前回は,『邪馬台国の秘密』において,探偵役の恭介が邪馬台国の場所を特定することができたのは,推理の力によったのだとして,その推理の力とは具体的には,観念的二重化の実力・自分の他人化の能力であった,と結論を述べました。そして,この結論を理解していただく前提として,観念的二重化や自分の他人化について復習を行いました。観念的二重化とは,現実の世界以外に観念的な世界をつくりだして世界を二重化すると直接に,現実の自分以外にその観念的な世界の中でそれに相対している観念的な自分をつくりだすことでした。また,相手の立場に立とうとする時,はじめは自分の自分化レベルでしか観念的に二重化できないのが,訓練次第で自分の他人化ができるようになるという過程性が存在しているのでした。自分の他人化のためには,相手の世界を徹底的に描く必要がありました。認識の構造により分け入って説くならば,相手の体験を観念的にくり返すことによって相手の問いかけ像を自分のものとする必要がありますし,さらに,相手の認識を規定している社会的認識をも考慮しないと,真に自分の他人化はできないのだ,と説きました。
さて,今回は以上のような認識論の基本を踏まえて,神津恭介が邪馬台国のあった場所を特定できたのは,彼には観念的二重化の実力,自分の他人化の能力があったからである,というのはいったいどういうことなのか,具体的に考察していきたいと思います。
邪馬台国は宇佐であったとする神津説の論証のポイントは二つありました。これに関して,研三と恭介は次のようなやり取りをしています。
「「最初からこの研究をふりかえって見たときには,たしかに神津さんの追求には,この論争史に『神津説』と名づけられてもいいような斬新な視点があると思うんです。
その第一は,従来の定説,東松浦半島上陸説を完全に自然地理学的論証で否定した上で神湊上陸説を提唱したことですよ。少なくともこの新説には,一人も先人はいないはずですし,邪馬台国研究史の革命とでもいいたいくらいの強力なパンチといえるでしょう。
第二は誤差論を導入して,謎の千三百里をゼロにしたことですね。……
ただ,第三の宇佐イコール邪馬台国説については,何人かの先人がいるはずですから,これは必ずしも独創的な新説だとはいえませんね」
「それはどうでもいいことだよ。最初から僕たちは,11の候補地のどこかにたどりついてもかまわない。ただ,その途中の推理過程に,万人がうなずくような合理性があり説得力がありさえすれば,それでいいはずだ――というつもりで研究を始めたんだろう。前人未踏のアプローチもたしかにあったんじゃないのかな?」」(pp.340-341)
このように,邪馬台国は宇佐にあったとする結論はそれほど新しいものではないとはいえ,そこに至る推理の過程に斬新な視点があり,万人がうなずくような合理性・説得力があったのでした。そしてそのポイントは,「東松浦半島上陸説を完全に自然地理学的論証で否定した上で神湊上陸説を提唱したこと」と,「誤差論を導入して,謎の千三百里をゼロにしたこと」なのでした。
ではこの二つのポイントが,観念的二重化の実力にどのように関わるのか,順に見ていきたいと思います。
まず,神湊上陸説についてです。研三も述べているように,従来の定説であった東松浦半島上陸説を,恭介は「自然地理学的論証」で完全に否定したのでした。この「自然地理学的論証」とはどういうことでしょうか。それは,当時の博多湾付近の海岸線を踏まえて論証した,ということです。前々回にも紹介しましたが,『まぼろしの邪馬台国』という本によると,当時の海は現在よりも5メートル以上も高く,魏使たちが陸行したとされる唐津街道は,その大部分が水中だったのです。
ここを認識論の観点から説けば,従来の研究者たちは当時の世界を描く努力を怠り,無意識的に現在の世界と同じものであろうと考えてしまっていたために,自分の自分化しかできていなかったのに,恭介は見事に3世紀ごろの北九州の世界を描くことができたために自分の他人化を果たすことができた,ということになります。このように,『魏志・倭人伝』を正確に理解したいのであれば,当時の世界を徹底的に描ききることこそが大切なのです。そして,それができることこそが,観念的二重化の実力であり,自分の他人化の能力であるということができます。
東松浦半島上陸説を否定するにあたり,恭介は他にも当時の魏の使いになりきり,当時の世界に鮮やか想像しているところがたくさんあります。たとえば,研三に対して「いったい唐津街道から壱岐が見えるのはどこからどこまでか,それもついでに調べて来てくれないか?」(p.213)といっています。この場面ではどういう意図でそういう依頼をしたのかが分からないのですが,あとになって判明します。それは,もし魏の使いが東松浦半島に上陸して,定説にあるとおりに唐津街道(かそれと同じ目的地にたどりつけるような山道)を歩いたとしたらどのような世界が見えるかを確認するためでした。研三に調べてもらった結果分かったことは,はじめは東松浦半島があるために壱岐は見えないものの,しばらく東に進むと壱岐の島が見えるようになる,ということでした。それを踏まえて,前々回も紹介したように,恭介は次のように説きます。
