ギリギリの淵を行く“ドロップイン”という生き方
「僕は、アウトローに見えるけど、塀の上ギリギリを走り続けて、あちら側にはいかない。ドロップアウトではなく、ドロップインの人」
節子と再会して20数年の間、2人はお互いの関係をどうするか、悩みに悩んだ。ドロップアウトして、2人でラーメン屋の屋台をやっていくのがよいのか、家庭を守り通すのがよいのか。
節子には1人娘が、田原には2人の娘がいる。相手の配偶者を傷つけているという自責の念もある。だからこそ、2人の関係は守り通したかった。
「僕は古い人間なんで、やっぱり若い時から、男っていうのはね、女房と子どもを食わせるのが男だと、その感覚は今もあります。だから結婚すれば、相手を守り通したかった。節子からしたら、辛かっただろう。一時期は、節子とどうやって心中するか、そればかり話し合っていたように思う」
節子は田原と会うため、麹町にアパートを借りた。末子を恨む事は一切なかったが、一方で、雑誌のグラビアページを田原とその家族が飾ったりすると、言い様の無い苦しさが節子を襲った。
時々顔を出す、嫉妬と独占欲。
しかし、そんな葛藤も、田原の妻、末子が乳ガンを罹病し、転機を迎える。
妻の乳ガンとの闘い
医師は乳ガンについて、入院と手術をすればあと5年は生きられるだろうと言った。ドロップアウトすることに対する迷いは、妻のガンによって消えた。ドロップインだ。妻を守らなければいけない。
家庭の話は、2人の間では一切しない。相手の家には、絶対電話をしない。しかし、節子との関係も同時に守り続ける。そういう姿勢を貫いた。
「ぼくの尊敬する森鴎外も、ドロップイン型の人間。夏目漱石は自己中心的にエゴを貫き、嫌いな奴は切り捨てるが、森鴎外は家長という意識が極めて強く、最後まで家族を守り通した。それでいて、文学者として、一個人としては、書くものに絶対に妥協しない。そういう生き方がしたかった」
闘病は9年続いた。田原は、妻を支えるのに全力を尽くした。家事も子育てもこれまで末子にまかせきりだったが、一転、全部引き受けて看病した。
末子は苦しい治療にも泣き言を一切言わなかった。放射線治療やリンパ療法、丸山ワクチン、ありとあらゆる治療を試したが、根本的な解決にはならない。手術後、5年は大丈夫と言われていたのに、わずか2年半で、ガンは再発してしまった。
1983年9月、腸を切り取るために行った手術後の麻酔から、目が覚めないまま、末子は亡くなった。享年54歳。早すぎる死だった。深い悲しみが田原家を包み込んだ。
「妻は私たちの関係に気づいていたと思う。でも、そのことについて一切、責めなかった。申し訳ないことをしたと思う」