本稿は高木彬光の『邪馬台国の秘密』というベッド・ディテクティブをとりあげて,そこから認識論的に学びとれることを論じていく論考です。前回は,探偵がベッド上で限られた情報から謎を解いていくという形式のベッド・ディテクティブの説明をした後,高木のベッド・ディテクティブ三部作のうち,2作目にあたる『邪馬台国の秘密』が最も完成度が高いと説きました。さらに,邪馬台国論争を紹介し,問題となる『魏志・倭人伝』の部分を解説したところまででした。
今回は,『邪馬台国の秘密』とはどのような物語なのか,あらすじを紹介したいと思います。なお,本稿においては『邪馬台国の秘密』のネタバレがありますので,それを嫌う読者の方は,ご遠慮ください。
物語は,主人公である神津恭介が入院している場面から始まります。恭介は見舞いに来た親友で推理作家の松下研三に退屈しのぎにまた『成吉思汗の秘密』の時のような歴史の謎解きのテーマはないかと尋ねます。乗り気がしない研三でしたが,渋々,邪馬台国はどこにあったかという謎を提示して,二人で取り組むことになりました。『魏志・倭人伝』を知らないという恭介に対して,研三が説明します。
「今日はごく一般論からゆきましょう。『魏志』というのは,三世紀のころ,中国の歴史でいえば,いわゆる『三国志』の時代に,洛陽に都を定めて,北部中国を制圧していた『魏』の国の正史だと思ってくださいな。その中にこの『倭人伝』が含まれているのです。古代日本の姿を詳しく文書におさめた最古の記録だということだけは絶対間違いありません。ただ,詳しくといったところで,原文の漢文は約二千字ぐらいのものですが,邪馬台国はこの中に一瞬姿をあらわして後はたちまち幻のように消え去ってしまうのです。ですから,邪馬台国の秘密を解く鍵はこの『魏志・倭人伝』が唯一のもので,極端なことを言えば,ほかにはないのですよ」(p.15)
要するに,邪馬台国がどこにあったかという謎を解く鍵は,わずか二千文字ぐらいの『魏志・倭人伝』しかないのだ,ということです。こういったごく限られた少数の情報から,論理的な推理によって,邪馬台国のあった場所を比定していこうというのが,本書の狙いなのです。
続いて,これまでの研究の欠陥を踏まえて,「方法論としての心得」がまとめられます。恭介は次のようにまとめています。
「一……『魏志・倭人伝』の重要部分には,いっさい改訂を加えないこと,万一改訂を必要とするときは,万人が納得できるだけの理論を大前提として採用すること。
二……古い地名を持ち出して,勝手気ままに,原文の地名や国名をあてはめないこと。
三……万一,その難攻不落の城にぶつかって,攻略不可能だと見きわめがついたら,そのときはいさぎよく,白旗をかかげてひきさがること。」(p.19)
このような方法論・ルールに従って,入院中の恭介が,研三の助けを借りながらベッドの上で推理していくことになります。
翌日から,研三が書き写してきた『魏志・倭人伝』の漢文と日本流の読み下し文をもとに,推理をはじめます。研三は,『魏志・倭人伝』を三つの部に分けていますが,はじめは,邪馬台国の場所に直接関係がある第一部を飛ばして,その風俗などが書かれている第二部を検討します。その翌日には,邪馬台国に関する論争史を研三がレクチャーします。そしていよいよ,第一部の検討に入り,使節団と一緒に紀元240年の京城から邪馬台国へ向かうベッド・トラベルが始まります。
『魏志・倭人伝』では,朝鮮半島の帯方郡から出発して,対馬・壱岐を経て,九州に上陸することになっています。九州では末盧国,伊都国,奴国と進んでいきます。ここまでは従来の諸々の説でもだいたい見解が一致しているということで,定説に従って,壱岐から最も近い東松浦半島に上陸し,海岸に沿って東に進み,糸島半島の前原,博多付近へと進んでいきます。途中,研三がその地域やそれにまつわる歴史について解説を入れていきます。恭介は,従来の説や研三の解説を聞きながら,たびたび「そうかなあ?」とつぶやきます。結局,奴国の次にあるとされる不弥国がどこにあるかを確定できないまま,壁にぶち当たってしまいます。
ところが,研三が推理旅行の記念のために,宮崎康平『まぼろしの邪馬台国』を読むように勧めたことから,事態は一変します。研三がしおり代わりに挟んでいたはがきの送り主が「夏樹静子」であったことから,恭介は「夏の海――玄界灘は静かなり」という連想を働かせます。また,そのはがきが挟んでいたページには,1700年前の海岸線が書かれていたのでした。それによると,定説で魏使が歩いてきたとされている唐津街道は,当時は大部分が海の中だったということになるのです。
仮に便利な唐津街道が水中であったとしても,それに沿う形で山道を陸行した可能性もあります。しかし恭介は,次のように述べて,その可能性を否定します。
「そうだとすると,いままでの『定説』には実におかしなところが出て来る。60キロの道を大荷物をはこんでの道中では,一日で行けるかどうかわからないよ。しかも350メートルの高さの峠を越えて歩いて来るわけだろう。山道の途中のどこかから,壱岐の島が見えるということもとうぜん考えられるだろう。まあ,それだけの難路を越えて,副吉あたりに出て来た彼等が海上に壱岐の島影を見つけたらどういうことになるだろう? なぜここまで船でつれて来なかったかと,かんかんに怒り出すんじゃないだろうか?」(p.222)