「そうだとすると,いままでの『定説』には実におかしなところが出て来る。60キロの道を大荷物をはこんでの道中では,一日で行けるかどうかわからないよ。しかも350メートルの高さの峠を越えて歩いて来るわけだろう。山道の途中のどこかから,壱岐の島が見えるということもとうぜん考えられるだろう。まあ,それだけの難路を越えて,副吉あたりに出て来た彼等が海上に壱岐の島影を見つけたらどういうことになるだろう? なぜここまで船でつれて来なかったかと,かんかんに怒り出すんじゃないだろうか?」(p.222)
恭介はこのように,100枚の銅鏡やそれ以外の下賜品などの大荷物を運びながら陸行するとどうなるのか,山道を何とか超えたところで壱岐の島が見えたらどのように思うのか,当時の世界をしっかり描き,その世界の中で当時の人間になりきって,想像しているわけです。その結果,東松浦半島に上陸して唐津街道を陸行することはありえないという結論に達したのでした。
壱岐からまっすぐ東に水行して神湊に上陸したのだという結論を導く時も,恭介は魏使が見て体験したであろう世界をしっかり描き,それを踏まえて考えていきました。「夏の海は静かなり」という連想を働かせた後,恭介は研三に「いったい,このとき魏使たちは,いまの暦でいったなら何月ごろ海を渡って来たんだ? この問題について,いままで徹底的に追求した先人はいたのかね?」と尋ねています。研三は「ぜんぜんおぼえがありません……」(p.206)と答えています。これが事実だとすると,従来の研究者たちは,魏使たちが見ていた世界を,季節まで考えて具体化したうえで描いたいたわけではない,ということになります。これでは自分の自分化レベルの観念的二重化に終わっても仕方がないというものです。
これに対して恭介は,魏使たちが見ていた世界を徹底的に描こうとして,何月ごろに海を渡って来たかを検討していくのです。その結果,帆船の航行が大変危険になる秒速10メートル以上の風があまり吹かない夏,それも3.8日しか吹かない8月に魏使たちはやってきたのだろうと推理します。また,8月ごろや南または南西の風が吹くことが多く,対馬海流も西から東に流れているということを確認します。このように,魏使たちが見たであろう世界をできるだけ具体的に,徹底的に描く努力を重ねていったのでした。そうして,大荷物の運搬には陸行よりも水行の方がはるかに楽であることをも踏まえて,壱岐からは,いちばん近い東松浦半島に上陸したのではなく,好条件を活かして真東に水行して神湊に上陸したのだ,という結論を導き出したわけです。
さて,恭介の推理過程のもう一つのポイントである「誤差論を導入して,謎の千三百里をゼロにしたこと」についても,観念的二重化の実力とどのように関係があるのか,見ていきましょう。
不弥国から邪馬台国までの距離に関して,従来の通説では1300里とされていました。これは,『魏志・倭人伝』の記述にある,帯方郡から邪馬台国までの12000余里から,帯方郡―狗邪韓国―対馬国―一大国―末盧国―伊都国―奴国―不弥国の里程の合計である10700余里を引いて出てきた数字です。研三はこの数字について「僕の考えでは,ここは異論の余地はありません」といっています。しかし,恭介は「ところが,僕はいまここで,その異論をあえて提出しようというんだよ」といって,次のように述べています。
「その算術的な単純計算が,すべてのあやまりのもとだったんだ。このためにいままで千何百年の長いあいだ,邪馬台国は幻のベールのかげにかくされて,その正体をだれにもつかませなかったんだ。しかし,ここに一つの新しい感覚の計算法を導入したなら,邪馬台国の位置は,一瞬にしかも正確にきまってしまうんだよ」(p.303)
この「新しい感覚の計算法」というのが,前々回紹介した余里を誤差と解釈する方法のことです。実は,この感覚こそが,3世紀当時の中国人の社会的認識に規定された感覚なのです。恭介はここに関して,次のように述べています。以前も引用しましたが,再度引用します。
「とうぜんのことだが,精確な海図があるわけじゃないんだし,たとえば現在のわれわれが日本全図を持ち出して,釜山―対馬―壱岐―博多と直線距離を測って行くようなことは,三世紀の人間にとっては,それこそ人智を超越した神わざとしか思えなかったろう。彼等にとっては,航海に費やしたおよその時間から,距離の大ざっぱな見当をつけるしか方法はなかったろうし,そうなれば,切りすて切りあげ四捨五入さえ出来なくなったかもしれない。いわゆるプラス・アルファといった含みで誤差を書き出す。それが(1)から(4)にあらわれて来る『余里』の意味じゃないのかな?」(p.305)
