を?
(三郎)両親は 沖縄生まれの沖縄育ちだが俺は こっちで生まれて育った。沖縄のことを何にも知らねえ。
大人になるとそれが悔しくてな。
それで 賢三に三線を教えてもらったんですよ。
じきに 那覇に戻っちまったんですけどね。
民謡歌手になりてえっつって。
(歌子)お父ちゃんは 結局歌手には なれなかったの?
どうにもならなくて…。
お父ちゃんは 住み込みでうちの食堂の店員になった。
で そのまま結婚?
ううん。 お父ちゃんは そのうちいなくなってしまったから。
何で?
戦争が始まって 召集されて中国の方に出征していった。
(田良島)俺の兄は19年に入営しましてね。
沖縄で 戦死したんです。
だから どうしても あの「鉄の暴風」のことを自分で記事にして伝えたかった。
俺は 戦後シベリアに連れていかれました。
(田良島)シベリアですか。
何年も 残された家族は生きてんのか死んでんのかも分からずね。
苦労をかけちまいましたよ。
(多江)いいえ。
寒さと飢えの中シベリアで死んだやつは まだ骨も 日本に帰れないまま。
いいやつほど 早く死にます。
(優子)お父ちゃんは 戦地でのことをほとんど話さなかった。
ただ 一度だけすごく後悔してることがあると言ってた。
「まくとぅそーけー なんくるないさー」。
自分が正しいと思うことを守れなかったことをすごく悔やんでいたと思う。
帰ってきたばかりの頃は夜 寝ている時「ごめんなさい ごめんなさい」とうなされていたからね。
♪~
 回想 (賢秀)父ちゃん毎朝 何をお祈りしてるわけ?
お願いしたいことと謝らないといけないことがあるわけさ。
昭和19年10月10日の大空襲で那覇は 焼け野原おうちも 食堂も 全部燃えておじぃと おばぁも亡くなって。
そして 米軍が上陸してきた…。
(優子)うちは山の中を さまよっているうちにお父さん お母さんネーネーと はぐれて弟と 二人きりになってしまった。
 回想 はっ…。
(優子)うちと弟はアメリカ兵に つかまって捕虜収容所で終戦を迎えた。
戦争が終わって お父ちゃんは沖縄に帰ってこられたわけ?
日本には 戻ってきていたけど沖縄には 帰ってこられなかった。
何で?
そのころ沖縄出身の復員兵はすぐに 沖縄に帰ることを許されていなかったから。
どうして?
沖縄は…日本じゃなくなっていたからねぇ。
♪~
(房子)妹と 空襲で生き別れてきっとまた 一緒に暮らせると信じてずっと捜し続けて。
とも…!
すいません…。
(房子)私は 妹を捜しながら焼け跡の闇市で 商売を始めた。
あっ ありがとうございます。ありがとうございました。
いらっしゃい…。
賢三…。
(房子)明るかった賢三が まるで別人。笑わない男になっていた。
(房子)沖縄に帰りたくても帰れなかった 賢三は私の商売を手伝ってくれた。人がいいし 料理もできる頼れる甥っ子だった。独りぼっちだった私はとっても うれしかった。
賢三。はい。
叔母さん ありがとう。
2人で もっともっと働いて稼ぐよ!
はい!
(房子)これからも ずっと一緒に商売をやっていこうねって約束した。
翌年 賢三は沖縄に帰れることになって鶴見を去った。
「家族の消息を確かめたらすぐ また戻ります」と言って。でも それっきり…。
賢三が 鶴見に戻ることはなかった。
1年ほどして手紙が届いた。
「やんばるで結婚した。やんばるで子供を育てたい。約束を破ってしまって申し訳ない」。
私は 裏切られたと思い込んでしまった。
あちこちの収容所を転々とさせられていつも ひもじくて。
やがて 弟も死んでしまった。
うちが 独りぼっちになってしまってもう 生きる気力もなくなった頃…。
(優子)お父ちゃんは自分の親きょうだいが収容所にいるんじゃないかと捜しに来てた。結局 みんな 戦争で死んでしまっていたんだけど。
 回想 (賢三)優子か?
ニーニー… 賢三ニーニー!
生きてたのか 生きててくれたのか!
よかった…。
運命の再会だと思った。
♪~


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