つまり,東松浦半島あたりに上陸して,博多あたりまで陸行するということはありえないことだ,ということです。そして恭介は,「夏の海は静かなり」という連想を元に,魏使たちは夏にやってきて,壱岐から静かな玄界灘を横切って神湊に上陸したという説を着想します。これが神津説の大きなポイントの一つです。神湊上陸説の根拠は,神湊が風に強い古代の港であること,壱岐からの距離が東松浦半島までであれば「魏志・倭人伝」にある千餘里の半分くらいしかないが神湊であれば辻褄が合うこと,水行の便利さを考えるとできるだけ東に行きたいが,これ以上東に行くと暗礁群があったり関門海峡があったりして格段に危険であることなどが挙げられています。
こうなると,神湊がある宗像一帯が末盧国ということになり,それ以降の国の比定をもう一度やり直す必要が出てきます。そこで神湊から辿り直してみると,伊都国は豊前市を含む一帯,奴国は中津市近く,次の不弥国は宇佐の手前の豊前長洲あたりということになります。これはほぼ自動的・機械的に決まってくるといっていいでしょう。
それでもまだ謎は残っています。「南,邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日,陸行一月」の部分をどう解釈するかという問題です。ここの問題に関して恭介は,「余里」を誤差と解釈することで乗り越えます。順に説明します。
まず,恭介は一枚の紙を研三に見せます。そこには以下のようなことが書かれていました。
「(1)帯方郡――狗邪韓国 七千余里
(2)狗邪韓国――対馬国 千余里
(3)対馬国――一大国 千余里
(4)一大国――末盧国 千余里
(5)末盧国――伊都国 五百里
(6)伊都国――奴国 百里
(7)奴国――不弥国 百里
(8)帯方郡――邪馬台国 一万二千余里
(9)○○――邪馬台国 水行十日陸行一月
(10)△△――投馬国 水行二十日」
これは「魏志・倭人伝」の旅程の里数日数を抜粋したものです。不弥国から邪馬台国までの距離は,従来,(1)から(7)までの数字を足したものを(8)から引くことによって算出されていました。「余里」というのを省いて計算すると,1300里ということになります。1300里というと,狗邪韓国(釜山)から対馬までの距離や対馬から壱岐までの距離に匹敵することになります。従来の説は,ほとんどが不弥国から邪馬台国までの距離は1300里であると考えていました。
ところが恭介は,この従来の説に異論を唱え,見事にこの距離の問題を解決してしまうのです。恭介の論理的な推論を見ていきましょう。
恭介は,水行の場合にどのようにして距離を測ったのかについて,次のように述べています。
「とうぜんのことだが,精確な海図があるわけじゃないんだし,たとえば現在のわれわれが日本全図を持ち出して,釜山―対馬―壱岐―博多と直線距離を測って行くようなことは,三世紀の人間にとっては,それこそ人智を超越した神わざとしか思えなかったろう。彼等にとっては,航海に費やしたおよその時間から,距離の大ざっぱな見当をつけるしか方法はなかったろうし,そうなれば,切りすて切りあげ四捨五入さえ出来なくなったかもしれない。いわゆるプラス・アルファといった含みで誤差を書き出す。それが(1)から(4)にあらわれて来る『余里』の意味じゃないのかな?」(p.305)
すなわち,当時の人が舟で進む場合の距離というのは,それほど正確に測れるものではないから,おおよその数字を出して,誤差をプラス・アルファの意味で「余里」として表現している,ということです。
そこで恭介は,もう一枚の紙を示します。
「10パーセント 一万一千七百里
13パーセント 一万二千里
15パーセント 一万二千二百里
20パーセント 一万二千七百里
23パーセント 一万三千里」(p.306)
これは,(1)から(4)までの水行の部分を「余里」を除いて加えた一万里を基本として,誤差をいくつか想定して足し,それに不弥国までの陸行七百里を加えた数字です。
これを示したうえで,(8)の帯方郡から邪馬台国までの距離である「一万二千余里」を,「一万二千里から一万三千里のあいだ」と解すると,先の13パーセントから23パーセントの誤差を考えた時の数字に一致すると指摘するのです。ここから,不弥国は邪馬台国の隣接国という結論が導き出されます。なぜなら,帯方郡から邪馬台国までの距離と帯方郡から不弥国までの距離が同じになるからです。
ここまでくればあとは論理的な強制によって,「水行十日,陸行一月」の謎も解けてしまいます。恭介と研三は次のようなやり取りをします。
「「僕の作った一覧表をよく見たまえ,この(7)と(8)の間に,たとえば(7’)として,
不弥国――邪馬台国 実質的ゼロ里
という一行が入ったと仮定しよう。この実質里程ゼロという感覚は,いまの『誤差論』からとうぜん出て来るはずなんだよ。
この一行を書き加えたとしたならば,そのときには,帯方郡から邪馬台国まで,コースは全部一貫して,どこにも空間は出て来ないんだ。(1)から(7’)までのどこをとりあげてもいいんだが,その間に『水行十日,陸行一月』を必要とするような,長いセクションがあるだろうか?」
「とうてい考えられませんね……となると,(9)に出て来る○○は,帯方郡に相当するという見方しか出来ないことになりますね。」
「そうだろう。この『謎の千三百里』をゼロと考えた場合に,『水行十日,陸行一月』という日程は,帯方郡から邪馬台国までの全コースに相当するものだという結論はほとんど自動的に出て来るんだよ。……」」(p.320-321)
すなわち,恭介の誤差論からの論理的な帰結として,「水行十日,陸行一月」というのは,その前に出てくる不弥国(や投馬国)からの行程ではなくて,出発点の帯方郡から邪馬台国までの日程である,ということになるのだということです。
ここから恭介は,邪馬台国は宇佐にあったのだという結論を導き出します。そして宇佐神宮の3回の大修理・改築の際に目撃されている石棺こそが,卑弥呼の墓であると推理するのです。
以上が『邪馬台国の秘密』のあらすじになります。