それゆえ,「余里といえばせいぜい数里くらいの距離だろう」とか判断して,「日本全図を持ち出して,釜山―対馬―壱岐―博多と直線距離を測って行く」というような従来の説の感覚は,非常に現代的な感覚であり,自分の自分化でしかなかったのだ,ということになります。
これに対して恭介は,3世紀当時の社会的認識をしっかり描いて,自分の他人化を行いえたのでした。だからこそ,水行の距離は非常に大雑把に見当をつけるしかなかったのであり,誤差といっても,当時の感覚からすれば10%や20%はあるだろうと考えることができたのです。ここから,「謎の数千里」は実質ゼロであって,邪馬台国は不弥国に隣接していたのであり,「水行十日,陸行一月」というのも帯方郡から邪馬台国までの全コースに相当するという論理的な帰結を導き出せたのでした。
「水行十日,陸行一月」について,恭介は,次のようにも述べています。
「『南,邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日,陸行一月』
という文章には,『はろけくも来につるものぞ』という詠嘆の感情がこもっているとは思わないかね?」(p.320)
当時の世界を描き,その世界の中で当時の魏使になりきった恭介ならではのセリフだといえるでしょう。このようにいわれてみれば,確かにそのように読めるし,むしろ,そのようにしか読めないとさえ言えます。これはこれで問いかけ的反映の結果だといえるのですが,この問題は措いておきましょう。
考えてみれば,不弥国までは,全て何里という里程が示されていたのに,邪馬台国のところには示されていません。恭介がいうように,魏使の報告書には,不弥国と邪馬台国は隣接国であることが明示されていたのかもしれませんし,「南,邪馬台国に至る」と書けば,隣接していることは明らかだと考えたのかもしれません。いずれにせよ,途中の国からさらに「水行十日,陸行一月」という膨大な時間がかかると考えるのは,あまりにも不自然です。そういう意味でも,「水行十日,陸行一月」はスタート地点からの行程だと考えるのが,ごく自然だといえるでしょう。
このような当時の社会的認識=時代性を踏まえて,恭介がしっかりと自分の他人化を行っている場面は,他にもたくさんあります。たとえば物語の初期の段階で,『魏志・倭人伝』の方位は信用できないとして,その根拠として,「邪馬台国は会稽の東にある」という記述を挙げ,「……日本の本州九州は東に入って来ないんです。せいぜい琉球・台湾の北部が含まれる程度なのですよ」(p.43)と述べています。これに対して恭介は,「そうかなあ?」とつぶやいて,次のように主張します。
「いいかね。古代人――ここでは三世紀の中国人と見ていいが,彼らは方向感覚に関するかぎり,どの程度の鋭さをもっていたろうか? 問題はまずそこから出発しなければいけないということになるんじゃないか?」(p.45)
そうして,当時の感覚に戻って考え直し,「八卦」という言葉があるように,当時の中国人は方角の八方説を信じていたのであり,彼らの東というのは現代のわれわれの感覚でいうと「東北東から東南東のあいだ」ということになると結論付けています。こうなると,会稽を基点として日本はほぼ,当時の感覚でいう東にすっぽりおさまることになるのです。
これは,現代的な感覚や問いかけで『魏志・倭人伝』を読むのではなく,しっかりと当時の感覚にまで戻って,すなわち,自分の他人化を行って,読み取っていくべきだということです。われわれは知らず知らずのうちに,自分なりの,現代人としての問いかけで読み取ろうとしてしまうために,相手の認識を追体験することに失敗してしまうのです。そうではなくて,当時の認識のレベルにしっかり二重化していく努力が求められるのです。
他にも,風と潮流の関係を考慮すると,「入船の港」と「出船の港」を区別するべきなのに,汽船時代の感覚でこれを同一視してしまって,古代の文献に出ている日本側から朝鮮側への「出船の港」に引きずられて,朝鮮側から日本側への上陸を,何らの疑問もなく東松浦半島だと決めつけている従来の説の問題点も指摘されています。さらに,「南のかた投馬国に至る。水行二十日」の部分の解釈にも,当時の感覚を踏まえた自分の他人化の能力が発揮されているといえます。恭介はこれを,帯方郡から投馬国までの日数と解して,先行別働隊として,神湊からも水行で先回りする部隊がいたはずだと推理しています。これは,金印と相当量の下賜品をできるだけ安全確実な方法で卑弥呼に手渡すために,邪馬台国連合の第一線である投馬国まで純水行で先回りして,そこから陸行で,安全を確認しながら神湊の方まで逆コースで帰ってくる部隊が存在したはずだ,という推理です。これも,当時の魏の使いになりきれば,そのような安全策を講じたはずだと思えてくることでしょう。
以上のように恭介は,推理の力=観念的二重化の実力・自分の他人化の能力を駆使して,『魏志・倭人伝』に挑み,見事に邪馬台国の場所を特定することに成功したのでした。